第6話 アボカド記念日

「お名宛てはいかがいたしましょうか」

「“上”で結構です」

「“上様”で。かしこまりました。」

 ペンを走らせる彼女を見ながら、唐突に声をかけなきゃと思う。たったいま会ったばかりなのに、ずっと彼女に会いたかったとでもいうような、不思議な感覚に襲われる。いつものことだ。電車に乗るたび同じ車両の女性にたちまち恋をしてしまう。ぼくはそういう男だ。同じことを繰り返してしまう。

「あの……」

「はい」


     *     *     *


 仕事を上がる彼女を待って一緒に食事に行くことになる。ぼくのお気に入りのテックスメックスの店に連れていくと、彼女はタコスもメキシコ料理も大好きだという。トルティーヤチップスが山ほど運ばれてきて、ブリトーにナチョスにビーフエンチラーダス、それにベーコンとほうれん草のサラダ。彼女はドスエキスを頼み、ぼくはテカテを頼み、ボトルを軽く当てて乾杯する。アボカドが苦手だという彼女に、騙されたと思ってアボカドディップをひとくち試してみればと勧めると、ほんとだ、おいしい、と目を輝かす。アボカドデビューだね。ほんと、アボカド記念日。アボカド記念日おめでとう、乾杯。乾杯!


 こんな幸運なことがあるんだろうか。あまりにあっけなくあまりにすんなりと物事が進むので、かえって素直に喜べない。少し不安がある。いや。この不安はそれだけではない。幸運にたじろいでいるだけではない。この感じは何だろう。罠にはめられたような感じ? いやいや。彼女が何かたくらんでいるというのではない。こんなに気持ちよく微笑み、何でもない会話をとんでもなく楽しく感じさせてくれる。ではこの不安感は何だろう。何かを忘れているような。大事なことを何か忘れているような。ぼくの心の奥深くで小さく警報が鳴り続けている。


     *     *     *


「お客様? お客様?」

 思いがけず酔いが回っていたらしく、気がつくとレジの前で立ったまま意識が飛んでいたらしい。レジの女性に何度も声をかけられていたようだ。我に返るとぼくはあわてて言う。

「お、おいくらでしたっけ?」

 レジの女性が明るく微笑みながら金額を言う。かわいい。その微笑みにひきこまれそうになる。

「9450円になります」

「9450円」おやおや。一人で飲み食いしたにしては大きな金額だ。だから立ったまま眠るほど酔ってしまうんだ。心の中で苦笑いしながら1万円札を出す。「ろ、りょう、領収書をお願いします」

 言えてない。レジの彼女がまた笑う。バカにしているんじゃない。気持ちのいい微笑みだ。


「お名宛てはいかがいたしましょうか」

「“上”で結構です」

「“上様”で。かしこまりました」

 ペンを走らせる彼女を見ながら、唐突に声をかけなきゃと思う。たったいま会ったばかりなのに、ずっと彼女に会いたかったとでもいうような、不思議な感覚に襲われる。いつものことだ。電車に乗るたび同じ車両の女性にたちまち恋をしてしまう。ぼくはそういう男だ。同じことを繰り返してしまう。


(「領収書」ordered by kyouko-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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