第10話『vs.G』

 タンスの受け取りもあるので、喫茶店・ユナユナを後にした俺達は真っ直ぐあけぼの荘に戻ってきた。

 予定通り、夕方にタンスが配送され、寝室に置かれた。事前に寸法を測っていたので大丈夫なことは分かっていたけど、実際に置かれる瞬間を見たときにほっとした。

 タンスの中に昨日運んできた俺の衣類と、美優先輩の靴下や下着、寝間着、春から初夏にかけて着る予定の服を入れる。


「これでいいかな。ありがとう、私の服も入るタンスにしてくれて」

「いえいえ。服は楽に出し入れできる方がいいですし。それに、いくらかは先輩もお金を出してくれたので当然ですよ。……これで、引っ越しの作業はほとんど終わりましたね」

「そうだね、お疲れ様。それにしても、2人の服が入っているタンスが家にあると、本当に同居しているんだなって思うよ」

「共同生活が始まる感じがしてきますよね」

「うん! ……あと、私の下着の入っているところはここだから開けないでね」

「分かりました」

「……由弦君のこと、信頼しているからね」


 そう言う美優先輩は結構楽しそうで。これなら、2人で何とか生活していけそうかな。今のような笑顔を見せてもらえるように、そして、なくなってしまわないように気を付けていかないと。



 夕食の豚の生姜焼きがとても美味しかった。生姜焼きは美優先輩の好きな料理の一つであり、得意料理でもあるそうだ。

 昨日と同じように夕食の後はお風呂に。今日も一番風呂に入ってと美優先輩に言われたけど、今日からは基本的に先輩が先に入ってと説得した。その甲斐もあって、まずは先輩がお風呂に入ることになった。

 美優先輩がお風呂から出てくるまでの間、俺はリビングでコーヒーを飲みながらゆっくりすることに。


「あぁ、美味しい」


 春になっても、夜は冷えるから温かいものがいいと思える。

 明日からは4月。ついに高校生になるんだ。それを実感するのは4日の入学式を迎えたときなんだろうな。

 あと、明日はお昼前に平成の次の元号が発表されるんだっけ。どんな元号になるのやら。


「ということは、風花や俺は平成最後の陽出学院の新入生になるのか」


 そう考えると、今年の春はより忘れない春になりそうだな。単に高校に進学するだけじゃなく、平成最後でもあり、美優先輩と一緒に暮らすことになり。家族以外の誰かと暮らすなんてことが、平成のうちに実現するとは思わなかったよ。


「きゃあああっ!」


 浴室の方から美優先輩の叫び声が聞こえたぞ! 何があったんだ?

