第5話

 リビングでは敬明の両親が椅子に座っている。もう一人混じって談笑している相手は千切だった。テーブルの上に置いてあった包丁が、両親の手によって互いの利き手に一本ずつ握りこまれる。小鼓音の首を絞めたさい、本人自身が頑丈だったために事なきを得ていた。

 狙われているのは敬明自身か小鼓音のみだと思ってもいた。ただし、それは当人の視点からくる思考の在り方に限定されてしまったもの。

 生唾を飲み込むと喉が鳴った。千切は両肘をテーブルにのせて両の指を絡めていく。その上に顎をあてながら、楽し気に聞いてくる。

「さて、二人は私と六道心に来てくれるのかしら?」

「俺の家族になにしやがった!?」

「まだなにも。なにかするかは、そっちの出方次第ね?」

「マジでふざけんな!」

 敬明が歯をむき出しにして怒鳴りつける。状況から理解できる通り、千切のもつ幻術は非常に強力だ。うかつに動けば、包丁の切っ先がどこに向かうかわからない。なんとか理性を保ち、その場に踏みとどまった。小鼓音は値踏みするような目で千切を眺める。

「昨日の贈り物はなかなか楽しめましたよ。小娘風情にしては、上出来でしょうか」

「あら、喜んでもらえて嬉しいわ。手なずけたわんこに噛まれた気分、どうだったかしら?」

「畜生と戯れるのは嫌いではありませんから。地力の低い小娘の器を撫でるのは、いと楽しいものです」

「言ってくれるわね。あはは、挑発を受けたのは久しぶりだわ」

 互いに飾り気のない全力投球のキャッチボールをしている。千切は背もたれに体を預けると、指をほどいて軽く打ち鳴らす。室内に残響のあと、両親は互いの喉元へと銀の切っ先を突き付けあう。このまま数センチ進んで横に薙ぐだけで死ぬ。

 正気な人間のできることじゃない、敬明が我慢しきれず動き出す。

「親父、母さん、ぐう!」

 一歩を踏み出したところ、小鼓音の手が伸びてきて後ろ襟首を掴み取る。喉が詰まり、むせ返って咳き込む。

「落ち着きなさい敬明。小娘の手札は、一枚きりです。この手の輩は嬲って楽しめるあいだ、そうそう持ち駒を捨て鉢にする気はありません」

「ふーん、わかってるじゃない。さすがは歳の功ね、なんでもお見通しなのかしら?」

 再び指が鳴る。

 両方の滴る血は、片方が父親の喉元からの伝うもの。床までは落ちず、皮の表面にうっすらと傷口が拡がっていた。残りの片方からは血がとめどなく溢れ、床でできた血溜まりを作る。小鼓音の自ら手で覆った刃先が、五指に勢いよく食い込んでいく。千切りが動作を取った瞬間に両親の間に割って入ると、母親の手首と父親が持つ包丁を掴みこんでいた。

 同時に動き出した千切は、小鼓音の身動きが取れなくなった一瞬の間を突く。軽快な動作で掌底し、敬明の顎を打ち抜いた。声を上げる暇もなく、気絶した一人が崩れ落ちる。地面へと倒れ込む敬明を前に、荷物を軽々と持ち上げるような動作で持ち上げていく。

 小鼓音は自身の血で滑る包丁を止めるためにさらに力を籠めなおす。楽しそうに眺める仕掛人は、胸をそらして背を向けていく。

「敬明ちゃんは、こっちで可愛がっておいてあげる。ここらは人目に付きすぎて都合が悪いのよ、私の術が解けたら追ってくるといいわ。だけど今すぐ手を離せば、敬明ちゃんだけは助けられると思うけど。どうする?」

「一宿一飯の対価です。畜生の小娘が羨む程度には、恩情に報いる知性があるのですよ。すぐに追いつきますから、それまでゆっくりとお待ちなさい」

 歩みを止めた千切が振り返って意外そうな顔をすると、次には嬉しそうに目を細めていく。小鼓音は敵が打つ次の一手を予想し、いつでも動き出せるように両足へと力を籠めて腰を屈めた。床に広がる血だまりが靴下に染み込み始める。

「どこまでも噛みついてくる言動、とっても私好みだわ。いいわ、もっと楽しみましょう。秩序なんて糞くらえ、派手に、激しく、軽快にぃね!」

 ゴッ!!

