あとはあなたを殺すだけ

チャーシューメン

第1話 ブレーキ

「では、源三郎様。行ってらっしゃいませ」

「……うむ」

 セダンのドアを開き、秘書の桑野が頭を下げている。

 河野源三郎は腰を屈め、後部座席に座った。その途中、手にした杖がドアに引っ掛かり、源三郎は小さく悪態を吐いた。ひどく不機嫌だった。それは、自分の座るべき席が運転席ではなかったからだ。今日も、また。

 運転こそは源三郎の数少ない楽しみの一つだった。アクセルを踏み込むあの感触。トップスピードに達した時の小気味良い振動。追い抜きの際の緊張感。そして何より、自動車という巨大な鉄の塊を完全にコントロールしえた時の全能感。運転は一時、自分を人間以上のものにしてくれる……源三郎にとって、運転とはただの趣味を超え、ある種神聖な行為だった。だから運転だけはどんな時でも自分自身で行っていた。足が衰え杖突くようになった今でも。

 それなのに。

 たかが一度の過ちで、その楽しみを奪われてしまうとは。

 車窓の光景を横目に、覚えず、今日何度めか分からぬ溜息が漏れ出てしまう。この苦しみは桑野には分らないだろう、自動車の運転も出来ないあの男では。

 しかし、この憂鬱もあと少しというところだ。ようやくあの裁判も終わったのだから……。

「何処かお加減でも?」

 源三郎の憂鬱を耳聡く察したのか、運転手が話しかけてきた。卑しい雇われ運転手如きと話す事など無い。いつもなら五月蝿いと一喝して黙らせるところだが、源三郎は言葉を飲み込んだ。その運転手の声色が、はっとする程美しかったからだ。

 運転席に目を遣ると、ドライバーの後ろ姿がやけに細い事に気付いた。制帽の下から伸びる髪は男のものにしては艶がありすぎ、その隙間から微かに覗く肌は天鵞絨のように滑らかだった。バックミラー越しにこちらを見やるその視線は妖艶で、昔見た仏画の天女を思わせる。

「女、か」

「女の運転はお嫌いで?」

「いや。あまり見かけないのでな。特に君のように若く美しい女性の運転手は」

 源三郎がそう言うと、女は微笑んだ。なぜだか胸がざわめくような、不思議な笑みであった。源三郎がもう少し若ければ、金を握らせて自分の部屋に連れ込んでいる所だ。女優と言っても通りそうな容姿を持つ妙齢の女性が、黒い背広を着込んで男装し、しがない雇われ運転手をしているのである。興味を覚えた源三郎は、バックミラー越しに彼女の薄い胸元へと目をやった。

 霧生優香里。

 胸につけた名札には、その名前だけが記載されている。ダッシュボードに掲げてある運転者証には何故だか「意馬心猿」の文字だけが毛筆で書かれていた。

「人間の欲情の自制しがたいことの例え、ですね」

 優香里が口を開く。相変わらず胸がざわめく不思議な笑みを浮かべながら。

「確か仏教語だったかな」

「よくご存知で」

「何故そんな言葉を?」

「運転手というものは、いついかなる場合でも冷静な判断を下せなければならない。そのためには、常に己を律することが必要です。私は仕事中、己を完全に律している自信があります。しかしその自信は、過信と驕りとを招きましょう。私はそれにブレーキをかけたい。己を律する事の難しさを常に心に刻んでおくことで、己の驕りを制止したいと思いまして」

「ほう」

 自分の仕事に対して真摯に向き合うその姿勢、嫌いではない。怠けだけが得意技の部下共に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだ。

「しかし、仏教語とは不吉だな」

「ああ。例の『かげほうし』の事ですか」

 影法師。数年前から世間を騒がせている、連続殺人犯である。警察が全力を挙げて行方を追ってもその正体を掴めぬこと、そして犯行現場に毛筆で説法を書き残していくことからその渾名が付いたと言う。被害者達に接点や共通点が見出せぬため、複数犯であるとか、雇われの殺し屋だとも言われているが、はっきりしていない。その影だけが人々の口上を飛び回る、神出鬼没の殺人鬼。

「殺人犯と同じ事をすると疑われてしまうぞ。乗客を徒に不安がらせる事もなかろう」

「影法師は殺されるべき理由がある人間だけを殺すと言われています」バックミラーに映る優香里は、その目を狐のように細めた。「貴方に心当たりが無いのなら、恐れる必要はありませんよ。それとも……」

