5話目 Alleviation
ここはマンションでもなんとか荘でもない.
旅館に隣接されている宴会場で住み込みのバイトをしているのだ.
俺の地元は北海道の十勝の方にある村だ,まあ一般に言う凄まじい田舎だ.
キャベツ畑が延々と広がり地平線すら見える.『地』平線だぞ!『水』じゃないからな.一回来てみろ,感動するぞ.それから星がありすぎてどれが何座だか分からないぐらい見える.始めに東京に来たときに星が見えなすぎて驚いた記憶がある.
そこに今でも住んでいる親父は昔はなんとか省に勤めていたらしい.さぞ頭が良く腹黒い奴らが沢山いたに違いない.
そこの同僚と東京で飲み会があった.そこで俺の話になり,東京の大学に合格したので,一人暮らしする所を探していると言ったらしい.その中の親父の友人の一人が坂本さんといい,3年前に御茶ノ水のとある旅館のオーナーになったらしく,そこなら部屋があるから,そこに住み込んでいい.ときれいに話がまとまった.
家に親父が帰ってきたとき,ちょうど物件を探していたのでことらとしてもありがたかった.
・家賃は無し
・仕事は時給1000で週10時間は入ること
・薄型テレビがある
という条件だった.天下の御茶ノ水なのに家賃がないという条件だったので下見もしないですぐそこに決めた.
なんだか嘘みたいな話なのだが,実際にそうなのだからしかたがない.
ところがどっこい.案内されてみたら
あれ?思ってた部屋と違う...これ(屋根裏)部屋じゃね?なんか壁とか変色してるけど人とか死んでねーだろうな?的なもんだった.
ここには俺以外にも従業員がいてある程度住んでいる者がいる.そいつらは俺と同じ屋根裏部屋...には住んでいない.憎たらしいことにもっと上等な近くにあるマンションに住んでいる.
そいつらに『今日酒祭りで先鋒として口上述べることになった』なんて言ってみろ.エラい目に遭うに決まってる.
屋根裏部屋から足音を立てずに出ていく.
ドアを開けるとまず木造の階段が数段あり,そこを下ると舞台の役者などの控室がある2階の廊下に出る.
ちょうど今の時間は誰もいないはずだ.
仕事が始まるのは8時からだし,この宴会棟に住んでるのは俺しかいないはずだ.というか泊まるようなスペースがない.
この棟は正面入り口と裏口,非常口の3つの出入りする場所があるが俺はいつも裏の入り口を使っている.
正面の入り口は自動ドアではないし,結構な大きさなので,誰かが出入りしていたら目立つ.私服の俺一人が出入りしてたら泥棒と間違えられる可能性があるので正面玄関は使わない.というか一回違えられたことがある.
裏口まで到着し,ポケットからカギを取り出して開ける.
とりあえず裏口から出たがここからどうすべきか...
このままいつも通りに,正門から出て行けば掃除している清水さん達に遭遇する可能性が極めて高い.
だが目の前には垣根が広がるのみ.どうしたら誰にもばれずに出ていけるか...
四方八方的に囲まれた状況を打開するには人が考えつかない方法をとるしかない!
垣根の下をしゃがんでのぞき込むと地面と植木の間に30cmくらいの隙間があり,2m先に道路が見える.さあどうする...
仲間内にばれてからかわれるのと,多少汚れてでもそれを回避するのか.
「よし!これしかない!」
宮崎は徐おもむろにズボンとtシャツを脱ぎだしパンツ一丁になった.そして脱いだ衣類を愛用のヤンキースのバックに押し込む.
「...誰も見てないよな?」
多少の恥ずかしさを覚えつつバックを先に押し出しながら自らも匍匐ほふく前進で進んでいく.
幸い真冬ではないので肌に触れる土は冷たくなく,風邪をひかないですみそうだ.
「こんなばかばかしい理由で風邪なんて引いてられないからな.へへっ,誰も会わずに出れそうだ」
垣根の外は住宅と商業地区が合わさった所の裏路地だ.