 俺は急いで浴室の前まで行く。


「美優先輩! どうかしましたか!」

「由弦君!」


 俺の名前が聞こえた次の瞬間、浴室から涙を流した美優先輩が一糸纏わぬ姿で飛び出し、俺のことをぎゅっと抱きしめてきたのだ。

 入浴中だからか、美優先輩から今朝以上の強い温もりとシャンプーの甘い匂いが感じられる。あと、柔らかさもはっきりと感じて。


「せ、先輩! な、何があったんですか?」

「……洗った髪を拭いていたら、床に黒いヤツが出てきて。あれって……もっと温かくなってから出てくるんじゃないの……?」

「黒いヤツで、温かくなってから出るということは……それって、まさかゴキんんっ!」


 美優先輩は不機嫌そうな表情を浮かべながら俺の口を押さえてくる。


「あの虫の正式名称は言わないで。あの虫の名前を言うときは頭文字のGって言って」

「……わ、分かりました。Gが出たんですね」


 ゴキブリが出たのか。3月末なのにもう出るんだ。今日は晴れて、日中は暖かかったから活動し始めたのかも。浴室は湯船やシャワーのお湯で暖かいし。


「じゃあ、俺が駆除しますよ」

「由弦君ってGは大丈夫なの?」

「ええ。素手で触れます。虫は嫌いじゃないですし、実家でも毎年暖かい時期には出ました。特に心愛は大の虫嫌いなので、よく俺に頼ってきます」

「そ、そうなんだ。じゃあ、そんな由弦君を私も頼るよ」

「ええ、任せてください」


 髪を洗ったばかりだからか、浴室の中はシャンプーの匂いが漂っている。床には所々に泡も残っていて。


「えっと、Gはどこら辺にいましたか?」

「鏡の方」

「鏡ですか……あっ、いましたね」

「ひぃっ!」


 すると、美優先輩は俺の背後に回って、後ろからぎゅっと抱きしめてくる。本当にゴキブリが苦手なんだな。

 浴室の中に入り、ゴキブリを逃がしてしまわないようすかさず右手を伸ばす。美優先輩を恐がらせたゴキブリを捕まえることに成功した。


「よし、捕まえました」

「は、早く外に逃がして! それか殺して!」


 俺のことを抱きしめる美優先輩の力が強まる。遭遇してしまったゴキブリが外に出ないか死なない限り、俺から離れたくないのだろう。しょうがない、このまま窓に出すしかないか。

 右手でゴキブリをしっかり掴み、背中から美優先輩にしっかりと抱きしめられながらバルコニーへと向かう。

 柵の隙間からゴキブリを逃がして、素早く窓を閉めた。

 振り返ると美優先輩はまだ俺の背中に顔を付けていた。


「もうこれで大丈夫ですよ」

「……本当?」

「ええ。ちゃんと逃がして、窓を閉めましたから」

「分かった。その……突然のことだったのに、助けてくれてありがとう」


 すると、ようやく顔を離して、美優先輩は俺に笑顔を見せてくれる。


「いえいえ。これから出たときには言ってくださいね。とりあえず、美優先輩は早く浴室に戻りましょうか。先輩はずっと、タオルを巻くこともせずに俺のことを抱きしめているので。このままでは風邪を引いてしまいます」

「……あっ」


 すると、美優先輩は今までの中で一番とも言えるほどに顔を赤くして、


「きゃああああっ!!」


 さっきよりも大きな叫び声を上げて、再び俺のことを背中から抱きしめる形に。離れると裸を見られてしまうから、体を密着しようと考えたのか。


「ううっ……」

「先輩、恥ずかしい気持ちは分かりますが、とりあえず浴室に行きましょう。ね?」

「ねえ、今、美優先輩の悲鳴が聞こえたんだけど! 聞き間違いじゃなければ3分くらい前にも……って、えっ」

「……あっ」


 心配して駆けつけてくれたのか、玄関に風花の姿が。今の俺達の姿を見て固まってしまっている。


「風花、これはその……」

「……そっか。悲鳴をあげたのはそういう理由だったのね……」

「絶対に誤解してるぞ!」


 風花は家に上がってきて、ゆっくりと俺達の方に近づいてくる。しかし、表情はすぐに怒ったものになり、俺に向けて鋭い眼光を放つ。


「美優先輩に何て厭らしいことをしているの! この変態!」


 そう叱責すると、風花は俺の腹部に一発拳を入れた。そのことによる鈍い痛みが全身に広がっていき、その場で蹲ってしまう。


「ゆ、由弦君!」

「鉄拳制裁くらいがちょうどいいんですよ。美優先輩、とりあえず浴室の方に行きましょう」

「分かった。でもね、これにはちゃんと理由が……」

「……分かってます。ただ、まずは自分の体を大事にしないと。ほら、行きますよ」

「……うん。ただ、理由を話すから浴室の前にいてね」

「ええ。ちゃんと話を聞きますから。……アンタは少しの間、そこで倒れていなさい」


 風花にそう言われてしまうけど、思いの外に風花のパンチの威力が強かったので、体を起こすことはできない。

 昔、心愛をいじめるクラスメイトから守ったことがきっかけで、何年も体を鍛えたんだけどな。女の子のパンチには効果がないのかな。まさか、中学生最後の夜にこんな目に遭うとは思わなかった。

