第2話 ミスタータイガース・『男の涙、ザトペック村山』
昭和34年、天皇陛下が初めて球場でプロ野球を見られるという天覧試合が行われた。ここで、かの有名なシーンが登場する。4対4で迎えた9回裏、阪神のピッチャーは、小山をリリーフしたこの年の新人ザトペック投法の村山。村山の速球、振り切った長島の打球、レフトポールを巻く。審判の手はグルグルと回る。判定はホームラン!サヨナラホームランとなる。がっくりと膝をつく村山。ちなみに村山はこの年、18勝10敗、防御率1.19の活躍で新人ながら沢村賞を受賞した。 闘志むき出しで全身を使ったピッチングは、「人間機関車」と呼ばれた陸上競技選手のエミール・ザトペックに例えられ、村山のピッチングは「ザトペック投法」と呼ばれた。勝負球はフォークボールであった。生涯のライバルを長嶋茂雄とした熱血漢も監督時代は成績に恵まれなかった。ただ、1970年、選手兼任監督に就任した初年度2位 77勝49敗4分で巨人を最後まで追い上げ、2ゲーム差で涙をのんだ。川上監督をして「敵ながらあっぱれ」と言わしめた。藤村にしてもこの村山にしても、単に現役生活を短くしただけだった。 投手としての成績は14勝3敗。防御率0.98であった。生涯成績通算222勝で、通算防御率2.09はセ・リーグ記録でもある。背番号11は永久欠番である。1998年61才で亡くなっている。 僕が一番印象に残っているのは、阪神が大洋と優勝を争った(藤本定義監督の元、阪神が優勝)時でした。川崎球場で大洋に2連勝、1日おいて甲子園でダブルヘッダーの2連戦。大洋は最終試合でこれに一つ勝てば優勝でした。当然1戦目の先発は村山と予想されていましたが、前日に奥さんが自殺したのでした。先発は無理と誰もが思ったものでした。当日学校を早引けして甲子園に来ていた僕もそう思いました。先発メンバーが発表されました。ピッチャー村山でした。その玉の速いこと、速いこと。一球入魂とはあのことを云うのだと思います。さすがに、監督は5回で替えました。2戦目も大洋は2-1で負け、阪神は残り試合を全勝し最終戦で優勝を決めました。大洋の三原監督は「死に馬に蹴られた」と悔しがったそうです。
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