第3話 彼は名を知り、名を知らず





 今は血液を甘美と感じる。

 それこそ五感という精神の変質に他ならない。

 感覚が変化して。好む、嫌うものが変質して。それでも愛だけは不滅で不変で、貴女に捧げていると言うのか。

 血濡れの刃を掲げて。あなたを愛しているからこうしたのだと。


 幾度、叫び続けるのだ?

 


「お疲れ様ですよ、セラフィ」


 赤い花びらが舞う。

 セカイで最も赤い花である姫君を中心に。

 鮮血に愛され、愛を失ったダレかへと捧げるのが、このユメという吸血姫。最上位の血筋は目覚めて、神秘を咲かせるほどに。

 それこそ世界の単位として、ひとつの部屋の事象を司る程に。

「――ユメ様、お待たせして申し訳御座いません」

 血が床を埋め尽くす中で、跪く。

 当然、執事服に染みこむが気にしない。

 なぜなら、胸にあてた手も血を浴びている。床に突き立てたサーベルは、返り血で深紅の色彩に。

 そして、空を舞い続ける緋色の花びら――それは、鮮血。

 その重さで床に落ちることなく。重力から解き放たれたかのように、くるり、ふわり、と舞い続ける。

 何人殺しただろう。

 何体の吸血鬼の首が飛び、頭部が砕け、心臓が斬り裂かれて貫かれている。

 魂が本当に怨嗟をあげるというのなら、この部屋は完全にそれで満たされて、響き渡って止まらない。

 原型を留めない肉もある。

それこそ花咲くように血が飛び散って、空にある。

 だが、この剣で切り捨てたのも事実。どちらがどのように。殺した数は。ああ、競う気はなく、今はこの少女に仕えるのみがセラフィの望みに繋がる。

 直結ではない。が、直線だ。

 だからこそ、快も不快もなく、むしむ忠と信をもっている。

 十人そこらのノーブル・ヴァンプを斬り殺した程度、誇りにならない。忠にも。なぜなら。

「しかしながらユメ様。このような些事、俺に任せて頂ければ」

「いえ。偶にはこうして、私も見なければなりませんから」

 返り血に塗れた従者と、血の一滴も浴びない姫。

 だが、その殺戮性においては逆転している。

「――醜い。ええ、愛を忘れた吸血鬼は、滅びるべきです。死ぬべきなのです。だった、愛を穢していくだけならば、死んだ方が救いではありませんか」

 くすくすと微笑む姿は、いっそ狂っているといいたい。

 それほどに綺麗で儚く、信じて夢見る少女めいているのだ。

 儚く、己が想いの熱量で焼けて、散ってしまいそうなほど。決して、狂っているなんて表現、当て嵌まらない。

 きっと正しく違っているのだ。この少女はヒトからも吸血鬼からも。


 だから、愛を謳う。

 誰よりも、何よりも。深く、深く。狂おしい程に、一途に。

「ところで――セラフィ」

 ぴくりと、セラフィの腕が動く。

 それは主の言葉を遮るという無礼。だが、続く様は余りにも流麗。

 銀光が瞬く。

 真円の月を描くようにまずは縦にひとつ。

 床に突き刺さったサーベルを抜き払って、ひとつ。

 そして駆け抜ける様は稲妻だ。音一つない。

 静謐ながらに、けれど苛烈。

 怜悧なる銀閃は、音もなく一室を駆け抜ける。そのまま、三日月をもうひとつ。

 残光が瞳よりきえる前に、それぞれ。確かに、部屋にふたつの銀月が存在する程の早さで刃が奮われたのだ。

「下知だ。きえよ、死ねと」

 その最中にあった場所から吹きこぼれる赤。鮮血。

 うっすらと輪郭を滲ませ、自分の存在を顕していたのは小さな少女だ。まだロースクールの。透明になる、のみならず自分の存在する匂いも音も消すという高位に位置するだろう異能。それがただ、研ぎ澄まされた剣技と、その扱い手の感覚にて切り捨てられている。

 肩口から心臓へと斬り込まれたそれは、吸血鬼をして致命。何故自分がと理解はしていないのだろう。そもそも、目の前の惨劇を前に恐怖で強ばった表情が、斬撃を受けた勢いで綻び、涙と絶叫をながそうとして。

 その喉に横線。見えない程の速度で擦れ違い様に首をかきききり、断末魔をあげようとした拍子で開いて、吹き出す血潮。

「おや、生きていましたか。何故気付いたのです、セラフィ」

「恐怖、ですよ。……俺はそういうものに敏感ですから。誰とて、刃物を前にすれば、多少はそれを抱く。あなたとてそうです、ユメ様」

「薔薇の手入れの為の鋏で指をきってしまったら大変、ですからね」

「その通りに」

 全く、狂った茶番。

 草花の手入れ程度のものだと、セラフィの神速の剣技を評している。まともな発想ではなく、だが、何故だかただの狂言ではないと感じるのだ。

 半分の嘘と現実感。奇妙なリアリティのなさ。

 鮮血の花びらが舞う、という部屋のような。

 血の重さがなくなったかのような。

「さ、セラフィ。貴方は――そう」

 再び、思い出したように、ユメが詠う。優しく、心配するように。これだけの殺戮の中、それでも花畑の真ん中にいるように。


「――あなたは、愛した女性の名前を忘れたのでしたっけ」


「ええ」


「――まあ。だから吸血鬼は、まともに愛を抱けない。愛を、穢すというのですね」


「だから、貴女に尽くし、仕えるのです。ユメ様。もっとも、愛を喪わずにいる貴女様に」


 そう、ユメという少女ほど、愛を知り、殉じ、生きるものはいない。

 死んでもいいと、そう言い切れるどころか、死の先へと飛翔してしまうものなど。愛の為ならば冥界に赴き、その神を殺して恋人を連れ去ろう。

 など、神話の物語でもできなかったことを。

 神殺しの英雄でも、死を超越など出来ないというのに。

「愛は、死を越えるのです」

 当然のように、微笑む。

 そう。


「ただ、私と似たもの同士ですね。私も愛している兄様の名を――思い出せません」


 悲しそうに。壊れるように。

 囁いたそれが、セラフィがユメに仕える理由。

 かつて、その兄に仕えていた自分のみが、今はその『名』を知る。


「御意に。全ては、貴女の祈りの為に」



 そう。

 愛は不滅だと、ユメという存在が示している。

 そうでなければ、セラフィは幾つの死と穢れを、愛といって彼女に捧げているのだ?

 だから結果論でいい。

 善き処へと。老いて、病んで、死んだ彼女に再び、合って、怒られて、謝りたくて。

 笑いあいたくて。こうしている。

 当たり前のことだ。

 血に濡れても、手放したくない。愛したという事実を。 



 

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