第6話

 廃工場の建物は暗く、人の営みを感じさせないほど古びていた。カビと埃と鉄の混じった臭いがする。夜の帳は落ち切り、光源が余りにも少ない。悪臭混じった泥の水たまりを踏みつけながら、小鼓音は射抜くように一本の柱を注視する。

「アから身を隠すことはできませんよ。神隠しして差し上げますから、安心してお出でなさい」

「あら、ばれちゃった。おばあちゃんにしてはやるじゃない」

「当たり前でしょう。手癖の悪い盗人ていどが、身の程を弁えなさすぎです。敬明はどこですか、さっさと連れてきなさい」

 柱の陰から下駄の音を小気味よく鳴らし、笑い返すようにして千切が姿を現す。

「これからご臨終するおばあちゃんに、耳を貸す必要なんてないでしょ。あはは、跡形もなく燃やし尽くしてあげるわ」

「小鼓音!」

 敬明の叫び声が工場内に響く。千切がぴくりと片眉をあげ、小鼓音を無視して高さのある二階部分を見上げた。

「私の術から逃れるなんて、なぜ動けたのかしら。もしかして、天眼を隠していたから? だったら二人とも、殺して問題なさそうね」

「敬明、親御様は無事ですよ。すぐに迎えに行きますから、そこでお利口にしてお待ちなさい」

 小鼓音が敬明の無事を確認し、片腕に力を篭めだす。パキッパキッと、腕の肌が罅割れていく。数秒すると、当たる光に反射する白い鱗を形成しきっていた。

「先程は礼に失していましたから、改めて相手をしてあげます。せいぜい地に這いつくばり、膝を突いて頭を垂れることですね」

「笑わせないでよ、そっちの頭をかち割ってあげるわ」

 千切が下駄で地面を打ち鳴らす。景色が侵食されて、丸ごと塗り替わっていく。朝日の陽光、浅い水面、真っ赤な鳥居が乱立して出現しだす。小鼓音と敬明に強烈な幻術をかけ、疑似的な世界を創り出した。

 頬に数本の髭を生やし、片手で口元を覆う。

「婆と餓鬼の不安定な組み合わせじゃない。あらぁ、負ける道理が見当たらないわね」

 足を広げて踏み抜くと下駄の音が一つ、両手を下に広げて中腰の姿勢になる。刹那、火球が五つほど空中で浮かび上がる。それは燃えたまま不自然な消失を遂げていく。

「さあさ、生き様ごと炙り焼きにしてあげる!」

 小鼓音が水飛沫を立てながら、不規則な動きで左側へと走り出す。駆け抜けたあとから、見えない火柱があがる。視認できるのは攻撃が着弾した際に起こる、屈折した空気の歪みのみ。多量の熱を伴って、火柱が五つあがる。同時に千切が再び地面を踏み抜く。下駄の音が響き、今度は倍以上の火球が空中に浮かびあがった。

「避けるだけの曲芸なんて見飽きるのよ、早く灰達磨になりなさい」

「安心なさい、その手回しにはアも飽きあきしています」

 小鼓音が急激に方向転換して、千切に突進していく。火柱が前方や側面で発生しても速度を落とすことなく距離を詰め続ける。攻撃の半分以上が外れた時点で千切が軽く舌打ちした。残りの透明な火球も当たらない。

「どうしてかしら、見えてるわね」

「答えがでぬは、おつむが弱いからでは?」

 千切との近さ一メートル幅まで縮めきった小鼓音が薄く笑う。

「面白い、興がのってきたわ!」

 小鼓音が腕を振り抜こうとした瞬間、千切が目を見開く。二人の間で地熱からの揺らぎが如く、景色が激しくのたうつ。透明な灼熱の壁が出現しきった。

 対して緑の霧が直撃し四散させていく。白い煙が大きく狼煙のように上空へ立ち昇る。小鼓音が攻めに転じ、口を開いて毒霧を噴射し続ける。灼熱の壁を突破した霧が、辺り一面を蹂躙するように広がっていく。

 千切が後方に向かって飛び退る。咄嗟に避けきるのが精いっぱいだったのか、油断をしていたのか。着物の裾が溶け落ち、未だ犯す部分からは白い煙が噴きだす。

 小鼓音が口をすぼめて上半身を仰け反らせた。返す反動で、体をバネのようにしならせて前倒し。吐き出された小さな弾丸程度の玉が、再度として放たれていた灼熱の壁を易々と突破していく。