 千切が空いていた腕を振るい抜くと、小鼓音が咄嗟に顔の向きを変えて避ける。波打って追随する白髪の端が燃え上がった。刹那的に熱が発する大気の揺らぎだけが視認でき、あとは正体を見定めきれない。透明な炎を投げ放つ敵は、標的が外れたことに大層な喜びをみせてくる。先程から手ごわさが増すほどに楽しみを感じているように。

「顔をケロイド化してやろうと思ったのに、案外と勘がいいわね。さて、おばあちゃんが避けたせいで、後ろの台所から火が出始めたわ。だいたい小一時間で、この家を飲み込むかしら?」

 小鼓音は動かない。顔を真横よりも奥に向けたままだったが、一拍の間をおいて肩を震わせ出す。

「くく、あはは、あははははは。そうでした、アとしたことが、周りの空気にのぼせてすっかりと忘れておりました。小娘のおかげで思い出しましたよ、いつの世にも悪人は存在する。心に毒を持つ輩が恒河沙ごうがしゃの如くとは、いつの世も変わらないのですね」

 外気が一度下がったように、酷く冷めた眼が千切を見下げる。

「よく覚えて起きなさい、小娘。この世の理は因果具時いんがぐじ、交えた刃は両の腕を貫き必ず喉元へと到達します。予告してみせましょう。この行いによって、お前はアに首を撥ねられます」

「あらあ、加齢が起こすヒステリィって怖いわ。私は優しいから、移動して通った後にマーキングを残しておいてあげる。せいぜい気張って追いかけてくることね」

 用は済んだとばかり、手をひらひらと振ってリビングのドアを締め切る。千切の気配が薄くなっていき、やがて完全になくなってから小鼓音は行動を開始し始めた。

 相変わらずの状況は、結果として多量の出血を促す。通常の人間であれば、既に失血多量でショック症状に陥っていてもおかしくはない。敬明の両親が未だ操られている、千切の放つ幻術の強度は相当だった。行使した本人が去ろうとも、受けた二人は全く正気に戻る気配がないのだ。

 小鼓音の指にある爪と皮膚の間から緑色の液体が滲んで垂れだす。包丁に到達すると猛烈な煙を吹きだし、あっという間にステンレスが腐食されていく。切れ味を失い化学反応を起こしたかのように溶けた部分が、緑の液体と一緒に地面へと零れる。やがて柄だけを残し、殆どが物体としての形を失ってしまった。

 スカートが靡くと、片足を上げて首元に踵を叩き込む。父親が一メートルほど後ずさって倒れ込んだ。母親の首を片腕で締め切ると、数秒後には動かなくなった。崩れ落ちる前に抱えて移動する。父親の横に仲良く寝てもらうと、目下の最大課題へと向き直る。

「あとは炎の処理ですか。仮初とはいえ、大切な寝床を失っては堪りませんし」

 一息を吸い込むと頬が膨らみ、喉元を両手で覆う。口元を開くと、一吹きに緑色の濃霧を吐き出した。部屋の半分近くを飲み込むと、喰らい尽くすように辺り構わず腐敗させていく。

 燃えていた台所周辺が鎮火し、黒い焦げ跡が爪痕を残す。小鼓音は何食わぬ顔で、部屋の窓を全てあけ放っていく。室内に溜まっていた緑の世界が霧散し、空気が正常に戻っていった。事後の惨状を確認すれば多量の血溜まり、黒焦げのキッチンと数週間はムチ打ちで痛むであろう父親の首元がある。いくら小鼓音に暗示ができようとも、最早誤魔化しきるのは困難すぎる問題解決だった。

 そこで思いつく方法。父親がキッチンを燃やしてしまい、怒った母親に首元を蹴られて気絶、撃った衝撃で鼻血の雨。駄目だ、この言い訳は違和感満載の積み荷を引く牛車でしかない。

