第43話『乱れる女教師』

 さっき、霧嶋先生を抱き止めた際に倒れたこともあって、俺はベッドで横になりながら、3人が残りの掃除や洗濯をする様子を見守った。たまに、足を滑らせて転びそうになることがあったけど、怪我をせずに終えられた。


「ふぅ、やっと終わった。由弦、気分は大丈夫?」

「ああ。体の痛みはまだ残っているけど、クラクラはもうなくなったよ」

「……本当にごめんなさい、桐生君。ジャージの件も含めて、あなたにはお礼をたくさんしないといけないわね。もちろん、掃除を手伝ってくれた姫宮さんと白鳥さんにも。……もうお昼時だから、何かお昼ご飯を作りましょうか?」

「えっ、一佳先生って料理できるんですか? 料理が得意なイメージはありませんけど」


 風花がそう言うと、霧嶋先生は少し不機嫌そうな様子に。ちょっと鋭い視線を風花に向ける。


「ま、全くできないわけじゃないわ。といっても、今用意できるのは手っ取り早くできるパスタかレトルトカレーだけれど。パスタは市販のソースをかけるタイプね」

「なるほど! あたしもそういうものを夕飯にするときがありますよ」

「そうなのね。どんなカレーやパスタのソースがあるか、台所を見てみるわ」


 そう言って、霧嶋先生は台所へ向かう。先生一人だと散らかりそうで恐いけど、さすがにそんなことはないか。

 ――ガタッ。ガタガタッ。

 そんなこと……ないよな?

 それにしても、レトルトカレーやパスタか。俺も実家でそれらを夕飯にしたことがあったな。そのときは栄養バランスを考えてサラダや野菜スープを作るけど、他の料理に比べれば手間はあまりかからないから。


「うん、結構あったわ」


 霧嶋先生はレトルトカレーやパスタのソースをテーブルに広げる。

 カレーはビーフとチキンがそれぞれ2人分。パスタのソースはカルボナーラ、明太子、ボロネーゼ、ボンゴレか。どちらも4人分のルーやソースがある。


「俺はどちらでもかまわないです。どっちも好きなので」

「私もどちらでもかまわないわ」

「あたしは……パスタな気分ですね」

「風花ちゃんも? 私もパスタがいいなって思っていたの」

「では、2人の意見が一致したから、パスタに決定ね。では、さっそく茹でるわ」

「私が側についていますね」


 美優先輩が一緒なら、確実に美味しいお昼ご飯を食べられるだろう。

 体の痛みが残っているので、お昼ご飯ができるまで霧嶋先生のベッドで横になることに。こうしていても、台所にいる美優先輩と先生の姿が見えるのは何かいいな。桃色のエプロンをする先生の横に、水色のエプロン姿の先輩がいる。こうしていると、先輩の方が年上に思えてくるな。あと、