 それから少しの間は風花のパンチによる痛みと、美優先輩に抱きしめられたことによる残り香しか感じることはできなかった。あと、浴室の方で話し声が聞こえるけれど、美優先輩がゴキブリの件を話してくれているのかな。


「よいしょっと……」


 痛みが引いてきたところでゆっくりと立ち上がり、俺はソファーにグッタリと座る。それによって、また痛みが響く。コーヒーを飲む気にはなれない。

 ここまで強いパンチをすることができるんだから、風花は大抵のことを乗り越えることができそうだな。

 それにしても、美優先輩はゴキブリが大の苦手だったのか。美優先輩が絶叫したり、ゴキブリを駆除したりするのはいいけれど、さっきみたいに風花に殴られるのは勘弁してほしいな。


「ゆ、由弦。お腹の調子はどう?」


 気付けば、リビングの扉のところに、申し訳なさそうにしている風花と、未だに頬が赤く、恥ずかしそうにする寝間着姿の美優先輩がいた。


「まだ痛みが残ってるよ」

「……そっか。その……さっきは勘違いしちゃって、しかもお腹を思い切り殴っちゃってごめんなさい。美優先輩からゴキ……Gが浴室に出た話を聞いたよ。厭らしいことは特にしていなかったのね」

「私もさっきは散々騒いじゃってごめんね。あと、またお見苦しいものを見せてしまい申し訳ないです。あと、抱きしめたから服を濡らしちゃったね」


 そう言うと、2人は俺に向かって深く頭を下げる。


「苦手なものを見たら叫んでしまうのも分かりますし、裸の先輩に抱かれている俺を見たら、厭らしいことをしていたんじゃないかと思うのも分かります。なので、気にしないでください。ただ、もう少しだけパンチの威力を抑えてもらえると有り難いかな、風花」

「ううっ、本当に申し訳ない。……でも、あんな状況でも由弦は割と冷静だったよね。もしかして、じょ、女性の裸を見慣れていたり、抱き慣れたりする?」

「小さい頃は姉や妹と一緒にお風呂に入ったことが多かったからね」


 今年に入ってからも、雫姉さんや心愛とお風呂に入ったことがあるとは言えない。最近だと、中学を卒業した後、俺が実家から離れるから思い出作りすると理由を付けられて、3人でお風呂に入ったっけ。


「ただ、美優先輩だとさすがに緊張したり、ドキドキしたりするよ。でも、あのときはGの駆除と、先輩が叫んで気が動転していたから逆に冷静になれたというか」

「ううっ、また恥ずかしくなってきた……」

「大嫌いな生き物が突然現れたら、ああなってしまうのも仕方ないですよ。一緒に住んでいるんですから、こういうこともありますって」

「……うん」

「……一緒に住む男の人が由弦で良かったですね、美優先輩」

「うんっ! 由弦君、ありがとね。由弦君がいれば心強いよ」


 美優先輩はそう言って俺の頭を優しく撫でてくれる。ボディーソープの甘い匂いがふんわりと香ってきていつも以上に心地いい。

 さっきのことで、俺と住むのが嫌になっていないようで良かった。ただ、暖かい時期になったら、今日のようなことが起こりやすいかも。ゴキブリが出やすいから。


「でもね、由弦。美優先輩に嫌がることを本当にしていたら、今日以上のパンチをお見舞いするからね」

「ああ、分かったよ」


 美優先輩が嫌がることをしないのはもちろんだけど、風花に勘違いされないように気を付けないと。

 その後は俺もお風呂に入り、美優先輩と一緒にバラエティ番組を見て、午後11時くらいに眠った。もちろん、ふとんとベッドで別々で。ゴキブリの件があってか、美優先輩はベッドに入るとそのまま頭まで潜ってしまった。

 中学生最後の日は色々な意味で盛りだくさんだったけど、最後は何とか穏やかに終わることができたのであった。

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