第1話 スイートピー

 ふと左手を見ると、無意識にピンクのスイートピーを一本握っていた。

 どうしてスイートピーなのだろう。私はスイートピーが好きだったのだろうか。

 そんなことを考えながら先へ進んだ。先、と言っても良くわかっていない。どこに行くのだろう。私はどこに行くのだろう。急ぐわけでもないが、なんとなく行く先は決まっている気がして、道なりに進んでいた。道なりと言っても道らしい道があるわけでもないのだがなんとなく先へ進むべきだ、と腹のどこかでそれを了解しているらしいのだ。

 スイートピーをぶらぶらと振りながらぼちぼち歩いて行くと、松の木が見えた。どこか懐かしさを覚えるような枝振りの松の木だった。近づくと、その木の根元に寄りかかって座る老婆の姿が目に入った。

「う・・・。」

 思わず私はそんな声が出た。老婆は、頭が異様に大きく、だらしなく伸びた白髪と日焼けか汚れかわからない浅黒い肌が不潔に見えた。土埃にまみれたような薄汚れた浴衣のような和服ははだけて、皮ばかりになった鎖骨とあばらが見えており、ぺらぺらに垂れ下がった乳房でかろうじて女性だと認識できるものの、恥ずかしげもなく晒しているその様は性別を言い当てる意味などないように思えた。

 恐らくだが、私はかなりの嫌悪感を露わにした顔で見ていたのだろう。老婆は皺くちゃな顔に不釣り合いな生気のある大きな目で私を睨んだ。目が合ったにもかかわらず、不思議と私は歩くのをやめなかった。それは自分でも意外だった。あの大きな顔があの形相で自分を睨みつけたというのに、どうして私はたじろぎもせず、目を逸らしもせず、進んでいられるのだろう?

 すると、老婆が口を開いた。

「脱いで行け。」

 少し低いカサカサした声が耳に届いたとき、初めて私は足を停めた。

「私?」

「目が合っただろうが。堂々と無視しやがって、まったく。」

 どこか安心している自分に驚いた。きっと、聞こえてきた声と言葉の汚さが、見た目の印象を裏切らなかったからだろう。そうだ、この見た目にもかかわらず鳥の啼くような美しい声で丁寧な謙譲語を話されたら気味が悪すぎる。しかし裏を返せば、私はそのくらいの気味の悪さを頭のどこかで期待していたに違いない。

「先へ進もうかと・・・。」

 そう言った私の言葉は表情を変えずに睨む老婆に遮られた。

「とっとと脱いで行けって言っているんだよ。まったく。」

「・・・何を?」

「纏っているものをに決まっているだろうが。」

 二度ほど瞬きをする間、私は何を言われたのかを考えていたのだが、ようやく自分が服を着ていることを思い出した。白い浴衣のような薄い和服を着ている。こんな服初めて着たような気がする。老婆はこれを脱げと言ったらしい。

「どうして?」

 自分の服かどうかもわからないので別に脱いだって構わなかったのだが、なんとなくそう老婆に尋ねてみた。ふと、老婆の半端に伸びた爪を持つ皺だらけの手が見えた。もしかしたら、新しい服が欲しいのではないだろうか。私の服を奪い、今着ている服と交換したいと思っているのかもしれない。そう思った瞬間、老婆は

「この先に進むために。」

と、予想しない答えを言った。

 そんなはずはない。この人は私の白い服が欲しいのだ。なのに、どうしてそんなウソをつくのだろう。

「この服が欲しいなら、そう正直に言えばいいのに。」

 私の心の声が口から飛び出した。なんて嫌味な言い方だろう。自分の声を自分の耳で聞いて私はそう思った。

「そんなものいらねえよ。まったく。」

 あれ、この「まったく。」は誰かと同じだったような。誰だったかな。私はそんなことを考えていた。

「脱ぎたくないんですけど。」

 正直に言うと、老婆は少々疲れた顔をした。

「なんで?あんたはいつもそう。」

 あれ、この「いつもそう。」も聞き覚えがある。誰だったかな。誰の言い方に似ているのだろう。

「人前で服を脱ぐのは恥ずかしい。」

 自分でそう言っておきながら、ふとあたりを見回した。どこをどう見ても、人前ではない。人は老婆以外に見当たらないのだ。しかもこの恐ろしく顔のでかい老婆は人前と言う言葉を使うほど「人」っぽいわけでもない。つまり、自分の言い訳は成立しないのだ。

