第4話 鳥

 松の木の下で、僕は体をこすっていた。落としても落としても落としきれない体の汚れを落としたかった。こすってもこすっても、一向に落ちたような気がしない。どのくらいの間、そうしていたのだろう。ふと気づくと、幹の裏側に鳥が一羽、こちらを見ている。

 僕は、鳥と目が合ったことですべての動きを停めた。鳥は、啼くでもなく逃げるでもなく、ただ僕を見ている。

「おや、鳥。どうしたんだい?」

 僕がそう声を掛けても、鳥はほんの少しだけ頭を傾けただけで立ち尽くしている。

「お前こそ何をしているんだ、って聞きたいのかい?」

 鳥は、表情を変えずに時折、あたりの様子を窺いつつも明らかに僕のことを意識している。

「そうかそうか。じゃあ少し僕の話を聞いてくれるか。」

 僕は、鳥を驚かせない様にゆっくりとした動作で腕を下ろした。

「僕はね、たくさんの動物を捌いてきたんだ。君のような鳥も含めてね。」

 こんなことを聞いても逃げようとしないところを見ると、どうやら鳥は言葉を理解していないらしい。それを確認した僕はなんだか安心した。

「でもおかしいと思うんだよね。マグロの解体ショーは興業として成立して、魚を切り刻む様はヨダレを垂らす勢いで嬉しそうに眺めるくせにさ。」

 そんなことを話しながら僕はゆっくりとその場に腰を下ろした。あまり見つめると逃げられてしまうかもしれないと思い、あえて鳥を背にして松の木に寄りかかった。

「牛の一頭買いをしてもその解体を客の目の前でやることはなかったね。どんな高級料理屋でも、客の前で鳥の羽をむしるところから見せたりなんかしない。魚なら、鱗取りから一般家庭の調理工程になっているってのに。」

 僕は無意識に右手で左手の指を一本一本撫でながら話した。まるで石鹸で手を洗うときのように。

「ガーデニングに興味を持った時期があってね。鉢植えの花は、咲いたらどんどん摘み取ってしまえ、って本に書いてあったんだ。そうすれば次々に花がでてきて長く花を楽しめますよって。でもそれって、花にしてみれば種を残すために花を咲かせるわけで、種になる前に摘み取られたから慌ててまた花を咲かせるわけ。それからね、伸びっぽうけの庭木を手入れしようと思い立って、初めて剪定を試みたんだが、その樹形を見極めろっていうから枝の様子を観察したのさ。そうしたら、葉は少しでも日に当たろうとして放射状に広がっていた。内側になった枝はその競争に負けて枯れている。本にはね、形を保つために切れとあったが、形ってのはこちらの都合で、木にしてみれば形なんて関係ないんだよね。木はただ本能的に葉に光が当たる様にちゃんと伸びるようになっている。」

 ちらっと横目で鳥の様子を見やった。鳥は、近づくでもなく遠のくでもない絶妙な距離を保ったまま、なんとなくそこに居る。

「そう言えば。剪定をしていたら内側に作りかけの鳩の巣があってね。でも数日後にはその巣は落ちていて、鳩の姿も見えなくなった。僕のせいで、あの場所に巣を作るのを中止せざるを得なかったんだろうね。」

 ふと自分の足元に何かが動いた気がした。注目するも、そこには何もいない様だ。

「アリの巣を何時間も眺めていことがあったっけ。生きたままの芋虫を一日掛けて巣へ引きずり込もうとするアリたちと、いつまでも絶命せずに抵抗するけど逃げられない芋虫と。結局、あの芋虫はどうなったのかな。」

 視界の端に何かが動いた。顔を動かさずに目だけを横に向けると、鳥が数歩、ゆっくりと歩いている。少し距離はあるが、僕の横に並ぶ格好になった。

 鳥と僕とを底辺とした正三角形の頂点の位置に、色のついたモノが動いた。目を凝らすと、芋虫がのた打ち回っている。僕は、鳥があの芋虫を食べようとしているのかもしれない、と思い当たると途端に怖くなった。

