第6話 『蝶が舞う、蜂が刺すと言われた吉田義男』

阪神の遊撃手・吉田義男、二塁手・鎌田実との二三遊間はまさに鉄壁で、「日本球界最高の守備陣」といわれ「試合前のシートノックだけで金が取れる」と評された。普通、テレビ観戦中用があって立つときは、応援球団の守備の時立って、攻撃を見ようとしますね。鉄壁の内野陣の時代、僕は反対でした。内野にゴロが飛び、彼らのプレーを見逃したくなかったのです。 1960年代の時代、阪神は2度優勝しています。それ以外は巨人と競って2位か3位でした。一度目は小山、村山で2度目は村山、バッキーでいずれも投手力で勝っています。それを支えたのが鉄壁の内野陣でした。 ダイナマイト打線と謳われた攻撃陣も、藤村なきあとの4番不在に悩みました。エース小山を出して、毎日の山内を取ったぐらいです。小山は400勝投手金田に次ぐ勝ち星を挙げています。ことさように、守備型のチームでした。 『ショート 牛若丸 吉田義男』 今牛若丸と称され、華麗かつ堅実な守備で知られた守備の達人であった。 引退後は3度にわたって阪神の監督を務めた。2013年現在、阪神を日本一に導き、そして阪神の監督を3度経験した唯一の人物である。 小さな躰で、華麗で俊敏な遊撃守備は、「捕るが早いか投げるが早いか」「蝶が舞い蜂が刺す」などの賞賛をうけ、その身のこなしから「今牛若丸」と呼ばれました。 ゴールデングラブ賞がない当時、遊撃手や捕手についてはベストナインがゴールデングラブ賞の代わりとなっていましたが、吉田は9度も受賞しているのです。長嶋と三遊間を組んだ名手広岡は吉田の前に1度しか取れていません。 その広岡がこう語っています。《自分も含めて殆どの内野手は取ってなんぼ、アウトにしてなんぼ」のレベルだが、吉田は「取ってアウトは当たり前、見せてなんぼ」の選手だった》と。これで吉田のショートの守備ぶりが分かろうというものです。打ってはあの金田正一に「顔も見たくない」と言わしめました。走っては近年の赤星に抜かれるまで球団の盗塁記録保持者でした。背番号23は永久欠番になっています。 掛布、バース、岡田の強力打線で球団初の日本一になりながら、翌年は最下位になっています。現役の華々しさと比べて、監督時代の吉田は評価が分かれるところです。選手やコーチとも軋轢を起こしています。 それを語る野村の講演での話があります。当時野村はほされて不遇の時代で、講演活動をもっぱらにしていました。それを私は聞く機会があったのです。 吉田は何故嫌われるか?それはケチだからというのです。そのケチぶりとして、当時〈ヒゲ辻〉と呼ばれた捕手出身のコーチがいました。甲子園で試合が終わると、「一緒に帰ろうか?」と吉田が声をかけます。帰る方向が同じなのです。タクシーに乗ります。辻の家は吉田の先にあります。吉田は先に降ります。「吉田にはタクシー代を払って貰ったことは一度もない」と辻は語ったそうです。それ以外にもケチぶりが語られました。面白おかしく語る講師野村のことですから信憑の程は定かではありません。 未だ野球が定着していなかった、オランダに指導者として出かけ「ムッシュ」と呼ばれたり、天然ボケの解説でその人格はまろやかになられているようです。吉田はライバル広岡のことをこう語っています。「現役時代は私のほうが上だと言ってもらえることが多かったが、監督としては足元にも及ばない」と語っています。ただし、阪神が日本一になった1985年の日本シリーズは広岡の率いる西武でありました。

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