第37話『風花との夜』

 家に帰ってからは今日の授業で出た宿題のプリントを終わらせることに。ひねった問題はあったけど特に難しくはなく、夕食の前には終わった。

 夕食を食べ終えて俺が後片付けをすると、美優先輩がコーヒーを淹れてくれていた。


「由弦君、後片付けありがとう。コーヒー淹れておいたよ」

「ありがとうございます」


 ソファーに座っている美優先輩の隣に腰を下ろし、俺はさっそくコーヒーを飲む。今日も先輩の淹れてくれたコーヒーは美味しいな。

 ――プルルッ。

 スマホが鳴っているので確認してみると、風花からメッセージが届いていた。


『明日提出する数学Aの宿題で分からないところがあるの! 助けて!』


 数学Aの宿題……ああ、夕食の前に終わらせたプリントか。場合の数とか一度分からなくなったら混乱しそうだ。あと、『教えて』ではなく『助けて』という言葉を選ぶことから、宿題で焦っている気持ちが強いことが窺える。


『分かった。今すぐに行くよ』


 という返信を風花に送った。


「美優先輩。ちょっと風花の家に行ってきます。明日提出する数学の課題で分からない問題があるみたいで」

「そうなの。由弦君だけで大丈夫?」

「たぶん大丈夫だと思います。俺、その課題は夕食の前に終わらせたので」

「そうなんだ。偉いね」


 美優先輩は俺に優しく笑いかけ、頭を撫でてくれる。


「クラスメイトが隣同士にいるとこういうときにいいよね」

「そうですね」


 今回みたいに風花が俺に助けを求めることはちょくちょくありそうだな。逆に、俺が風花に助けを求めることは……あるのかな? 勉強のことなら、まずは一緒に住んでいる2年生の美優先輩に訊くかもしれない。


「分かった。じゃあ、由弦君が風花ちゃんの部屋へ行っている間にお風呂に入っちゃおうかな。でも、鍵は閉めておきたいし……」

「じゃあ、戻るときは美優先輩にメッセージを入れることにします。それで、先輩から返事が来たら、風花の家を出るようにしますので」

「それがいいね。じゃあ、風花ちゃんのお悩みを解決しに行ってあげて」

「分かりました。俺のことは気にせずに、ゆっくりお風呂に入ってください」

「うん、ありがとう」


 俺は数学Aのノートと課題、筆箱を持って101号室を出発する。といっても、行き先である102号室は目と鼻の先だけど。

 102号室のインターホンを押す。

 ――ピンポーン。

 鳴り終わってすぐに中から足音が聞こえ、玄関の扉が開く。すると、そこには桃色のスウェット姿の風花が。お風呂から上がってあまり時間が経っていないのか、彼女の髪からシャンプーの香りがしてくる。


「いらっしゃい、由弦。急にごめんね」

「気にしないで。明日出す宿題は全部終わってるし」

「さすがは由弦。さっ、中に入って」

「うん。お邪魔します」


 俺は102号室の中に入る。そういえば、今までここに来たのはクモを退治したときと、お花見の日に玉子焼きを作ったときだけか。これで3度目だけど、夜に風花と2人きりになるのは初めてなので少し緊張するな。

 風花の指示で、ベッドの横にあるクッションに座る。

 部屋の中を見てみると、結構可愛らしい雰囲気だ。今座っているクッションやベッドのシーツや掛け布団のカバーの色は淡いピンクで、絨毯の色はオレンジ。ベッドの上には柴犬の細長いぬいぐるみが置いてあって。抱き枕なのかな。あと、甘い匂いが感じられる。


「いくら隣人でも、クラスメイトの男子に部屋の中を見られるとドキドキする」

「ごめんね。風花の部屋でゆっくりするのってこれが初めてだからさ」

「これまでここに来たのはクモ退治と、お花見の玉子焼き作りのときだけだもんね。はい、麦茶」

「ありがとう」


 俺の前に麦茶の入ったコップを置くと、風花は数学Aの教科書とノート、宿題を勉強机から持ってきて、俺の右斜め前に座る。彼女の開く課題のプリントを見てみると、かなり終わっているように見える。


