第49話『採血』

 いよいよ俺の順番が来てしまった。席に向かうまでの一歩一歩がとても重く感じる。


「よろしくお願いします」

「はーい。ええと……桐生由弦君ね。……あら、色気のあるいい男の子。私好みだな」


 俺を担当する看護師さんは……見た感じ、30歳くらいの女性だろうか。とても綺麗な人で色気がある。看護師の制服越しからでもはっきりと分かるほどの豊満な胸。艶やかな長い黒髪が印象的だ。目の前にいる人のことをよーく見たりしないと、緊張しすぎて逃げたくなってしまうんだ。看護師さん、じっと見ていることを許してください。


「あまり顔色が良くないけど、注射は苦手?」

「……はい。採血は初めてなので凄く緊張してます」

「ふふっ、そうなの。大人っぽい雰囲気なのに緊張しちゃってかわいい。そのギャップも私好み。大丈夫、針が刺さるのは痛いと思うけど、お姉さんがちゃ~んと君の血を抜いてあげるからね」


 やけに艶っぽく話してくるな。ただ、看護師さんは優しく微笑みかけてくれて。それは美優先輩に通ずるものがあって、何だかいいなと思った。

 もうここまで来たら、この看護師さんに採血を託すしかない。


「は~い、じゃあ右腕を出して、力を抜いてね」

「は、はい」


 看護師さんの言う通り、右手を出して力を抜く。


「深呼吸してみよっか」

「……はあっ」

「ふふっ。ため息交じりの深呼吸だったね。お姉さんは好きだけどね。じゃあ、血を抜くよ。針が刺さったときとかちょっと痛いけど、頑張ってね」

「……はい」


 俺は朝に加藤から言われたアドバイス通り、目を瞑った。指先に生温かくて柔らかいものが触れている気がするけど、まさか……ね。

 それから程なくして、右腕に痛みが。これは知っている。予防接種のときにも味わった痛みだ。針が刺さっているんだ。

 すると、今までにない感覚が。吸い上げられているというか。段々とふわふわとした感じになってくる。今、血を抜いているのだろうか。


「頑張ってね。もう少しだよ」

「……はい」


 看護師さんの声がさっきよりも小さく聞こえる。周りの話し声も何だかこもった感じに聞こえて。

 いつにない感覚に体が包まれる中、右腕の痛みははっきりと続いている。いつになったら終わるんだろう。


「……ったよ。桐生君、終わったよ」

「えっ?」


 ゆっくりと目を開けると、そこには血の入った採血管を持っている看護師さんが。採血する前と同じく優しい笑みを浮かべていた。


「よく頑張ったね、桐生君。ほーら、これが君の血だよ」

「……抜くことができたんですね」

「うん、お姉さんがちゃーんと抜いたからね。針を刺したところに絆創膏を貼ってあるけれど、変に触ったりしないようにね。あと、顔色がかなり白くなっているから、歩くときは気を付けて」

「分かりました。ありがとうございました」

「はい」


 ゆっくりと席から立ち上がると、クラッときた。これが血を抜いた影響なのか。あと、針を刺した部分がちょっと痛い。

 採血の部屋を出ると、加藤達が待っていてくれた。


「おっ、桐生。顔が白くなっているけれど……何とか血を抜くことができたんだな」

「うん。途中、気が遠くなったけれど。俺を担当した看護師の女性が優しかったから乗り越えることがかもしれない」

「桐生を担当している人、綺麗な人だったな」

「ああ。加藤は採血されてどうだった?」

「やっぱり、針を刺されるのは痛かったけれど、それ以外は全然平気だ」

「……加藤は強いな」


 普段と変わらない爽やかな笑みを浮かべることができるなんて。俺がこんな有様だからか尊敬してしまう。


「ははっ、それほどでもないさ。あとはレントゲンで終わりか」

「そうだな。俺にとっては最大の試練である採血を乗り越えたから、健康診断が終わった感じだけど」

「嫌なことを乗り越えるとそんな感じがするよな。ほら、肩を貸すから一緒に外に行こうぜ。それとも、一旦休むか?」

「いや、大丈夫だよ。加藤達に支えてもらうことがあるかもしれないけど。行こう」


 俺はたまに加藤達に肩を貸してもらいながら、最後のレントゲンに会場へと向かう。

 レントゲン車は数台あるけれど、どれも長蛇の列を成していた。ここでももちろん男女が別れており、俺は男子の列に並んだ。

 穏やかに吹く風が心地いいこともあって、レントゲンの列を並んでいる間に段々と気分が良くなってきた。


「あっ、女子の列に奏や姫宮がいるぞ。おーい」


 加藤がそう言うので、女子の列を見てみると1年3組の女子達が並んでいた。風花や橋本さんがこっちを向いて手を振っている。俺にはそこまでする元気はないので、軽く手を挙げた。


「由弦、採血大丈夫だった?」


 少し大きめな声で風花がそう訊いてくる。体調を気遣ってくれているのは分かっているけれど、何だかちょっと恥ずかしい。


「……何とか乗り越えた」

「そっか! 良かったね!」


 そう言う風花はほっとしているように見えた。そこまで俺が採血に不安を持っているように見えたのかな。実際に不安だったけれど。

 レントゲンの列はゆっくりと進み、並んでから30分くらいで俺もレントゲンを撮影し、健康診断の全ての項目が終わったのであった。



 加藤達と教室に戻り、制服に着替える。時計を見ると今は午前11時半過ぎか。

 美優先輩、風花、花柳先輩のグループトークに健康診断が終わったというメッセージを入れた。美優先輩と花柳先輩は20分くらい前に終わったようで、先に101号室に帰るとのこと。

