第2話 彼は名を知り、名を知らず2
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「それで健康になれるのなら、考える必要なんてありますか?」
「それで、善き処へといけるのならば」
消毒液の匂いの染みついた。白に限りなく近い部屋で、言葉が止まる。
咳が絡みついた病の粘つきを知らせ、断続的な苦しさを陰りとして出す。
ようは病室、病院。それも長く、重く、部屋に充満する影となるほど。くすみに似た灰色は、幾ら洗浄して清潔に整えてもきえはしない。
病いという名の陰りは、決して。
咳は続く。背をさする音。が、ある程度、軽くなると、背を撫でていた手が離れた。水差しを執り、青年――セラフィは、女の手へと持たせる。
なんとも慣れた仕草と、動きだった。
感謝の言葉もない。躊躇いもない。ただ、何時ものように。呼吸がひとりではし辛くなるほどの咳き込みへも、心配すればするだけ余計に相手を不安にさせてしまう。
水差しのひとつ、取れない身にと恥じるから、感謝さえ出来ない。
ただ、そう。
そんな気遣いが、擦れ違うことなく、互いに柔らかい気持ちを与えるふたりだった。
「――救われたいと思わないですか?」
水を含み、微笑む女性。
幾つもの点滴のチューブの繋がる腕を、セラフィへと伸ばして。
痛々しい程に細い腕だ。もう外れないようにとしっかりと固定された点滴の管。命を繋ぐ薬と、残った生の細さを示す。
「例え、この命が潰えたとしたも。善き処に行きたい。善きものとして生きいたい。そうは思いません。救われる、とは、きっと、そういうことなのです」
「矛盾ですね。俺には判りません」
「あなたは頭がいいのに、時折、とても頭が悪くなりますね」
「……確かに、あなたは信条として。信じるものとして、無理なのかもですが」
セラフィがちらりと見たのは病室の机の上。
個室ならばと飾られた絵画や花瓶といった上品な調度品に反して、質素な、それでいてとても分厚い本。神の子の教えを記したそれ。
表紙にその象徴である十字架さえない。言い換えれば、それほどに丁寧で真摯に扱われたものだ。
あくまで、何処までも。教えは教えである。尊ぶべきは、想いであると。
「ロマンチストも大概にしておくだい。俺とて、あなたが咳き込むばかりの日々はうんざりです」
いかにも苦しそうな。それでいて、無理に明るくするような、力のなさが青年の声に出ている。正直、この時、この時期のセラフィは呆れていたのだ。
続く女性の声は、何処かのんびりしているから、余計にどうしようもない。
「吸血鬼化、でしたか。世間ではそのような物言いをしているのですよね。もっとも、ただの治療行為や、臓器の人工化と実際は変わらないのでしょう。もっとも似ているのはワクチンですか」
「だったら」
そう、だったらだ。
単にこれは病気の、ウィルスの突然変異とその応用。
医療技術の発達。不老と身体変異をもたらすもの。究極的には一度施せば医療というものを不要とする程のものだ。研究途中だった生体ナノマシンですら無意味となっている。
吸血鬼化など起きるデメリット――他者から血を呑まなければ生きていけなくなる、というものさえ差し引けば。
血から、大元となった遺伝子のパターンを摂取しなければいけない、ヒトの生き血で永らえるということさえ無視すれば。
「だからですよ。……不老、でしたか。私は、ただ貴方と老いて、泣いて、苦しんで。そうやって助かりたい、救われたいのです。痛い。ああ、それでもいいのですよ」
「あなたは被虐趣味でもあるのですか」
「自殺願望はありませんよ」
「応えになってませんよ」
嘆息。困った。口で言い負かしてはいけない気もするし、そもそも勝てる気がしないのだ。
何時も。そう、幼い頃に財閥の一族で出会ってからずっとだ。
その時から身体は弱く、長くはないと言われた彼女。一方で急速に発達していく医療技術は、彼女を生きながらえさせるには十分だった。
病の進行より、治療技術の方が速かった。
だから少しずつ元気になり、恋人となり、将来を考えて、「セラフィは洗礼をしないのは残念です。でも、そういう処が」と。
