第2話 瓦礫の夏
階段のところに腰掛けて、麦わら帽子の少年は草笛を吹いていた。
風に乗って草笛の音が流れる。暑い夏の日のうだるような熱気の中、その調べだけがすいすいと軽やかに駆け抜けていく。少年の座っている階段はもともと大きな建物の正面階段だった。いまその建物は正面の一部分だけを残してあとは完全に瓦礫の山となっている。階段を上りきったところに石造りの壁面が二階の高さぐらいまで残っているが、ぽっかりあいた入り口や窓からは夏の青空が見えている。壁一枚だけが立っている。向こうには何もないのだ。
君は荷物を下ろしてその場に立ち止まる。かつて賑やかな通りだったらしいその場所に。焼けこげのにおい、多くの建物が崩壊したため街全体を覆っているほこりくさいにおいにまざり、腐り始めた遺体のにおいがする。何日もろくに食べておらず腹ぺこのはずだが食欲もない。久しぶりにぐっすり寝たはずなのに疲労が去らない。何かを目指しているはずなのに、それがどこなのかわからない。自分がどこから来てどこへ行こうとしているのか、そもそも何者なのか、何もわからない。
「教えてくれないか」麦わら帽子の少年に声をかける。少年はちらと視線を送って寄越すが、草笛を吹くのをやめようとしない。変わらぬ様子で同じ曲を繰り返し吹いている。でもそれを見て特に腹が立つわけでもない。そういうものだ、と君は思っている。きっと君はここではよそ者で、それも取るに足らないよそ者で、いちいち相手なんかしていられないのだろう。根気よく、答えてもらえるまで、何度でも頼むしかあるまい。「ここがどこか教えてくれ」
少年は立ち上がり、草笛を吹きながら階段を、とんとんと下りてきて、階段下に立つ君よりも二段ほど上で立ち止まり、不意に右脚を高く上げると君の胸を蹴る。悪意を込めたという風でもない。力任せという風でもない。ただ軽くぽーんと、突き放すように君の胸を蹴る。君は笑ってしまうくらいあっけなくもんどりうって後ろに倒れる。背負っていた背嚢のおかげで頭こそ打たなかったが、その代わり背筋を何か固いものに押しつけて痛めてしまう。
石畳の上にあお向けになった君の目に、夏空がただいやになるほどまぶしく、その青の手前を煙が流れていく。町を焼いた煙が幾筋も。いまは炭になった街路樹の枝先が見える。そのとき不意に思い出す。君はもちろん兵隊で、命じられるまま戦場に赴いて、命じられるまま戦ってきたことを。とりわけ優秀でも勇猛でもなかったが、正確な射撃で敵兵を倒し、忠実に役目を果たすことで戦友の信頼を得、何よりも生き延びて、生き延びて、最後の最後まで兵力として文字通り死力を尽くしてきたのだった。
自分はよき兵士だった。と君は思う。ずば抜けて、とは言わないが、部下にひとりはいて欲しいと思われるような信頼のおけるいい兵士だったと。そしていま君は夏空の下、少年に蹴り倒されてあお向けに横たわっている。怒りも憎しみもない軽いひと蹴りで横転している。ひっくり返された亀よろしく、起きあがれずにいる。そのとき停まっていた草笛が鳴り始め、その痛切な音に君は頭をもたげる。少年はしゃくり上げ涙を流しながら、でも表情のない目つきで草笛を吹き続けている。それを見て君も涙を流す。
たくさんのものが失われてしまったんだ。たくさんの。あまりにもたくさんのものが。そしてその時になって初めて君は気がつく。その街がよく知った街だったことを。子どものころから住み慣れた街だったことを。その建物も、その石畳も、その通りも、その街路樹も、その夏空も、そのメロディーも、その草笛の吹き方も。気がつくと麦わら帽子の少年はもういない。少年はもう、君の中に帰ってきたのだ。
(「麦わら帽子の少年」ordered by オネエ-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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