第42話『いちかばちか』
美優先輩の指示により、俺は食器洗いを含めた台所の掃除を始める。
ダイニングになっているので、部屋の中を片付けている風花と霧嶋先生の様子が見える。家にいるからか、教師と生徒というよりは歳の離れた姉妹や友人のようだ。先生はちゃんと片付けているけど、風花は拾った漫画を広げている。
「せ、先生! この漫画……え、えっちぃシーンがありますよ!」
「な、何を言っているのっ! そう感じるのは仕方ないとして、愛を確かめ合うとか、愛を育むとか、愛をぶつけ合うシーンと言いなさい! というか、漫画を読むのは止めてちゃんと片付けなさい!」
「はーい」
霧嶋先生は文芸部の顧問だけど漫画も読むんだな。今のやり取りからして、激しい恋愛要素のある作品を。
「それにしても、俺……何やってるんだろうな」
外出した当初の目的はセールをやっているスーパーでの買い物だったのに。気付けば、担任教師の自宅で台所の掃除をしているなんて。家事が好きだからいいけど、何だか切ない気持ちになってくる。思わずため息が出てしまう。
水の張った洗い桶に入れてあったおかげで、食器洗いにあまり時間はかからなかった。その流れでシンクの掃除も行なった。
あと、IHコンロや換気扇も汚れているのが分かって再びため息。ただ、やり方さえ間違えなければ確実に綺麗になるので、やっていくうちに気分が良くなってくる。
「由弦君、換気扇まで掃除しているんだね」
気付けば、俺の近くに美優先輩が。先輩はたくさんの洗濯物が入った洗濯カゴを持っている。目が合うと、先輩は優しい笑顔を見せてくれる。そのおかげで疲れが少し取れた。
「汚れを見つけてしまったので。……洗濯が終わったんですね」
「うん。これからベランダで干していくよ」
「そうですか。台所の掃除が終わったら手伝いたいですが……女性ものの服や下着ですからダメですね」
「さすがにね。手伝いが必要なときは風花ちゃんと一佳先生に頼むよ。お互いに自分の担当を頑張ろうね」
「はい」
美優先輩は洗濯カゴを持ってバルコニーの方へ向かう。ただ、ちょうどいい足の踏み場が見つからないようで、よろけそうになることがあった。それを風花や霧嶋先生が支えていたのが微笑ましかった。
その後は3人の様子を見ながら換気扇の掃除をしていく。
「一佳先生、ゴミ箱の裏に下着がありましたよ」
「あら、それ……前に探したけど諦めたものね。パンツしかなくて。気に入った柄だったのだけれど、あって良かったわ。見つけてくれてありがとう。変形したようにも見えないし、匂いも……うん、大丈夫ね。タンスに戻しておきましょう」
風花と霧嶋先生のそんな会話が聞こえてきた。果たして、その見つけた下着をタンスに戻してしまっていいのだろうか。ただ、それについて訊いたら霧嶋先生は悶絶しそうだし、風花からまた変態だと笑われ、酷ければ鉄拳制裁を喰らうことになるので言うのは止めておこう。
換気扇も綺麗になったので、俺は風花と霧嶋先生のところに向かう。
「霧嶋先生、台所の掃除が終わりました」
「ありがとう、桐生君」
霧嶋先生は台所に来て、綺麗になったかどうかチェックをしている。その真剣な様子はまさに教師という雰囲気。だからこそ、緊張する。
「……とても綺麗になっているわ。ここに引っ越してきた直後みたい。ありがとう、桐生君。あなたにはジャージの件もあるし、よりいいお礼をしないとね」
「楽しみしておきます。そういえば、俺のジャージの袋がデスクに置いてありますけど、あれはもう洗ってあるんですか?」
「ええ。あなたのジャージは昨日の朝洗濯して、夜に取り込んだわ。ちゃんと乾いてる」
「そうでしたか。洗ってもらってありがとうございます。では、今日、持ち帰りますね」
「分かったわ」
正直、ここに来たとき、物やゴミが散らかっているのを見て、俺のジャージは大丈夫なのか心配だった。最悪、紛失しているかもしれないと思ったから。実際にはジャージはあって、しかも洗濯が済んでいるなんて。ちょっと感動した。
「桐生君。何か失礼なことを考えてない? 自分のジャージのことが心配だったとか」
「……掃除する前の部屋や台所の様子を見たら、そう思わない人の方が少ないですよ」
「……そうね」
