EP03-02





 ナギさんから借りたフード付きのローブを深々とかぶり、急勾配の階段を延々と降りていく。彼女の研究所ラボだと説明された施設の地下に、憚る人目などあるはずもないのだけど。そう考えていた私の肌に冷気がまとわりつき、外套のありがたみを噛みしめることとなった。同じ気遣いが、アンに可能だろうかとも考える。


「昇降機を設置する予算がなくてね」


 リフトの不備を簡単に詫びつつも、ナギさんは振り返ることなく先を行く。対人スキルが根本から欠けた私には、その素っ気なさが心地良かった。


「問題ありません。運動不足を自覚したばかりですから」


 できれば空調も、と軽口が飛び出そうになるのを咄嗟に我慢する。


 アンに目一杯まで甘やかされた私は、彼を置き去りにして未知なる場所に足を踏み入れているのだ。CUBEから出ることの叶わない琥珀色の脳アンバーは、今頃何を思っているのだろう。彼の論理回路は、私の不在を非常事態として受け止めているだろうか。


「……百年後の孤独プロミスド・アロン、だっけ。突然でごめんね」


 思わずこぼれた私の独り言にも、ナギさんは振り返らなかった。私は今一度フードを深くかぶり直し、彼女の手のひらの冷たさを思い返す。体温を持たないナギさんに対して、未だに恐怖は感じなかった。それどころか、アンと接している時と同じように自然体になれる気さえしている。


 階段を下りきったその先で、ナギさんがゆっくりと立ち止まった。彼女の前には、大きく開かれた空間がある。けれど明かりは灯されておらず、暗闇の中に何があるのか私の目には確認できない。


「あまり出過ぎた真似をすると、ホムラやお前のためにならないのだが」


 深長さを滲ませて、ナギさんはそう前置きした。どうやら人工生命体シュレーディンガーとやらにも、迷いや逡巡を覚えることがあるようだ。あるいは、心に揺らぎがあるように演出しているのかもしれない。何故ならばその方が、より人間らしく装えるのだから。


 そこまでを考えて、下卑た物差しでナギさんを見ている自分に気が付いた。不誠実な邪推は、ここで捨ててしまおうと心密かに誓う。自身が生身の人間であることを鼻にかけるような、恥知らずにはなりたくない。


「一体何を見せてくれるんですか? ホムラあの人はともかくとして、私は甘やかされることが大好きですよ」

「なるほど。良い表情だ」


 ナギさんは陶器のような指先で、壁に埋め込まれた操作パネルに触れた。すると目の前の開けた空間に、昼白色の明かりが灯されていく。


 暗がりだった空間の中央に鎮座していたのは、天井にまで届こうかというほどの巨大な球体だった。目を凝らせば、かろうじて向こう側の壁を捉えることができる。つまり球体の原理は、多重投影ホログラフによるものだろうと推測された。


「きれい。ナギさんは天文学が専攻なんですね」


 私が目を輝かせたのは、この球体が地球の姿をしていたからだ。限りなく精密なホログラフによって描かれた、私たちが住まう水の惑星が眼前で自転している。


「私に専攻はない。全知全能オールマイティな存在は、ある意味において粗悪品オルタナティブに等しいのだと嘆かわしく思わないか」

原初哲学プライマリーを問われても、私には理解できませんよ」


 専門的スペシャリティな話題に発展しないよう、ナギさんの冗談ユニークを慌ててやり過ごした。


原初哲学プライマリーをご所望ならば、いつかゆっくりと話して聞かせよう。今は別の話をしたい」


 ナギさんはそう言うと、顎先で球体を促した。見やればテンプレートな地球の姿が、不気味な青紫色ディープ・ブルーで侵食されていく。その色は瞬く間に大海を覆い隠し、大陸の輪郭さえ曖昧になるほど青黒く塗り潰していった。


「……これは世界の縮図ジオグラフィックですよね? だとしたら、この紫色は未来永劫の汚染区域アフターマスでしょうか。ヒト科生息圏の72パーセントを呑み込んだ、大禍ヴォルテクスの惨たらしい傷跡」

「正解だ。最低限の素養はあるのだな」

「いえ、可視化されたものは初めて見ました。まさかこんなに禍々しいだなんて」


 痛々しく病んでしまった母なる星の姿に、私の胸は息苦しさを覚えた。文字情報として知っている地球の現状と、それを可視化して映像にしたもの。その二つから受ける印象に、これほどまでの差異があるだなんて。


 事態の深刻さが、まるで別次元だ。


「こうした重大な情報の多くは、政府によって検閲されている。世に生きるほとんどの人間たちは、老人衆が選定した最低限のピースしか知らされずに生きているわけだ」

「いきなりの陰謀論ですね。動揺を煽って勧誘したところで、テロリストに加わるつもりはありませんよ」

「それは何よりだ。ホムラのような生き方は、あまり褒められたものではない」


 あまりにも予想外の返答に、肩透かしを食らった気分になった。ホムラの行動を肯定しないのならば、彼女は何のためにこのホログラムを見せているのだろうか。


「さて本題に入ろう。私が伝えたいのは、しくも今しがたお前が口にした陰謀論の話だ。陰謀と呼ぶよりも実験と云うべきなのだが、まぁどちらにせよ悪意に塗れたものであることに変わりはない」


 ナギさんは世界の縮図ジオグラフィックへと片手を翳した。理知的な彼女の姿は、さながら創世神話に語られる女神のような神聖さを帯びていた。けれど、これも同じなのだとすぐに思い至る。史実の真偽や女神の実在なんて、誰にも証明することはできない。都合良く可視化アウトプットされたその姿を、姿だとインプットされているに過ぎないのだ。


 私の目線は、ホログラムの地表へ。かろうじて汚染を免れた散り散りの大地に、白く発光するマーカーラインが瞬く間に引かれていった。複雑な形状に隔たれた幾つもの居住区の姿が、難解なジグソーパズルを連想させる。ぱっと見て数えることは叶わないけれど、勘定すれば108つのエリアに分け隔てられているのだろう。


「これが、裁断ナンバリングされた世界の姿カタチ? すごい……。リアルな世界地図なんて、輻輳する大海原ワールドウェブでさえ見たことなかった」

「私から見れば、誰しもが眠り姫と同じだ。シベリアを横断する渡り鳥のほうが、世界の姿をより正確に知っている」


 興奮を隠せない私を一瞥してから、ナギさんはジグソーパズルの中のひとつを指差した。


「エリア026、クレアの落とされた世界だ。その領域の名を、『ときの牢獄"クロノス”』という」


 唐突な言葉が私の思考を揺さぶる。クレアが、落とされた? 私たちのエリアに、呼び名があるの?


 目を見開いて硬直フリーズする私に構わず、ナギさんの指先は少し離れた西のエリアを指した。


「私たちの現在地はここだ。ホムラが落とされたエリア004。領域の名は『生命の果樹園"ヘスペリデス"』」

「え、待って。ちょっと待ってください。色々と聞きた──」「──エリカ、お前が落とされたエリア096は少し北だ。その領域は、『電子楼閣"アヴァロン"』と呼称されている」


 驚きの連鎖に思考を止めている私の前で、投影された地球は音もなく自転していた。この世界に隠された秘密を俯瞰してみせるように、あるいは達観するようにナギさんは目を細めて続ける。


「心して聞くといい。これはとある狂人の壮大な思考実験なのだ。私の生みの親である彼は、108つのエリアに108人の複製体お前たちを置いた。そして彼は異なる108つのジレンマを制定し、お前たちがどういった行動を選び取るのかを常に観測している」




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