第2話
敬明が小鼓音の封印を解いて、すでに五日が経過していた。
寝返ってあげた腕の真ん中が、マットレスを軽くこづいてしまう。ようは、やたらと狭い床に無理やり布団を敷いていた。
寝心地の慣れたベッドは、占拠されてしまっている。言わずもがな小鼓音だ。
敬明は眠気まなこで頭をかく。
「やっぱ……、せま」
あかの他人であった人間が、一日目はねぐらと食事をゲットした。二日目は新しい服を買ってこいと、当たり前のようにぱしらされる。三日目には父親の部屋をあさりまくって、百科辞典セットを敬明の部屋に運び込む。
それからというもの日がな一日のあいだ、大量の本をずっと読みふける日々が続いていた。ここまでワンセットで強権ニートのできあがりだ。
六畳間の部屋に二人まで、まあそこまでは良かった。
だが、今は無理やり押し込んだ見渡すばかりの本、本、本。ばらばらに積まれた本だらけの生活だ。はっきりいって、息が詰まってしょうがない。床の大半をうばって敷いていた布団から、上半身を起こして右を向いてみた。自動的に五〇センチの高さまで視線もあがる。目の前で少女が生まれたままの姿で、被っていた布団をはだけさせて寝返りをうつ。
敬明も高校生だ、女性には普通程度の興味がある。いつも使うスマートフォンのデータにも、わいせつ画像が幾つも眠っている。だからといって、目の前のフルコースに手を出すなんてのはもっての外だった。相手はつい数日前まで、なん百年も山中で封じられていた人外少女だ。取って食われそうな存在に、やましい欲求は起こらない。
見た目は自身と同じくらいで、わかりやすいくらい顔の作りがいい。普段あるだろう黒がきれいに抜けきった白髪で、前髪の左半分からおでこがみえている。
うっすらとのびる細い手の一部がみえると、カラクリ武者の頭を叩きつぶした光景が頭をよぎった。寝返りをうった少女の顔が、敬明の直ぐ近くにくる。
あどけない寝相から、ほおの皮が少しはったのがわかってしまう。ゆっくりと目を開けた小鼓音が、大きい
「今日もアに手を出さぬとは、
「寝てるのにやるとか、どう考えてもおかしいでしょ」
「ほう。アのような
「そういう、問題じゃないから」
敬明が上シャツ下ジャージな姿のままで、寝ぐせのきまったボンバーヘッドを手でかく。
小鼓音は上半身を起き上がらせながら、う~んっと一つ伸びをしだす。カーテンに軽くさえぎられた薄い朝日に、脱皮したはだは白を通り越して病的ささえ感じさせる。
「敬明。母上様から聞きましたが、今日はお休みなのでしょう。昨日ですが確認したさい、最近の
「長い針じゃなくて、一番大きい時間をみるなら短い針のほう。だからさ、今は朝の九時」
面倒くさそうに指で示しながら、のっそりと起き上がる。
小鼓音も同じようにして、ぬぎ捨てていた服のそでに腕を通す。お休みどきは服を着て寝てほしい。なん回か交渉したが、昔からの習慣だからと断られてしまった。はじらいも異性も関係ないらしい。あけっぴろげですなな態度に、もはやあきらめてしまった。
二人して光合成前の植物みたいに気抜けしていたら、部屋のドアがノック抜きに開けはなたれた。中年女性の声が室内に響き、敬明の母親が快活に笑う。
「あら、二人とも起きたのね。朝ごはんができてるわよ、ささっと着替えて食べなさい。じゃあ、私は父さんと先に食べてるわね」
ドアは締め切られ、なにごとも無かったかのように二人だけの空間に戻る。
衣類をまともに着ていない半裸の少女。本の積み上げで荒れ放題の部屋。悪い意味ではなまる一〇〇点の光景を見ているはずなのに、なにもなく立ち去っていった。普通であればドアを開けた時点で、鬼の形相が返ってくるはずだ。