 その時、ギッ、と鈍い音がして、源三郎の全身を衝撃が襲った。

 優香里が急ブレーキをかけたのだ。シートベルトをしていなかった源三郎は、シートバックに額をしたたか打ち付けてしまい、苦悶に呻いた。

 瞬間的に遠のく源三郎の意識を現世へと引きずり下ろすように、ゆっくりと持ち上げられた優香里の左手がフロントガラスの向こう側を示している。

「もしかして。その心当たりがおありですか?」

 明滅する赤信号。手を挙げて横断歩道を渡る、笑顔の子ども達の姿。

 優香里の指は、はっきりとそれらを指し示していた。見ろ、お前のしたことを。お前の奪ったものはこれだ。滑らかな指先が、そう源三郎を責めている。

 間違いない。

 この女、あの事件を知っている。

 なんとか体を起こした時には、車外の風景はまるで変わっていた。眼下には海が広がり、荒波が岸壁に打ち付けるのが見えた。この道は知っている。源三郎の秘密の別荘へと向かう道、つまり今日の目的地へと向かう途上。市内を走っていたはずなのだが、どうやら少しの間、気絶していたようだ。

 バックミラーを見やると、変わらず優香里が座っていた。そしてあの胸のざわつくような――源三郎を体の芯から震わせるような、不思議な笑みを浮かべている。

 その笑顔にはっきりと害意を感じ取った源三郎は、慌ててドアに縋り付いたが、いくら操作してもドアはおろか、ウインドウさえ開かなかった。

「無理ですよ。開いた所でこのスピードです、車外に出れば死にますよ?」

 氷雨のようなその言葉は、源三郎に脱出を諦めさせるには十分だった。

 優香里は美しい、しかしこの世のものとは思えぬほど恐ろしいその声で続けた。

「三年前。あなたは自動車事故を起こした。あなたの運転する自動車は赤信号にも関わらず、減速もせずに交差点へと突っ込みました。時間は通学時間帯。あなたは登校中の小学生を含む通行人三名を轢いた。さらにセンターラインを超えて暴走を続け、信号待ちしていた対向車に衝突。衝突された車は歩道へと弾き飛ばされ、そしてそこには運悪く、近所の幼稚園へと向かう母子がいた。死者五名、重軽傷者八名の大事故です」

 源三郎の起こした過ちの事だ。

「これだけの大事故にも関わらず、あなたは公訴されなかった。それどころか、時を待たず事故に対する報道も途絶えてしまった。元官公庁のエリートだからか、はたまた天下りで貯めに貯めた資金を使って事故をもみ消したのか。影では色々と言われていましたね」

「お、お前は……遺族の関係者なのか」

 震える声で虚勢を張った。

 自分と遺族を接触させるなど、秘書の桑野は一体何をやっているのか。遺族は和解を拒絶している。彼奴らが先日の裁判の結果を逆恨みして源三郎を害そうとするなど分かりきっていた。だから、ほとぼりが冷めるまで身を隠すべく、秘密の別荘へと向かっていたのだ。よもやその途上で接触されるとは……。

「お前達は勘違いしている。あれは事故だったのだ、私はブレーキを踏んだが、効かなかった。車のブレーキが壊れていたんだ」

 源三郎は唾を飛ばしながら、必死に弁明した。

「裁判でも証明されたろう、事故だったと。私に過失は無かった、だから公訴されなかったのだ。それでも私は貴様らに金をやった。補償には十分すぎるほどの額を。それでもお前たちは私を憎むというのか!」

「本当にそうですか?」

 優香里が目を細めた。その瞳に炎が灯っているのが見える、漆黒の炎が。

「あなたは杖がなければ歩けないほどに足腰を弱めている。ブレーキが効かなかったのではなく、本当はあの時、ブレーキを踏むことが出来なかったのでは?」

「違う! 私の足は運転に何の支障もない! 医師もそう診断している!」

「そしてあなたは、あれだけの大事故を起こしたにも関わらず、運転免許を返納する姿勢すら見せない。それどころか、また同じことを繰り返そうとしている。裁判が終わったことをいいことに、あなた、新車の購入を検討しているそうじゃないですか」