「君は、あれを食べようとしているの?」

 芋虫から視線を外すことなく、鳥に声を掛けてみた。鳥は鳴きもしないし動きもしない。僕は、改めて横目で鳥を見た。すると、鳥はまっすぐに僕を見ている。

「え?」

 僕は鳥の強い視線に思わず立ち上がった。同時に、鳥を驚かせない様にと思っていた自分を恥じた。鳥は僕を食べようとしているのかもしれない。鳥が僕に好意的だと思ったのは単に僕がそう思いたかっただけなのだ。この鳥にとって僕は敵かもしれないし食糧かもしれないのに。

 そう思ったときだった。ふくらはぎに噛まれた様な痛みが走った。

「うっ」

 次にアキレス腱に激痛が走る。右ひざの裏、左足の脛、左の太もも、右足のかかと。ジクリ、ガジュンと次々に痛みが襲う。僕は立っていられずに思わず膝をついて倒れ込んだ。すると、左足の膝と右足の指を何かに咥えらて後ろへ引き摺られた。

 鳥は、表情を変えずに僕を見ている。

 僕は自分の足元を振り返った。小型犬サイズの黒いモノたちが僕を引きずって行こうとしているらしい。その間にも、ときどきズザシ、ビシツと腹や腰の辺りの服や肉を破かれる。

 きっと、あの時の芋虫はこんな感じだったのだな。

 僕はそう思った。僕には、あのとき助けてやることもできた。でも、しなかった。アリからすれば大切な狩りの最中だったわけで、僕にその大きな獲物を奪う権利は無いと思ったからだ。アリは、芋虫を解体するかもしれないが、それはショーではなくアリたちにとっては食糧保存のためでしかないだろう、とそんなことを考えて眺めていた。アリにも芋虫にも、意思はないはずだった。でも一方で、のたうち回って抵抗する芋虫は、今の僕のように痛みを感じていたかもしれない・・・。

 あれ。

 今、僕は、痛みを感じているのだろうか。

 そう思ったとき、鳥と目が合った。全身を齧られぼろぼろになった僕を鳥が見下ろしている。その眼は、驚きも悲しみも好奇も憎しみも憐みも蔑みも何も読み取れない表情のないものだった。鳥は、そんな僕に一歩、また一歩と近づいてくる。これ以上見ていると、目玉をつつかれるのではないかと思った僕は、すべてを放棄するつもりで目を閉じた。

 一歩、また一歩と鳥が僕の頭へと近づいている気配がしている。鳥は、僕を食べるのだろうか。それとも蹴飛ばすのだろうか。

 まあいいや。どうにでもしてくれ。散々、やってきたことを初めてやられる側になってみるだけのことだ。どんなことになろうとも自業自得でしかない。

 頭の先に何かが触れたようだった。きっと、鳥が僕の髪の毛をつついているのだ、とそう思った。そしてそのまま脳みそをつついて食べるのかもしれないなと思った。

まるで地中から這い出たミミズを食べるように、僕の脳みそをつついて飲み込む鳥の姿を想像した瞬間、得も言われぬ感覚が全身に走った。頭のてっぺんを、鳥が嘴で咥え、後ろへと引っ張った。もしくは、足先を咥えた黒いモノたちが下へと引っ張ったのかもしれない。

 まるで羊膜のような筒状の”僕の外側”が足先へとズルズルと引っ張って行かれた。そして鳥が咥えた”僕の内側”はその場にべちょっと取り残された。

 中身がなくなって軽くなった外側は、黒いモノたちに勢いよく引き摺られて消え去った。

 鳥は、残された内側の僕を嘴から離した。

 どのくらいの間、僕はそのままでいたのだろう。静かに目を開けると、松の木の向こうに歩いて行く鳥の後姿がぼんやりと見えた。体は揺らさず、足の筋肉だけでスス、ススっと進んでいく。僕は横向きに寝そべったまま、その姿が消えるまで見守った。

 もしかしたらずっとそのまま寝ていたのかもしれないし、それはほんの瞬きをしただけだったかもしれない。

 僕はやがて立ち上がった。

 そこには進むだけの道があった。

 僕は、歩くともなく浮かぶともなく、つかみどころのない自分を連れて、その道を先へと進んだ。


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