第3話 黄色い花

 僕は走っていた。ひたすら、ひたすら走っていた。そう、この時を待っていたんだ。

 すると、道の脇に松の木がある。その根元にスーツを着た男が立っている。

「何をそんなに急いでいるんです?」

 男が僕に声を掛けた。

「急いでいるというか、早く会いたいんです。」

「早く?」

「会いたいんです。先に来ている妻と息子に。居るはずなんです。」

「走っても歩いても、同じですよ。」

「とにかく早く、早く会いたいんです。」

「焦っても止まっても、同じですよ。」

「すみませんがもういいですか。早く会いたいんですよ。それじゃ。」

 そう言って僕は再び走り出した。走る。走る。走る。気持ちより足が速いのか、足より気持ちが先なのかわからない。僕はとにかくずっとこの時を待っていたんだ。

 すると、道の脇に松の木がある。その根元にスーツを着た男が立っている。何か言いたげな男に向かって、僕は走りながら声を掛けた。

「一分一秒でも早く、会いたいんです。」

「ここには時間はありません。早くも遅くも同じです。」

「同じ、ですか。だったら、早くがいい。会いたいんです。それじゃ。」

 そう言って僕は走り過ぎた。走る。走る。走る。夢の中の場合、大抵は気持ちに足が追い付かなかったり、急ぎたいときに限って足が絡んで動かなかったりするものだが、でも今は違う。これほど気持ちと同じ位に足が軽快に動くのはなんとも気持ちが良い。僕が思う速さで足はどんどんと動き続ける。

 すると、道の脇に松の木がある。その根元にスーツを着た男が立っている。

「早くでも遅くでも、同じです。早く早くと焦る分だけ遅く遅くなります。」

「大丈夫。足は気持ちと一緒にどんどん走っているんです。こんなに気持ちよく走れるならいくらでも走れます。それじゃ。」

 僕は走っていた。ひたすらに走っていた。気持ちと足が僕を完全に助けてくれる。なんとも心地が良かった。こんな爽快感を味わうのは初めてかもしれない。もう何もかもどうでもいい、と思えてしまうほどの心地の良さ。

 すると、道の脇に松の木がある。その根元にスーツを着た男が立っている。走りながら顔だけ男の方に向けると、男は僕と目があうなりにっこりと微笑んだ。僕は男にわずかに会釈だけを返して走り続けた。普通だったら立ち止まって挨拶を交わすくらいのことをすべきなのに、走っている自分があまりに心地が良くて止まりたくなかったのだ。走る僕に向かって温かく見守るかのような微笑みをくれた人に対してそんな自分らしくない態度をとってしまうほどに今僕は走っていることが心地よかった。心地よいなんて、どれくらいぶりの感覚だろう。どれくらい・・・?

 すると、道の脇に松の木がある。その根元にスーツを着た男が立っている。あの男は何をしているのだろう。僕は、この男に会ったことがあっただろうか。

「何を、しているのですか?」

 優しい微笑みを湛えた男に向かって、僕は走りながらそう声を掛けた。

「いえ、特には。楽しそうですね。」

 にっこりと笑った男に親しみを感じたが、知り合いだったかどうかはわからなかった。

「ええ。なんだかとても心地が良いのです。もう何もかも忘れてしまいたいほどに。」

「忘れてしまいたいことがあったのですね。」

 男の言葉を聞いて、初めて僕には忘れてしまいたいことがあったことに気が付いた。

「ええ。ええ、そうです。そうなんです。忘れてしまいたい・・・いや違う。忘れられないことです。」

 僕は、足を止め、身体にまとわりついた服を脱ぎ棄てて松の木の根元に座り込んだ。

「忘れられない、ですか。」

 男は僕に呼吸を合わせてそう尋ねた。

「忘れられないと言うより、忘れてはいけないことです。」

 僕が答えると、男は再び僕に呼吸を合わせてこう聞いて来た。

「忘れてはいけないと、自分に言い聞かせていたことですね?」

 僕は吐く息と一緒に、彼の言葉を聞き流していた。もう少し正確に言うなら、彼の言葉の意味がよくわからなかった。

「僕は、その時が来たら真っ先に妻と息子に会えるだろうと、会いたいと、会わなければならないと、そう思って・・・。」

「会って、どうするのです?」

「どうする?どうするって、そりゃああなた、謝るんです。」

「謝る?」

 男は静かに問い返した。

「僕は、妻と息子に、謝るんです。僕、明日死ぬんじゃないかって言ったんです。そう、あの夜、確かにそう妻に言ったんです。そしたら翌朝、保育園に行く途中、事故で本当に死んでしまった。」