「それは……」

「あなたを放っておけば、いつかまた同じような事故を起こすでしょう」

 車は長い下り坂に差し掛かったところで止まった。

 そこで、優香里が初めて振り返った。その妖しい瞳に射抜かれ、恐怖で息が詰まる。

「一つ訂正しておきましょう。私は遺族の関係者ではありません」

 源三郎の心臓が跳ねた。

 はるか眼下に青い海が広がっている。このまま下れば、ガードレールを突き抜けて、崖の下へ転落してしまうだろう。

「残念ながら、今更私への説得は無意味なのです。私には元々、あなたを憎む理由などありませんから。私はただ、あなたのように社会へ害為すものを排除し、影から社会に奉仕するだけの存在。影奉仕なのです」

 ダッシュボードの上、運転者証に書かれた「意馬心猿」の文字を示しながら。

「影法師……お前が」

 鼓動が高鳴り、喉が乾く。見た目はただの小娘のはずなのに、優香里は異様な気配を放っている。その瞳を覗くだけで、蛇に睨まれた蛙のように源三郎の身体は強張り、攻撃や抵抗をする気力すら奪われていた。

 霧生優香里、いや影法師は微笑みを浮かべた。その嘲るような笑みに源三郎の背筋が凍った。

「何故影奉仕が捕まらないか。知っていますか? それは影奉仕が犯行を始める前に、完璧に準備が整えられているからなのです。おかしいと思いませんでしたか? 何故こうも簡単に、私があなたの運転手となったのか」

 源三郎は呆然とした。

 車の手配をしたのは秘書の桑野だ。

 まさか、桑野が……?

「あなたにとって部下の家族など興味も何も無いのかもしれませんが、遺族の中にあなたの部下がいたのです。妹の孫で、彼にとっても、それはそれは大切な大姪だったそうですよ」

 重力に引かれて、車がゆっくりと下降を始めた。

「あなたの遺言状も既に完璧に偽造してあります。あなたの財産の半分は慈善団体に寄付され、もう半分は家族で分けることになるのです。あの別荘で待つ愛人に全財産を渡すなんていう私欲塗れの遺言より、あなたの親族もよっぽど満足してくれるでしょう。安心してください。皆が幸せになれるよう、準備は完璧に整い尽くしていますよ。そう。つまり、あとはあなたを殺すだけというわけです」

 影法師は車の外へ出ると、運転席のドアを閉じながら言った。

「でも、ご遺族は大変慈悲深い。あなたには最後のチャンスが与えられています。あの事故の責任は一体誰にあったのか。あなたのその足で本当にブレーキが踏めるのか。最期に一つ、試してみてください」

 その言葉とともに我に返った源三郎は、すぐさまサイドブレーキに飛びついた。だが、力一杯引いても車は止まらない。何か仕掛けがされているのか?

 眼前の海に向かって加速を続ける車内で、運転席に潜り込むべく源三郎は懸命に体を捻った。震える足を必死に上げて。衰えた足も腕も簡単には言うことを効かず、体の筋が悲鳴をあげ、骨が軋む。幸い車内は広く、源三郎が小柄であることもあって、なんとか運転席に滑り込むことが出来た。

 しかし、その時には既に崖が眼前に迫っていた。

 ハンドルは押しても引いてもびくともしない。運転席のドアもロックされていて開かない。

 源三郎は最期の力を振り絞って、目一杯ブレーキを踏んだ。



 河野源三郎を乗せた自動車はガードレールを突き破り、崖下へと転落して行った。減速した様子は全く無かった。まるで地獄に引きずり込まれる亡者が如く、一直線に崖へと突っ込んでいった。

 それを坂の上から見届けて、霧生優香里は一人、呟いた。

「あらあら。やっぱりブレーキは踏めなかったのかしら。それとも今度は本当にブレーキが壊れちゃったのかしら。どちらにせよ、やはり因果は応報するものね。意馬心猿。他の誰かのために自分の情念を諦める勇気が、あなたには足りなかった」

 遠く崖下で、金属が潰れ拉げる破壊音が響いた。

 優香里は手を合わせ、死者へ黙祷を捧げた。かつての事故の犠牲者達へと。そして、たった今自分が殺害した、河野源三郎へと。

「誠、情念とは御し難きもの也」

 その言葉とともに開いた瞳、その表情には、一点の曇りも無い。


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