 千切が両腕をクロスして防御しきった。直撃した着物の両裾が腐食でぼろぼろとなり、腕にも多量にただれができあがる。

 小鼓音が薄ら笑いを浮かべながら手を広げていく。

「小娘、ここでお前の弱点を一つ当ててみせましょう。ただの人間を殺すことに、なにか枷をかけられていますね。アと敬明が家路についたとき、本来であれば既に皆殺しにでもできたでしょう。しかしやらない」

 次に首輪を連想させるようにして、片手で顔の下あたりを括る。

「やらないではなく、できない。釣り餌とはいえ、アが来るまでに敬明も殺していない。そもそも畜生の領分に人の命など聴く頭がない。快楽を貪るだけの獣です、惨めなお前は上に飼いならされているのでしょう?」

 千切が組んでいた腕を降ろすと、愉快に楽しむ表情はない。険しい顔を多量の皴が刻み、鼻が痙攣したように動く。

「良いことを教えてあげるわ、おばあちゃん。私に命令したのは、六道心の最高権力者よ。この意味が解るかしら、遠い耳でもよくわからせてあげる。はなから、あんたたち二人は全く信用されてないわ。私のくらいは最底辺、囚人の如きに受ける命令なんて一つだけ」

 鳴る下駄の音が一つ、あがる火球は数百個。上空のあらゆる隙間を埋め尽くすように浮かびあがる。瞬く間に実態が消滅するが、中身が消えたわけではない。大量の炎が一面を多い尽くしている。

「要は、灰塵にしてこいってことよ!」

 敬明が小鼓音のサポートをするために、手摺てすりから乗り出すようにして動きだす。だが、猛火の群れはかまうことなく一斉に襲い掛かっていく。

 小鼓音は余裕の表情を崩すことなく、なにが正解なのかを知ってるかのように振る舞う。ゆっくりと助走をかけだし、どんどんと走る速度をあげていく。

「信用されぬは、お互い様でしょう。なにを一人だけ逃避しているのです。ああ、確かに小娘ではありますね。居住まいのだらしない、猿以下の知遅れですが」

 回避した先から、外れた火球が火柱となって天へと向かい伸びだす。廃工場全体の温度が、徐々に上昇していく。ここまで前後左右に駆け抜けていた小鼓音が、いきなり真っ直ぐに突っ切る。体を飲み込むようにして、一〇数個の火球が直撃した。

「なぜ、真偽の見分けがつく!?」

 小鼓音は一切燃えた気配がなく、人体が焼ける焦げ臭さも感じさせない。

「小細工をろうするのがお好きなら、見世物小屋でお稼ぎなさい」

「言ってくれるね、能のない三流以下のどぶさらいが!」

 炎に幻術を乗せている、相手の視覚を奪って物理法則を捻じ曲げていた。ここにあっては実際のところ透明の炎は存在しない、ただ燃焼する色を隠しているだけだ。敬明には見えないが、小鼓音ははっきりと掌握しきっていた。

 肉眼に頼らない他の部分に頼っている。人間には備わっていない、サカのなかでも小鼓音とごく少数だけが持っているもの。だから隠れている火球の中でも、さらに本物と幻術で作られる偽物の区別まではっきりと見分けられる。

「ピット器官というらしいですね、蛇には必ずあるのですが。ああ、アにもあるので、見えない眼がついているのと同じでしょうか。筒抜けなのです小娘、お前の隠し芸は種が割れているのです。お前も炎も、どこにいようが丸裸ですよ」

 百科事典に書いてありますよと、面白そうに知識を披露した。小鼓音には通常見えている世界とは別に、もう一つの世界が見えている。それはさながらサーモグラフィーのように、色温度で区別された人間以外がもつ第六感。

 踊るように避けていたままに、千切との距離が再度として詰まりきった。

「さあ、頭を垂れなさい」

「カァ!?」

 下から伸びでくる腕のフルスイングが、千切の顎辺りにめり込む。皮膚を貫いて深々と食い込む爪の先が、振り抜き様に五つの真っ赤な線を作り出す。鮮血が細長く曲線の尾を描き、地面に新しい染みを付着させた。

 千切の足元が上空へ浮き上がったまま、今度は襟首を引っ掴む。棒切れを遠くに振るうように、助走をつけて横に一回転していく。常人では到底だせないほどの勢いで、投げ飛ばされた千切がないはずの壁に激突する。創られていた景色がもとに戻り、盛大にひしゃげた壁の鉄板が確認できた。

