第44話『冷たい涙』

 4月14日、日曜日。

 あけぼの荘に引っ越してきてから、初めて雨がしっかりと降っている。目を覚まし、窓を少し開けたときに入り込んできた空気は肌寒く、冬の残り香がした。

 雨が降っていることもあってか、花柳先輩が勉強道具を持ってうちにやってきた。明日提出する課題を美優先輩と一緒にやりたいとのこと。

 俺は明日提出する課題はもう終わったけど、水曜日に提出する課題をやっておこうかな。実は火曜日に健康診断があり、美優先輩の話によると採血があるのだそうだ。小さい頃から注射が苦手で、採血のせいで体調を崩してしまうかもしれない懸念があるからだ。

 勉強会をすると風花に伝えると、風花は明日提出する宿題をやっているそうで、すぐに家に来ると言ってきた。今日も助けるか。


「由弦! 課題手伝って!」

「私の課題も手伝って! 英語は由弦君にも訊くかもしれない」


 インターホンが鳴ったので出迎えると、そこには風花だけでなく松本先輩もいた。


「いらっしゃい、風花。松本先輩もいるのは驚きです」

「今日は雨が降っているから部活が休みでさ。スーパーから戻ってきたときに風花ちゃんと会って、勉強会の話を聞いたの。私も明日提出の課題が終わってなくて」

「そうなんですか」


 みんな、課題はギリギリまでやらないタイプなのかな。あと、英語なら俺でも教えられるかもしれないけど、後輩に教えてほしいと頼むのはどうなんだろう。

 風花と松本先輩を家に招き入れ、俺達は5人で勉強会をすることになった。

 ただ、5人でリビングの食卓を使うのは少々キツい。なので、学年で分かれて、俺と風花がテレビの前にあるローテーブルを使うことにした。ソファーに座ると勉強しにくいので、ローテーブルを少し動かし、寝室にあるクッションに座ることに。


「今日もよろしくね、由弦」

「ああ、よろしく。俺も宿題をやっているから、分からないことがあったらいつでも言ってくれ」

「えっ、由弦も明日の宿題が終わってないの?」

「明日出すのは終わったけど、水曜日に出すものをやるんだ。火曜日の健康診断、採血があるからさ。俺、注射が苦手だし、血を抜かれてどうなるか分からないから」

「へえ、意外だね。注射が苦手だなんて。あたしは予防接種とかは平気かな。血を抜かれるのは初めてだから、そういう意味ではちょっと不安だけど。でも、注射なんて針が刺さったときにチクッとするだけだし、きっと大丈夫でしょ」

「……意外だね、風花」


 注射の話をするだけで泣き出すイメージがあったんだけどな。健康診断は男女別だから仕方ないけど、注射に強い風花が側にいてくれたら良かったのに。

 小さくため息をついて、俺は風花の隣で課題をやり始める。


「ねえ、由弦。ここ教えて」

「……始めて10秒も経たないうちに訊いてきたね。いいよ、どこが分からない?」

「ここなんだけど……」


 それから、風花に宿題を教えることを中心に勉強会を進めていく。

 たまに、食卓の方を見てみると、美優先輩が花柳先輩や松本先輩に勉強を教えていることが多い。美優先輩がいるからか、松本先輩が俺に英語を訊きに来ることはない。


「2人も一旦、休憩にしようか。温かい紅茶を淹れたよ。あと、クッキーも」

「うわあっ、ありがとうございます!」

「ありがとうございます」


 紅茶の匂いがすると思ったけど、美優先輩が紅茶を淹れてくれていたのか。俺は風花と一緒に紅茶を飲む。


「美味しいね、由弦」

「うん。今日は寒いから温かいものがより美味しく感じるね」

「そうね。……クッキーも美味しい。泳ぐのは好きだけど、雨で濡れるのは嫌だな。こういうときは、どこか建物の中でゆっくり過ごすのがいいよね」

「そうだな」


 風花は水泳部だから、てっきり雨に濡れることはそこまで気にしないと思った。今の時期の雨はまだまだ冷たいし、服が濡れるし嫌か。


「そういえば、金曜日はあたしが家の用事で早く帰ったから、美優は桐生君と一緒に駅の方に遊びに行ったんだよね」

「うん、そうだよ。駅の周りを2人で歩いたよ。タピオカドリンク飲んだり、ゲームセンターに行ってクレーンゲームで猫のぬいぐるみを取ったりしたの」


 美優先輩の方を見ると、彼女はとても嬉しそうな笑みを浮かべていた。クレーンゲームで猫のぬいぐるみを取ったとき、凄く喜んでいたな。


「……いいなぁ」


 そう言う風花に笑みはなく、静かに紅茶を飲んでいた。タピオカドリンクを飲んだことや、猫のぬいぐるみを取ったことが羨ましいのかな。それとも、風花も俺と2人でどこか遊びに行きたいのかな。


「あと、タピオカドリンクを飲んだときに、莉帆ちゃんと小梅先輩に会って」

「そうなんだ。じゃあ、金曜日は莉帆ちゃんはバイトがなかったんだね。あと、莉帆ちゃんが小梅先輩と2人で一緒なんて珍しいね」


 2年生の松本先輩が珍しいと思う組み合わせなんだ。女性同士でも、学年も違うし、住む部屋が違うとそこまで関わりがないのかな。佐竹先輩は1階で、深山先輩は2階の部屋だもんな。


「ショッピングセンターの本屋で会ったみたいで。そのときに2人から由弦君とデートじゃないかってからかわれたり、タピオカミルクティーを一口あげたりしたよ。由弦君とも一口交換したの」

