第36話『濡れる女教師』

 4月11日、木曜日。

 授業が始まってから4日目にもなると、高校での1日の流れに慣れてきた。幸い、どの科目も特に難しくは感じないので、普段の勉強を疎かにしなければ授業についていけるだろう。

 今日は家庭科の初めての授業があった。担当する大宮先生が俺の入部した料理部の顧問ということもあってか、他の授業よりもほんわかとした雰囲気だったな。あと、俺が入部したのを利用し、ちゃっかりと料理部の宣伝していたのであった。



 放課後。

 終礼が終わるとすぐに、風花は水泳部、加藤と橋本さんはサッカー部へ向かう。3人に頑張れと言って送り出した。

 部活の活動場所が多い特別棟や部室棟は一通り廻ったし、料理部に入部したから校内探検はもういいかな。東京の高校生になったんだから、伯分寺駅の周辺を歩いて、面白そうな店があるかどうかを調査してみたい。


「桐生君」

「はい。何ですか? 霧嶋先生」

「今日も大丈夫だったのか確認しておきたくて。確か……敗者の集いだったわよね。白鳥さんのことであなたを快く思わない生徒達と対峙したと言っていたじゃない」

「そうですね」


 あの場で敗者の集いのメンバーに俺を抹殺したり、美優先輩達に危害を加えたりしないことを約束させた。ただ、念のため、火曜日に霧嶋先生と大宮先生に敗者の集いとのことについて伝えておいたのだ。


「今日も大丈夫でした。心配してくださってありがとうございます」

「担任として当然のことをしているだけよ」

「敗者の集いとの一件以降は、校内だけでなく校外でも特に変なことに巻き込まれてはいません。もちろん、美優先輩の方も」

「成実さんからも、白鳥さんの様子は聞いているわ」

「そうですか。じゃあ、俺は――」

「待ちなさい」


 語気を強めてそう言うと、霧嶋先生は俺のブレザーの袖を掴んだ。先生は真剣な表情で俺のことを見つめてくる。


「今日は私が顧問をしている文芸部の活動があるの。見学期間だし、様子を見に来るのはどうかしら?」

「そういえば、文芸部の活動は月曜日と木曜日でしたね。ただ、俺は料理部に入りましたけど……話だけでも聞きましょうかね。火曜日に部室棟を廻ったとき、文芸部にも伺おうとしましたし」

「それがいいと思うわ」


 霧嶋先生は口角を上げた。1年3組の生徒の中でも、五本指に入るほど関わっているとはいえ、何度も部活を勧誘するのはどうなのか。今はちょっと恐かったし。


「由弦君、一緒に帰ろ……って、どうしたの? 一佳先生と話して」

「もしかして、何かして叱られちゃってるの?」


 美優先輩と花柳先輩が教室の中に入ってくる。まったく、花柳先輩はニヤニヤして失礼な人だな。


「叱られてないですよ。ただ、霧嶋先生に文芸部の部室に来ないかと誘われまして。今日は活動のある日ですから」

「なるほどね。じゃあ、私も一緒に行こうかな。今日は特に予定ないし」

「美優が行くなら、あたしも行こうかしら」

「2年生のあなた達も歓迎するわ。では、一緒に文芸部の部室へ行きましょう」


 俺は美優先輩や花柳先輩、霧嶋先生と一緒に、部室棟にある文芸部の部室へと向かい始める。

 第1教室棟を出ると、曇っているからか肌寒く感じた。今日は体育の授業があったけど、そのときよりも涼しくなっている。

 今日は先輩方だけでなく、霧嶋先生も一緒だからか勧誘されることもなければ、敗者の集いのように、美優先輩のファンと思われる生徒に絡まれることもなかった。

 文芸部の部室に行くと、既に何人もの部員が本を読んでいた。漫画同好会よりも女子比率が高めで、真面目そうな生徒が多い。彼らはこちらの方を見て挨拶をした。


「みんな、授業お疲れ様。今日は文芸部に興味がある生徒を3人連れてきたわ」


 興味がないと言ったら嘘になるけれど、霧嶋先生にここに連れて来させられた感じがする。

 すると、黒いロングヘアの女子生徒がゆっくりと席から立ち上がって、落ち着いた笑みを浮かべながら俺達の方にやってくる。


「そうですか。ようこそ文芸部へ。私、3人に緑茶を出しますので」

「お願いね。3人はそちらの椅子に座って。ちなみに、彼女が部長よ」


 部長さんなのか。いかにも文学少女という雰囲気の方だ。

 花柳先輩、美優先輩、俺の並びで近くにある席に座る。また、花柳先輩の近くに霧嶋先生が立つという形に。


「緑茶、お待たせしました……あっ!」

「きゃっ!」


 緑茶を持ってきてくれた部長さんがよろけてしまい、紙コップに入っていた緑茶が霧嶋先生のスーツやワイシャツにかかってしまう。そのことで、胸元から腹部にかけて濡れてしまっている。その範囲は徐々に広がる一方だ。


