第三章 ゼスの受難④

 古びた地下鉄の線路の間を走り、先を行くミリがメルアの手を掴み立ち止まる。ロシリーがそれに追い付いた。

 線路の脇にはコンクリートの柱がいくつも並び、彼女たちは体を白く発光させながら、柱と柱の間に腰かけた。

 柱の影が、ロシリーたちの周りに伸びている。この現象は、単にロシリーたちがお互いの顔を見られるようにと光の力を使っただけのことだ。

「すまない」第一声を放ったのはロシリーだった。

「メルアたちに合わせろと、ゼス殿に耳打ちしたのは私なのだ。二人の間で、ゼス殿を受け入れられない事情があったようだな……」

「そりゃそうだよ」とミリが微かな笑みを見せた。

 その横で、メルアは涙声を漏らしている。メルアの頭をミリは大事そうに抱き止め、

「アタシたち、ゼスと戦いたくないもん」

「ゼスと敵対するなんてわたしには無理だわ。かといって、彼がここにいる理由も納得できないの」

 メルアが泣きながらそう口にした。

「ゼス殿と一緒に戦いたくもないのか?」ロシリーの問いに、ミリが答える。

「あいつ、ゲノフでの数少ない思い出の象徴みたいなもんだからさ……。ゼスって言ったらゲノフの聖典を担う者……。そこにアタシたちは救われたりしたんだもん。あいつがここでアタシたちと共闘して、その思い出のあるゲノフを破壊するだなんて、ちょっと酷な話だなって……」

 ミリたちの間では、それほどゼスを戦いに巻き込みたくなかったのだろう。だがそれは、ロシリーも同じだった。これまで行動を共にすることが多かったゼスを相手にすることも、ゼスと過ごしたあの施設もろとも壊そうという思いも、ロシリーとしてもあまり考えたくはない結末だった。だからこそ、ゼスに伝えたいことがあった。そのことを今、ミリたちにも伝えたかった。

「確かに、ミリたちの気持ちは私も共感できる。ゼス殿との思い出、そしてゼス殿自身を不幸に追いやりたくはないのは私とて同じだ。だから私にはある考えがある」

「ある考え?」ミリが頭を傾げる。

「やはり、ゼス殿を蒼き翼に招いた方がいいと思うのだ」

「でもそれじゃあ、アタシたちとの思い出は……」とミリが言いかけたところで彼女ははっと目を見開いた。

「大切な思い出は誰にでもある……」

 ロシリーは優しく言って、ミリの頭を腕で包んだ。

「だが、現実はいつも変化している。これからもずっと、私たちが私たちでいられるかどうかもわからない。それは、この世界も同じだ。私たちが大切にしてきた日常も時として、変化せざるを得ない状況になる。それが今なのだ。私たちは蒼き翼で戦うことを決意した。そしてゼス殿はその間で選択を迫られている。私たちが私たちでいられるためには、ゼス殿と共に戦うしかないのではないか? 世界が変化し、私たちの立場が変化しようとも、変えてはいけないものがある。それは思い出などではない。心に抱く強き意思――。誰かを、ゼス殿を思う大切な心だ。友情や優しさ、絆、それらを思い実行していく強い意思……。それがゼス殿と共に私たちが守るべきもの」

 そっか……、とミリは納得したように言った。メルアも涙目でロシリーの話を聞いていた。

「ありがとう、ロシリー。そうだよね。アタシたちにはかけがえのないものがある。だから戦うんだ……」

「そうよね。わたしもいつまでも泣いてはいられない……わたしからも礼を言うわ」

 三人は互いに体を寄せ合い抱きしめあった。一つの丸い塊がそこにできた。それぞれの思いを凝縮したような心の飛礫が暗闇で光を放つ。それはまるで大宇宙に煌々と輝く星のようでもあった。


 ゼスはミリたちから離れた柱の裏で、彼女たちの話に聞き入っていた。

 新たな人類の象徴として、彼女たちニューエイジの存在があった。

 しかし、涙をこぼし、恐怖におののき、そして意を決する様は、普通の人間のそれと大差ない。

 ――一体神は、ニューエイジに何を見出だそうとしたのだ……。

 ロシリーたちが、ニューエイジが本来の意図をその行動で示さなければならない、いわば人間の完全さを求めた形であるなら、なぜ、そんな未熟とも言える心の表れを備えさせたのか、深く疑問に思えることだった。

 ――いや、しかし、彼女たちの言うことはまともで、純粋で、美しいものだと思う。私はその気持ちに答えられるだろうか……。

 思い、ゼスは痣をテーピングした首元に、手を添えた。

 ――今の私に何ができるか。もう少しここの様子を窺う必要がありそうだな。  


 その後、ゼスはロシリーと行動を共にした。

 ロシリーからは、この基地の住人と顔を会わせてほしいと言われ、彼女の後ろを付いていく。

 構内の居住区にまでやってきた。

 地下五階それぞれの層の至るところにそれは存在した。戦争以前、商店街だった場所を再利用して作られた住宅街だ。 ここはその一角。天井近くには、ロープが引かれ、洗濯物が干してある。