「……へえ、そうなんだ」


 花柳先輩のそう言ったのでゆっくりと食卓の方を向いてみると、彼女は冷たい笑みを浮かべながら俺のことを見ている。羨ましい気持ちと妬ましい気持ちでいっぱいなんだろう。


「ねえ、美優。金曜日の放課後にあったのはそれだけ? 普段とは違うから、どんなことがあったのか詳しく知りたいなぁ」

「駅前を歩き回って、日が暮れる前に家に帰ったよ」

「本当にそれだけ? この前だって、水着を着た状態で桐生君と一緒にお風呂に入ったりしたじゃない」

「へえ、そんなことがあったんだ、瑠衣。美優ったら意外と大胆だね!」

「あううっ……」


 楽しげな笑みを浮かべる松本先輩を前にして、美優先輩は顔を真っ赤にしていた。その様子からして、温水浴ついて周りの人には全然言っていないようだ。もちろん、俺も言いふらしたりはしていない。


「……由弦君に膝枕をしたくらいだよ。その……初めて1週間の学校生活を過ごした労いとしてね。脚の上に頭を乗せられるのもいいなって思った」

「美優ったら幸せそうだね」

「へえ、膝枕……」


 再び花柳先輩は俺に冷たい笑みを。

 そんな中、俺の脚の上に何か温かいものが乗る。見てみると、風花が俺の脚の上に頭を乗せていた。


「何をやっているのかな、風花」

「……宿題を頑張って疲れたから膝枕してるの」

「……そうかい。風花は宿題を頑張っていて偉いね」


 よしよし、と風花の頭を優しく撫でる。すると、風花は俺の方を向いて、ニッコリと可愛らしい笑みを浮かべる。美優先輩の話を聞いて膝枕もいいなと思ったのかな。


「桐生君。先輩としてあなたと2人きりで話したいことがあるから、寝室に行こうか。3人はあたし達のことを気にせずに勉強とか休憩してね。さあ、行きましょう、桐生君」

「……はい。風花、膝枕はこれで終わりね」

「うん」


 花柳先輩が2人きりで何を話したいのかは、おおよその想像がつくけれど。ただ、以前に比べれば、彼女と2人になることに恐さは感じなかった。

 寝室に入ると、花柳先輩は俺の着るワイシャツの胸元をぎゅっと掴んだ。ショッピングセンターのときのように、彼女の目つきは凍てついた鋭いもので。


「どういうこと? タピオカドリンクの飲み合いだけじゃなくて、膝枕までしてもらうなんて。桐生君からしたいと言ったなんてことはないよね?」

「ええ。タピオカドリンクも、膝枕も美優先輩からの提案でした」

「……そう。桐生君から言ったんだったら、お仕置きで手を抓ろうと思った。でも、美優にそんなことを言われるなんて気に入らない!」


 すると、花柳先輩は更に怒った表情になり、胸元から手を離して、俺の右手を抓ろうとする。そんな花柳先輩の手を俺はぎゅっと掴んだ。


「何するの! 離して!」


 花柳先輩が俺の手を必死に振り払おうとするけれど、俺は彼女の手を離すことはしない。もう、彼女の振る舞いなんかには恐れない。


「……故意でも過失でも、美優先輩を不快にさせてしまったのなら、あなたからのお仕置きを受けます。ただ、花柳先輩がいなかった金曜日の放課後にしたことはそうじゃない。もし、嫌だと思っていたら、金曜日のことを話したときに、美優先輩があんなにいい笑顔をするわけがないじゃないですか」

「だって……」

「美優先輩とタピオカドリンクの飲み合いをしたり。膝枕をしてもらったり。そんなことをした俺に花柳先輩は嫉妬し、イライラしてこの前のように手を抓ろうとした。そんなことをしても、せいぜいその場の憂さ晴らしにしかならないでしょう。美優先輩との仲が深まるわけがないでしょう。膝枕の話を聞いて、俺の膝の上に頭を乗せてくる風花の方がよっぽど可愛げがあります」

「桐生君なんかにどう思われようが関係ない! もう我慢できないの!」


 花柳先輩は俺の手を振り払い、再び俺の胸倉を掴んで壁まで追い詰める。その際、背面全体を強く打ってしまい、全身に痛みが走る。


「出会った頃から、あたしは本気で美優のことが女の子として好きなの! だから、一緒に住んでいるあなたの存在が鬱陶しい! 気に入らないんだよ! 邪魔なんだよ! 美優の隣から消えてよ!」


 俺の胸元を両手で強く叩きながら、花柳先輩は俺に罵声を浴びせる。


「1年生の間は、あたしと一緒にいるときが一番の笑顔を見せてくれたのに。それがいつまでも続くと思ったのに。春休みになって桐生君が引っ越してきてから、美優はそれまで以上に可愛い笑顔を見せるようになって。学校でも桐生君とのことを楽しそうに話すことが多くなって。それが悔しくてたまらないんだよ……」


 その悔しさを少しでも体から出すかのように、花柳先輩は涙をボロボロとこぼした。

 美優先輩への強い好意は出会ったときに言われたので分かっている。でも、今の花柳先輩の言葉は心に深く刺さった。

 ただ、こんなにも感情をぶつけられて、このまま何も言わないのは嫌だ。彼女への怒りを込めて反論しようとしたときだった。


「瑠衣ちゃん」

「み、美優……」


 部屋の扉の方を見ると、そこには真剣な表情で俺達のことを見ている美優先輩がいたのであった。

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