「ジャージのことは解決したのでこのくらいにしておきましょう。ところで、何か手伝えることはありませんか?」
「そうね……衣服や本の整理も大分終わったし。そうだ、ゴミをまとめた袋があるから、とりあえずは部屋の端に置きましょうか」
「分かりました」
霧嶋先生と一緒に部屋に戻る。
「じゃあ、まずはこの袋を……きゃあっ!」
「先生!」
床に落ちていた紙に足を取られた霧嶋先生は、勢いよく俺の方に倒れてくる。
そんな霧嶋先生を受け止めることができたけど、支えきることができずに仰向けの状態で床の上に倒れてしまった。全身が痛いし、後頭部を打ったからクラクラする。
「桐生君! 大丈夫!」
「由弦!」
「何か、凄い音がしたけれど……って、由弦君! どうしたの?」
「桐生君が倒れそうになった私を受け止めてくれて。だけど、彼と一緒に倒れてしまって」
「そうだったんですか。由弦君、私が分かる?」
「……美優先輩ですね、分かりますよ。体が痛くて、ちょっとクラクラしますけど、何とか大丈夫です。霧嶋先生はケガはないですか?」
「……うん、ないわ」
「それは良かったです。安心しました」
「……うん。本当にごめんなさい」
ゆっくりと体を起こすと、霧嶋先生は両眼から涙をこぼして俺のことをぎゅっと抱きしめた。生徒想いの優しい先生なんだな。
まだ体の痛みやクラクラが残っているので、霧嶋先生が泣き止んだ後、彼女のベッドで横になった。ふかふかで気持ちいいな。先生の匂いもするからか気分が休まるというか。一番は、俺がベッドに横になってから先生が手を握り続けていてくれるからかな。
「どうかしら、私のベッドは」
「ふかふかで気持ちがいいですよ。これなら早く良くなる気がします」
「……それなら良かったわ」
すると、先生は俺の手を今一度ぎゅっと握り、切なげな表情を浮かべる。
「……私はダメな教師ね。生徒にだらけた私生活の場を見られて、掃除をしてもらって。挙げ句の果てには教え子にケガをさせてしまって。教師は完璧でないといけないのに」
「……そう考えるのは大学での教えですか? それとも、学生時代に出会った尊敬する先生の考え方とかなんですか?」
「……ううん。両親が高校教師でね。特に父親は完璧を良しとする人で、家でもきっちりと過ごす人だった。体調を崩すこともなくて。母親は父親ほどではないけれどしっかりしていて。とても優しくて。そんな両親のことを今でも尊敬しているわ」
「そうなんですか」
「一佳先生の御両親って先生なんですね! 何だか分かる気がします」
風花がそういうのも分かる気がするよ。
教師である御両親の姿をずっと見ていたのであれば、完璧でいようという考えを胸に刻んでいるのも納得だ。
プライベートではともかく、学校での霧嶋先生はとてもしっかりしている。授業は分かりやすくて、生徒の質問にも的確に答えて。料理部に遊びに来たり、文芸部にしつこく勧誘したりする一面もあるけど、そこは人間的な面白みがあるということで。
「私も両親のような教師になりたいと思い、学生時代はたくさん勉強して、夢の高校教師になった。でも、慣れないこともたくさんあってか、新人の頃は特に大変で。完璧に振る舞うのが難しかった。私、家事はそんなにできないし、仕事を終えて家に帰ってくる頃には疲れてしまっていて。掃除は浴室やお手洗い以外は全然やらず、食事も外食かコンビニやスーパーで買ったものが多くて。たまに自炊しても、作って食べたら眠くなってしまって、後片付けが疎かになってしまったの」
「それで、さっきのような状況になってしまったんですね」
「……ええ」
仕事をして家に帰ったら、疲れて家事があまりできない人もいるか。俺の両親も仕事から帰ってきたら、俺の作った夕食を食べて、お風呂に入ってすぐに寝るってこともあったし。
「生徒からは授業が分かりやすいと言ってもらえて。職員からはよくやっている、完璧だと言ってくれることもあって嬉しかった。でも、プライベートでは全然違う。だから、生徒や職員からここに遊びに行きたいと言われるけれど、こんな姿を見られるのが恐くて、全て断っていたの」
「そうだったんですね」
だから、家に上がることの条件として、家の中で見たことを他人に一切喋らないようにと言ったんだ。