だが返ってこない。これは小鼓音が自身にとって、実に都合がいいよう調節をかけているためだった。
四日前の夕方のこと。散々な目に合いながら、やっとの思いで自宅の前まで帰ってきた。学校帰りとは違い、横どなりに小鼓音が急ごしらえしたワンピースを着ている。
とりあえずベッドで寝たい。それだけを考えて、遠い山奥からぼろぼろの服装で戻ってきたのだ。さすがに小鼓音がもともと着ていた穴だらけの和服では、しばらくくそのままとはいかなかった。昨今のご時世、通報されて補導されるまでが平常運転でしかない。
とはいえ敬明にとって、これから最大の関門が待っている。おいしくご飯を食べて、お風呂にはいるだけ。あとは寝るだけならば、どれだけ幸せだったろうか。
対応がいやで及び腰のまま、心配になって一声かけてしまう。
「なあ、本当に任せて大丈夫なの?」
「アを誰だと思っているのです。敬明は全てアに
「どっからくんの、その自信」
「人が化かされる様は、思いのほか一興ですよ。アはこのような
「おれの親は、マジックの小道具じゃないから……」
あきらめて、ただいまと小声で言って、玄関のドアをあけてみる。
「敬明、いったい今まで、どこでなにをしてたの!?」
耳痛い、近所で迷惑級の大音量が響き渡る。母親が奥から馬力をかけて、駆け寄ってきた。みたくない、真っ赤な顔に鋭い牙と角を生やして。
これは説教がすごそうだ。おもっていた矢先、敬明の前に小鼓音が平然とすすみでる。見知らぬ人間がいて、ひるむような心は持ち合わせてないらしい。母親は相変わらず
「敬明、この子はいったいなんなの!? ちゃんと説明しなさい、なんであんたはいつも……そん……なに…………こ――
ゆっくりと、母親の言葉が力を失っていく。最後は目を小鼓音に合わせて止まり、機械のようになってしまった。げんこつは覚悟していたのだが剣幕はなりをひそめ、返されるのは少女のにこやかな笑み。母親の両手をとり、慣れた手つきで上目づかいをしていく。
「母上殿、敬明はとてもよいことをしました。なんと、苦しむ
「……そうね。そうだったわね。頑張ったわね、敬明」
「遠き
「しんせきの小鼓音ちゃんよね。もちろんよ、家では気がねなくすごしてちょうだい」
母親はなにもなかったかのように、きびすを返して台所へと向かっていく。小鼓音は小首をかしげて、少しだけ笑みをたたえた。そのままついと視線を下に向ける。
もともと観察力があるらしく、並べられているくつを見て学習したらしい。同じように、自身のはいていたものを脱ぐと習って同じように置く。
「さて、もう一人は気配が見えませんね。敬明の父上様は
「会社だろ、なんで戦なんだよ。時代劇の合戦なんて、テレビでしか見たことないし」
「まずは落ち着ける場所が欲しいところです。敬明、あなたは自身の
二階にあがり、小鼓音は多少散らかったままの六畳間をひとしきり見渡していく。指をあごにそえて、ふむと頷いた。
「かなり
「いや、ここはおれの部屋だから。小鼓音は一階にある客用の部屋で寝てよ」
敬明は心底いやがりながら抗議するが、小鼓音はどこ吹く風とばかりに横へ流してしまう。腕を組むと、まるで駄目な生徒を見るかのようにたしなめだす。
「いいですか、敬明。ここ荒銀家にあって、アの存在自体が酷く
「そら、そうでしょ」
「母上殿はアを遠い
「もっとうまく、いかないの?」
「
だましきることにも、限界があるらしい。力量をわきまえているらしく、小鼓音は手近な椅子へと腰かけていく。一息ついたらしく、少しだけ得意げにしだす。
「ただし、毒の生成でアの右に出る者はおりませんよ」
「いや、あぶねえから。なんの役にも立たないでしょ」