「だ、大丈夫? ケガとかはない?」

「私は大丈夫です。それよりも、霧嶋先生、スーツが……」

「……ジャケットやワイシャツが濡れてしまったわね。冷たいわ」

「先生、ごめんなさい」

「気にしないで。あなたにケガがなければ、それでいいのだから。それにしても、服をどうしましょう。冷たい緑茶がかかったから体が冷えてきたわ。着替えなんてないし……」

「私、今日は体育がなかったので体操着やジャージはないです。ごめんなさい」


 部長さんは罪悪感からか顔色が悪くなっている。

 他の文芸部の女子生徒達も持っていない生徒がほとんどで、持っている女子生徒も先生より体が大分小さい。その女子生徒の体操着やジャージだとキツいか。


「私達のクラスもなかったもんね」

「うん。あたし達は明日だからね」


 先輩方のクラスは体育の授業がなかったのか。こうなったら、しょうがない。


「先生、俺のジャージでよければ貸しましょうか? サイズが合わないでしょうが、俺よりは小柄なので着ることができると思いますし。今日の体育の授業で、体育着の上から来ましたけど、涼しかったので汗もあまり掻いていませんし」


 俺がそう言うと、霧嶋先生は頬をほんのりと赤くして、視線をちらつかせる。さすがに男の俺がジャージを貸すと提案するのはまずかったかな。

 少しの間、霧嶋先生は腕を組んで考えていたけど、


「……そうね。この服のままでいるわけにもいかないし。では、あなたのジャージを借りることにするわ。ありがとう」

「いえいえ。明日は体育がありませんし、週明けにでも返していただければ。この袋にジャージが入っていますので。着替えたときに、濡れたシャツやジャケットなど入れるのに使ってください」

「分かったわ。このことを職員に訊かれたら、私がちゃんと説明しておくから安心して」

「そうしていただけると本当に助かります」

「あと、このお礼は必ずするから」

「分かりました」


 俺がジャージの入った袋を渡すと、着替えるために霧嶋先生は部室を後にした。これでとりあえずは何とかなりそうだな。あまり汗を掻かなかったから、ジャージもそこまで匂っていない……はず。


「まさか、由弦君のジャージを貸すことになるなんてね」

「あの服のままでは寒いですし、風邪を引いてしまうかもしれません」

「そうだね」

「先生のジャージ姿、あたしは結構楽しみだな。体育祭や球技大会くらいしかジャージ姿は見たことないけど、そのときは学校指定の紺色のやつじゃなくて、先生自前の赤いジャージだったから」

「そうなんですね」


 家庭訪問のときでさえ、あのスーツ姿しか見たことないから、霧嶋先生のジャージ姿は楽しみかな。

 霧嶋先生が来るまでの間に、部長さんが俺達3人に緑茶を出してくれた。その際、またこぼさないかどうか緊張した。それは、部室にいる全員が同じようだった。

 それにしても、文芸部だけあってか本棚にはたくさんの本がある。純文学からここ最近話題を集めた流行りの小説までジャンルは豊富だ。ライトノベルやBL小説とかまで揃っている。漫画同好会のように、入部すれば借りることができるのだろうか。


「お待たせ。桐生君、ジャージありがとう」


 俺のジャージを着た霧嶋先生が部室に戻ってきた。サイズが大きいからブカブカだな。ただ、袖は肘近くまで捲っており、脚の方も何回か折り曲げているので、動くのには支障はなさそうだ。

