第2話 口角
私は、遅くも早くもない自然な速度で道を歩いていた。何をするでもないが、疲れを感じないことが幸いしてか、苦も無く進み続けることができた。堅苦しいビジネススーツと首に食い込むワイシャツの硬い襟が気にならないのは、気温や湿度を感じないためだろうか。少しの間だけでも緩めておきたいと常に願った暑苦しいネクタイもきっちり締めているのに気にならないのは天候が無いためなのだろうか。いつもと変わりないいつもの服装のままだというのに、何故か疲れだけは感じずにどこかしら軽快に歩いていた。
すると、松の木が見え、その近くに人が立っていた。素直に、ああ、誰かが居るな、とだけ思った。
松の木のところにまで行くと、私はその人に声を掛けた。
「大変ですねえ。」
すると、若くもなく、そうかといって高齢でもない女性が答えた。
「いえ。ちっとも大変ではないですよ。」
私は、どこか賢そうなこの女性のことをなぜか少しだけ知っている。この人はこの松の木のそばにずっと居る人だ、ということだけ。
「ここは、いろんな輩が通るわけでしょう?」
「ええ、そりゃまあいろいろとね。」
女性は、微笑みを浮かべてこう答えた。親しみやすい雰囲気ではあるが、どこか業務的でもある。
「面倒な奴も来るでしょう?全部、私のような善良な人ならいいのでしょうけどね。」
私がわざとらしい営業トークをしたのはきっと、この女性を笑わせたいと思ったからだ。しかし女性は
「ええ、まあ。」
と、笑うというよりは困った様な、微妙な反応しかしなかった。
「私もね、接客営業で随分と多くの人間と接してきましたから、そのご苦労はわかります。心中お察ししますよ。お疲れ様です。」
「いえ。別に苦労も疲れもありません。」
女性は、上がった口角を保ったままそう答えた。表情と言葉の内容とに妙な違和感を覚えた私は、一歩踏み込んで尋ねた。
「本当ですか?苦労も疲れもなく、多くの人と接することが可能ですか?」
女性は、表情を一切変えることなく応じた。
「ええ。それらは、自分とのズレを受け入れる際に生じるものなので。」
「ズレ、ですか・・・?」
私は徐々に女性の言うことに興味が湧いてくるのを自覚した。
「自分と自分以外の間に存在する差異を受け入れるのは苦労します。自分を自分以外に同調させるべく自分を曲げたならそれは疲れを生むでしょう。」
ほんの少し、私が彼女の言葉をかみ砕くための間があった。それは長かっただろうか、それとも一瞬だっただろうか。
「では、あなたは差異を受け入れたり自分を曲げたりしない、ということですか?」
女性はまったく表情を変えないことから、私の問いはどうやら想定内であるらしい。
「そこではありません。自分以外、の部分です。」
今度はもう少し長い間が必要だった。しかしどう考えて何をかみ砕くべきなのかわからなくなったので、話を少し変えることにした。
「・・・ここにいつもお一人でいらっしゃるんですか?」
「ええ、まあ、そういうことになりますかね。」
「お仕事とはいえ、大変でしょう?」
「いえ。仕事とは違います。まあ、仕事という表現が分かり易いならそれでも結構ですが。」
「あの、実際に、具体的には何をなさるんですか?」
「まあ、分かり易く言えば、一皮剥くということでしょうか。」
「一皮、剥く、ですか。そうですか。」
「ええ。そういう場所なのです。さあ、どうぞ。」
「は、え?・・・ああ、そうか。私もですか。」
そう言われてもまったくその気になれなかった。私は何とか時間を稼ごうと頭を巡らせた。
「あの、他の皆さんもすんなりと脱いで行かれますか?」
「さあ。ここには比べることには意味がありません。」
「でも多くの人が、それこそ大勢の人が、この先へ行くんですよね?」
「ええ、まあ、そうですね。」
「その人達を全部みているんでしょう?他の人は、すんなりと行きますか?」
「さあ。いろいろな意味で、意味がありませんから。」
女性から、私の知りたい情報はあまり期待できないような気がしてきた。少し考えてみたが、もう何を言ってもダメそうだ。私は諦めることにした。
「そうですね。あなたに余り時間を取らせてしまっては申し訳ないですから・・・。」
そう言って上着を脱ごうすると、女性は不快感をあらわにして言った。
「お気遣いなら結構です。」
「え、いや、だって・・・。」
「ここには時間というものはありません。」
「脱げばいいんでしょう?」
「目的をお間違えです。そんなことでは幾度脱いでも同じこと。」
「あなたの目的はここで身ぐるみを剥がすことですよね?それがお仕事なのでしょう?私の服もここに脱いで置いていけと、そうおっしゃったじゃありませんか。」
私はいつまでたっても変な会話しかできないことに加え、女性が不快な顔をしていることに腹が立ってきて、着ていた上着を脱ぐと足元に放り投げた。こんなことをしたのはいつぶりだろう。自分の感情に対して素直に行動したのなんて、いったいいつ以来だろうか。
