第二章 チームメイト④
「雲の上の神様は何をお考えか……。私は見たんだ。あの頭上を埋め尽くす雲が晴れ、そこから大きな目玉が地上を見下ろしていたのを……」
少年が老人の腕を掴み支えながら、立ち上がった。
「爺ちゃんの見た夢だって言うんだ……」「夢?」とミリは聞いた。
「最近そればっかり言うから……、あ、あとそれと……」
少年は少々気恥ずかしそうに、
「最近テレビの映りが悪いときがあるんだ。しょっちゅうザーッてなる」
「そうですか。担当者に伝えておきます」
ミリは優しく言った。
雲の上にある空中都市から送られてくる電波によって、ゲノフタワーに住む人間や一部の裕福な住民たちは、テレビを観ることができた。それも親しい間柄のある人間が、テレビのある家に集まって観るのが常で、この時代の娯楽も、そうしたものが主だった。少年が老人に向かって声を張り上げる。
「ほら爺ちゃん行くよ!」
その親子は、ゆっくりとミリから離れ、ビルの陰へと消えていった。
「大きな目玉ねえ……」
横からメルアの声がした。
「年老いても豊かな想像力をお持ちなのね」
夫婦の対応を終えたメルアが、ミリに近寄ってきた。ミリは息を深めに吐いて、
「はいっ。今日はこれで終わりっ! ……それでさ、あたし一つ気付いたことがあるんだけど……」
メルアの視線がミリに向けられ、
「ロシリー、ゼスとお互いに“殿”って呼びあってるでしょ? 二人はどういったご関係なんだろうね?」
メルアは胸の前で腕を組み、宙に目を向けつつ、
「何か聞いた話だと、ロシリーから言い出したみたい……。定時を越えてからの巡回はゼスからの提案だったみたいで今も続けてるでしょ? 残業といってもそれくらいだけど、ロシリーはゼスのそんなやる気を尊敬しているから、そう呼び合ってるんじゃない?」
「残業で敬うの?」ミリが苦笑する。
「ゼスはそうやって頑張ることで、恩に報いたいんじゃないかしら。わたしとミリからチームに誘ってくれたっていう恩に。あるいは働く機会を与えてくださった神に。多く動いた分、少なからず誰かの命が救われるかもしれない。わたしたちの職業柄、そういう風に動くことで、少しでも誰かのためになるのだとゼスは思ってる。それに、ロシリー自身も自分の退屈な時間をそれに費やすことができるっていう、そんな利害関係があるんじゃないかしら……」
ふうん、とミリはどことなく納得したようだった。
ゼスの一日はまだ終わらない。
夕食後に、メルアの様子を探らなければならず、目立たないよう黒い衣服を着て、タワー前の物陰に隠れメルアが出てくるのを待った。
漆黒の闇の中で、対象者を捉えるために、任務で使うゴーグルを装着する。フードを目深に被り、じっと闇の中で身を潜める。
しばらくしてメルアが入り口から出てきた。黒色の長い髪を後ろで結った姿は相変わらずで、肩からは大きめのバッグをかけている。
ゼスに背を向けて歩き出すメルア。車やバイクを使わず、どこへ行こうというのか。ゼスは彼女の正体が一体何か、もしか、反ゲノフ団体の人間として活動していたのなら、この手でメルアを抑えることになるのか、と緊張感をもって尾行を開始した。
暗黒の街の中を歩く。
時折、振り向いたりするメルアの挙動に驚かされたが、ビルの影に隠れたりなどしてやり過ごす。
やがてマンションの立ち並ぶ地域に入っていった。
階段を登っていくメルアを見届けてから、彼女の話し声が聞こえるよう、一階の階段手前で耳を済ました。
上の方で二、三度ノックの音が聞こえると、メルアは滑舌よく、
「神の御使いとして、食料をお持ちしました」
メルアの肩から下げた袋の中に、個形状の食料でも入っていたのだろうか。
神の御使いと言うからに、現体制に反発する側の人間ではないようだ。むしろ神の使いを名乗り、人々の救済に勤しんでいる……。
扉の閉まる音がして、階段を降りてくる足音が聞こえてきた。
危うい状況だったが、ゼスは暗闇の中へと姿を隠した。
今日はここまでにしよう、と見切りをつけ寮に戻った。
昼間の怪物化や、暴徒の相手をして疲れがどっと出たようだ。
ベッドに沈むや否や、体を散々酷使していたことに気づく。
狭い自室で明かりをつけたまま、自然と瞼が閉じられた。
目の奥で甦るのは、昼間の出来事だった。
盾を構えて横に並ぶ騎士たち。
その横にいたミリ。の、胸の膨らみが目の奥から湧いて出てきた。
ストレッチメタルで作られた紺色のスーツを身に纏い、その下から伸びるしなやかなメルアの脚のシルエット。
