第2話 目覚め

 眩しい。その感覚にゆっくりと頭が冴えていくのを感じる。ふと気がつくと、目の前には薄紫の光が差し込んでいた。光は優しく私の胸元を撫で、喉元に向かってじわじわとせり上がってくる。

(な……なに……?)

 自分の体が何者かにスキャンされているような得体の知れない感覚。抵抗できないそれがどこか気味悪く、私は思わず身動ぎした。

 次の瞬間。

「……っ、」

 唐突に襲ってくる苦しさに私は胸を押さえ、大きく口を開けた。あえぐように息を吸い、そこで初めて自分が呼吸をしていなかったことを理解する。何度か息を吸ったり吐いたりするうちに、今まで気付かなかったのが不思議なほど鮮明に五感が戻ってきた。

 少し湿った土の匂い。風にそよぐ木の葉の音。ひんやりした地面の感触。ここまで来てようやく自分が目を閉じていることに気付き、重い瞼を持ち上げるとぼんやりした視界の中に人の姿が見えた。

(! だれ……?)

 とっさに身構えようとするけれど、身体はまだ眠っているように重く思うように動かない。お腹の奥がきゅっと縮むような感覚がして心臓が早鐘を打つ。こわばった頬にその人の指が優しく触れた。

『……良かった。目は覚めたようだな』

「!?」

 少し掠れたやわらかい声がつぶやく。そこに滲んだ安堵を感じ取って、私は小さく息をのんだ。ぱちぱちと瞬きを繰り返すうち、少しずつ視界がクリアになっていく。

 何度か瞼を下ろしては上げ、ようやくはっきり像を結んだ世界で私を見ていたのは綺麗な青い瞳の男性だった。ふわりと顔にかかった細い髪は珍しい藤色で、柔らかくも神秘的な雰囲気を醸し出している。薄い唇が蕾のようにほころび、ゆっくりと動いた。

『身体の調子はどうだ? 痛みや、苦しいところは?』

「……いえ、大丈夫です」

 この人は誰だろう。疑問に思いながらも私は正直に彼に答えた。なんだかとてもだるいけれど、幸い痛いところはない。ただ……息をするとき、上手く言えないけれど変な感じがする。

 ゆっくり体を起こしながらほとんど無意識に喉元に手をやると、目の前の男性の顔が泣きそうにゆがんだ。耳元でせせらぎの音が聞こえる。その瞬間、私は彼の正体を直感した。

「あなた、あのファータ……?」

 蒼波党に襲われていた光る水滴。伝承通りなら、森を潤し病気や怪我を治してくれる泉の守り神。私の問いかけに、男性はこくりと頷くとあの水滴に姿を変えた。水滴はふよふよと私の周りを飛び、彼の声で話し始める。

『私はアクアマリン。ここエルグランデに住まう水のファータだ。……すまない、そなたを巻き込むつもりはなかった』

 それからアクアマリンはぽつぽつと事情を話してくれた。


 もともと、「生命の森」と呼ばれるここエルグランデはただの小さな雑木林に過ぎなかった。それが変わったのは多くのGEMが砕けた「宝石狩り」の頃。とある青年がアクアマリンのGEMを守るためにエルグランデの一角に埋めたのだ。

 水の性質を持つアクアマリンが埋められた場所からはやがて清水が湧き出るようになった。湧き水は広く流れ、大地を潤し、生き物たちを育む命の水となった。その水で育った生き物は大きく強く、ただの雑木林だったはずのエルグランデはいつしか巨木の葉が生い茂る豊かな森となっていた。「生命の森」の誕生だ。

 人間たちがなぜ「泉の守り神」の伝承を持つようになったかはアクアマリンの知るところではない。あてずっぽうかもしれないし、巨大な森への畏怖かもしれない。もしくは道なき道へ子供が入っていかないための方便かもしれない。ともかく伝承によってGEMの存在が示唆されるようになると、石使いたちはこぞって森に足を踏み入れた。大半は途中で諦めるなり力尽きるなりするのだが……まれにどうしようもなく運のいい者や組織で情報を共有して少しずつ進んでくる者がいる。

 レイは前者、そして蒼波党の男たちは後者だった。


 そこまで話すと、アクアマリンは再び人間の姿をとった。垂れ目がちの優しそうな目が真剣な色を浮かべてこちらを見る。私もつられるように表情を引き締め、背筋を伸ばして彼の言葉を待った。小さく息を吸う音がして唇が動き、春風のようなやわらかい声が言葉を紡ぐ。

『そなたもここを訪れるは理由あっての事だろう。私にはそれを見極める義務がある』

「! ええ」

 GEMを求める理由。命令を下したボスの、そしてそれを引き受けた私の、それぞれの理由。私は記憶を辿り、なるべく偽りのないように考えをまとめる。

 正直なところ、ボスがファータと契約して何を成し遂げるつもりなのか私にはわからない。彼はただ「嘘と綺麗事にまみれたこの世界を変える」と宣言し、そのための道具としてGEMを求めていた。

 けれど……私の目指すものは、彼とは少し違う。

「私には、取り戻したい大切なものがあるの。それを守るための力がほしい」

 伸ばした手の先で消えていった大切なものたち。それを取り戻すために、もう二度と失わないために。大切なものを守るための、力を。

(……そのためなら、石使いだって利用する)

 胸の奥で炎が揺らめく。アクアマリンが小さく息をのんだ。青い目がじっと私を見つめ、思案するように細められる。静寂の中、流れる水の音だけがさらさらと耳をくすぐる。

 やがて。アクアマリンはふっと微笑むと右手を差し出した。

(えっと……どうしたら……?)