「ほう、役に立たないと。毒殺には
「だから危ねえし。だれか死んだら、一発で今晩のトップニュースいりだよ」
頭のネジがとんでいるらしく、ベクトル方向が真っ黒このうえない。この少女はどれだけやばい時代に生きていたのだろうか。敬明は価値観の違いにうなってしまう。小鼓音はすずしげな顔をすると、当たり前のようにいう。
「誰が
「刀もってんの、一人でも見かけたかよ?」
小鼓音が目をきょとんとして丸くした。今まで余裕の表情しか見せていなかったせいだろう。敬明と出会ってから、初めて年相応に少し驚いた顔をしてみせる。
「では、武家はいないのですか」
「ぜつめつしてる」
「絶滅……」
絶滅ではなく時代の流れにそって絶えたのだが、敬明もわけしり顔で話は進む。
「
「いや、ねえよ」
「身分差はあるのですか?」
「身分てなんの。みんな、自由でしょ?」
小鼓音の顔が固まったまま、少しの間だけ動かなくなった。がわだけならただの可愛い少女が、はかなげにふっとに笑う。ついにはあさってを向いて、遠い目をしだした。
「なぜアは、この時代に生まれ落ちることが出来なかったのか……。いえ、今からでも遅くはありません。敬明、アは書を
「しょ?」
「文字の書かれたものです。見渡す限りこれほどの文化が花開いていれば、平民の家屋にも和紙か
「和紙ってなんだっけ……あ、ようは本か」
漫画ばかりの棚を見回して、部屋には教科書くらいしかないことに気づく。これでいいやとばかり、小鼓音に普段学校で使用しているものを渡す。ここから昨日まで、周りに完全シャットアウトして本の虫へとなってしまった。話しかけても「わかりました」か「まちなさい」しか返ってこず、ついには一〇回ほど声をかけてやっと戻ってくるだけになった。
恐ろしいまでの集中力には、ひたすら感心することしかできず。敬明はこれだけ勉強が好きなら、きっとテストで満点だらけだなとうらやましがった。
今日は敬明の高校が休日を迎え、小鼓音はそれに合わせて外へと出る予定を立てていた。階下に降りて食事をすませ、着替えを済ませて準備が完了。
軍資金は小鼓音が敬明の母親からもらっていた。もとい、幻術を使ってみつがせていた。敬明が嫌な顔して、やりたい放題の小鼓音に注意する。
「なあ、頼むから金の使い方は考えてくれよ?」
「安心なさい、
「なにそれ!?」
「ですので、今月に前倒しで来月のお小遣いはないそうです」
「やだよ、おかしいでしょ!」
なげきなどおかまいなしに、玄関のとびらを押し開けていく。小鼓音は意気込みたっぷりに一歩を踏み出し、そのままガレージへと張り付いた。子供のように目をかがやかせながら、敬明の方に向き直る。
「敬明、
窓ガラスごしに運転席のハンドルをのぞきこむ。帰宅するまでのあいだ、小鼓音が一番興味を示したのは自動車だった。
今の時代に街中で馬が走っているとすれば、牧場などから逃げだした時だけだ。
敬明も車が嫌いではない。多少かじった半ぱな知識のもと、みぶり手ぶりでだれでも動かせることを教えた。思い返さなくてもこれがいけなかった、そう気づいた時には後の祭りだ。
以降、なにかとせがんでは無理な要求をしてくる。
「だからダメだって、言ってんじゃん。ねばるなほんと、なん回目だよこのやり取り。免許なきゃ、運転できないんだって」
「鍵の他に、めんきょとやらを差し込む場所があるのですか?」
「百科事典を読む前に、まずはもっと違うとこから覚えなよ……」
すったもんだのすえに車から引きはがし、近くにある桜並木の通りを歩く。車が近くを通り過ぎるたびに、小鼓音の目はすいすいと泳ぐ。敬明は指でかみの毛をいじりながら、これはあきるまで放置するしかないと決めこむ。