「……ところで、どうして風花は俺の手をずっと握っているんだ?」

「だって、由弦がここに寝てからパスタのソースを探すまで、一佳先生がずっと手を握っていたから。もしかしたら、こうすることで体の痛みが早くなくなるのかなって」

「まあ、何もされないよりは効果があるかもね」


 ベタではあるけど、風花の愛情が痛みを早く引かせてくれるかも。右手から感じる風花の温もりは心地良く、これが感じられないのは寂しいのが本音である。

 それにしても、風花の温もりを感じながら優しい笑みを見ると、一昨日の夜のことを思い出すな。


「さっき、転びそうになった一佳先生のことを抱き止めたときの由弦、かっこよかったよ」

「あ、ありがとう。結局、背中から腰まで強打しちゃったけれどね」

「ふふっ。じゃあ、背中を出して」

「うん」


 風花が手を離すと、俺は彼女に背中を向ける。

 すると、背中から腰に掛けて優しく擦られる。


「痛いの痛いの飛んでけ~! 地獄の果てまで飛んでいけ~!」

「ちょっと待って。前半は馴染みがあるけど、後半は何なんだ」

「お兄ちゃんがこうやっていたから。怪我の痛みはいいものじゃないから、地獄の果てに飛ばすつもりでおまじないをかけた方が通じやすいって」

「な、なるほどね。……今のおまじないで、痛みが引いていっている気がするよ」

「ふふっ、良かった」


 さっきと同じ体勢に戻ると、風花は再び俺の手をぎゅっと握ってきた。まさか、風花にこんなに優しくされるなんて。ゴキブリ退治のときに変態だと罵倒され、お腹を殴られたときの自分に聞かせてあげたいよ。

 それから程なくして、スパゲティが茹で上がった。あと、食べられる野菜がいくつもあり、コンソメスープの素もあったので、美優先輩が野菜スープを作ってくれた。

 パスタにかけるソースは美優先輩が明太子、風花がボロネーゼ、霧嶋先生がカルボナーラ、俺はボンゴレにした。


「白鳥さんの作った野菜スープも美味しそうね。では、いただきます!」

『いただきます!』


 ボンゴレソースを混ぜて、俺は一口食べてみる。有名なところから発売されているソースだけあって美味しいな。スパゲティの茹で具合もいい。


「う~ん、ボロネーゼ美味しい! 野菜スープも美味しいです、美優先輩!」

「ありがとう、風花ちゃん」

「本当に美味しいわ、白鳥さん。さすがは料理部副部長といったところかしら。あと、洗濯や料理をしている姿を見ていると、本当にあけぼの荘の管理人さんだと思うわ」

「ふふっ、ありがとうございます。由弦君はどうかな?」

「スープ美味しいです。優しい味わいなので、掃除の疲れや背中の痛みも取れていく感じがしますね」

「……良かった」


 美優先輩は頬をほんのりと赤くしながらも、とても嬉しそうな笑みを浮かべている。


「まさか、この部屋で教え子と一緒に食べる日が来るなんてね。最後に、ここで誰かと一緒に食べたのはいつだったかしら」

「えええっ! 一佳先生、過去にここに招いた人がいるんですか!」

「たまに反応が大げさになることがあるわね、姫宮さん。私には大学生の妹がいるの」

「そうだったんですね。妹さんも教師を目指しているんですか?」

「いいえ、妹は法曹界を目指しているわ。姉として応援してる。妹が遊びに来たときは今日ほどじゃないけど部屋が散らかっていたから、もう少し家事ができるようになりなさいって注意されたわ」

「そ、そうなんですね」


 さすがの風花も苦笑い。それにつられて美優先輩も。

 妹さんから注意されたことがあるのにあの惨状だったのか。ただ、仕事をして疲れて帰ってきたら、家事まで手は回らないか。一人暮らしだと、休日も家事とかはせずに休みたいと思うのかも。


「みんなソースの味も違うし、もしよければ一口ずつ交換しませんか?」

「いいね、風花ちゃん」

「私はいいけれど、2人は大丈夫なの? 特に桐生君に対しては」

「由弦とは交換し合った経験のある仲ですから」

「……そう。さすが、同じアパートに住んでいるだけあるわね」


 風花の提案により、俺達はお互いのスパゲティを一口ずつ交換し合った。明太子もボロネーゼもカルボナーラも美味しかったな。

 ちなみに、3人とも交換し合ってもいいと言っていたのに、俺のボンゴレを食べさせたときはみんな頬を赤らめて恥ずかしそうにしていた。それを紛らわすためなのか、霧嶋先生は冷蔵庫からスーパーで買ったカクテルを取り出して、ゴクゴクと呑んでいる。