垣根の下から誰かいないか首を出して外の状況を観察する.すると運悪く10m先の曲がり角からおばあちゃんが犬を連れてやってきた.
「早く行ってくれよおばあちゃん...」
おばあちゃんの歩みは遅く,3分くらいかけてようやく俺の手前くらいまで来た.おばあちゃんが道路側で犬が俺の目の前にいる構図だ.
丁度目の前通過しかけた時,野生の勘で何かの気配を察知したのか,ズボッ!と垣根に頭を突っ込んできた.
「げっ!た,頼むから静かにしてくれ!ほらほらいい子だねー」
必死に首の下を撫でて宥なだめめようとするが『ヴヴゥゥ』とうなり続ける.
「ま,待てっ!あれがある!あれ!」
そういえば昨日酒のおつまみに買ったジャーキーがあった事を思い出した.バッグの中をまさぐり,それらしい感触を見つける.
「あっ!これだ!ほらお食べ」
袋から一つジャーキーを取り出して犬の前に差し出す.
「よしこれでいいだろ?厚切りジャーキーだから食べ応えあるだろ?」
物も言わず犬はそのジャーキーを食べ続ける.しばらく待って食べ終えても首を引っ込める様子はなかった.
「何?全部くれだ?何言ってんだ俺の食料だぞ!一か月いくらでやってると思ってんだ!」
「ヴヴヴゥゥ!」
「太郎?何かあるのかい?」
やばい!バアさんに気付かれる!
「う,嘘嘘!全部食べていいぞ」
そういうとプラスチックの袋に口を突っ込み残ったジャーキーを食べ始めた.
「くそっ!最近の犬ってやつは遠慮を知らないのか」
食べ終わると犬は首を引っ込めて散歩に戻っていった.
再度誰もいないか確認してから道へ出る.
「ったく.危ない所だったぜ.今のうちに着替えてしまおう」
バッグに押し込んだ服を取り出して,キョロキョロしながらさっさと着替える.
「ん,待てよ.俺が今日先鋒として出ることになるの知らないんだろうから堂々と正門から出ても良かったんじゃないか?」
過ぎたことは忘れようと,ふと生じた疑問を頭から追い出す.
「そういや朝飯食ってなかったな.駅前の蕎麦屋にでも行くか」
宮崎が住み込んでいる旅館は名を『白雉』と言い,御茶ノ水駅から徒歩20分くらいのところにある.素泊まりが最も安くて3000円,客室数は70,木造2階建てのなかなか大きい旅館だ.その本館の隣に宮崎が住んでいる宴会場がある.
駐車場もあり,その歴史を感じる外観などを求めて外国人にも人気になってきている.
朝食を食べるために駅まで急ぐ.
「くっそ.なんだかなあ」
宮崎は悩んだ.
別段大したことはない.いや,宮崎にとっては重大な問題だろうが.
「なんだかなあ」
御茶ノ水の駅を出たら手前の道路を左折.有名な酒屋の隣にあるこじんまりした蕎麦屋「蕎麦屋」.もうこの何年か週2くらいの頻度で訪れ続けている.いわゆる常連というやつだ.
御茶ノ水といえば美人女子大生がたくさんいて銀座も近く"The 都会"という想像だった.そこに不釣り合いなほど小汚く,こじんまりした蕎麦屋.なぜ潰れないのか不思議でしょうがなかった.
店内も見かけどうりちょっと汚いだけで特に変わったところはない.ガラスの窓には小心者の主張のように,ハガキサイズのメニューがいくつかピックアップされて張り出されている.遠目でもその存在は確認出来るだろうが,読むことは至極難しい.
「おい,早くしてくれないか?」
「おっ,すいませんね」
ふと気がつけば店外の券売機の前に陣取り,長考すること約5分.見るからに急いでそうなサラリーマンに背後から急かされ我に返った.
