第11話『あいどるだにゃん』
4月1日、月曜日。
目を覚ますと、部屋の中がうっすらと明るくなっていた。部屋の時計を見てみると……午前8時前か。今日もぐっすり眠れた。
昨日のこともあったので、ふとんをそっとめくってみると、そこには……美優先輩の姿はなかった。体を起こしてベッドの方を見ると、ベッドにも先輩の姿はない。もう起きているのか。
寝室を出てリビングに向かうと、味噌汁のいい匂いがしてくる。台所には朝食を作っている美優先輩が。今日も赤いエプロンがよく似合っているな。味噌汁の匂いもあって、とても家庭的な人に見える。
「おはようございます、美優先輩」
「おはよう、由弦君」
こちらに振り向くと、美優先輩は笑顔で俺の目の前まで歩いてくる。
「新年度あけましておめでとうございます。家では4月1日の朝にはこう挨拶するんだけど、由弦君のお家では言わない?」
「……え、ええ。美優先輩が初めてですね」
一瞬、暖かい気候の元日にタイムスリップしたのかと思った。
「そうなんだ。高校の友達も言わないって言うし、そういう家がほとんどなのかな」
「かもしれませんね。でも、今日から新年度のスタートですし、いい言葉ですね。新年度あけましておめでとうございます」
「おめでとうございます。今年度もよろしくお願いします」
「よろしくお願いします。……うん、新しい年度が始まったって感じがしますね」
「でしょう? 気持ちが切り替わるの。……さあ、由弦君。着替えたり、歯を磨いたりしてきて。朝食の用意しておくから」
「分かりました」
そして、今日も美優先輩の作った美味しい朝ご飯を食べる。新居で毎日、誰かが作った朝ご飯を食べることができるなんて、
「……幸せだな」
「えっ?」
「……もしかして、口に出ちゃってましたか?」
「う、うん。幸せだって言っていたよ」
美優先輩ははにかんで、俺のことをチラチラと見ている。そんな先輩がとても可愛いと思うと同時に、昨日のゴキブリ騒動のときのこと思い出す。
「何だか恥ずかしいですね。ただ、先輩のおかげで気持ちのいい朝を過ごさせてもらっています。本当にありがとうございます」
「いえいえ。こちらこそ、由弦君のおかげでいい朝を過ごさせてもらっているよ。ありがとう。それにしても、本当にしっかりしているね、由弦君は。高校生になったからかな?」
「そういえば今日から高校生ですね、俺も。じゃあ、美優先輩も今日からは本当の先輩になりますね」
「そうだね。今日から高校2年生で先輩になるんだから、頑張っていかないと。こんなに近くに後輩がいるんだし」
そう言って落ち着いた笑みを浮かべる美優先輩は、さっそく先輩としての風格を感じさせている。もちろん、その笑みは可愛くもあり、美しくもあり。もし、こういう笑みを学校でも見せているなら、たくさん告白されるのも納得かな。
先輩としての気合いが入ったのか、今日の朝食の片付けは美優先輩がすることに。たまに泡を飛ばしているけれど……きっと大丈夫だろう。
俺は2人分の日本茶を淹れ、ソファーに座ってゆっくりすることに。今日も日本茶が美味しい。
「にゃー」
「……うん?」
バルコニーの方から猫の鳴き声が聞こえたな。美優先輩が猫の鳴き真似をしているのかと思ったけど、方向が違うか。
窓の方を見てみると、黒白のハチ割れ猫がこちらを向いて座っていた。目がまん丸くて可愛らしい猫だな。
窓の前で膝立ちをして、ゆっくりと窓を開けると、ハチ割れ猫は俺の脚に擦り寄ってきた。
「ごろにゃぁん」
「おおっ、お前なかなか人懐っこい猫だな」
地元にも、何年も実家に遊びに来ている黒いノラ猫がいるけれど、あいつを触ることができなかった。雫姉さんや心愛には触らせてくれたのに。目つきの悪いことも多かったけど、味のある猫だったな。
この猫は触ることができるのかな。ハチ割れ猫の頭にゆっくりと手を伸ばしてみる。
すると、ハチ割れ猫は逃げることなく、俺に頭を触らせてくれた。
「にゃー」
「お前は初対面の人間に触らせてくれるなんて。ありがとね。気持ちいいよ」
「にゃぉん」
「由弦君、さっきから独り言を言っているけれど……って、サブちゃんじゃない」
「サ、サブちゃん?」
「うん。この猫の名前。本名はサブロウなんだけど、私はサブちゃんって呼んでる」
「そうなんですね」
随分と古風というか、日本らしい名前だな。紅白に出場した演歌歌手にもそんな名前の人がいたっけ。
「サブちゃんは2年前、伯父夫婦が住んでいたときに来た雄猫で。10年前に住み始めてから、あけぼの荘に来たノラ猫がこの子で3匹目だからサブロウにしたんだって」
「そういう由来があったんですね」
