EP10-03





 防壁バリケードを飛び越えるその瞬間、背筋に冷たいものが走った。脳内物質ノルアドレナリンが誤魔化しきれない明確な恐怖が、高揚する感情を現実へと縛りつける。それでも私に、後悔は無かった。唯一あるとすれば、人生の最後になるかもしれない刹那に、目を瞑ってしまったこと。


 研ぎ澄まされた感覚の中で、私の聴覚はクレアの心音を捉えている。今だってそう、彼女の心臓は激しく脈を打ったままだ。着地の衝撃が走ったあとも、私は彼女の胸に埋めた顔を上げることができないのだった。


「成功だお姫様チャーミィ。そろそろ離れろ、赤ちゃんかよ」

「そう言うクレアだって。私を離そうとしないじゃない」


 過ぎ去った脅威に放心しているのは、クレアも同じだ。私を守るように抱いたその腕には、まだ痛いくらいの力が込められている。このまま彼女の脈拍が落ち着くまで、私はコアラの真似を続けていようと心に決めた。


「しかしまぁ、相も変わらず殺風景な場所だな」


 クレアの言葉に目を開ける。抱きついたままで辺りを見渡せば、見慣れた鋼鉄の道メイン・ロードが中心部へと向けて放射状に伸びていた。等間隔で敷かれた正八角形オクタゴンの横道が幾重にも組み合わさっており、その姿を俯瞰すれば蜘蛛の巣みたいに映ることだろう。


「……なんだか不気味だね。ううん、こんなこと初めて思ったんだけどさ」

「そんなもんだろ。子供は外の世界に出てみて初めて、自宅の中が異様だったってことに気付くんだ」


 完璧に舗装された鋼鉄の道メイン・ロードに、無機質以外の感想を持ったことはなかった。達観した意見を述べたクレアからそっと離れて、硬質な感触を踏みしめる。この道を辿った先には、アンと私が暮らしていた立方体CUBEの立ち並ぶ群居があるはずだ。


「あっ」

「どうした?」

「私の仮想投身器サークレットが、息を吹き返してるの。うんともすんとも言わなかったのに!」


 もしやと閃いて確認してみれば、待機状態を示す緑のLEDが点灯していたのだ。故障したとばかり思っていた電子機器アクセサリーの復旧に驚く私。


「当然だよエリカ姫。研究所ラボ周辺の電極エーテルには、俺が細工をしていたからね。妨害工作ジャミングの有効範囲外に出たってわけさ」


 バングルの向こう側のテラが、突然そう答えた。操作の未熟な私は、どうやら交信状態オンラインのままにしていたらしい。得意気な彼の様子を見て、クレアが聞こえよがしの舌打ちをする。ここまでのやり取りを覗き見されていたことが、気に食わないのかもしれない。


妨害工作ジャミングをかけたことに悪気はないよ。雪白ホムラは、まだ駆け出しとはいえ義賊テロリスト統率者リーダーだからね。俺は俺なりのやり方で、俺の恩人を援助しているだけ」

「あなたたちの馴れ初めに、正直ものすごく興味がある」


 テラの話に食いついた私の肩を、クレアが掴んだ。にやりと口元を歪ませて、彼女は言う。


「ホムラから聞いてるぜ。コイツの初恋の相手は、ホムラの育ての親だったらしい。叶わぬ恋を引きずって、捻じくれた愛情をホムラに向けてるのさ。そしてホムラの複製体コピーである俺やお前が、そのとばっちりを受けてるってわけだ」

「え? それってどれだけ複雑な関係なの……」

「哀れな男なんだ。許してやれ」


 バングルの中のテラが、めずらしく慌てふためいている。クレアの言い方に悪意があるとはいえ、ホムラがそう話したのならきっと真実なのだろう。


「私はテラを応援するよ。何をどう応援していいのか、ちょっと分かんないけど」


 ホムラにはナギさんがいるから、テラがクレアと仲良くなれるように立ち回るのが最適解なのだと思う。けれどクレアには、テラなんかよりも誠実で健全な人と結ばれてほしい。


「と、とりあえず復旧したゴーグルを使ってみたらどうかな。琥珀色の脳アンバーと意思の疎通が取れるはずだろ?」


 引きつった笑みで、テラが促した。緊張感に欠けたやり取りはこれくらいにして、仮想投身器サークレットを装着する。続いてアンと会話している自分自身を、頭の中に思い浮かべた。しかし暫く待ってみても、彼からの応答はない。実際の風景と同化した重複現実ARに、"ERROR"の通知が浮かび上がるだけだった。


