EP05-03





 テラテクスの集積回路上に、T-6011の構成要素シナプス網を再現する。奇警なアイデアに最初は驚くばかりだったホムラも、理解を深めるにつれて全力で反対の姿勢を示すようになった。何しろ彼女は、人工生命体シュレーディンガーであるナギさんを恋人パートナーにしているくらいなのだ。肉体を持たない仮想人格テラテクスであっても、その存在と尊厳を軽んじるはずがなかった。


「他の方法は? こんなの間違ってる。私たちに置き換えれば、人体実験みたいな方法だよ」

「落ち着けホムラ。安全性については、とっくに神奈木が証明してる」


 クレアの言う通り、ナギさんがすでに同じ工程を終えている可能性は高い。もちろんクレアがナギさんに覚えている違和感が、T-6011を解析した結果と直結しているのであれば、という前提条件付きだけれど。


「いい? 何度も言うけど、ナギは"天才の上位互換ニア・シンギュラリティ"なの」


 ホムラがその二つ名を口にするのはこれで二度目で、大仰な響きが私の記憶のどこかに引っかかった。輻輳する大海原ワールドウェブの片隅で、そう呼ばれて称賛されていた女性科学者の記事を目にしたことがあるような気がしたのだ。


「ナギは優れた頭脳で、いつだってこの世の摂理を塗り替えてきた。あくまでも代替知能インターフェイスの領域を出ないテラテクスと、同じ括りで考えるのは危険だよ」

「いいや、同じだね。テラテクスもお前がセックスしている相手も、薄皮を剥けばここにいるガラクタと何も変わらない」


 クレアは蔑むような目で、T-6011の無機質な亡骸を見据える。そんな彼女の頬に、強烈な平手打ちが見舞われた。さらにホムラは、クレアの胸ぐらを両手で締め上げて言う。


「今の発言を取り消して。たとえクレアでも、絶対に許さないから」

「取り消さない。お前は他人を身勝手に助けたり見捨てたり、本当に忙しい女だな」


 一触即発の空気の中、私はなんとか二人を引き離して言う。


「じゃ、じゃあこうしたらどうかな。二人は今すぐに私を、エリア096に強制送還する。そしたら私は、今後一切立方体マイホームから離れないって誓うよ。それで全部解決。自分の分身を仲違いさせてまで、知りたい真実なんて私にはない」


 いつものようにアンの判断を仰いでいれば、私が彼女たちにさらわれることはなかった。CUBEの上甲板てっぺんから二人を見つけた時、私は迷うことなく彼の元に戻るべきだったのだろう。拗れた糸のややこしさを、今さらになって思い知らされている。


「エリカ、気を遣わせてごめんね。でも私が譲れないのはそこじゃないの」


 ホムラはそう言って、剣呑にクレアを睨みつけた。すると今度はクレアが、ホムラの襟首に掴みかかって力任せに揺さぶる。


「そうやってお前は、ひとりよがりの理想に酔ってるだけだろ。お前の選択リベラルは、もう完全に周囲の皆を巻き込んでるんだ。エリカは引き返せない。雪白ホムラに出会ったかつての俺がそうだったように!」


 ナギさんが再生した世界の縮図ジオグラフィックの映像が、ふいに私の頭をよぎった。精巧なホログラムで描かれた、私たちが生きている水の惑星の現実。人為的に裁断ナンバリングされた108つのエリアで、秘密裏に行われているという壮大な思想実験。


 私がそのピースの中のひとつだと教えられてさえ、私はどこか半信半疑でいた。結局のところ何の現実味も感じられないまま、私の毎日は永遠のようにだらしなく流れていくだけだっただろう。


 だけど、今は違う。

 恫喝にも似たクレアの悲痛な訴えは、私の胸の深い場所にまでちゃんと届いている。


「……あのねホムラ、やっぱり嘘。このやり方が道徳的に正しくなかったとしても、私は真実に触れてみたい。クレアはね、この目に見渡す限りの大草原を見せてくれたの。荒れ果てた砂漠も、巨大な防壁バリケードも。それに今度はきっと、お酒の楽しみ方を教えてくれる」


 腕の力を緩めたクレアが、呆けた顔で私を見た。


「私はこう思うよ。勝手な想像だけどね、いつかのホムラがクレアに同じことをしたんじゃないかなって。だってあなたは、私にこう言った。『だけど私には、私たちを導く義務があって』って。『エリカが下す選択リベラルを私に見せてほしい』って──」


 捲し立てるように一気に告げると、いつの間にか視界が滲んでいた。こんなにもありのままの感情をぶつけたのは、私の人生で初めての経験に違いなかった。


「……はは、ダメだね。完全に論破されちゃった」

「俺だって最初は、子鹿のようなお姫様チャーミィだとばかり思ってたんだ」


 力なく項垂れるホムラの背を、クレアがそっと支えた。相容れない信念をお互いに抱えていても、寄り添う姿は死線を共にするツーマンセル以外のなにものでもなかった。


 すっかり忘れ去られているこの論争の主役に、私は静かに話しかける。


「テラテクス、身勝手な頼み事だって分かってる。決して百パーセントの安全が保証されてないことも、理解してるつもり。ねぇそれでも、あなたにこの役目をお願いしていいかな」


 液晶モニターの中の彼は、私を穏やかに見詰めていた。それは返答を焦らしているわけではなく、私の選択を祝福しているかのような眼差しだった。その様子を見ていたホムラが、テラテクスに向けて言葉もなく頭を下げる。深くて折り目正しい彼女の一礼は、テラテクスが口を開くまで長い時間続けられた。


「やれやれだね。俺の愛した雪白姫スノウホワイトが、どんどん大人に成っていく」

「……そんなことはない。私は今だって迷子だよ。クレアとエリカが、私の思い上がりを教えてくれたんだ」


 そうだ、私も同じ気持ちだ。ホムラとクレアが、"知りたい"という欲求を教えてくれたのだ。柔弱なホームシックに浸ることなく、私は自らの意志で彼女たちと行動を共にする。


「私はね、ホムラとクレアの馴れ初めも知りたい」

「おい馴れ初めとか言うなよ。本気で気持ち悪い」


 悪態をつくクレアが、自らの両肩を抱いて震えてみせた。

 和やかな雰囲気の中で、テラテクスが名残惜しそうに口を開く。


「それじゃあ俺は、しばらく眠りに就くけれど──」


 彼の言葉に心臓が波打つ。決して忘れてはならない。目の前の仮想人格ニア・フィジカルは、私たちの身勝手な選択を受け入れてリスクを背負うのだ。


内緒話ガールズトークをする際には、無理矢理にでも俺を起動おこしてくれよ?」


 いかにも彼らしい冗談に、ホムラが複雑な笑みで応える。私たちの罪悪感を少しでも軽減しようと配慮するテラテクスは、紳士的な人工知能ディア・ヒューマニズムそのものだった。


 そしてテラテクスは、安堵の表情を浮かべながら切れ長の目を閉じる。そのあまりの人間らしさに、私は思わずこの胸を掻きむしりたくなった。




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