「うん。サブちゃんはたまに、柵の隙間から入り込んだり、ぴょんって縁に飛び乗ったりしてここにやってくるの。そのときは餌や水を与えているんだ。庭で寝ていることもあるよ。2年生以上のあけぼの荘メンバーは何度も触ったこともあるし、あけぼの荘のアイドルみたいな感じかな」
「へえ、そうなんですね」
「サブちゃん、餌と水を用意するから、それまではこのお兄ちゃんに遊んでもらいなさい」
「にゃあん」
サブロウは俺の前でゴロゴロしている。頭や背中を触ると気持ち良さそうな反応を見せてくれる。初対面の人に触らしてくれるとは相当人懐っこいんだな。あと、猫ってやっぱりいいなぁ。
「はーい、サブちゃん。ドライフードにお水ですよ」
「にゃーっ!」
餌の匂いを感じたのか、サブロウはこれまでの中で一番元気そうに鳴く。きちんと座って、しっぽをピンと立てている。
美優先輩がドライフードと水を置くと、サブロウはすぐにドライフードを食べ始めた。
「しっかり食べてね。水を飲むのも忘れないようにね」
「にゃあん」
ドライフードを食べているサブロウも可愛いけれど、そんなサブロウの頭を撫でている美優先輩の笑顔もとても可愛らしい。
「やっぱり猫がいる! かわいいー!」
すると、隣のバルコニーからこちらを覗き込んでいる風花の姿が。さすがにその声には気付いたのか、サブロウは風花の方に振り向く。
「おはよう、風花」
「おはよう、風花ちゃん。新年度あけましておめでとうございます」
「えっ? あ、ああ……今日から新年度がスタートしますもんね。新年度あけましておめでとうございます」
今の反応からして、風花も美優先輩の言った新年度のご挨拶の言葉を聞くのは初めてだったようだ。
「2人ともおはようございます。洗濯物を干そうと思ったら、そっちの方から猫の鳴き声と2人の話し声が聞こえたので見ちゃいました」
「2年前から、たまにあけぼの荘に来ている雄猫のサブロウだよ。私はサブちゃんって呼んでいるけれど」
「そうなんですね。サブロウ君、こんにちはー」
「にゃー」
「きゃあっ! かわいい!」
風花、とてもテンションが上がっているな。風花も猫が好きなのかな。
「あの、そっちに行ってもいいですか?」
「もちろんいいよ。餌を食べ始めたばかりだし、ここでゆっくりすることもあるから、洗濯物を干してからでも大丈夫だと思うよ」
「分かりました!」
すると、風花は姿を消した。そして、隣のベランダから色々と物音が聞こえてくる。サブロウと触れたいから急いで洗濯物を干しているのかな。
サブロウは美優先輩が出したドライフードを食べて、水をペロペロと飲んでいる。たまに先輩が頭を撫でるけれど、特に嫌がる様子もない。
数分も経たないうちに風花が家にやってきた。そのときにはサブロウも餌を食べ終わり、香箱座りをしてのんびりしていた。
「風花ちゃん、サブちゃんはまだいるよ」
「急いで洗濯物を干した甲斐がありました」
サブロウが逃げないためなのか、風花は足音を立てずにこちらまでやってくる。
「近くで見ると本当にかわいい!」
「風花ちゃんは猫が大好きなんだね」
「はい。犬派か猫派のどっちなのかと訊かれたら犬派ですけど、猫も大好きですよ」
「そうなんだね。私は断然猫派かな。由弦君は?」
「俺も猫派ですね」
犬は鳴き声がどうしても苦手で。小さい頃、実家の近くに住んでいた大きな犬がよく吠えて恐かった。
「あたしでもサブロウ君を触ることってできますか?」
「触れると思うよ。人懐っこい性格だからね。まずは頭や背中を優しく撫でるのがいいよ」
「本当ですか? エ、エイプリルフールの嘘じゃないですよね?」
「……そっか、今日は4月1日だからエイプリルフールだったね。でも、嘘じゃないから安心していいよ」
「分かりました。頭を触ってみますね」
風花はゆっくりと手を伸ばして、サブロウの頭を撫でる。そのことでサブロウが逃げることはなく、しっぽを立ててゆらゆらと揺らしている。
「な~う」
「サブロウ君、すっごく可愛い! あたし、猫派になっちゃうかも」
「ごろにゃぁん」
サブロウがゴロゴロするため、風花は頭だけじゃなくてお腹や背中も撫でている。急にたくさん撫でたら引っ掻かれるんじゃないかと心配になるけど、そんな気配は全くなくサブロウは可愛い鳴き声を出すだけだ。
「ふふっ、猫を愛でる風花ちゃんもとっても可愛いな」
美優先輩は風花のことをスマホで撮っている。確かに、サブロウにデレデレしている風花はとても可愛らしい。
サブロウというノラ猫のおかげで、高校生になって初めての朝はとても穏やかな時間になったのであった。
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