第5話 雨
僕は、たぶんだが、歩いていると思う。僕は、たぶんだが、進んでいると思う。たぶん、というのは、自分でもよくわからないからなのだ。歩いているのか、浮いているのか、流れているのか、飛んでいるのか、とにかくよくわからない。わからないというのは、たぶんだが、周りに何もないからだ。何もないせいで、自分がわからないのだ。自分の動きを確認するための方法として対象物との動きの差異を見るのだろうけれども、一切の物体がない空間では、自分は果たして動いているのかどうかわからない。そしてそれは自分があるのかどうかさえ怪しく思えてくる。それでも僕は、多分だが、進んでいるとなんとなく思っている。
どのくらいそうしていたのだろう。そうしていた、というのは、たぶんだが進んできたのだろうということなのだが、果たしてそれがようやく判明する事態が訪れた。
すなわち、対象物が現れた。
松の木が立っている。それに近づくことができている。つまり僕は進んでいるのだ。歩いているのか浮いているのかわからないが、僕は進んでいる、それだけは確かだった。
松の木の根元に、動くものがあった。近づいて見ると、女の子がぐるぐると木の周りを回っている。時折、地表に出ている根っこをぴょこんと飛び越えながら、右手を幹に触れたまま木の周りを右回りにほぼ一定の速さで回っている。幹の裏から姿を現した女の子は、足元をしっかりと見ながら全身を使って歩いている。ぴょこん、と根を飛び越え、しゅんと別の根に飛び乗り、ちゅんと降り、大幅に一歩、小幅に三歩進み、もう一度大きく一歩、二歩と進んだ辺りで幹の裏側へと姿を消す。そしてその速さで裏側を進んでいるのだろうと予測して幹の逆側を見ると全く同時に姿を見せる。
この様子を僕は繰り返し眺めていた。
そしていつからか、木の幹の裏側に姿を隠したまま永遠にいなくなってしまうのではないかと言う漠然とした不安と、いつかはここでずっと見つめている僕のことに気付いてくれるのではないかという淡い期待で僕の中は一杯になった。
結局のところ、どのくらいそうしていただろうか。まるで機械仕掛けであるかのように、まったく違わず同じ様子で木の周りを少女は歩いている。そして僕もまた、まったく動くこともなくじっとその様子を見つめていた。それはもう不変であり永久であるかと思えた。
もうきっと、このままずっと同じなのだろうと思えた。少女の歩く様子もテンポも全く変わらず、そして僕の中に満たされた漠然とした不安と淡い期待。それらのバランスが崩れることなく永久であるならそれでいいと思えた。
不安が不満に変わったり、期待が失意に変わったりするくらいならどうかこのままであって欲しいと思った時だった。
少女は、ちゅんと根から降りた時、突如、こちらに目を向けた。
僕は驚いて瞬きをした。
少女は、恐らくだが僕を見て、そしてその瞬間に動きを停めた。微動だにせず僕をまっすぐに見つめて、固まっている。まるでねじの切れた機械仕掛けの人形のように。
僕は、つい先ほどまで自分を満たしていた淡い期待の先に、なんら準備していなかった自分を悔やんだ。もし少女が僕に気付いたら、もし少女と目が合ったら、もし少女と会話することになったら。どうするつもりなのか、どんな表情をしようか、何といって話掛けようか、とどうして想定していなかったのだろう。どうして僕はいつもこうダメなんだろう。
少女は、表情一つ変えることなく、まっすぐに僕を見つめている。まるで僕の内心を見透かすかのように、僕の目の奥に頭の中が見えているかのように、僕の目を微動だにせずまっすぐに見つめている。
僕は、どうしていいかわからなかった。頭の中だけで考えが猛烈に巡っているのだが、それが一つとして次にどうすればいいのかという答えにはならなかった。動揺しているというよりは、混乱していた。動くべきか、笑うべきか、話掛けるべきか。それとも目を逸らせるべきか、顔を背けるべきか、後ろを向くべきか。
どのくらいそうしていたのだろうか。それともほんの一瞬のことだったのだろうか。頭の中が熱く爆発しそうになった頃、松の木の葉が一本、また一本と枝から落ちて地面に刺さった。まるで針の様な松の葉は、まるで雨の様に降ってきた。
そして、それはすぐに少女にも降り注ぐことになると僕には判断ができた。
幹に触れたままの少女の腕に、一本、また一本と松の葉が当たって落ちた。
少女の肩に、少女の頭に、一本、また一本と松の葉が当たって落ちた。
その本数は徐々に増え、腕に、髪に、肩に、一本、また一本と松の葉が刺さって見えた。
さすがに僕はそのままにしてはいけないと判断した。つい今しがたまで爆発しそうなほどの頭の中身は瞬間的に蒸発して、僕は咄嗟にトレーナーを脱ぐと、肩の高さでそれを広げ、少女の頭上を覆った。土砂降りの松の葉は僕の頭や肩や顔などに容赦なく刺さりはしたが、幸いにもトレーナーを貫通することは無かった。僕の目には、トレーナーに弾かれた松の葉の踊るように落下する様子だけが映っている。トレーナーの真下にいるであろう少女の姿は窺い知れない。それでもきっと、少女は松の葉を避けられている、と思うだけで少しだけホッとした気分だった。
松の葉は容赦なく僕に刺さり続けたが、それはすぐに慣れた。慣れてしまえば不快も苦痛も大して感じなくなった。ただ、この状況が永久に続くかもしれないと思ったときには妙に悲しくなった。このままでもずっと居られない訳ではない。居られない理由はないからだ。それでもこのまま松の葉が刺さり続けることを想像すると、なんだか妙に切ない気分になった。
そんな時、トレーナーの下から鳥の鳴くような美しい声がした。
「止まない雨はないのよ。」
僕は不思議に思ってトレーナーの下を覗き込んだ。
すると、そこには赤い長靴を履いた少女が僕を見上げていた。
「ありがとう。恵みの雨よ。」
少女はそう言って小さくお辞儀をすると、手に持っていた桜色の傘を広げた。そして自分の肩幅ほどしかない小さな傘の柄を両手でぎゅっと握り締めると、僕の脇をすり抜けて幹に沿って歩き始めた。
僕は、もはやその目的を失ったトレーナーとともに両腕を下ろすと、あたりはしっとりと濡れてこの上なく優しい霧雨が降っている。
少女は、大幅に一歩、小幅に三歩進み、もう一度大きく一歩、二歩と進んで幹の裏側に姿を消した。
霧雨は僕のすべてに静かに優しく潤いを与えてくれた。
少女はもう二度と姿を現さない。それは清々しいまでに明白なことだ。
僕は、満たされた体とともに、また歩いて進むことにした。
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