 色とりどりの野菜や果物を頬張る子供たち。道端で体を寄せ合いながら、耳元で囁き合う恋人たち、中央の吹き抜けの際で肩を寄り添う高齢の男女。作業着のようなものを着て溌剌とした声で言葉を交わす男性たちや、それに混ざって、張り切った声を出す女性たちもいる。

 地上の世界では滅多にお目にかかれない光景だ。滅多に、というより、住人たちの暮らしに目をくれてやる暇もなく、ただ騎士の仕事に奔走していただけだったような気もする。

 ロシリーの隣を歩きながら、先ほど耳にしたロシリーの言葉がふいに思い起こされる。

 ……人として当然の権利だ……。

 ――当然の権利か……。居住区の様子からも言えることだが、この穏やかな有りようが当然の権利とするなら、私も考えを改めなければならないということだろうか……。

 とある店跡のエントランス部分に、ロシリーとゼスは顔を覗かせた。子供たちが数人駆け出してきた。その後ろで、中年男性が声を張り上げる。

「食事までには戻ってくるんだぞ!」

 そこで、ゼスたちと顔を見合わせた。

「ダバック司令……、今お時間ありますか?」

 ロシリーが恐る恐る申し出た。

 ダバックというその男は、銀髪を前髪もろとも後ろへひとまとめに結んでいた。鋭く見据えるような両目だったが、敵意はないように感じられる。ロシリーへと向けられる視線は少なくとも、ゼスには穏やかなものに映った。

「大丈夫だ。そちらの方は?」

 とダバックの目がゼスに向けられた途端、鋭さは増した。

 閉口したまま、その鋭利さにゼスは何も言えずにいた。

 しかし服装はというと、司令官にあるはずの威厳さはなかった。ダークグレイのティーシャツにハーフパンツ姿は、休日を謳歌する中年男性に見えなくもない。

「あんた、ちょっとシーツ干すの手伝ってくんない?」

 奥から声がした。言いながら出てきたのは、髪を後ろで丸く結った中年の女性だった。どうやら夫婦のようで、身なりはダバックと同じくラフだった。

「おや、ロシリー、どうしたんだい?」

「お疲れ様です、ネークルさん……」

 ゼスとロシリーは屋内に入り、夫婦に会釈すると、ロシリーがゼスに改めて紹介した。

「このお二方は、蒼き翼を束ねる立場であられる、ネークルさんと、ダバックさんだ」

 よろしく、と笑顔で手を差し伸べたのはネークルだった。ゼスは名乗ってから握手に応じる。

「君がゼスくんか……」

 と傍らにいたダバックが、訝しげに言う。握手を求めず、距離を置くダバックに、ゼスは違和感を抱く。

「どうかしましたか……?」

 ゼスが言うと、背後から一際声のトーンを大きくして近づいてくる人の気配を感じた。

 振り向くと子供たちを引き連れた、十代後半と見られる、赤い髪の青年がいた。どうやら声は彼のものらしい。青年は子供たちと和気あいあいと会話している。転ばないよう促したり、冗談を言ったり……。面倒見のいい親分肌という感じだった。

 ところが、室内にいたゼスたちに気づいた青年は、急に喋るのをやめ、ゼスへ足早に近づき、顔面を殴打した。

「ナイル、止めなさい!」

 ロシリーが制止に入る。ネークルとダバックも取り押さえるが、ナイルというその青年はゼスに向かって怒鳴り散らした。

「お前みてえな奴がなんでここにいる! 俺たちの同胞を殺したお前が、なぜ!」

 怒りを納めることのないナイルを見ながら、殴られた頬を抑えるゼス。

「俺たちに挨拶する前に、お前にはやることがあんだろうが!」

 ゼスは突然殴られたことに狼狽しつつ、この青年が何を言おうとしているのか頭で整理した。

 ここ数日、葬ってきた怪物たち。それ以前の状態は普通の人間だった。幼い子供を死なせてしまったこともある。そして恋人同士だった者も……。彼らがナイルの知っている人々だったなら、ナイルの激昂も納得がいく。

 口から血が出、手で止血しようとしている現状、無理に謝罪しても口がうまく回らず相手をさらに怒らせてしまうだろう。

 どうしようもない状況に、ゼスは何も動けなかった。

 ダバックがナイルの手を彼の腰の後ろで掴みながら、

「私も気になっていたんだ……。君の顔は上で何度か見かけたからね。タイミングが悪かった。このナイルくんという青年は、ここでは慕われていてね。最近、怪物の騒ぎが起きるようになってから、立て続けに彼と親しい人間がゲノフによって殺された。殺した人物、それがゼスくん、君だった。握手する前に、一度ロシリーくんと聖域に行ってくれないか」

 ダバックはそう言うと、視線を動かし、ロシリーに合図した。

 ロシリーは頷くと、ゼスの手首を引っ張ってその場を去った。

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