第7話 対話

「手放すことだ」と、年老いたその生き物は言った。「わたしもいま手放すところだ」

「死んでしまうのですか」と飼育係の若者は尋ねる。「今晩、死んでしまうのですか」

「お前たちの言葉を借りれば」と1 世紀半も生きた生物はゆっくりを頭をもたげると若者を見つめる。「そういうことになる。死ぬ。今晩。しかし」

 そこで言葉を途切れさせたままぴくりとも動かなくなる。

「どうしました?」若者はびっくりする。死んでしまったんだろうか。まさか。こんな中途半端なところで? あわてて駆け寄ると鼻孔の前に手をかざす。「どうしました? まだでしょう? まさか、まだ死にませんよね」


 けれどゾウガメは首をもたげ、飼育係を見つめた姿勢のまま、もはや息をしていなかった。深夜の動物園のゾウガメ舎は静まり返っていて、ことりとも音がしなかった。いつもなら何かしら動物たちの気配が感じられるものだが、それもなかった。そのときになって若者はやっと、世の中はドラマのようにはできていない、死ぬときはあっけなく死ぬし、話している内容が途中だろうが何だろうが、中途半端だろうがオチがなかろうが、もうそれ以上何も出てこないと言うことがあるのだと悟る。ゾウガメの死を園に報告することよりも、若者にとってはその悟りの方が大きくて、大きすぎて茫然としてしまう。


 しばらくして飼育係は自分がゾウガメ舎の掃除をしていることに気づく。床をブラシで磨き、ガラス面を磨き上げ、エサ箱の中の古いものを捨て、新しいエサに入れ替え、ゾウガメがひなたぼっこをする時のための寝藁をあちこちにしつらえている。ゾウガメの大きな亀裂だらけの甲羅を磨こうとして初めて若者は我に返る。年老いた生き物はもうエサを食べることもないし、ひなたぼっこをすることもない。ゾウガメは死んでしまったのだ。手放すことについて何かを語ろうとしていた。それが何なのかはわからない。でもひとつだけ確かなことがある。若者はゾウガメと過ごす貴重な時間を永遠に手放してしまったのだ。


 はらはらと涙が流れ、作業着の胸元を濡らす。ずいぶんたってから若者は自分が泣いていることに気づく。しゃくり上げるでもなく、嗚咽を漏らすでもなく、ただ涙だけが驚くほどたくさん頬を伝って落ちる。「あー」とも「おー」ともつかぬロングトーンの低い声を出しているのに気づいたのもそのときだ。なんて泣き方をしているんだ、おれは。泣きながらおかしくなって笑ってしまいそうにも思う。


「何を泣いているんだ」

 そう聞かれて若者は答える。

「ゾウガメが死んでしまったんです」沈黙が訪れる。そして若者は気づく。「誰?」

 と若者が口にするのと同時にその声が語りかける。

「ゾウガメというのはわたしのことか」

「死んでなかったんですか?」

「むう」ゾウガメはゆっくりと首を振りながら返事をする。「死んでなかったようだ。悪いんだけど」


 ゾウガメとの哲学的な対話はまだ始まったばかりである。


(「手放す」ordered by オネエ-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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