「教科書やノートを見ながらやったから結構解けたんだけど、最後の問題だけが分からなくて。それで由弦に助けを求めたの」

「そういうことだったんだね。最後の問題は捻った感じがしたな。ちょっと待って、自分のプリントを見るから。……そうだそうだ、こういう問題だった。じゃあ、始めるよ。問題文の言葉通りに考えようとすると、場合の数を求めるのが難しいから……」


 俺はプリントの裏に言葉や図を書きながら、風花に問題の解説をしていく。さすがに、分からない問題について尋ねているだけあってか、彼女はとても真剣だ。その様子はとても綺麗で、艶やかさも感じられた。


「それで、こういう答えが出るんだ」

「ああ、なるほどね! 分かったよ!」

「良かった。これで明日出す宿題は全部終わったかな?」

「ええと……」


 風花は苦笑いをしながら、俺の方をチラチラと見てくる。


「実は英語の宿題もありまして……」


 すると、風花は勉強机から別のプリントを持ってくる。そういえば、明日出す宿題は数学だけじゃなくて英語もあったな。確か、英訳の問題だったか。


「この最後の英訳がどうしても分からなくて」

「ああ、これか。この問題文だと一見難しそうだけど……」


 数学に引き続いて英語の宿題も教えていく。申し訳なさそうに頼んだこともあってか、風花はさっき以上に真剣に取り組んでいる。この姿をしばらく見ていたいほどに美しい。


「だから、英訳はこれになるんだ」

「あぁ、なるほどね!」

「簡単な問題はできているから、あとは問題文を深く考えてみるといいかも。そうすれば、数学も英語も自力で解けるようになっていくよ」

「分かったわ! 助けてくれてありがとう! もしかしたら、今後も由弦に助けてもらうことになるかもしれないけど……」

「そういうときは、今日みたいに連絡をくれればいいよ」


 誰かに教えると自分の理解も深まるし。それにしても、風花のお悩みが解決できて良かった。


「じゃあ、俺はそろそろ帰ろうかな。でも、その前に先輩にメッセージを送らないと」

「待って、由弦。宿題を助けてくれたお礼がしたいんだけど。何かない?」

「えっ?」

「……あたしに何かしてほしいことある? 由弦になら……あたしにできることなら何でもいいよ?」


 風花は頬を赤くしながら俺のことをじっと見つめてくる。

 お礼がしたいとか、何でもいいって言われるとあまり思い浮かばないな。お礼のために宿題を手助けしたわけじゃないし。そもそも、お礼をもらうこと自体を考えなかった。


「特にはないかな。ありがとうって言ってもらえたし、この麦茶をいただいたからそれで十分だよ」

「えぇ……本当に何もないの? 女の子の部屋で2人きりなんだよ? てっきり、由弦のことだから、あたしと一緒にベッドで寝てみたいとか、この前買った水着姿を見て一緒にお風呂に入りたいとか言ってくると思ったのに」

「俺のことをどれだけ変態だと思っているんだ! そりゃ、風花の家で風花と2人きりでいることに緊張するし、風花からいい匂いもするからドキドキするよ。それでも、やっちゃいけないラインっていうのがあるだろ」

「……そ、そだね。ごめん」


 あははっ、と風花は頬を紅潮させながら笑っている。


「でも、美優先輩とは一緒に寝たり、水着を着た状態だけどお風呂に入ったりしたでしょ? だから、同じようなことをあたしともしたいと思うのかなって……」

「……それらは美優先輩から言ってきたことであって。先輩のやりたいことを叶えさせたかったし。ただ、俺がそういうことに興味がないって言ったら嘘になる。一緒に寝たり、お風呂に入ったりしたときはドキドキしたよ。先輩は可愛かったし、1歳年上とは思えない大人な雰囲気もあったから……」