「ダメ、繋がらないよ。拒絶されてるのか、システム的に問題が起きてるのか」


 仮想投身器サークレットは、装着者の脳内電位変化に同調シンクロして多彩な伝令コマンドを実行する器具だ。アンいわく、頭部と密着しているからこそ双極性誘導が可能で、その双極性誘導が限局性を有しているからこそ、特定の欲求を超瞬間的リアルタイムで読み取ることができるのだという。


 アンの解説を深く理解しているわけではないけれど、テラテクスがT-6011に施した処置はこの対角線上にあるものなのではないかと予測していた。即効性を重視し、視認野との連結に特化しているのが仮想投身器サークレットならば、再現性を重視し、記憶領域との連結に特化させたものがテラテクスの用いた手法なのだ。


 "エリカ"として作られた私はまさに思い知らされたばかり。記憶領域を再現するということは、人格を形成するということにニアリーイコールなのだと。


「脳みそがヘソを曲げるなんて笑えるな。とりあえず先に進むしかなさそうだ」

「うん。このまま仮想投身器サークレットを身に着けておくね。それから、バングルも立ち上げたままで行こうと思う」


 テラの中身がどれだけ残念でも、頼もしい存在であることに変わりはなかった。それに嘘偽りなく、彼はホムラの命の恩人なのだ。大げさに「背中が焼けた」なんてアピールしなければ、少しだけカッコ良かったなと思えなくもない。


 疾駆する。ようやく慣れてきたグラスホッパーで、クレアの足手まといにならないように必死に。風を切るような跳躍を繰り返していると、いつしか遠方に立方体の輪郭が視認できた。心臓のざわめきを自覚する。私たちはもう、アンの論理回路サーキットが置かれた本拠地のすぐ傍まで来ているのだ。


「待って、クレア! 何かがあるっ」


 先を行くクレアを慌てて呼び止める。視覚野と連動する重複現実ARのおかげで、些細な違和感を見逃さずに済んだ。一見すると何の変哲もない鋼鉄の道メイン・ロード。その一角に、複数個の"▼"が表示されたのである。


 近くに駆け寄って確認すると、それらは弾痕や焦げ跡だった。感覚的に見ても、まだ真新しいもののように思える。その中のひとつを指先で掬い上げて、クレアが言った。


「こっちは潤滑油オイルだ。まだ乾いちゃいない。たっぷりと粘ついてやがる」

「……これってさ、戦騎兵スタンドアロンたちが交戦した痕跡だよね」


 注視してみればあちらこちらに、どす黒い潤滑油が飛び散っていた。途端に重々しい空気が私たちを包む。巡回するアンの私兵団は、一体何を排除しようとしたのか。考えうるその答えはひとつしかない。


「ああ、間違いない。やはり神奈木は、この地を訪れてる」

「そんな! じゃあこの潤滑油オイルは……」


 最悪の結果を連想する。路面にへたり込んだ私を見て、クレアはよりいっそう険しい顔つきになった。


「さぁな。だが神奈木よりもよく出来た人工生命体ヒューマノイドを、俺は見たことがない。ホムラとてるそいつの中に油が流れてたら、俺は開発者とホムラを笑ってやるけどな」


 物言いこそ偽悪的だったけれど、クレアはナギさんが無事だと推測しているようだ。


 私はナギさんを思い返す。その体温は、まるで遊泳生物ネクトン底生生物ベントスのように冷ややかだった。それでも彼女の手のひらには、確かに心が通っていたのだ。ホムラとの未来を憂うナギさんの姿は、人造ニアの領域を遥かに凌駕していた。


 血液が流れているのではないかと、信じたくなるほどに。


「さぁ、先を急ぐぞ。しわくちゃの脳みそにとって、三原則リーブラがどう作用しているのか皆目見当もつかない」


 クレアが口にした三原則リーブラとは、すべての工学生命体に定められている鉄の掟だ。


 ひとつ、彼らは人類の安全を脅かすことなく。

 ふたつ、命令への服従を絶対とし。

 みっつ。且つ自己防衛の責務を全うする。


 アンの根幹にも組み込まれているはずの三原則リーブラ。しかし人類超越シンギュラリティを経た工学生命体が、これらの大原則を拡大解釈する事例には事欠かない。


 事実、研究所ラボに飛来した戦騎兵スタンドアロンは、ホムラの左腕を著しく負傷させたのだ。時系列を更に遡れば、このエリア096に初めて彼女たちが現れた時もそうだった。


 アンがどの程度のレベルで二人を撃退しようとしていたのか、今の私には分からない。ただ退させようとしたのか、それともしようとしたのか──。あの時に疑問に思えなかったことが、悔しさにも似た感情となって私を苛立たせる。


 クレアが差し出した片手を取って、私は立ち上がった。

 生意気を承知で、クレアに告げる。


「ねぇクレア。全速力でお願い。大丈夫、絶対に引き離されたりしないから」




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