他へと目をやれば、桜吹雪に胸が安らいでいく。いつまでたっても終わらない、子供状態の小鼓音へと声をかけてみる。
「んで、出かけたのはいいけど。今日はどこに行きたいの?」
「この一帯を
「じゃあ、てきとうに歩こうか。本が好きみたいだから、最初は図書館でいい?」
「本が好きというわけではないのです。単純に知識を詰め込むために、最適なだけですよ。アの興味があるのは自動車です」
しつこい部分は流して先を歩く。図書館につくと、小鼓音の動きが、きびんな早歩きに変化しだす。敬明は特に興味もないので、小鼓音を放置して適当にぶらついてみる。
指をくわえていた子供の時から、久しぶりに入ってみた。よくみれば、音楽CDが借りれるらしい。なにがあるか、一通り気になる歌手のものを探していく。
アーティスト名を流し見していると、いつの間にか小鼓音が横にいた。気配や足音もしないせいで、思わずスカートから覗いている足を確認してしまう。
「敬明、これを買いたいのですが。
「きんすって、ああ、お金ね。わかりにっく……。説明するけど、ここじゃ本は期限付きで借りれんの。あそこにカウンターがあるでしょ」
「ほう、それは素晴らしいですね。これから
「ちょい待って。いったい、どんだけ借りる気なの」
小鼓音が両手を前に出して抱えているだけで、一〇冊以上ありそうだ。ジャンルも見事にばらばら、どうも一般常識を学びたいらしい。みれば、小学生が読みそうな道路標識の図鑑まである。まさか、本気で免許を取る気だろうか。
歩いて受け付けカウンターまでいくと、司書の人間に言われてしまう。図書カードがなければ作るので、身分証明になるものをだしてくださいと。
小鼓音は身分証明どころかなにもない、どこにも住めない不法滞在者だ。新たな図書カード発行のために、敬明がしょうがなく学生証を手渡す。一生たりとも縁がないであろう場所で、人生初の図書カードを作成した。
とりあえず自宅へと引き返し、借りた本を部屋に置いてくる。敬明は歩くのが嫌になった。
置いてあった転車を引っ張り出す。スタンドを横にすると、後を指さして小鼓音に合図する。
「小鼓音、多少けつが痛いけど後ろ乗って。チャリで二ケツの方が、ここらへん回るの速いから」
二人乗り上等で道路交通違反をとがめる人間がいない。緩い人間と常識知らずに、怖いものはなかった。小鼓音は言われるがままに近づくと、おもむろに前へとまたがる。逆に後部へと片手をむけていく。
「アが
「いや、ちがうでしょ。女がこいで、男が後ろに乗るのはおかしいだろ」
「この乗り物は、
「ルールの問題じゃなくて、見た目がおかしいの。女に運転させるとか、かっこわりーじゃん」
自転車が発進するまで余計に時間がかかり、小鼓音のがんこな姿勢に敬明は心がおれた。もういいや、とりあえずやらせてみよう。
ためしに一〇メートル走らせてみるが、あんのじょう想像通りにすっ転ぶ。
「予想外でした、思いのほか難しいものですね。他の者は皆、慣れているようでしたが」
「こんくらいの、ちっさい子供でも乗れるから。まあ練習すればいけんじゃね?」
手を腰より下あたりで水平にさせて左右に振ると、小鼓音が信じられないものを見たかのような顔をする。余りの表情を見ていると、財布をすられたことに気づいた人のようだ。
「
「いいからはやく乗って。そのうちできるようになるから、大丈夫でしょ」
小鼓音の首をねこのようにつかむと、そのまま後ろへ乗せる。敬明は自転車をやる気なくこぎだした。
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