 僕は膝を抱えた。

「僕があんなことを言ったせいで。そのせいで、ようやく授かった息子を死なせてしまってごめんよって。僕のせいでたった三年しか生きさせてあげられなくてごめんよって・・・。」

 ふと見ると、足元に小さな草が生えている。どうやら小さな花も咲かせているようだったが、葉っぱ諸共しなびてぐったりと下を向いていた。きっと、水が足りないのだろう。見渡しても水も水道も何もない。この花はきっとこのまま萎れて枯れるに違いない。

 僕がなんとなくそう思った時だった。その花の周りにだけ優しい雨が降ってきた。水は、象の顔が描かれた子供用のピンクの如雨露から注がれている。それを持つには不釣り合いなスーツ姿の男の仕業だった。

 やがて草は葉をピンと広げ、堂々と黄色い小さな花を上に向けて胸を張った。

「あの日、自宅の玄関を開くと、廊下の向こうから手を広げて勢いよく息子が走ってきたんだ。その瞬間、仕事の胃痛も頭痛も吹き飛んだ。幸せって、こういうことなんだなって、心から思いました。そんな絵に描いたような幸せがあるものなんだなあって。」

 黄色い花が、僕の顔を見ているような気がした。

「幸せ過ぎて怖くなった。それで、明日は不幸のどん底に突き落とされるんじゃないかって、そんな話をしたんだ。幸せの絶頂の次は断崖絶壁しかないんじゃないかって、そう言った。」

 僕は口ではそんな風に語りながらも、目は黄色い花を見つめていた。花はさっきよりももっと開いて、草の背も一回り大きくなったように見える。すると、いつのまにか花を挟むようにして横に座っている男がこう言った。

「そして、絶壁から落ちたのは、あなたでした。」

 その声は、僕の周りの空気に溶けて消えた。

「僕だった。僕一人だけ崖からまっさかさまだ。どうして僕一人、どうして僕だけ。」

 静かに風がそよぎ、黄色い花は心なしか勢いが弱まったように見える。

「たくさんの人が、僕に声を掛けてくれた。気を落とさないで、前を向いて、気持ちはわかる、自分をしっかり保て、塞いでいては二人が悲しむよ、泣いていても二人は喜ばない、二人は見守っているはずだ、笑ってくれと言っているよ・・・。」

 僕は耳にタコが出来る程に浴びせられてきた慰めの言葉をツラツラと並べ立てていた。ちらりと横目で男を見たが、男は無表情に聞き流しているようだった。

「心の傷の痛さは、脳も理解すると教えてくれた人もいた。時間が解決するなんて言われれば反発する気持ちに押しつぶされそうだった。でも結局、時間の経過とともに声を掛けてくれる人も減り、そうして僕の傷も癒えていたのかもしれない。」

 そう言った僕は、自分の言葉で懐かしさが頭によぎった。

「自分だけ歳を重ねることが、怖かった。ずっと、ずっと、怖かった。」

 きっとそれは、ずっとずっと、人知れず隠していた声にできない自分の声だ。

「お二人は幸せなまま、時間のない世界にいったとしたら・・・。」

 男の言葉は僕の頭の中を通過して、煙の様にふわりと消えた。黄色い花は、いつの間にか葉は枯れて花びらが落ち、頭を下にうなだれていた。枯れてしまったのだろうか。

 男はどこか寂しげに草を見つめた。かつて黄色い花だったものはぽとりと頭が落ちた。枯れたのではなく、花が実となり種となって地に返ったのだと僕は理解した。

「二人は、幸せだったんでしょうか。」

「あなたは、幸せだったんでしょうか。」

 気付くと僕は泣いていた。泣いて、泣いて、泣いていた。止まらない涙に声を出して泣いた。自分の耳に届かないほどの大声で泣いた。堰を切ったように溢れた感情は、あっという間に散らばって消えた。枯れたと思っていた涙がまだこんなに残っていたんだと思いながら、止まるまで、なりふり構わず泣きに泣いた。

 ふと横を見ると、男は最初に脱ぎ捨てた僕の服を丁寧に畳んでくれていた。僕は男のそんな気遣いがなんだか嬉しく思えた。新たに芽生えた草の双葉はまるで両手を広げているかのようだ。その葉にそっと触れてみると、まるで握手でもしたかのような心地よさがあった。

「そろそろ、行ってみます。」

 僕はそう言いながら立ち上がった。

 男は草の横に座ったまま、眩しい笑顔で頷いた。

 僕は、その笑顔に背中を押されるように、ゆっくりと歩き始めた。



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