「でも、今のような格好でスーパーには行っていましたよね。今日の私達のように生徒に見つかってしまうことはなかったんですか?」
「……あったわ。イメージと違うと言われたけれど、プライベートだからと言ってごまかした。あなた達のように家に遊びに行きたいと言ってきた生徒もいたけれど、そのときはプライベートな空間だから呼べないって謝った。だから、この空間に入ってきた陽出学院の関係者は3人が初めてよ。桐生君のジャージの件がなければ追い払おうかなとも思った。もちろん、あなた達のことを全く信用していないと言ったら嘘になるけれど」
美優先輩は1年生の頃から授業や料理部で関わりがあって、俺や風花も他のクラスメイトに比べれば、霧嶋先生と接することは多いからな。
あと、俺にとってはたいしたことじゃないけれど、先生にとっては俺がジャージを貸してくれたことがとても嬉しかったのだろう。
「3人に醜態を晒して、桐生君にケガをさせてしまって。両親のような教師をする自信がないわ。プライベートがこんなだから、最初からできていなかったんだろうけど。私じゃ、教師という立場で10代後半の人達と関わっていく権利はないのかも」
力のない声でそう言う霧嶋先生は切なげな笑みを浮かべる。さっきまで俺の手を握り締めていたけれど、今はただ触れている感じだった。
今の霧嶋先生の言葉に、美優先輩も風花も複雑そうな表情を浮かべるだけ。彼女に掛ける言葉がなかなか見つからないのだろう。
「教師でもあり、人間でもあると言ったのは霧嶋先生じゃないですか」
「桐生君……」
「御両親のように完璧な教師を目指し、霧嶋先生は高校教師になった。授業も分かりやすく、生徒も職員も問わず教師としての評価は高い。それはとても凄いことだと思います。ただ、個人的にはそんな先生だからこそ、恐くて近寄りがたい印象はありました」
「……そう」
「ただ、料理部や文芸部での先生は可愛らしいと思いました。それに、ここに来たとき、家事の苦手な普通の人なんだって分かって。俺が先生を抱き止めて倒れたときには、すぐに心配してくれて。今もこうやって手を握り続けてくれる優しい人だって分かりました。今では不器用な面もある素敵な一佳さんって感じがしていいなと思っていますよ。今まで学校での評判がいいんですから、このままでいけばいいんじゃないかと思います。……すみません、10個近く年下の人間が生意気なことを言ってしまって」
10日ほど前に出会った担任教師に、俺は何を偉そうに言っているんだか。自分自身に向けて嘲笑した。
「由弦の言う通り、ここに来て一佳先生がより可愛らしい人だと思いました。親近感も湧きましたし。少なくとも、学校では今まで通りでいいと思います! ただ、ちょっとは掃除をすべきだとは思いますが」
「風花ちゃんや由弦君と同じかな。一佳先生も人間なのですから得意なことがあれば、不得意なこともあることくらいは分かっています。これからもたまにここに来ますから、その中で家事の仕方を覚えていきましょう。もちろん、普段からゴミはゴミ箱に入れるとか、本棚から出した本は元に戻すということを心がけてくださいね。定期的に来て、部屋がどのくらい綺麗なのかチェックしますから」
これからたまに来て家事のことを教えると言ったり、生活態度について注意したりするところは本当に管理人さんらしい気がする。
すると、霧嶋先生は何か吹っ切ることができたのか、柔和な笑みを浮かべる。
「……そうね。できないことがあったら、勉強したり、練習したりすればいいんだものね。時には今日のように誰かの力を借りて。それは大人になっても変わらないか」
「そうですよ、一佳先生! あたし達が手伝いますからね」
風花はそう言い、美優先輩と笑顔で頷き合っている。優しい子だな。あと、これからもここに来る理由ができて嬉しいのだろう。
「教師は教えることばかりだと思っていたけれど、教えられることもあるのね。あなた達のおかげで、大事なことを教わった気がするわ。ありがとう。ここにあなた達を連れてきて良かった」
霧嶋先生は再び俺の手をぎゅっと握り、とても可愛らしい笑みを見せる。俺と目が合った瞬間、頬がほんのり赤くなるのであった。
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