Sudden Fiction Project②胎内回帰編

高階經啓@J_for_Joker

第1話 頂上より

 ハローハロー聞こえるかい? ぼくだよ。そっちの声は残念ながら聞こえない。ここはね、意外と天気がいい。ぼくの真上には青空が広がっている。青空と言うよりも宇宙と呼びたいような怖いような深い濃紺の空だ。ぼくは世界でいちばん高いところにいて、ぼくより上には何もない。これは気分のいいものだ。足元のほとんどは雲に閉ざされて何も見えない。いくつか見えるのはローツェとカンチェンジュンガ、頂上からはチョーオユーも見えた。


 さっきは君の声がはっきり聞こえたよ。日本とネパールで話しているとは思えないくらいクリアに聞こえた。ちょっとタイムラグがあるのがそれっぽくておかしかったね。大したもんだ、衛星通信というのは。確かに、うん、ここまでくると人工衛星の方がどんな電話会社の基地局よりも身近に思えるよ。手を伸ばせば触れるくらいさ。ほらすぐそこの人工衛星にならぶら下がれるかもしれない。冗談だけどね。


 うん。酸素はもう最後の分がちょっと前になくなっちゃった。けどね、ぼくの頭はびっくりするくらい冴え渡っているよ。いま君がぼくをどのくらい欲しがっているかわかるくらいだ。いまぼくがどのくらい君を欲しがっているかに比べるとちょっと足りないけどね。いまここに君がいたらマイナス40度でも関係なしに全部ひんむいて愛し合ってしまうと思うよ。ああ。こんなことを言っちゃいけないね。お腹の中にいる、ぼくたちのかわいい6カ月のベイビーの前で。


 君の腕の中にやっぱりケンタはいるのかい。ケンタに会いたいよ。あいつの笑顔をまた見たいよ。ぼくの顔を見て笑うんだぜ。ぼくがただ顔を近づけただけでニヤリってさ。とんでもなく嬉しい人に思いがけず会ったみたいにニヤリってさ。あんな笑顔で笑われたことあるかい? 人生を通じてさ。あんなに無防備で開けっぴろげな笑いで認められたことがさ。あなたに会えて良かった、こんなに嬉しいことはないって。


 食糧のことを聞いてたっけ、さっき? 幸いなことに食糧はある。まだ数日分。でもね。水がないんだ。こんなに雪と氷が沢山あるのにね、冗談みたいだろう? でも残念ながら冷たすぎて水にはなってくれないんだ。マイナス40度では凍ったままなんだ。だからぼくはもうあんまり上手にしゃべれない。しゃべれないし、しゃべれないしね。うん。水がないということは食糧がないよりもちょっと深刻なんだ。ああ。ええと。ちょっとというのは違うな。


 いい加減なことを言いたくないからちゃんと先に言っておくとね、ぼくが置かれた状況はあんまりかんばしくない。 諦めた訳じゃないよ。ぼくは最後まで諦めない。諦めるもんか。ケンタの笑顔を見て君を何度も抱きしめるために戻ることを諦めはしない。でもね。風がやまないんだ。ヒラリーステップを降りることもできない。こんな高いところで足止めされるなんてどうかしていると思うよ。本当にどうかしている。でもどうにもならない。降りようとしたら吹き飛ばされて一巻の終わりだ。風がやむまで待つしかない。


 それからね。ベースキャンプの連絡では、すぐそこに見えている雲の下は吹雪きまくっているらしい。ここはこんなにいい天気なのにね。日焼けして痛いくらいなのにね。ぼくのすぐ下で太陽をいっぱい浴びて純白に輝いているあの雲の下は大荒れなんだそうだ。信じられないよ。マシュマロみたいにぱくぱく食べられそうにうまそうな雲なんだぜ。まあ、いまのぼくはそんなに食欲はないけどさ。3分おきに吐きそうになってるけどさ。


 ええと。違うよ。飲んでるわけじゃない。そういう吐き気じゃない。あのころはよく飲んだよな。君にいつも怒られたっけ。でもぼくはみんなで集まって酒を飲むのが好きだったから。だいたい君がいけないんだぜ。ぼくの気持ちを知っているくせにあんなやつと親しげに話したりしてさ。あれは何の映画を撮っていたときだっけ。主演をやってたあいつ、何て言ったっけ。名前が。出て来ないな。あの時もぼくはね、ファインダーを覗きながらもどかしくて胃が痛くなりそうだった。


 どんなワンシーンも忘れていないよ。覚えている。ワンカットワンカット。映画だけじゃない。君の全てを。ほら、あそこ。三角公園で撮ったろう。暑い夏の日だった。ぼくは心に決めていたよ。撮影が終わったら伝えようってね。君に。ぼくの気持ちを。犬がいたね。大きな犬だ。レトリーバー。ボルゾイ。セッター。休憩時間にはマックを買いに行った。一緒に。あの時、監督に怒られたね。ぼくがふざけすぎたから。それから。それから。フィルムを買いに行った。ひとりで。フィルムが足りないからって。新宿まで。あのかっこうで。野球帽。スタジャン。デザインは君だった。絵コンテの表紙に描いたよ。君がつくったあのロゴ。マネしてね。フィルムを買って戻ったら。戻ったら君がいた。駅まで迎えに来てくれてたんだ。いまでも見える。日傘。足元にくっきり落ちる影。木綿のワンピース。


(「木綿のワンピース」ordered by オネエ-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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