「私は、そういう処が好きなんですよ。そういう不器用で、頭の悪いセラフィが好きなんです」
「…………」
そう。何時も、何時も負けてしまう。
本当に強いというのはきっと、こういうこと、ではないのだろうか。
「病気で満足に歩けませんでした。十分に光を知りません。音楽を聴き付けるだけの体力も。ええ、ええ、私の人生は不足ばかりです」
「だから」
「でも、それに怒ってくれるあなたがいたではありませんか。それが、健常でない現実が理不尽だと。なのに、私を気遣って、声量を何時も抑えてくれる。そんな優しいあなたが、セラフィがいれば、不足はあっても、足りないと飢えることはないのです」
「俺は、あなたがいないと、この人生は物足りません」
「足りるでしょう。あなたは、私がいなくても生きている。私は、セラフィがいないと生きていけない」
――事実、そうだったのだから、もう何も言えない。
「しかし、そういう話ではないのですよ。……当たり前ではありませんか。あなたがいても、まだ善き処へ、より光の射す場所へ。暖かい処へ。……当たり前のことでしょう?」
「だから、健康になればいいだけでしょう。そうなれば、例え鬼と言われて、血を啜るようになっても、貴女には見て欲しいものがある。聞いて欲しいものがあるんです」
「一緒に? ……ああ、だとしたら」
そうだ。
セラフィの想い描いた光の射す場所というのは、この女性が微笑んでいる傍でしかない。
暖かい声。繊細で、咳に言葉の最中を千切られても、決して忘れない芯の強さ。恥ずかしいからと、健康な光に背を向けたりしない。
羨ましいなら、手を伸ばすのだ。
それは自分が欲しいと想うから。
欲しいということは、決して、浅ましいことではない。
「……何と幸せで、救いなのでしょう」
自分達は地上を失った。地下の中で生きている。
だからこそ、限られた中で精一杯を求める。何ら変わったことのない、当たり前だ。そんな当たり前を味わって欲しくて。
「だからこそ、永遠でありたくない。あなたと、セラフィと善き処へいきたいのです。救われたいのです。……声を大きく出せないから叫べませんけれど、実際、これは私の絶叫なんですよ。判っています?」
「はいはい、判っています。貴方の好きなセラフィという俺は、そういう機微もちゃんと判る男ですよ」
貴女のこと以外、何も判らず鈍い男だけれど。
そういう処が好きだといってくれた手前、身勝手な自暴自棄は許されないだろう。
「それでも、そんな救いはいらないと」
「例えば。そう。百年の時がたった時、私はあなたを、セラフィを好きでいられるでしょうか?」
「…………?」
そう。どんなに驚愕しても、この女性には真っ直ぐでありたかった。
勝ち負けに拘る性質ではなく、セラフィという青年の本質はただ守りたい。救済にこと、我が身をおくもの。
そういう意味ではよくにたもの同士を愛したのだろう。
「この十年。一日も同じ好きと、愛している。それを、私達は抱き続けたのでしょうか。募り、募り。想い、重なり。激しくも、或いは、静かに」
「それは」
「ええ、多寡という意味ではありません。変化。常に想いや心、感情は移ろうのです。もしかしたら昨日のほうが好き、という重さはあったかもですね。でも、今日抱いた好きの激しさは、とても強いのです。そんな風に、心は、変わる。景色のように」
「――――」
「心が変わるのは、身体が変わるから。下手に弱く産まれたせいで、育ったせいで、とてもそれは判ります。俗ですけれどね。……同じ思いは、決して、ない。その刹那にだけ抱くのです。瞬きひとつで、変わってしまう。……ね、目を閉じて。の次はキスが続くでしょう。キスひとつで、変わってしまうでしょう」
「黙りなさい」
「黙って欲しくないのに」
だから勝ってはいけないし、そもそも勝てないのだ。
セラフィはこの女性に敗北を捧げたといってもいいだろう。
数百年に渡る中、最強の剣士との名を得た男の真実はそれだ。決して負けない、負けたくない。勝ち負けに拘り、競うことを好んだのではない。
ただ、一途な想いが彼の脚を折らなかった。膝をつかせたままにさせなかった。自分を信じてくれたヒトの為に、決して自分は不幸ではないと、折れた剣である事実を無視し、飛翔して超越するように。