「どうです。これでいいのでしょう?あなたの目的は果たせたはずです。もうよろしいですか。私はこの道を行けばいいんですよね?もう、これで失礼します。」
私は道に出て進もうとした。しかし、道を見ると、進む方向がわからなかった。自分はどちら側から来て、どちら側に進めばいいのだろう。
思わず頭を掻いて左右をきょろきょろしていると、静かな女性の声が後ろに聞こえた。
「道は先に進みます。」
その少し棘のある言い方に何故か覚えがある気がした。私の苛立ちを受け取って一緒になって苛立っているような感じ。
「道に先があるのなら、つまり戻れるってことですよね。」
私は戻るという選択肢が無いことを承知の上で、苛立ちにかまけてわざとそう言った。すると案の定、女性は
「道は進むものです。そういう意味では、戻れません。」
と言った。そうだ。知っているさ。戻れないことなど知っている。わかっているし別に戻りたいと思っているわけじゃない。
「でも過去はあるじゃないか。」
「ええ、過去は記憶ですから。」
「記憶なんて、曖昧なものだ。いつでも都合よくすり替えて組み替える。」
「ええ、過去は記憶による作り話ですもの。」
そうさ。こいつは、いつでもこうやって上げ足をとって屁理屈をこねる。こいつとはまともな会話ができないんだ。
「でも、過去に会った出来事とか、事実とかは、紛れもなく過去として・・・」
「記憶のパーツを組み合わせたものでしかありません。」
可愛くない。なんて可愛くない。いつもそうやって人を食ったような言い方で、俺がああ言えばすぐにこう返してくる。
「では未来はどうだ?未来は先にあるんだからあるんだろう?そういうことになるじゃないか。」
「未来はありません。」
「未来は、想像することができる。空想して予想するじゃないか。」
「それも所詮は記憶のパーツを組み合わせたものでしかありません。」
お前はどうしてそうやって俺を見下した様に言葉でねじ伏せようとするんだ。
私はいよいよ怒りの頂点というやつを知った。沸点、と言うのはこういうことなのだろう。全身の熱いものが頭に集結し、もう何も考えることができなくなった。
振り返ると、女性に向かって口からすべての言葉が勝手に流れ出て行った。
「そんなに俺が嫌いなのか。どうしてお前はいつもいつもそうやってまともに会話をしないんだ。俺がどんな想いで怒りを抑えて生きてきたのかわかっているのか?客先のどんな我が儘も、理不尽な言いがかりも八つ当たりも、どれほど腹が立っても己の苛立ちが口から溢れそうになれば水を飲み、空気を飲み、人の視線を飲み込んで、俺はそうやって生きてきたんだ。生まれてこの方、一度たりとも俺の理性が怒りに負ける事はなかった。そうさ、お前がそうやって俺のことをどれだけ言葉で弄んでもだ。それがどれほどのことか、お前にはわかるか?それは俺にとっての処世術だからさ。それが出来なければ俺は生きてこられなかったからさ。そうすることだけが俺の生きる術だったからさ。」
そうだ。私はヒステリックな母を反面教師に、決して怒らないと心に誓って生きてきた。
「それをなんだ、お前はいつもいつもそうやって、言葉で俺をズタズタにして、そんなに俺のことを傷つけて、何がそんなに楽しいんだ?」
何をしても怒らないからといじめの標的になったりもした。何をしてもへらへらしているとからかわれたこともあった。そんなお前に営業は天職だと上司に言われたこともあった。いつも言うことを聞いてくれて助かると客に言われた。いつも良い人だよねと言われ続けた。少しでも心の影を闇を隙を見せたら破たんするような恐怖だらけの世界だった。
「そうやって言葉で弄ぶから、俺はいつも心に思っていないことばかりを言ってしまう。」
私は力の限り拳を握りしめて、泣いていた。これはきっと、悔し涙だ。これは数え切れないほど流した涙。人知れず、決して人に見せたことのない涙。
「お前だけは違った。お前だけは・・・なのに、いつも・・・」
ふと、両肩に手が乗っかった。顔を上げると、目の前にいた女性が泣いている。美しい瞳から滔々と涙があふれて出て、その流れ落ちる勢いと共に、私の全身の力もスルスルと抜けて行った。
「それでいいのよ。」
と蜘蛛の糸を思わせる繊細な声で女性が言った。
「君を・・・・・・幸せにしたいと思ったんだ。」
私がそう言うと、女性は満面の笑みを浮かべた。嬉しそうに、そして少しだけはにかむようにして笑っている。懐かしいような、知っていたような、でも初めて見るような新鮮な顔。
「君の・・・笑顔が見たかったんだ。」
私がそう言うと、彼女は両肩に乗せた手で上着を軽くつまみ上げた。私は、背を向けて袖から腕を抜いた。全身に風が通って、私はこれでもかと言うほどに胸一杯に息を吸い、そして、ゆっくりと吐いた。
目を開くと、あたりには何もなかった。見えるのは、先へ進む道だけだった。
私にはそれだけで十分なような気がして、遅くも早くもない自然な速度で道を歩き出した。
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