第41話『聖域』
俺達がマンションの玄関までついてきたことに驚いているのか、霧嶋先生は目を見開き、口を大きく開けたまま固まってしまっている。ジャージ姿で髪型も違うから、陽出学院高校での教師・霧嶋一佳の面影は全くない。
「あなた達……」
霧嶋先生はそう声を漏らし、視線をちらつかせる。ただ、立ち止まったままで、逃げるような素振りは全く見せない。
しかし、気持ちが収まってきたのか、霧嶋先生の目つきが段々と鋭くなっていく。
「どうしてこんなところにいるのかしら?」
「えっと……たまたま見つけまして。そうですよね、美優先輩」
「そうだね、風花ちゃん」
「……2人の顔からして、ここにいる私をたまたま見つけたとは思えないのだけれど」
たまたま見つけたのは本当だけど、その場所はここではなくスーパー。何かあると霧嶋先生は感付いたようだ。
美優先輩と風花は苦笑いを浮かべている。まったく、自分達でこっそりと追跡しようと決めたのに。止められなかった俺にも責任があるし、俺から説明するか。
「実はここから数分ほど歩いたところにあるスーパーに来ていまして。今日はセールをやっていますので。風花がお酒売り場にいる霧嶋先生を見つけて。ジャージというラフな格好ですし、きっと近くにご自宅があるだろうと考えたんです。以前から、先生のご自宅がどんな感じなのか気になっていたので、こっそりとここまでついてきてしまいました」
「……なるほど」
はあっ……と霧嶋先生は難しい表情をしながら大きなため息をついた。怒った様子を見せないところがより恐ろしい。
「今の様子からして、姫宮さんと白鳥さんが主導で、桐生君は巻き込まれたって感じね」
「まあ、興味津々な2人に手を引かれたのは事実です」
「やっぱり」
「由弦の言う通り、一佳先生のお家が気になって! 先生が呼べないのなら、こっちから行ってやろうかと」
「それに、由弦君のジャージを貸しているんですし、家に入らせてくれるかと」
スーパーで言ったことと同じようなことを言っているぞ。そのことに先生は怒るどころか呆れた様子だ。風花はともかく、美優先輩までこういうことを言うなんて。意外というか何というか。
「桐生君にジャージを借りたんだから、そのお礼にお家に入れてほしいと。では、桐生君だけ家に入ってもいいわ。本来、男子生徒を自宅に上がらせるのは良くないけれど、あなたにはジャージという借りがあるし」
「では、由弦の同伴ということで一緒に入ってもいいですか?」
「失礼なことはしないと約束しますから。先生のお家がどんな感じなのか、本当に気になるんです」
お願いします、と美優先輩と風花は霧嶋先生に頭を下げる。本当に2人は先生の家に遊びに行きたいんだな。
霧嶋先生は真剣な表情になって、小さく息を吐いた。
「……分かった。2人も私の家に上がることを許可するわ。ただし、今回のように誰かの後をこっそりついて行って、自宅に上がらせてくれなんてことを今後は二度としないように。とても失礼だから。それに、特に白鳥さんはアパートの管理人なのよ。管理人としてどんな行動をすべきなのか。してはいけないのかを考えなさい」
「分かりました。反省します」
「あたしも反省します。ただ、入っていいと言ってくれてありがとうございます」
先週の発言もあったし、まさか2人を自宅に来てもいいと言うと思わなかった。ダメだと言ったら、スーパーに戻ろうと思っていたんだけど。
「……ただし、条件があるわ。私の家の中で見たことについて、他人には一切話さないこと。それを約束して」
「もちろん約束します、一佳先生」
「あたし、口は堅い方なので!」
「……経験則だけど、そう宣言した人に限って、うっかりと喋ってしまうことが多いの。気を付けなさい、姫宮さん」
霧嶋先生の言うことは分かるな。中学の頃に「俺は口が堅いぜ!」って豪語したヤツが、真っ先に秘密を喋ったってことがあったっけ。
「家に戻るので、中に入りましょう」
俺達は霧嶋先生と一緒にマンションのエントランスに入る。その際、先生からスーパーの袋を受け取る。立派なマンションだけあって、エントランスも広いな。
「うわあっ、綺麗ですね」
「そうね、風花ちゃん。さすがに大きなマンションだと、こういったオートロック式の扉が入り口にあるんだね。セキュリティとしてあけぼの荘にも入れた方がいいと思うけど、現実的じゃないからなぁ」
そういうことを考えるなんて、さすがは管理人さんだ。
オートロックの入り口が開いてマンションの中へ。1階にも部屋はあるようだ。
入り口近くのエレベーターに乗る。行き先の階数ボタンを見ると、15階まであるのか。スーパーから歩いてきたとき、とても大きく見えたからなぁ。ちなみに、霧嶋先生は11階のボタンを押した。
「一佳先生のお部屋は11階にあるんですね」
「ええ。1111号室よ。引っ越してきたとき、とても縁起のいい部屋だと思ったわ」
ゾロ目だといい気分になれる気持ちは分かるかな。あと、一佳っていう名前もあってか、1111号室というのはとても先生らしい感じがする。
11階に到着し、エレベーターから降りると、俺達は霧嶋先生について行く形で1111号室の前まで向かう。