 すると、風花も着替え終わったそうなので、昇降口で待ち合わせということにした。

 さっそく昇降口に向かうと、そこには制服姿の風花が待っていた。風花は俺のことを見つけると元気に手を振ってくる。


「由弦!」

「風花、お待たせ」


 風花のところに行き、俺は上履きからローファーに履き替える。


「レントゲンの列で見たときよりも顔色が良くなってる」

「ようやく気分が良くなってきたよ。終わったっていう安心感もあるからかな」

「ははっ、そっか。帰っている途中に気分が悪くなったら、あたしの肩を貸すからね」

「どうもありがとう。じゃあ、帰ろうか」

「うん!」


 風花と一緒に、美優先輩と花柳先輩が待っているあけぼの荘に向かって歩き始める。

 健康診断が終わったから精神的には元気だけれど、採血や空腹の影響か朝よりも体の力が抜けてしまっている。採血をした直後にフラフラしたこともあってか、今、真っ直ぐ歩けている自信がない。横にユラユラしている感じがして。


「きゃっ」

「ご、ごめん。体、当たっちゃった?」

「腕が触れただけだから大丈夫だよ。ただ、突然だったから驚いちゃって」

「そっか。ごめん。実は採血の席から立ったときにクラッときてさ。その後、少しの間フラフラしていて。レントゲンの列を並んでいる間に気分が良くなったし、制服に着替えに教室に戻るときは普通に歩けたんだけどなぁ」

「採血の影響がまだ残っているんだね。今日は家でゆっくりするのがいいと思うよ。あと、日曜日に明日提出する課題を終わらせておいて正解だったね」

「ああ。昨日出た宿題も、昨日のうちに終わらせて正解だった」

「さすがは由弦。……ちなみに、今日は午前中に終わる予定だから、明日提出する宿題をまだやってないんだよね。だからね……」

「ああ、プリント渡すから参考程度に見てくれ。もし、昼ご飯を食べて元気になったら教えるよ」

「ありがとう! お礼におんぶしてあげる!」

「さすがにそれは恥ずかしいから、気持ちだけ受け取っておくよ」


 それに、体格差もあって風花が俺をおんぶするのは無理じゃないだろうか。

 おんぶすることを断られたので、風花は俺の背中に手を当てる。そのことで、体の不安定さがいくらかマシになった気がする。

 無事にあけぼの荘に帰ってくることができ、101号室の中に入る。


「ただいま」

「由弦を連れて帰りました」


 すると、私服に着替えてエプロンを着ている美優先輩と、制服のワイシャツ姿の花柳先輩が出迎えてくれた。


「おかえり、由弦君、風花ちゃん。由弦君、顔色が悪いけれど大丈夫?」

「健康診断の間に会ったときはまだ元気そうだったのに。採血がキツかった?」 


 未だに、一目見ただけで普段と違うと分かるほどなのか。採血が終わった直後、加藤が俺の顔が白くなっていると言っていたけれど、きっと相当白かったんだろうな。


「……血を抜かれるのは初めてでしたからね。空腹なこともあって、採血が終わった後はかなりクラクラきました。風花と帰ってくる間もちょっとよろけました」

「そうだったんだね。2人とも健康診断お疲れ様。由弦君はお昼ご飯ができるまで、私のベッドで横になってて。あと、お昼ご飯はチャーハンにするつもりなんだけど、大丈夫かな?」

「大丈夫だと思います。ベッドで横になって、少しでもお昼ご飯を食べれば元気になるんじゃないかと」

「分かった。じゃあ、お昼ご飯ができるまで由弦君はベッドでゆっくりしていること」

「あたしはご飯ができるまでに自分の家で着替えてきちゃいますね」


 その後、俺は寝室で部屋着に着替えて、美優先輩のベッドで横になった。ふかふかで、美優先輩の残り香が感じられて心地いい。そういえば、今朝……彼女を抱きしめたときも気持ちが落ち着いていったな。

 採血されて、お腹も空いているからか、目を瞑ると段々と美優先輩の優しい笑顔が見えてくる。このままだと寝てしまいそうだな。


「それでもいいか」


 今日はもう、やらなきゃいけないこともないんだし。

 寝ようと決めた瞬間、美優先輩がゆっくりと右手を差し出してくる。よく分からないけれど、彼女の右手を握ってみることに。何だか、夢にしてはやけにリアルな肌触りと温もりを感じるな。


「……たよ。由弦君、ご飯ができたんだよ。起きて」

「えっ?」


 ゆっくりと目を覚ますと、そこには美優先輩と風花と花柳先輩がいた。あと、美優先輩の手をぎゅっと掴んでいる。


「……あっ、すみません。寝ちゃっていたんですね。夢の中で美優先輩が出てきて。手を差し出されたので掴んでみたら……本当に掴んでいたんですね」

「う、うん。お昼ご飯ができたから呼び行ったんだけど、由弦君寝ていて。起こそうとしたら手を掴まれてビックリしたよ」

「そうでしたか。少し寝たので気分が良くなりました」

「ふふっ、良かった」


 ただ、美優先輩のベッドじゃなかったら、あまり効果がなかったかもしれないな。あと、現実の先輩も可愛らしい笑顔を見せてくれて安心した。

 その後、俺は美優先輩達と一緒に、お昼ご飯のチャーハンと中華スープを食べる。昨日の夕食以来に食べ物を口にするので、食べていくごとに食欲が増していった。ちゃんと完食できたのであった。

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