4話目 Paper

「私はー私はー,あぁー!」


あまりに口上に緊張しすぎて部屋で一人発声練習をし始めた.部屋が小さいだけにかなり声がこもる.

 部屋は7畳ほどで窓も無い.あるのは15インチの小型テレビと電動ポット,部屋の大きさの割にやたらとでかいドラフターのみ.なおドラフターとは製図するための机である.


 何ヶ月か前に1冊1万円くらいする零式艦上戦闘機(零戦)の図面集を購入してそれをA1の方眼用紙に模写していた時期があったのでその時に一番使っていた.他にはヘリカル減速機やネジジャッキ,車のタイヤも製図したことがある.


 手書きの製図にはキチンとルールがある.

 まず大まかな書き方の種類だが,ワールドスタンダードは無く,国によって違ってくる.アメリカと日本などは「第三角法」という手法をとっており,ヨーロッパ諸国では「第一角法」という作図手法を用いている.

 このように書き方が違うとヨーロッパで作った図面を日本で使うときは第三角法に直してから使われるのでかかる手間が尋常じゃなかったらしい.

 寸法線は3mmの実線,隠れ線は破線でその破線は3mm書いて1mm開けて3mm書いて1mm開けて書く.それから矢印の部分は15度づつの角度で3mm,ネジは不完全ネジ部も書き込むなどといった具合だ.ネジや座金といった機械要素についても厳格な規格があり,JIS規格と呼ばれている.

 機械系でまずこの言葉を知らぬものはいない.どんだけ苦しめられたか.まあ確かに無いと困るけど.

 ものすごく分厚い本で中には専門用語の定義や製図のルール,機器要素の細かい寸法なども明記されている.みんなこれを片手に必死に出された宿題をこなしていたことは今となっては懐かしい.

 3年になってからはCADしか使わないと先輩から聞かされていたので,もうこいつを使う機会もめっきり無くなってしまうだろう.


『設計図』と聞けば多くの人が部屋に男たちが集まってむさ苦しく定規や分度器を用いて計算ではじき出した数値を書き込んでいくという光景を想像するかもしれない.しかしそんな姿はもうどこの会社に行ってもみることは出来ないだろう.

 ここ十数年でこのCADというソフトウェアが流行し,手で図面を引く手間がすっかり省けてしまったのだ.個人的に購入すると高くてウン百万という世界なのだが,大学は学生に無料でこのソフトを提供してくれている.

 試しに一回使ってみたがもの凄く楽だった.消しゴムも定規もいらない.ボタン一つで線が消せた.

 これがどれだけ便利なことか.今まで何で手書きで製図なんてやらせたんだ!と少しクレームを先生方に付けたくなるくらいだった.


 製図の授業の様子に関して言えば,例えば普通の生徒が授業で出された製図の宿題をこなして先生に見せにいくと30秒くらい見渡して,5分間くらい問題点の指摘が止まらなくなる.さすが,伊達に大学の教授を名乗っている事のだけはある.

 俺は学校の成績こそ悪いものの製図は好きなので,徹底的に見直してから一番チェックが厳しい先生に提出に行く.しかし問題点を指摘されたことは一度も無く,それどころか褒められすらした.

 なんといっても真っ白な紙に何十時間もしたら立派な作品が描き込まれている光景を見たときの達成感と言ったらない.


 部屋の話に戻ろう.

 タンスには布団と服がほんのりたたんで収納されている.服もバリエーションが少なく,単色や無地のものが多い.色は臙脂えんじや紺,ズボンは黒か白がある.お気に入りのTシャツは葛飾北斎がかいた富嶽三十六景の富士山がプリントされたものと,かの有名なエルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナが描かれたものだ.


 ついこの前,チェ・ゲバラのドキュメンタリーが放送されていてそれにとても感銘を受けた結果だ.

 彼は元々裕福な家庭に生まれて幼少の頃は病弱だったらしい.その後勉強して医学部に入学を果たし,22か23くらいにアルゼンチンから上の方に目的をあえて決めずバイクで上る旅をした.その途中,初めてボリビアで『革命』というものに出会い,人生が変わったという内容だった気がする.

 その後は有名な指導者フィデル・カストロと共に革命を成功させて大臣に就任した.しかしある日突然革命を求めて姿を消した.彼の最後は敵兵に捕まり銃で撃たれて亡くなる.

人生最後の言葉.ゲバラを殺せと言われ,自分の頭に銃を突きつけた,人を殺すことに慣れていない怯えた若い青年の兵にこう言った.


『撃て,恐れるな.俺はただの男に過ぎない.」


 マジで痺れた.

 漫画でもなんでもなく実際にこんな言葉が最後に言える度胸と,最後まで敵であろうと,他人を思いやれるその心.加えて文字通り,本当に命を懸けて事をなそうとする情熱.まるで幕末の志士のようだ.

 チェ・ゲバラの名前と有名なひげを生やして帽子をかぶっている写真は見たことはあったが,こんなに凄い方だとは知らなかった.


 歌川広重に関しては安藤広重という名前もあり,居所不定の画狂老人として江戸で活躍したことしか知らないが,あの富士山はとても格好良くて気に入っている.


 ...部屋の話に戻ろう.

 トイレは部屋を出てドアまでの2mの通路の左にある.なお風呂は無い.

 じゃあどうするかって?

 風呂は無いので近くの銭湯を使っている.


マジで.これ現代の話だぞ?時代錯誤も良いところだ.昭和じゃあるまいし.


 たまに自分の置かれている環境のことをまじめに考えることがあるがちょっと辛くなる.こういうの苦学生って言うんだっけ?

 しかし他の一人暮らしを体験したことがないのであくまで先輩や友達から聞いた平均的な一人暮らしの環境と比べるとだが.


「うっし.そろそろ行きましょうかね」

 緊張のせいか独り言が多くなる.


 そういえばまだパジャマだったことに気がつき,着替えを求めてさまよい出す.


「パンツは...やっぱトランクスで良いよな.ボクサーだと窮屈だろ.Tシャツは...ゲバラさんのやつに決めてたし.ほんでズボンと上は...」


 蓮馨寺れんけいじは私服で来いっていってたな.まあスーツで来いっていわれても持ってないし.

 なお蓮馨寺とは酒祭り実行委員会の友人である.


「ニュースだと今日ピーカンで暖かくなるらしいからシャツだけでOK.で,白地だからズボンは黒いやつで決まりだな」


 ものの20秒で着替え終わり,トイレにある鏡でヒゲをそる.


「行くか」

 テレビも別の番組に切り替わっており,スタジオのセットやメンバーが切り替わっていた.


 靴は宮崎が持っている3足のなかで最も上等な茶色い革靴でキメる.

 ひもを締めると同時に身も引き締まる気がした.


「こっそり出て行きゃばれないだろ」


 誰にって?周りの連中にだよ.

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