「何が恥ずかしいものか。まったく。」

 なぜだろう、老婆が嫌味ったらしく発言する度に、どこか聞き覚えがあるような気がする。誰だったかな。思い出せないモヤモヤしたものが胸に渦まく。

「ああ面倒くさい。手間取らせるんじゃないよ。まったく。」

 顔の半分を歪ませて心底嫌そうな顔で話している老婆のこの顔、いつだったか見たことがある。しかも一度や二度ではなく、結構な頻度で。

「このまま進んだらどうなるんでしょう?」

 手放せと言われると妙に惜しくなってきて、私は袖ぐりを眺めながらそう言った。老婆は益々顔を歪ませた。

「はん。大変な目にあうだけさ。今なら大したことないことを先送りなんかしたら、それこそ・・・。」

 老婆は急に自分の口を枯れ枝のような手で覆った。

「・・・とにかく、私がここにいるのは、あんたがそれを脱ぐべき場所であることを知らせるためだ。それを拒んで先へ行ってごらん。自分で自分の首を絞めるようなもんさ。」

 三回も威圧的に脱げと言ったくせに、急に責任逃れをするかのような言い方をされるとこちらもひるんでしまう。

「どうして、ここで脱がないといけないのかしら。」

 そうつぶやいた私に、老婆は何も答えない。

 ふと、私の手に握っていたスイートピーが目に入った。私はこれをいつまで握り続けるつもりなのだろう。別に、持っている必要もないし、持っていたかったわけでもない。でも自然と持っていて、手放すきっかけがなかっただけのことだ。よくよく見ると、意識して手を握り締めているつもりなどまったくないのに、なぜか拳は強く結ばれスイートピーを落とすまいと力が込められている。そんなに強く握りしめる必要など全然ないのに。

 そう思うと、今ここで手放さなければもうずっと自分の手から離れなくなるのではないかと不安に思えてきた。老婆の様子を確認すると、ほぼ無表情のまま松の木にもたれて座っている。

「あの、これ。」

 私は三歩かけて老婆に近寄り、大きな顔の中央にある大きな鼻の前にスイートピーを差し出した。老婆は少しだけ頭をのけぞらせて花に焦点をあわせ、それが何か判明したところで私の顔を見上げて言った。

「あら、綺麗ね。くれるの?まあ、ありがとう。」

 さっきの歪んだ顔と同じとは思えないほどの笑顔になった。

 私は、顔の皺というものが怒りの時は直線的で、笑うときには曲線的になることを発見した。そうだ、この笑顔だ。こちらもつられて笑ってしまうような、可愛い皺だらけのこぼれるような笑顔。

 スイートピーが無事に手から離れると、久しぶりに自分の手のひらを見た気がした。握るものがなくなった手のひらには開放感があり、不思議と体中のいろいろなものが掌から解き放たれて昇華していくような感じがする。ただ、スイートピーを老婆にあげただけだったのに、ただ握りしめていたものを離しただけだったのに、たったそれだけのことで、私の中から何かわからないがいろいろなものが抜け出ていって、体が軽くなったように思えた。

 老婆は、スイートピーを嬉しそうに眺め、にこにこしている。私はその笑顔に恐らくだが見覚えがある。

「私、たぶんその笑顔が大好きだったわ。」

 私は、自由になった両手でいとも簡単に白い和服を脱いで丁寧に畳んだ。強い愛着があるようには思えなかったが、少しの間だけでも自分自身を覆っていたものだけあって、別れというものに伴うほんのりとした切なさを感じながら足元に置いた。

 頭をあげるとそこは何もない世界で、ただ進むべき道のようなものだけがあった。

 私は、自分の顔が笑っているかどうか確かめたくなって両手で自分の頬を触れてみた。指先に皺を感じた。それは恐らくだが曲線的だった。

 私はただまっすぐと前だけを見て、ただ進むべき道の様な道を歩き始めた。

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