 後のことはその時に考えよう。敬明に習い、小鼓音は思考を救出へと切り替える。

 靴を履いてから玄関を出る。千切はマーキングを残すと言っていた。道路まで足を延ばして辺りを見回すが、特にそれらしいものがない。

「では、上ですか」

 見上げれば、電柱の柱にある頭頂部分がうっすらと黒焦げになっている。アスファルトに小さなひびが入るほどの力を込めてから、一足飛びに跳ね上がった。壁の上に着地すると、目を細めて瞳孔も縦長にする。ほかの電柱が同じようにして、幾つも焦げ付いていた。規則性から一本道を作り出し、景色の奥へとずっと続いている。

 小枝が折れるような音がリズムを刻むように鳴り響く。手の指を動かす仕草からくるものだった。爪の先を全て鋭利に尖らすが、すぐさま元の丸みがあるものに戻る。しかし、口端だけは吊り上がって興奮を抑えれずにいる。

「久方ぶりに受けた悪意でしたが、実に楽しい。生きているということは、外道同士で嬲りあえるということ。ふふ、いっそ丸呑みにしてしまいたい」

 小さめの唇を濡らす舌の先が、ぱっくりと二股に割れた。


     ◇


 敬明が目を覚ますと、焦ったようにして辺りを見渡していく。指の感触がざらつき、鼻孔は埃を嗅ぎ取った。随分と人の出入りが少ない場所だ。四角い部屋、とてもうす暗い一室の中にいることが分かった。

 明かりは殆どないらしく、窓の中に外の光が差し込んでいる。目を凝らしてみると、少し先に機械の操作パネルや制御するためのレバーなどが確認できた。

「お寝坊さんね、やっと起きた?」

「このヤロウ」

 声のしたほうへ顔を向けると、千切が制御パネルのついた台の上に腰掛けていた。爪を整えているらしく、手入れ用のヤスリで削った部分をじっくり眺めている。息を吹きかけて粕を飛ばしながら、敬明のほうを向かずに話しかけた。

「おばあちゃんが来るまでもう少しかかるみたい。良かったわね、さっき話してたけど迎えに来てくれるらしいわよ」

「お前の目的は、なんなんだよ」

「最初はおばあちゃんの生け捕りだったんだけど、ちょっと変更するわ。良い運動になりそうだから、殺すかもしれないわね」

 千切が使用済みのヤスリを曲芸師のように空中へと放る。ゆっくりと回転して落下するのを掴むと、軽い動作で投げ放つ。尖った面積を持たない先端が、敬明の顔すれすれを通過して金属盤に突き刺さった。敬明は自身の髪が数本ほど落ちるのも気にせずに、思い切り睨み返す。

「六道信はお前みたいなのばっかりなのかよ?」

「十人十色よ。まあうちに所属しているのは、みんな一般人に危害を加えるなって言われてるけど」

「嘘付けよ、包丁もたせた時点で破ってんじゃん」

「ああ、それね。ああでもしないと、おばあちゃんの足止めができないでしょ。敬明ちゃんが帰ってくる前に、二人とは話しこんでたから。おばあちゃんのこともよく聞いておいたわ」

 つまらなそうに肩を鳴らして一拍の間が空く。

狸婆たぬきばばから凶暴だって聞いてたから、こっちは楽しみにしてたのに。なによ、実生活を聞いたら、随分と良い子ちゃんにして過ごしてるじゃない。これなら間違いなく、敬明ちゃんの親御さんを救うと確信したわ」

「なにそれ」

 つまり小鼓音が救わなければ、自身の両親は本当に刺し合って死んでいたことになる。理性のたがが外れたようにして、敬明が吼えた。拳を握り、千切の眼前へと急接近した。殴られそうになっている本人は、余裕の表情を崩さずに悠然と構えている。

「あははは、ただの人間が私に勝てるわけないじゃない。操り人形にする気はないから、しばらく暇潰しの話し相手にでもなってちょうだい」

「くっそ……!」

 体がいうことを利かない。透明な糸に絡まれたかのようにして、身動きが取れなくなる。やぶれかぶれに眼をつぶって、幻術をとこうとする。千切は敬明の頬を撫でながら、嬉しそうに微笑む。

