第7話 変人セカンド 鎌田実「監督、時間ですので・・」

鎌田は日本で初めてバックトス(手に握り返さず、捕ったグローブでトスする)を導入した選手として知られています。阪神時代はショートに優秀な吉田がいましたが、観客が多く、ミスすると野次のきつい(当時)フアンがどう云うやらで、封じてきました。

近鉄移籍後、「これで自由にバックトスが使える」と思ったが、いきなり遊撃手がボールを捕れずにエラー。翌1968年から監督を務めた三原脩からは「バックトスを使うな」と厳命された。納得できぬ鎌田は「なぜバックトスを使ってはいけないのか」と、大監督である三原に食って掛かった。「他の野手のレベルが低く、鎌田のバックトスに対応できなかったから」と諭そうとする三原に対し、「それは他の内野手の問題で、私のバックトスに問題があるわけではない。むしろ、併殺の可能性が高まるので、バックトスは積極的にするべきだ」とさらに反論。三原は「私も昔バックトスをやろうとしたができなかった」などと話をうやむやにするしかなかったという。その後はバックトスを封印していたが、一度だけバックトスを行い、サヨナラ負けのピンチを救った。これ以降、三原は鎌田に対し「先輩」というあだ名で呼ぶようになったという。


打撃は時たま高めの糞ボールを大根切りでライト前に飛ばし、思わぬところで勝利に貢献することもありましたが、概ね2割3分ぐらいの打率でした。足もそう速くありませんでした。センター前ヒット!と思った瞬間スルスルと鎌田が、どれだけ守備で貢献したでしょう。職人肌と云われましたが、僕は『守備の天才』という名前が彼にふさわしいと思います。


さて変人の変人たるゆえんを語らねばなりません。

近鉄で三原監督の時代、試合途中です。「監督、時間ですので、ぼくこれから帰ります。代わりの選手おねがいします」。三原監督目を白黒させて「なんでや?」

「今からいかんと明日の西鉄との試合に間に合わないんです」

移動は試合のない日にするのですが、連戦で遠方の時は試合終了後や、ナイターのときは当日朝に飛行機を使います。西鉄は九州博多にありました。

鎌田選手は飛行機の移動が大の苦手で、次の試合に出るためには夜行列車で移動しなければならなかったのです。「我がままは許さん。飛行機で行け」と三原監督が云うと「それなら、僕、野球をやめます」と云って、三原は仕方なく許したという話は本当です。


阪神在籍10年、1967年に近鉄に移籍し3年、普通そのまま引退していくのですが、1970年阪神に出戻ってきました。なんとその年、2割9分で彼の最高打率を残しているのです。打てない鎌田が打てるようになって帰って来たのには驚きました。通算16年、1041安打、生涯打率 .234 。ゴールデングローブ賞がなかった時代、守備の記録は残りません。引退後は解説者を長くつとめました。静かに語る、分析された解説が私は好きでした。現在はある大学の監督をしているそうです。

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