 何を言っているんだろう、俺は。恥ずかしくなってきた。

 あと、今の話をしていて、恋人のフリをしないかって下着姿の先輩に抱きしめられたときのことを思い出す。あのときの先輩も本当に艶やかだった。体が熱い。


「いつになく、頬がほんのり赤くなってる。由弦もそういう顔も見せるんだね」


 風花はニヤニヤしながらそう言ってくる。


「そりゃあるって。それに、俺だって男だ。他の人よりも女性に接することは多かったと思うけど、そういうことで顔が赤くなることもある」

「……そっか。今の話を聞いて、由弦も普通の男子高生なんだって思った。落ち着いているし、背がとても高いからか、大人っぽいって感じることが多かったから」

「そうか」

「……ねえ、あたしが由弦に抱きしめて頭を撫でてほしいって言ったら、どうする? そんなことを言うのは、水泳部の練習や宿題の疲れが取れそうな気がするだけであって、決して他意はないんだからね!」


 自分で言っておきながら、風花は不機嫌そうな表情をしている。

 疲れが取れそうだとか言っているけれど、本当は俺の反応を見て楽しみたいだけなんじゃないか? こうなったら、


「そういうことなら抱きしめるよ。ほら、来て」


 俺は両手を広げて風花のことを待つ。こうすれば、不機嫌そうなまま「今のは嘘に決まってる!」とか言ってくるだろう。

 すると、風花は俺に近づいてきて、

 ――ぎゅっ。

 俺のことをしっかり抱きしめ、胸に頭を埋めてきたのだ。そのことに体がビクついてしまい、急に熱が出てきた。まさか、さっきの言葉は本当だったのか。


「風花……」

「……からかうための嘘だと思ったでしょ? こういうことは、由弦にしか言わないもん。少なくとも陽出学院高校の男子の中では……」

「……そうか。風花は何度も俺のことを変態呼ばわりしていたから、すっかり嘘だと思ってた。何だか、してやられた感じがするよ。ごめん」


 俺は左手を風花の背中に回して、右手で彼女の頭を優しく撫でる。美優先輩ほどじゃないけれど、しっかりと柔らかさを感じて。とても甘い匂いがして。


「どう? 疲れは取れそう?」

「……うん。とても温かいし、いい匂いがするし。思ったよりも……かなりいい」

「それなら良かった。毎日、水泳部の練習を頑張っていて、その上で宿題もしっかりとやって偉いね」

「宿題は由弦に助けてもらったけどね」

「それでも、分からないことを誰かに伝えて、やるべきことを終わらせるのは大切だと思う。それができた風花は偉いよ」

「……ありがとう」


 風花は俺の胸から顔を離して、俺を見上げてくる。そのときに見せてきた笑みはとても可愛らしかった。嘘だと思っていたからか、彼女の笑顔から視線を逸らすことができない。隣に住むクラスメイトの女の子は、こんなにも可愛かったのか。

 2、3分の間、風花のことを抱きしめた後、俺は美優先輩に帰るというメッセージを送った。すると、10秒もしないうちに『既読』とマークがつき、美優先輩から分かったと返信が来た。


「じゃあ、俺は帰るよ。また明日ね」

「うん。今日はありがとう。由弦のおかげでよく眠れて、いい夢も見られそう」

「そうか。おやすみ、風花」

「おやすみ、由弦」


 俺は102号室を後にして、101号室に戻る。

 すると、寝間着姿の美優先輩が優しい笑みを浮かべながら待ってくれていた。


「ただいま、美優先輩」

「おかえり、由弦君。風花ちゃんの宿題は終わった?」

「ええ。数学だけだと思ったら、英語の宿題でも分からないところがあって。両方終わったので大丈夫です」

「そうだったんだ。お疲れ様、由弦君」


 そう言うと、美優先輩は俺の頭を撫でてくれる。自分に笑顔を向けてくれて、頭から温もりを感じて。今日の疲れが抜けていく感じがする。風花もこんな感じだったのかな。そんなことを思いながら、先輩に「ありがとうございます」と言った。

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