「ふふっ……」


 酔いやすいのか、霧嶋先生はカクテルを呑み始めてからすぐに、声を出しながら柔らかい笑みを浮かべる。彼女のような人を笑い上戸っていうんだっけ。


「酔っ払った一佳先生、可愛いですね」

「そうだね。学校ではキリッとしているのが普通だもんね」

「ふふっ、何言っているの? 風花ちゃんや美優ちゃんの方がよっぽど可愛いよぉ。あなた達のような子を教え子だなんて、一佳は幸せ者だなぁ」


 霧嶋先生は笑みを崩さぬことなく、美優先輩と風花の頭を撫でている。その変貌ぶりに2人は特に戸惑うことなく、クスクスと笑っていた。

 それにしても、霧嶋先生……酔っ払うと自分のことを含めて呼び方が変わったり、笑ったりするんだな。


「由弦君」


 霧嶋先生はゆっくりと立ち上がって、俺の背後まで歩いてくる。すると、後ろから俺のことをぎゅっと抱きしめてきた。


「由弦君、木曜日は一佳にジャージを貸してくれてありがとう。今日は台所の掃除をしたり、私のことを抱き止めてくれたりしてありがとね。本当に君はいい子だよぉ。あと、とってもいい匂いがするね」


 よしよし、と笑顔の霧嶋先生に頭を撫でられ、クンクンと匂いを嗅いでいる。普段とは真逆のデレデレぶりだな。


「由弦君。学校からあけぼの荘から離れなさいと言われたら、ここに来ていいんだよ? 担任として、大人として君の面倒は一佳がちゃんと見るからね。家事は由弦君の方が得意だけど。由弦君となら一緒に生活していけそうな気がするんだ……」


 そう言うと、霧嶋先生はうっとりした表情で俺のことをじっと見つめてくる。その姿は教師の雰囲気が全くなく、単に酔っ払っている一人の女性にしか見えない。抱きしめられて、頬も赤くなっているからか先生が妙に艶やかに見える。先生本来の匂いと、カクテルの甘い匂いがいい具合に混ざっているし。


「な、何を言っているんですか、一佳先生! 由弦はしっかりしている部分もありますけど、こう見えても変態な高校1年生の男子なんですよ!」

「私に言える権利はないと思いますが、男性の先生ならともかく、女性の先生と一緒に住むのはまずいのではないかと! それ以前に、由弦君と一緒に住んでいたらダメなことをするつもりは……な、ないですっ!」


 風花と美優先輩は顔を赤くして、怒った様子で一佳先生に抗議した。美優先輩の言うことは頷けるけど、風花の言うことについては首を横に振りたい。変態の部分について。というか、霧嶋先生の前で変態とか言わないでほしい。


「お気持ちだけ有り難く受け取っておきます。美優せんぱ……2人が言う通り、仮に学校からあけぼの荘を離れろと命令されたとしても、女性である霧嶋先生の家に住むのはまずいのかなと。俺もそう言える権利がないと思いますが。俺達はしっかりと生活していくつもりなので、一番近くにいる大人の一人として見ていてくれると嬉しいです」

「……由弦君がそう言うなら、分かった。ちょっと寂しい気持ちもあるけど」


 霧嶋先生は不満そうだったけど、美優先輩や風花はほっとしている様子だった。これまで通り、あけぼの荘に住み続けることになって安心しているのかな。


「でも、3人だったら、これからも家に遊びに来ていいからね。そのためにも、一佳と連絡先を交換しよっか」


 俺達3人は霧嶋先生と連絡先を交換した。これで陽出学院高校の先生と交換したのは2人目になるのか。1人目は大宮先生で、入部届を出した際に交換した。

 お昼ご飯を食べ終わり、片付けをしてから霧嶋先生の家を後にした。

 家に帰る途中、午前中に行ったスーパーで本来の目的であるセールの食料品を買った。売切れになっていなくて一安心だ。



 夕方に霧嶋先生から電話があり、酔っ払ったときに話したことは決して本心ではないという弁明を受けた。どうやら、霧嶋先生は酔っていたときの記憶が残るタイプのようだ。

 霧嶋先生の声を聞くだけでも必死さと恥ずかしさが想像できた。美優先輩や風花は「先生かわいいね」と笑い合うのであった。

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