ロシリーの腹部の柔らかさ、背中の感触……。
「素晴らしい……」
と呟きながら、ゼスは起き上がった。 欲に駆られ、ジャンパーを着ると外へ出た。
真夜中の町はひっそりと静まり返っている。砂ぼこりにまみれたビル群の下を足早に歩く。
タワーから少し離れた場所に、古いシェルターがあった。
昔は地下鉄が通っていたというが、先の戦争でシェルターとして改築されたらしい。
階段を静かに降り、真っ暗なホームに出る。
明かりも、人の気配もない。
時々こうして、ゼスは人目につかない場所にまで行き、あることをした。
他にもやる方法はあり、ゼスもそのやり方で処理していた時もあったが、今は腹式呼吸で息を吸い、
「ミリのパイ乙ー!」
と叫ぶことで慰めとしていた。
「柔らかふかふかー!」「さわりたいけどさわれないサタデナイ!」「メルアの脚ー!脚線美ー!」「舐めまわしたあああい!」「ペロペロペローリー!」「ロシリーのお腹ー!」「ムニムニお腹ー!」「マルニアの唇ー!」「ブチュブチュブチュチュー!」
そんな下世話な思いを声にして表した劣情はしばらく続いた。
叫び続けたゼスは、背を丸め息を切らした。
性的欲求を満たす娯楽も、この時代制限されていた。制限というより皆無に等しい。ゼスはそういう衝動こそあれ、ことに及ぶことを、信仰心から恐れていた。
地下鉄のホームの床に這いつくばるゼス。
――いくら信仰心とはいえ、生殖機能に関わる部分にまで制限がなされているとなると、かなりの不自由さを感じてしまうな……。
――人間てのはめんどくせえ生き物でやすねえ、旦那?
――また出てきたか、ウイルス野郎……。
――ウイルス野郎だなんてやめてくだせえ。あっしにはちゃんと『デザ』って名があるでやす。
――デザ……か。
――いいネーミングセンスでありやしょう?
――その名前のセンスがいいかどうかは別として。この首周りの痣、何とかならないか?
――あっしのことは隠しておこうってこってすね?
――当たり前だ。でなきゃ、ゲノフの医療施設に行く羽目になる。
――そこで何されるんでやす?
――副作用の強い薬を打たれるんだ。お前にもリスクがあると思うが?
――なるほど……痛いのは勘弁でやすが、残念なことにそれを体の内側から消すことは不可能でさあ。あっしらウイルスがいるっていう証とおんなじでやすから。人間がどこかに住むとき、屋内にその家独特の臭いが付いちまうのと同じもんでやして……。
――お前自体がめんどくさいと思うんだがな……。
――しいやせん。もしバレることがあったら、そん時は相手が誰であろうと戦うしかねえでやす。あっしにできることと言ったらそれくらいでやすから。んじゃ。
言ったきり、デザの声を聞かなくなった。
ふう、と嘆息の一つでもついてみる。ゼスの頭の中は、再び事後のことに及んでいた。
馬鹿げた行為だった。同僚たちを結局そんな目で見ていたという自分の欲にゼスは嫌気がさした。
――私自身そういう機能を失ってしまったというのもある……。
日に日に溜まっていくストレスや疲れ。若いときはそれこそ股座の悪魔の角を取り出しことに当たったものだが、そんな行いすら、彼女たちに申し訳なく思えてしまうのは、少々堅物が過ぎるだろうか。
男なら当然考えることではあるものの、ひと気のない場所でこうして声にして吐き出すことしかできないのも、ゼスが男としての本来の役割を失ったからである。
「そういうのは密かにやるものさ。よければ隠し溜めしてる画像、君の端末に送ってやってもいいけど?」
レックスは以前、そう言っていた。その時は断ったが、ということは、皆そういうことを禁止されているにもかかわらず、人目につかないところでやっているということか。
そもそもそこにまで規制が及ぶと子孫が残せないのではないか? 神の考えていることはよくわからない。それも神が故だからだろうか。
――マルニアの説教にも、違和感を覚えるときがあるんだよな……。
彼女の説教を聞いていると、欲望そのものの否定をしているように聞こえる。この街へ赴任してから半年。ゼスは組織という人間の集まりに矛盾を抱き始めていた。
さほど極端な反感を抱かずとも、結果的にはこうした行為が、ゼスの中のもやもやをほぼ解消させた。
こうして処理ができるからこそ、何とかなっているというのもあるのだろう。
「素晴らしい……」
と、ゼスはかすれ声で呟き、寮へと帰っていった。
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