 学校のジャージ姿の着る先生の姿を見るのが初めてなのか、美優先輩や花柳先輩だけでなく、文芸部の生徒も先生に注目し「おおっ」と声を漏らしていた。


「先生、着心地はどうですか?」

「サイズは大きいけれど、袖もまくっているし、脚の方も折り曲げているから大丈夫よ」

「そうですか。あと、匂いとかって大丈夫でした?」

「大丈夫よ。匂わないと言ったら嘘になるけど、嫌ではないものだから」


 俺の匂いが嫌じゃないと言ってくれることは、安心すると同時にドキドキするな。


「それにしても、みんなに注目されると恥ずかしいわね。ましてや、今着ているのは受け持っている生徒のジャージだから」

「一佳先生、とてもよく似合ってますよ!」

「ブカブカなところが可愛らしいですね。正直、あたしの想像以上です」

「褒めてくれるのは嬉しいけれど恥ずかしいわ、白鳥さん、花柳さん」


 霧嶋先生は頬を赤くして視線をちらつかせている。綺麗であり、可愛らしさも感じられる顔だからか、ジャージ姿だと陽出学院の生徒にしか見えない。そのくらいに似合っている。


「先生、写真を撮ってもいいですか?」

「何を言ってるの、花柳さん。ダメよ。でも、そうね……ジャージを貸してくれたお礼の一つとして、桐生君だけには撮らせてあげてもいいけれど」


 霧嶋先生のその返答を聞いて、花柳先輩は真剣な表情で俺の方を見て一度頷く。美優先輩も笑顔で俺に頷いた。ああ、そういうことか。


「……せっかくですので、スマホで撮りますね」


 俺がスマホを向けると、霧嶋先生は右手でピースサインを作る。普段は堅さを感じる人だからか、こういうことでもとても可愛らしさを感じるな。

 スマホでジャージ姿の霧嶋先生を撮る。


「この姿であれば、先輩方や友人に見せても大丈夫なのでは?」

「……そうね。まあ、彼女達の顔を見て何を企んでいるかは見当がついているし。ただし、ばらまかないこと」

「分かりました」

「じゃあ、予想外のこともあったけど、3人に文芸部の説明をしましょうか」


 俺は自分の席に座って霧嶋先生の話を聞くことに。


「文芸部は作品を通じてみなさんの興味がある作家についての研究を行なったり、短編小説や詩を創ったりしているわ。その作品は部誌に載せたり、コンクールに投稿したりすることもあるの。これまでに何度も入賞しているわ」

「それは凄いですね」

「部誌は去年の学園祭で配布されていたのでもらいましたね。ジャンルも豊富で面白い作品もありました」

「ありがとう、白鳥さん。そこの本棚を見て分かるとおり、純文学からライトノベル、WEB発の作品まであるの。部誌は定期的に発行しているけれど、学園祭で発行するのは学園祭特別号として普段よりもボリュームを多くしているの。だから、読む方だけでなく、創る方も結構やっているのよ」

「ジャンルが違うだけで、火曜日に美優や桐生君と行った漫画同好会と活動内容は似ているんですね。あちらは創作の発表の場が夏と冬の同人誌即売会ですけど」


 花柳先輩と同じようなことを思ったな。作品を読むだけでなく、自分で創ってみるという基本的な活動方針は一緒か。


「文芸部も、お盆と年末に有明で行なわれる即売会で、部誌を販売したことがあるのよ。私が顧問になってからも何度かやったわ。お金を払ってもらってまで読んでもらうのは大変なことだけれど。今度の夏も当選すれば、短編集を販売するつもりよ」

「そうなんですか」


 その話を聞くと、より漫画同好会と活動が重なる印象が。ただ、向こうは漫画中心、こちらは小説中心で棲み分けされていると考えればいいのか。


「以上が文芸部の活動内容よ。どうかしら。特に桐生君」

「……そうですね。漫画同好会の説明を受けたときにも思いましたが、今は個人的に小説を楽しむことができればいいかなと。読むのは好きですけど、創るのは全然ですし。近くにいる人が同じ作品が好きだと分かったときは、少し語ることができれば今のところは満足かなって。ですから、文芸部には入らないです。もちろん、活動は応援しています」

「私も由弦君と同じ感じですね。今は個人的に楽しめれば満足かな」

「あたしも」


 俺達が文芸部に入らない意向を伝えると、霧嶋先生はもちろん文芸部の部員も残念そうな様子に。申し訳ない気持ちになるけど、こういうことはしっかりと伝えないといけないと思った。


「……分かったわ。残念だけど、小説の楽しみ方は人それぞれだものね。もし、共通して好きな作品があったら、そのときは語り合いましょう。もちろん、文芸部に入部することはいつでも歓迎しているから」

「分かりました」


 霧嶋先生は昨日のオムライスを食べたときほどではないけど、優しい笑みを浮かべた。俺のジャージを着ていることもあって可愛く見える。

 部長さんが出してくれた緑茶を飲んで、俺達は文芸部の部室を後にするのであった。

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