 思いがけない反応に、私は戸惑いながら彼の手と顔を見比べる。そんな私を優しい顔で見るとアクアマリンは穏やかな声で言った。

『手を。……契約だ。そなたが今の言葉を違えぬ限り、力を貸そう』

「!!」

 恐る恐る伸ばした私の手を、アクアマリンの大きな手が優雅にすくい上げる。少し体温の低いその手は細くとも骨張っていて、慣れない感触に自然と肩に力が入る。柔らかい指が手の甲を優しく撫でた。

 水音が大きくなる。雫が宙に舞う。水の粒が周囲を取り巻いていく。

(これが、ファータの力……)

 自然ではあり得ない景色。思わず息をのむ私にふわりと笑いかけ、アクアマリンは静かに身をかがめた。指先に柔らかいものが触れる。

『ファータ【アクアマリン】の名において、そなたに水の加護を』

「……レイ・ランドール。謹んでお受けします」

 応答の言葉は自然と口をついて出た。瞼の裏に父の笑顔が浮かんで胸がぎゅっと締め付けられたように痛くなる。

 GEMとファータについて、教えてくれたのは父だった。どこの家でもそうだったように父は私にたくさんの物語を聞かせてくれて、私はその時間が大好きだった。近所の友達と遊ぶ時も題材はいつだってファータ役と人間役が契約を交わす「英雄ごっこ」だった。……そして今、目の前に本物のファータがいる。

(ファータとの契約……。お父さんが見たら、どんな顔するだろう)

 そう思った瞬間、ぽろりと涙がこぼれた。アクアマリンの手がするりとほどけるように離れる。水の粒が消えていく。滲んだ視界の向こうから優しい声がした。

『そなたの道は、私の道だ。……よろしく頼む』

「! はいっ……!」

 力を貸してくれる。隣を、歩いてくれる。その事実が嬉しくて、自然と頬が緩む。私は急いで涙をぬぐうとまっすぐにアクアマリンを見つめた。少し高い位置にある青い瞳と目が合う。

 春の空のような目だ。いや、それを映した海の方かもしれない。穏やかに澄んだ目は母のように優しく温かい。

(……どこまで、許してくれるんだろう)

 不意に浮かんだ疑問。彼のこの優しさが私に向けられるのはいつまでだろう。「私が道を違えた時」……それはいつなのだろう。私が今までしてきた事は、これからしていく事は、どこまで許されるのだろう。

 甘えすぎないように、頼りすぎないように。……優しいこの目が怒りを宿して私を睨んだ時、絶望しなくて済むように。「最悪」をシミュレーションしながら私はにっこり微笑んだ。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 アクアマリンがふわりと微笑む。それに安堵と同時に少しの後ろめたさを感じながら、私はゆっくり彼から視線を外した。


(さて。GEMを手に入れたから指令はこれで終わり……だけど、できればもう少し戦力が欲しいよね)

 鞄から地図を取り出し、開きながら考える。アクアマリンが隣に座って地図を覗き込んだ。細い指がトンとエルグランデの一点を指す。

『我々が今いるのはこの辺りだ。普通に森を抜けるならば西だが……スピアレは今治安が悪いと聞く。立ち寄るのは勧めないな』

「そっか……。そうすると、北に出るか一度戻るかって感じかな?」

 私の言葉にアクアマリンはゆったりとひとつ頷いた。地図によると、北の道は草原を抜けて谷があり、「捨てられた土地」と呼ばれるバベルを通っている。

 あまり詳しくはないけれど、バベルはその通り名のとおり貧しい人や犯罪者が集まる土地だという。他の地域と比べて攻撃的な人が多く、死亡率が異常に高いとも。……そんな場所に、GEMはないだろう。

 考えるうち、ふと地図の中の一点に目が留まった。ここからはかなり遠いが、北東に広がる山脈によく知った名前が刻まれている。

「グレゴリオ鉱山……」

『? どうした?』

 思わず呟いた私にアクアマリンは優しく問いかけた。こちらを見る眼差しは穏やかで温かい。その温かさに勇気をもらって、私は思い切って願いを告げた。

「ここに大切な人がいるはずなの。連れていかれてなければだけど……。だから、迎えに行きたい」

 ふむ。アクアマリンは小さく声を漏らし、顎に手を当ててうつむいた。視線が地図の上をせわしなく動いている。じっと地図を見る目にさっきまでの温かさはなく、厳しい眼差しにすっと背筋が冷える。

(駄目、だった……? それとも何か考えてるだけ……?)

 緊張で鼓動が速くなるのを感じる。耳元でどきどきと響く音は、あり得ないと分かっていながらも隣のアクアマリンにまで聞こえているような気がする。胸の前で両手を握りしめ、私はじっと彼の言葉を待つ。

 やがて。地図から顔をあげると、アクアマリンは静かな声で言った。

『いいだろう。……少々険しい道にはなろうが、出来る限りの援助はしよう』

「! ありがとう……!」

 返ってきたのは前と変わらず優しい言葉。思わず笑顔になる私にアクアマリンもふっと表情を緩める。

 それからアクアマリンが示した道筋に、私は小さく息をのんだ。


 最初の目的地は、東。侵入者を激しく拒むことから「嘆きの森」の名前を持つ樹海セルバティアだった。


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