「諦めなさい。頭の中に刷り込まれてる時点で、どうあがいても脱する手段はないわよ。どんな思惑があるのかしらないけど、狸婆が敬明ちゃんにも会いたいらしいの。この遊びが終わったら、総本山に連れて行くわね」

「たぬきばば?」

「そうよう。陰険でいけ好かない、六道心の総元締め。この世の生き字引みたいな女ね。私みたいなか弱い女も獄に繋ぐ、諸悪の根源よ」

「正解でしょ。あんたは一生、繋がれてりゃいい」

 千切の眼が紫を基調とした虹色に輝きだす。敬明が殴られて地面に転がった。わけもわからずに混乱していると、自身の右手が顎を打ち抜く。暴行を加えてきたのは自身の拳だと気づくが、止めることが一切できない。

「可愛くな~い、お姉さん泣いちゃうわ。今のはわりと強力に術を行使したから、防ぐのは不可能よ。殺しはしないけど、一歩手前までならなにしたってかまわない。たとえば」

「うぐああ!」

 左腕が明後日の方へ折れ曲がりだす。脂汗と泡を吹き、激痛が全身を襲う。今度は一気に力が抜けて、その場に倒れこむ。余りの気持ち悪さに、思わず咳き込んだ。

「壊して遊ぶのも、やぶさかではないけれど。一方的に追い込むんじゃ、つまらないのよね。弱いもの苛めは性分じゃないし」

 部屋の外から、扉の開く音がする。錆び独特の擦れる耳障りな不快さが、敬明の頭を冷やしていく。千切は一つ頷いてみせると、嗜虐的に笑みを深めていく。

「随分と余裕のご到着ね。敬明ちゃんは、ここで大人しくしてるといいわ。おばあちゃんとは浅い縁だったでしょうけど、お見送りできないのは寂しいものね。サカだからもとの死体は残らないけど、遺品くらいは持ってきてあげる」

 大人しく待ってなさい、千切は一言を残して敬明に金縛りをかける。部屋から笑い声を残して去っていった。はいそうですか、なんて納得がいくわけがない。痺れたようにして殆ど動かない体に鞭を打つが、一向に体調が回復してくれるはずもなく。普段使わない脳みそをフル回転させるが、打開策は一向に浮かばず。

 ――いや、一つだけ方法がある。

 あやふや過ぎて、もはや選択肢ですらないかもしれないが。

「ぐう、動けよ俺の腕ぇえぇええ!」

 全力で右ポケットへと手をねじ込む。指先の当たる感触に、三本の指で挟んでから引き抜いた。八角細工の錆びた道具、手の平サイズ程度の重みが最後の頼みとなる。

 ぼやける視界の先に、使用方法のわからない金属の塊。小鼓音はこれが、寝殿造り三つ分以上の価値があるといっていた。どれだけ希少品なのか知らないが、今の状況を打開するために動く。

 思いは一つ、小鼓音のいる場所へと駆けつける。そのために自身を縛る、幻術が邪魔だ。

 どけよっ!

 その錆びた銅鏡は主の命を静かに待っていた。今再び魂に呼応し、想いを忠実に受け止めていく。細い一直線に伸びる光は刃の如く、敬明の首を一閃する。熱い感触が皮膚をすり抜けて体内までを蹂躙した。

「うお、まじでっ!?」

 跳び退って後退すると、両手で光の通った部分を忙しなく触りだす。切断される感覚を肌で感じ、どこも怪我を負っていないことで安堵の息を漏らした。

「すげえ、これ。おっさんと小鼓音の言ってたこと、少し信用できた気がした」

 手を何度か握り込むと、金縛りが解けていることを確認する。手放して地面に放置されていた銅鏡は、錆を削ぎ落した新品のような輝きを放っていた。骨董市に並んでいるかのような面影は、一切残っていない。敬明は助けてくれた信楽の忘れ形見を拾い上げると、力強く前を向く。加勢しなければと、千切の去っていったドアから外に出た。

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