九話目 炎
カチッ.
今では少し珍しいかもしれない.午前5時にセットされたまま何年も主人を起こし続けてきた目覚まし時計.それが今日も,今までと同じように目の前の,つむじが2個ある主人を起こすべく刻を告げる.
いや,告げるという表現は少し違うかもしれない.告げ切れていないのだ.
本来であればカチッ.ジリリリリリ!で起きるのが普通.しかし同居人を起こさないようにという配慮の元,最初のカチッ.っという音で目覚めて,時計の頭を叩くのである.
「う〜んっ!今日もいい天気だな〜」
指を組んで天井に向かって,ぐ〜っと伸びをする.
ふと,横を見ると,怠惰な同居人がアホ面を晒して寝こけている.
「うーん.えへへへ,もう食べられないって」
しかもよだれを垂らしながら,これまたベタな寝言を.
「あははっ.後でみんなに言ってあげないと」
今日の話のネタが一つ増えたことに満足しつつ,布団から立ち上がる.そして目覚まし時計の下に畳んであった短パンと青のランニングシャツに着替え,洗面台で歯を磨き顔を洗う.
顔を洗い流すと寝ている間にホコリで汚れた何かが綺麗になる感じがして一気に目がさめる.最後はコップ半分の常温水を飲んで出撃準備完了.
その表情は寝起きのぼけ~っというだらしない表情ではなくなっていた.「乙女は清く正しく美しくあれ」を体現させた様な印象を人に与える良い表情だ.
「よしっ!行ってきますっ」
小さな声で同居人への挨拶も終えて,少しへこんだ丸い銀色のドアノブを回転させ勢いよく外へ出て行く.
その際,三七の体に触れながら部屋の中に外気が侵入してくる.もう三七レベルになってくると,この触れる風から今日の天気,だいたいの一日の気温の変化まで分かってしまうのだ.
「おーいいねえ,今日も晴れだ!...うん.気温もそんなに変化しないみたい.雨も降らなそうだし」
雨や曇りよりは晴れの方が良い.暇で退屈より忙しくて疲れる方が好き.魚より肉の方が美味しいし,野菜は嫌い.大勢で騒ぐ方がいい.それに普段の生活は早寝早起き,夜更かし厳禁!というのがこの一文字 三七の性分であった.
「ううっ!っふー.準備体操よしっと」
アパートの前で入念な準備体操を終える.30分ほどもかけて念入りに行うのだ.
「ちょっとめんどくさいけど,体操は大切よね.どっかの武将も『戦いは始まる前に終わっているのだ』とか言ってたしね...ちょっと違うか」
もう待ちきれないと,体が自然にダッっ!と駆け出す.空気は微かに冷たかった.
雨が降っていようが雷が鳴っていようが,熱があろうと足首が捻挫してようが.何があっても小学1年だった時から毎日欠かさずやってきたこの早朝ランニング.最初は軟弱で距離もスピードも今とは比較にならない程ダメダメだった.
しかし10年という年月は人を変える.
チリも積もれば山になる,雨垂れ石を穿つ,涓涓塞がざれば終に江河となる.様々な言い方があるがともかくそういうことだ.
今では走らないという事自体考えられない.例えばブラジルまで飛行機で行かなければならない時でさえ,途中どこかの国にわざわざ降りて走ってからブラジルに向かうことだろう.
そうでもしないと自分が自分でないような気がしてしまうから.というかそんな義務感を差し引いても純粋に気持ちがいいから続けたいのだ.
「っはあ,っはあ」
しばらく走っていると呼吸も上がって来る.
2年ほど前から東京の高校に入学するに合わせて一人暮らしする事になった.
今ではあっという間に高校3年.今年は大学受験があるので忙しくなることは目に見えている.どこの大学を受験しようか考え始めた今日この頃だった.
三七達が通っているのは晴天高校というなんとも子供っぽい名前の高校だ.しかし偏差値は60程はありそこそこの学校と知られていた.
こっちに来てから数週間は新しいランニングコースの開拓が必要不可欠だったが,今ではルートも確立されて,無意識で走るべきコースをたどっている.
コース的にはまず内陸の方を走ってから,海沿いを走るというものである.デザートや好きなものは後に食べるタイプなので,海というちょっとしたご褒美は後半にあった方がいいと思うから.いや,そうに決まってる.
「っふう,っふう」
ようやく海が見えてきた.走り始めてから30分くらい経っただろう.水平線の下から徐々に太陽が顔を出し空も次第に明るくなってくる.それに連れてテンションも自然と上がって来きて足が迅る.
一年以上もほぼ同じ時間にこの海岸を訪れていると大体よく見る顔の人達がいる.そうなってくるとお互い顔見知りの様になって話しかけてくれる人も出てくる.たまにリンゴとかも投げてよこしてくれる.本当にありがたい.
最近ではすっかり外国人観光客も増えて話しかけてくる人たちの中にも出てきていた.「君はいつも走っているなあ」とか「毎日頑張ってるわね」とか,声援を掛けてくれることが多い.
その都度立ち止まってそれに応えるのは苦ではない.むしろ話しかけてくれた方が断然嬉しいのだが,当然英語な訳で.相手の言葉にしっかりと耳を傾けなければならないのが少しエネルギーを持っていかれる.
もっと英語出来るようにならないとなあ.
そんな私にとって第2のホームとも言えるこのビーチに,ここ最近になって新参者が姿を現した.
やっぱり今日もいる.いつも何やってるんだろ?よっぽど海が珍しいのかな?
人も疎らな早朝のビーチ.そこに青いリクライニングベッドの上に優雅に仰向けで日の出を見ている男子が1人.私はこの男子を知っている.
1ヶ月前,急に編入してきた男子の1人.名前は…リカだった気がする.クラスも別で喋ったこと無かったけど女子っぽい名前だったから一発で覚えちゃった.
聞いたところによると大人しく,のんびりとした性格らしい.これじゃあうちの高校に慣れるのに苦労しちゃうよね.なんせ男子は激烈キャラが多いから.いや,女子もか.時々,ここはお笑い芸人養成所?って錯覚するくらいなんだから.
余計なことを考えながらも淡々と走っていく.今日も明日も明後日も.
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