第14話 さとるの妖怪

 正直に言おう。おっかなくて足がすくんだんだ。小便をちびるほどの恐怖に身体が動かなかったんだ。その女の正体を見破ったからとか、誘惑に負けない心を持っていたからとか、そういう理由ではない。ぼくがあの女の、この世のものとは思われぬ美しい女の誘いに乗らなかったのは、ただ単にこわくてこわくて仕方がなかったんだ。


 それはついさっきの出来事だ。焚き火を前にぼくは座っていた。ふだんアウトドアからは程遠い生活をしているぼくが、こんな山の中で一人、焚き火を前に何をしているのかって? よくぞ聞いてくれた。ぼくもそれを疑問に思っていたところなんだ。最初はこんなことになるとは思ってもいなかった。山の奥深くに入る気もなかったし、暗くなるまで留まる気なんてさらさらなかった。


 ファミリー向けのハイキングコースをたどりながら、デジカメ片手に、使えそうなものが見つからないか物色していただけだ。何だっていいんだ。印象に残る景色でもいい。ヘンな形の植物なんかも大歓迎だ。次のゲームの背景や設定に使えそうな素材を探して写真を撮りまくっていた。そう。ぼくはゲームの作画を担当している。正確には作画もぼくの仕事の一部だ。ぼくらは小さなチームでゲームを作っている。


 昼前、谷間の向こうに大きな動物の姿を見かけて、ぼくはにわか動物カメラマンになってしまった。それは遠目に見てもちょっとびっくりするくらい大きくて、堂々としていて、頭にも立派な角が生えていた。一瞬で見えなくなってしまったけれど、恐らくヘラジカというやつなんだろう。あの立派なヘラジカをもう一度見つけて、今度こそカメラに収めたい。そう思ったあたりから何かが変わった。


 日没まであと少しというところで、ぼくは完全に道を失ってしまったことを悟った。夜に備えるなら明るさの残る今のうちだ。募る不安を胸に、とにかく危険な動物が寄ってこないように火を起こそうと思い付いた。枯れ枝を集め、焚き火をつくり、ただ空腹を覚えながら炎を見つめていた、その時のことだ。その女が不意に現れて焚き火の向こうからこっちに微笑みかけてきたのだ。


 女は美しかった。年はぼくと同じくらい。化粧などしていないように思われたが、ちょっとあり得ないくらい整った顔立ちだった。スタイルもよく、引き締まった体にムダは一切なかった。何を着ていたのか思い出せない。何も着ていなかったような気もするがそんな馬鹿なはずはないだろう。女はただ、何かを促すように微笑んで、森の奥へと誘っているようだった。ついていきたい、あの女の案内するところについていって、あの女と懇ろになりたい。そういう衝動に駆られる反面、恐怖がぼくをその場に縛り付けていた。こんな山奥でこんな時間にそんな女が存在するわけがなかったからだ。


「なるほど、それであんたは来なかったわけじゃ」

「たはあっ」ぼくは変な悲鳴を上げてしまった。焚き火の向こうに老人が腰掛けて話しかけてきた。いつの間に!?「だっだっだっ」

「無理にしゃべらんでもいい。だいたいのことはわかるから」

 化けもんだ。山の化けもんだ。さとるの妖怪だ。

「失敬なことをいわんで欲しい。この通りどこから見てもただの人間だ」

 嘘だ嘘だ嘘だ。人間なわけないじゃないか。その瞬間、天啓のようにひらめいた。そうだ。こいつらはあのヘラジカの一族に違いない。読んだことがある。そういう神々を。獣でありながら人であり、人でありながら獣でもある森の神々のことを。狩人たちを誘惑し、自分たちの世界に招き入れ、森のルールを人間たちに伝えたりするんだ。二つの姿を行ったり来たりできる。何といったか。確か世界地図の。


「それはメルカトル図法じゃな」

 メルカトル。それだ。

「いいや違う。人の名前じゃ。あんたが言いたいのはメ……」

 待て待て待て。あれだよあれ、ほらこの辺まで出てきている。

「メスカリンのことを言っておるな? それも違う」

 えっ? それじゃん。

「それは幻覚を引き起こす、サボテンに含まれている物質の名前じゃ」

 そうか。でもなんかそういう感じで。ああ! わかった。

「デスメタルではない。遠くなった」

 デ、じゃないんだ。メで始まるんだ。そうかそうか。ゲーテのほら、何て言ったか、悪魔みたいな。

「メフィストフェーレス。ちがう」

 たああ! メ、メ、メ。あれ? おれ喋ってないのになんで会話が続いてるんだ?

「ほらほら、さぼってるんじゃない」

 そうか。メ、メ、メ。何だっけ、あれ。メ……。

「メンソレータムはかゆいところに塗るやつだ」

「あ、わかったメルモちゃ……」

「手塚治虫のマンガじゃ。しかし近づいた」

「メル、メル、メル」

「メの次はタじゃ」

「メタル、メタン、メタム、メタモルフォーゼ!」

「ご名答!」


 これがきっかけで、ぼくは彼らの世界にしばらくやっかいになることになったのだ。


(「メタモルフォーゼ」ordered by はかせ-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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