「……ね、そんな一日、一日。百夜と一月。十二で一年。そうやって重ねた今のように、百年後に色褪せない想いを、セラフィに抱き続けられるでしょうか」
――ああ、貴女に愛されて変わったように
貴女の愛を失ってから、セラフィというモノは変わった――
「変わらない。不滅なるもの。それが愛では」
「信仰と希望と愛は不滅なのです。尊ぶべきものなのです。でも、移ろうものです。そして、魂は不滅ではない」
そうだと、囁く。優しくも、繊細に。強くも儚く。
このヒトは自分の想いに焼かれて死ぬひとだと、象徴づけるような果敢なさで。
「愛して、老いて。その先、ヒトであることを越えて、あなたを、変わらぬヒトの愛で愛し続けられる自信がありません」
「そんなの」
「不滅なる、恒久たる愛を誓うのです」
現実と日常は無残に想いを食い散らすのだと。
時間というものの恐ろしさを何より知っているひとだから。
そう。医療は進歩する。だから生きていける。けれど、その進む速度が、秒針がおいつかれたら。或いは、止まってしまったら。
「……貴女のいない世界に、愛などないでしょうに」
そう。止まってしまったのだ。
だって、医療は進歩する必要がなくなった。
本当に困ったら、もう末期の癌だと発見した時に判っても、吸血鬼化という手がある。それを施さないのは本当の意味での恵まれたものだ。
豊かに過ぎて、人間性、というものを黄金より、魂より不滅で大切なものだという。希望や愛と同類だと。
そんなもの触れられないというのに。
こうやって、細くなってしまった、細く戻ってしまった指を握ることさえできなかったら、どうするというのだ。
「私は、セラフィを愛せるならそれで構いません。だってね」
「だってが、何ですか。俺はあなたにとって都合のいい人形じゃない。愛して欲しい。愛し続けて欲しい」
永遠がそこにあるのだ。
不滅なるものになれるのだ。
「――だって、貴方は、セラフィという男の魂は私を追い掛けて、善き処へと辿りついてくれると信じている」
そう。と、セラフィの手を握り、持ち上げ、その唇を触れさせる。
敬虔なる信者が、聖者にするように。
神託を司るものが、祝福を施すように。
或いは、罪人が許して欲しいと、跪くように。
「一秒ごとに私達は、少しずつ、人間性を失っていく。いえ、変わっていくし、時の流れは心を削っていく。いずれ、私達は温もりや愛を忘れてしまうのでしょう。肉体はきえても精神と魂は不滅で不変? そんなことはない。一秒ごとに罪を重ねてていく。それを贖って、善き処へと」
それは死想の概念。
死んだ跡に、善き処へと。
天国へと旅立つ翼が欲しい。
白鳥のように清らかなさなんてヒトには出来ないから、せめて少しだけでもと。
罪のひとつひとつ、優しさと愛で打ち消していこう。
詠うように語る女性は確かに愛おしい。守りたい。救いたい。
「……病気の治療、その研究は止まります」
「それが。どうしました」
「触れられないものが存在しない。とは言いません。俺は」
「でしょうね」
「でも、触れていたのです。せめて、せめてと。それは、罪でしようか」
「ならば死という罰も然るべきでしょう」
「貴女は」
「貴方は」
――そう、言っていることを双方向で理解している。
「愛は変わる。肉体と共に。ならば、不滅の吸血鬼となって、私はあなたが変わらない愛を抱き続けるのもできない。と、思っている」
「何より、貴女は、罪を重ねていくのだと仰る。罪を重ねて生きたくはないと」
結局、それが真実。
罪がひとを変えていく。時という罪が、ヒトの心と精神を削っていく。
罪を重ねずに生きていくなど不可能だ。
そして、それに慣れていくのがひとならば。
「私は――ヒトとして感じる筈の罪を、感じなくなってしまうのが怖い。愛を冒涜するのは罪です。ですが、永遠を生きる中、幾たび、セラフィへの愛を踏みにじるのでしょう」
それが、現実。
そうして。
「――セラフィ、貴方は幾つの罪を私への愛といって、捧げるのです?」
唇から流れた血の、吐き捨てたくなるような苦さを覚えているから。
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