哀しきタイガース(選手編)

北風 嵐

第1話 初代ミスタータイガース・物干し竿の藤村富美男

今や、阪神タイガースの人気は巨人を凌いでいる。成績では凌げないが・・・。 妻が言った。「あんな弱いタイガースのどこがよいの?」 僕は答えた。「うるさい、お前より付き合いが古いんじゃ!」 僕は「愛したものは変えない主義だ」と云ったつもりだったのに、 妻は「私は、あかんたれの阪神以下と云われた」と受け取った。 それから1週間、口も聞いてくれなかった。前から欲しいと云っていた洋服を買ってあげて、やっと口をきいてくれた。魅力的な妻以上に「愛しき」阪神タイガースの魅力は何と言っても、歴史を飾る名選手?迷選手たちの魅力につきるのである。 『佐々木小次郎か、藤村富美男かと云われた物干し竿でホームラン!』 ミスターと云う呼び名は長嶋茂雄に初めて使われた?違うのです。 初めてこの呼称を貰ったのは初代ミスタータイガース、藤村富美男でした。 旧制中学校を卒業して入団した彼は、今の大谷の騒ぎでなかった。入ってすぐ、投げてよし、打ってよしの二刀流だった。1936年、プロ野球リーグが開幕。開幕投手として登板するや1安打完封勝利、初の東京巨人軍との試合ではリリーフながら、巨人戦に勝利投手となり、タイガースにとって対巨人戦初の勝利投手となった。好成績を収める傍ら、内野手不足となったチームの穴を埋めるため、内野手としても出場し、同年秋季には、投手ということもあって規定打席に不足ながら初代本塁打王に輝いたというから驚きである。 戦後初めて、リーグ戦が再開した1946年には監督を兼任し、5番に座り、打率.323を記録する傍ら、戦後の投手不足のため投手としても登板しこの年、13勝2敗、サードからウォーミングアップもろくにせずリリーフ登板し、リリーフだけなら8勝0敗の成績を残している。 1948年からは、『打撃の神様』と云われた赤バットの川上哲治、『天才ホームランバッター』青バットの大下弘らに対抗すべく、通常の選手のそれよりも長い「物干し竿」と呼ばれた37~38インチの長尺バットを用いて本塁打を量産した。この年日本プロ野球初の年間100打点も記録した。1949年には187安打、46本塁打、142打点と主要三部門のシーズン日本記録を一度に更新するという驚異的な記録を残す。惜しくも首位打者は小鶴誠に譲り三冠王にはなれなかった。 川上、大下とともに、戦後まもないプロ野球の隆盛をまねいた最大の功労者の一人と云えるであろう。また、監督兼任時代「ピンチヒッター、俺」と審判に告げて、代打サヨナラ満塁ホームランを打ったという話は有名である。 かかる名選手なのに球団は監督を解任し、一選手に戻した。2軍をへて出場したが、衰えはどうしょうもなく、結局26打数3安打、シングルヒットが3本の打率1割1分5厘で同年引退した。監督解任は、監督兼4番としてワンマン、人気取りのスタンドプレーと選手たちから見られ、監督排斥騒動を起こした責任を取らされたとされている。この騒動のせいで監督無能と見られているが、水原巨人が強かったので優勝こそ出来なかったが、監督4シーズンで勝率.583という成績を残していることをあえて付け加えておく。 一方、長嶋があらわれ、次の4番をバトンタッチして現役を引退し、コーチをへて監督に就任し、9連覇を果たした川上と比べるとき、阪神の「お家騒動」や「監督の短命」、「スター選手が最後汚される」という巨人とは違う、よくない風潮はここに最初の因があると思えて仕方ない。 生涯成績:首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回、シーズンMVP1回 投手として34勝11敗・防御率2.34。背番号10は永久欠番である。 私は、藤村の雄姿は見られなかった。見たのは、TV放送が始まった最後の2シーズンだけであった。

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