「……ここが私の家よ。その……今から見る光景は、もしかしたらとても驚いてしまうかもしれないわ。それだけは事前に言っておく」
そう言われると、部屋に入るのが怖くなってきてしまうな。帰った方がいいかも。
ちなみに、美優先輩や風花のことを見てみると……もうすぐ家に入ることができるからかワクワクした様子だ。これは帰れないな。
霧嶋先生は鍵を開けて、ゆっくりと玄関の扉を開ける。玄関から見える景色は、美優先輩と俺の家と雰囲気が似ているな。
「さあ、上がって」
「はい。お邪魔します! 美優先輩と由弦の住む部屋の雰囲気に似てますね」
「そうだね、風花ちゃん。お邪魔します」
「お邪魔します」
ついに、担任教師である霧嶋先生の自宅に足を踏み入れる。
驚いてしまうかもしれないと霧嶋先生が言っていたけれど、今のところそんな要素は全く見当たらない。パンパンになったゴミ袋が置かれているけど、ゴミを出し忘れたのか、近いうちにでも出すためにまとめたのだとしか思わないし。
霧嶋先生は正面にある扉のノブを握る。
「これが……私の住まいよ」
先生によってゆっくりと扉が開かれると、目の前に広がっていた光景は――。
「これは……」
「うわあっ……」
美優先輩や風花も目を見開き、そんな声を漏らすだけ。どうやら、次の言葉が出てこないようだ。
そう、床の上に衣服や下着、本、ゴミで散らかりまくっていたのだ。ただ、ベッドやデスクの上が綺麗だったり、部屋の端に結ばれたゴミ袋があったりと、霧嶋先生の努力が垣間見える。
あと、デスクの上に俺のジャージ袋が置かれていた。膨らんでいるし、あの中に洗ったジャージが入っているのかな。
キッチンを見てみると、シンクには洗っていない食器がいくつもあった。ただ、水が張ってある洗い桶に入れてあるだけマシかな。
「やっぱり、私の部屋を見て驚いてしまったのね。言葉が出ないほどだなんて」
はあっ、と霧嶋先生はため息をついていた。ジャージ姿といい、この汚い部屋といい……学校での霧嶋先生とは別人じゃないかと思ってしまうほどだ。
先週、家庭訪問の際に、霧嶋先生がプライベートな空間には呼びたくないと言っていたけれど、その理由の一つが分かったような気がする。あと、家の中で見たことを他人には一切言わないと条件を付けた理由も。
「何というか、その……ホームルームや授業での一佳先生からは想像できないような部屋だったので、言葉を失ってしまいました」
「私も風花ちゃんと同じような感じです。学校での先生はクールビューティーといいますか。そんな先生からは想像ができないお部屋だったので」
「ううっ。……ちなみに、桐生君はどう思ってるの?」
「いや、その……片付けが苦手な友人の部屋を思い出しました。ただ、ゴミ袋があったり、食器が水の張った洗い桶に入っていたり……いくらかの頑張りは分かります」
「……何とかして、いいところを見つけようとしてくれるのが逆に辛いわ」
そう言う霧嶋先生の両眼には涙が浮かんでいる。こんな姿も、学校での様子からじゃ想像できないな。
「ご覧の通り、人間的には決していいとは言えない。ただ、せめても学校では教師として完璧であろうとして。それゆえに、プライベートな人としての空間を見られることが怖かった。だから、生徒はおろか職員も誰一人として招くことはなかったの」
「……そういうことでしたか」
陽出学院高校で築いてきたイメージが崩れ、威厳もなくなってしまうと考えているからかな。この部屋と今の霧嶋先生の姿を見れば、これまで抱いていた『しっかりしていて、時には厳しいこともある』というイメージは変わらざるを得ないだろう。
「正直、学校での霧嶋先生を見ていると、完璧なイメージがあって、休日も綺麗な自宅でゆっくり過ごされていると思っていました。ただ、先生の今の姿やこの部屋を見て、先生も普通の人なんだと思いました」
「あたしも同じようなことを思いました。あたしもたまに部屋を散らかしちゃうときがあるんですよ。ですから、先生も同じなんだと思うと親しみが湧きます」
木曜日の夜に宿題を教えに行ったときは、部屋は散らかってなかったけど。俺が来るから頑張って片付けてくれたのかな。
「この散らかり具合はかなりだけどね、風花ちゃん。誰にも見られたくないものってありますよね。このことは誰にも言いません。ただ、部屋は今すぐに掃除しないと。服や下着は洗濯しなければいけませんね」
「……そうね、白鳥さん」
「とりあえず、部屋の片付けを風花ちゃんと一佳先生、食器洗いを含めた台所の掃除を由弦君、洗濯を私という分担でやりましょう」
「分かりました」
「分かりました! 先生、この機会に掃除しちゃいましょう!」
「そうね、姫宮さん。……みんな、ありがとう。よろしくお願いします」
嬉しさと申し訳なさが混ざった表情をした霧嶋先生はそう言って、俺達に深く頭を下げた。美優先輩と風花はやる気になっているな。
こうして、霧嶋先生の部屋を綺麗で快適な空間にするために動き始めるのであった。
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