これはいけないと思い,宮崎は大学入学時に買ってもらった財布を取り出した.買ってもらってからまだ一年程しか経ってないのに小銭入れは擦り切れ,破れてしまっていたのだろう.そこを普段裁縫なんてしない20歳くらいの男が何とか縫ったような跡が残っていた.
急かされた宮崎は結局,メニューの中で一番安いかけ蕎麦だけを買う事にした.本来ならおいなりさんも一緒に頼むのだが,今日という日に限って「売り切れ」と表示されていた.
「なんだかなあ」
店内だがまず扉を開くと小さい通路があり,厨房をぐるっと囲むようにL字の机がある.よくラーメン屋と聞いて連想される銀を基調とした厨房で,注文から2分もしないで蕎麦が出てくる.食べるスペースは少ないが割としっかり賑わっている.
店員のおじさんが出来上がった料理を「そば定食お待ち!」などとメニューを宣言しながら人混みに入れた瞬間.誰が取ったのか定かではないがその瞬間に無くなってしまう.まさに入れ喰い状態だ.
「おじさん,今日はおいなりさん無かったぞ」
「へいらっしゃい!なんだ勘十郎じゃねーか!今日はどういうわけか朝からおいなりさんが人気でよ,用意してた分が全部売れちまったんだ」
ここは駅も近い為,大概の人は急いでいる.この蕎麦屋に来る客は,がっ!と掻き込んであっ!と言う間に足早に去っていくのが多い.誰が強要したわけでもないのだが,店内はそんな忙しなさに包まれている.
「そんな急ぐならもっと早く支度すりゃあいいのに.」
出来上がった蕎麦を顔なじみになった親父さんから受け取りながらふと思う.
「それから外の張り紙,もうちっと大きくしなきゃ見えないよ」
「いんや,あんくらいでいいんだよ!江戸っ子の奥ゆかしさを感じんだろ!」
ここの親父は無駄に声が大きい.
「俺としては江戸っ子の意味を履き違えてると思うんだけどな」
「うるせえ!お前こそ割り箸の割り方,いつになったら上達するんだ?昨日今日,日本に来た外人じゃあるめえし」
親父が宮崎の手元にある,今しがた割ったばかりの箸を見ながら言った.
確かにどういう風に力を入れて割ったんだ?と思われるほど,箸というにはお粗末な木の枝が手元にあった.
「べ,別に箸が上手く割れなくても胸張って生きていけるだろ!」
宮崎がこの店を贔屓にしているのにはいくつか理由がある.その中の一つがつゆが上手い事だ.
そもそも蕎麦好きだった宮崎はこの辺に越してきた時に,近隣にある蕎麦屋を全て回ったのだ.そしてこの蕎麦屋を行きつけの店として決めたのだ.
今から約一年前,4月上旬の事であった.
周りの流れに逆らい,一杯のかけ蕎麦をゆっくり大事そうに食べる.
「っふう〜.ごっそさん」
両手を合わせて微かに一礼.
「んじゃあ,また来るよ.次はおいなりさん残しといてくれよ」
「いや,そりゃあお前さんの運だな」
御茶ノ水から築地までは秋葉原で一回乗り換えをして20分くらい到着する.
いつもと同じ改札,いつもと同じホームで電車に乗り,同じ景色を見て築地駅まで至る.
駅のホームに設置してある時計を見ると8時ちょっと前だった.
「Hey!Youth!」
大学まで向かおうかと歩を進めた時,そういわれて誰かに肩を叩かれた.
「俺は英語なんて分かんないぞ」
どうせ道でも聞かれるのだろうと思い,他の人に聞くことを勧めようと振り返る.
というか何百人といるのになんで俺に聞こうとしたんだ.そんなに英語話せそうに見えるのか?
宮崎は典型的な日本の学生らしくリーディングはできてもリスニングとスピーキング能力が壊滅的だった.
「相変わらずだね,you.まだ英語分かんないの?」
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