 千切がよろめくようして立ち上がり、小鼓音が腕を一薙ぎして自身の手にこびり付いていた血と皮膚を振り払う。 

「アから化粧直しの褒美を授けました。随分と綺麗になりましたね、見違えましたよ」

 陸地を掘って川を流したかのように、何本もの太く赤い線が肉を抉っていた。もはや最初に知っている整った印象はどこにもない。ぽたぽたと地面に滴る血を流しながら、ちぎれた唇が痛々しく動く。

「……やってくれたわね。もういいわ、狸婆の命令なんて破棄して皆殺しにしてやる。この貸しは高くつくわよ、骨の髄まで毟り取ってやるわ」

 血だらけの顔で笑みを絶やさず、からくり人形のように小刻みに肩を震わせる。帯をといて横に抜ききると、和服が体から抜け落ちていく。下駄を蹴るように脱ぐと、生える黄色い体毛が体を巻き込む。

「これ、好きじゃないのよ。服は裂けるし、顔は醜くなるしで図体もでかくなる。でも、雑魚を狩るには丁度いい。そう思わない?』

 身の丈三メートル越えの巨大な狐が姿を現す。一つの頭に顔が二つ、上下に分かれて口元から牙を除かせる。喉が唸る感情を凝縮するように震えていく。

『ここまでお披露目したんだもの、本物・・の幻術を味わっていきなさい。三途の川を渡るとき、話のたねを駄賃代わりにするといいわ』

 姿が揺らめいて消えていく、さながら狐火のように。違和感を一ミリも感じさせない、擬態の痕跡さえもみせない。最初から何もなかったかのように、さっぱりと存在感がなくなる。

「少々厄介ですね。これが小娘の本気というわけですか」

 小鼓音が内心で舌打ちする。熱感知に一切合切、なにも引っかからない。不意に嫌な予感が過ぎった。一番近くにある鉄骨の柱を三角跳びの要領で蹴りつけていく。

「うお、危なあ!?」

「やはり敬明を先に狙ってきましたか。畜生の狐は、意地汚さが折り紙つきですね」

 二階まで跳躍しきると、敬明を脇に抱えて緊急回避した。剥き出しの歯並びが揃って空振りの噛みつきを行う。獣独特の息を吐く匂いだけが余韻を残し、再び姿が見えなくなる。

「うっそだろ……」

 代わりに火球の大群が出現し、敬明が思わず呻いた。先ほどと同じように空中で浮遊し、真っ赤に揺らめく白熱が標的を絞り込んでいく。狩られる兎は二匹、狙う銃口は百以上ある。ただ声だけが響き渡った。

『ご期待にお応えして、浮かぶ球に偽物は一つも無しよ。消し炭になるがいいわ』

 敬明を抱えながら、火球を避け続けるのは厳しい。千切がサカの化狐となってから本命の攻撃は、巨大な牙での噛み付きだ。小鼓音は考えた末に、敬明へと呼びかけていく。

「敬明、大きく息を吸い込んで眼を瞑りなさい」

「なんで!?」

「はやく!」

 刹那のうちに大量の火球が二人へと殺到した。夜も暗い時間、廃工場の中から強く赤い光が外へと漏れだす。続いて激しく燃え盛る音が、聞こえる全ての者の耳朶まで埋め尽くしていく。

『アハ、しぶといわね。随分といい力を持ってるじゃない、おばあちゃん』

 小鼓音が地面にできた穴から跳躍して着地する。

「今のは少し驚きました。ええ、本心からの賞賛ですよ」

 人が数人分は入れそうな穴が地面に空いていた。いや、それは小鼓音が空けたものだ。ありえないほどの毒を体内で精製し、火に飲み込まれる寸前で吐き出して溶かしきったのだ。溶解液はコンクリートを突き破って土も一緒に蒸発させた。穴の中にいる敬明は毒素を体内に吸い込まないため、未だ小鼓音に言われたとおりにしている。

 小鼓音は眼を瞑りながら、着ていた服を脱ぎ捨てる。

「だから、一握ていどの力でもてなしましょう。喜びなさい、丸呑みにしてさしあげます』

 声の最後は、ガラスを引っかいたかのように耳障りな高音だ。小鼓音の体が急激に肥大化し、全身が鋭く反射した白一色に覆われていく。 

『ここからは分水嶺。さあ、アとは遊戯に勤しみましょう?』

 腕は引き込まれるように、足は一本に纏められるように。物理法則を無視した大蛇が夜の中で姿を現した。白い鱗に覆われた、縦に二つ目の連なった化物。その巨体は、見た目をゆうに一〇メートル以上へと達している。口から巨大な牙と割れた舌が覗く。

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