Extra2 心愛
私の家は母子家庭だった。貧しいながらもそれなりに幸せと言える生活を満喫していた。子どもの頃一度だけ母に父親について尋ねてみたことがあった。子ども特有の純粋な好奇心。だけど母は押し黙り何も答えてはくれなかった。幼心にタブーというものを理解し、それ以降父親に関することを聞くのはやめた。
私が高校を卒業するのと同じタイミングでそれは唐突に訪れた。母が病に倒れたのだ。
家には病院に入院させるお金などないので自宅で療養することになった。私は近場で就職して仕事以外の時間は母の看病に充てた。そんな生活が約4年ほど続いて終りを迎えた。
母は亡くなる前、自分の死期を悟ったように私に「この先、もしも生活に困るようなことがあったらこれを持って来米村の村長のところに行きなさい」と語った。そして譲ってくれたのは預金通帳だった。
その通帳に記載されていたのはたった一行。金額はちょうど1000万。振り込まれていた日付は私がまだものごころつかない頃だった。母がこんなものを隠し持っていたなんて驚きだった。このお金があれば多少は贅沢できただろうに、一切手を付けずに20年もそのままにいしていたのだ。
母が亡くなった後私は村長を訪ねてみることにした。別にお金に困っていたわけではないけど、母の残した言葉の意味を確かめたかったからだ。
来米村は私の住んでいる町の隣りにある寂れた村の名だ。隣りにある村と言えども足を運ぶ理由がなければ一生行くことはない、そんな場所だ。
初めて来たその場所は噂通りのなにもない村だった。早速役場に行って村長を訪ねてみたのだが、アポ無しでは会えないと門前払いにあった。
それはそうだ。仕事で忙しい立場にある人間と会う時は事前に連絡を入れるのが社会の常識だ。だけどせっかく時間を掛けてここまで来たのにまた出直さないといけないことがひどく億劫に感じた私は、勝手に待ち伏せることにした。
役所の外にある花壇の縁石に座って待つこと数時間。
役場の前に一台の車が止まった。黒塗りの高級車で降りてきたのは2人の男性。ひとりは和装の男性で、昔読んだ歴史を題材にした漫画に出てくる美髯公のような人。もうひとりはスーツ姿の眼鏡を掛けた好青年だった。
その2人を見て私は直感的にこの人がそうだと思った。そして2人に声をかけた。
当然ながら訝しがられた。髭の男性は厳つい顔で私に視線を向け、眼鏡の男性は村長を庇うように間に入り「アポは取ったのか? こういう事をされては困る」と諭す。
そこで私は持っていた通帳を取り出し母からあなたを頼れと言われたと説明した。
眼鏡の男性が不審がりながら通帳に手を伸ばそうとするのを村長が止めた。
「君、名前は?」
訊ねられた私はこう答えた。
「立花、立花心愛です」
すると、村長の顔色が明らかに変わった。
…………
村長の好意で私は村長室に通された。彼――来米蓮司さんは机に向かって座り私が持ってきた通帳をじっと見つめる。
「そうか……彼女は手を付けなかったんだな……」
どこか感慨深げにひとりごちる。
来米さんは通帳を閉じて机の上に置くと、私に対して「今まで済まなかった」と頭を下げた。
「……え?」
事情の飲み込めていない私は何が起こっているのかわからなかった。
それを察した来米さんが「ああ、そうか――」と面を上げる。
それから、「君は私の娘なんだよ」とわけのわからないことを言い出した。
――
私の母は私が生まれる前は来米家のお手伝いさんとして住み込みで働いていて、来米さんとは親しい間柄にあった。
当時の来米さんと来米さんの奥さんはあまり仲がよくなかったらしく度々衝突していて、その愚痴を私の母が聞いてあげる。そんな関係が長く続くうちに蓮司さんの思いは私の母に傾いていったのだそうだ。
一方、来米さんの奥さんは、来米さんとの喧嘩で溜め込んだストレスのはけ口として私の母に辛く当たるようになっていった。そして母は日に日に酷くなる仕打ちに耐えられず家を飛び出した。
その後来米さんは仕事の合間を縫って私の母を捜した。そしてついには見つけ出し母の家を訪ね、その時母に渡したのが例の通帳だった。
――というのが大まかな話。
いきなり村長の子どもだと言われても正直ピンとこなかった。だからといって来米さんに対して怒りを覚えたかと言うとそういう感情もなかった。私はひどく冷静にありのままの事実を受け入れることができていた。
「彼女が私の子を身ごもっていることは知っていたよ。だからこそ家を飛び出したと聞いたときには気が気ではなかった。たったひとりで子どもを生んで育てていくことは生半可なことではないからな」
だけど母はそれを成し遂げ私がこの歳になるまで育ててくれた。私は母を誇らしく思った。
「ところで君のお母さんは元気かね?」
そう言えば、来米さんにはまだ母のことを説明していなかった。
「母は先日他界しました」
「…………」
来米さんはしばらく押し黙りそうかと小さく呟くように言った。
「君はこれからどうするつもりかね? もしよければ家で働かないか? ――住み込みだから家の心配はないし給料もそれなりの額を出す。何より……」
来米さんはその先を言葉にしなかった。だけど何が言いたいのかはなんとなくわかった。来米さんはきっと罪滅ぼしをしたいのだ。母を死なせてしまったのは自分に責任があると思いこんで、母を幸せにできなかった分私を幸せにすることで罪を償おうとしているのだ。
…………
私は来米さんの申し出を受けた。理由は、現状の先の見えない生活に対する不安だった。それに対して来米家での仕事は衣食住は保証されていてそれとは別にそれなりの額の報酬がもらえるという破格の条件だったのだ。
来米家で働く際に立花という姓を隠し鹿谷を名乗ることになった。その理由は、来米家に仕えるもうひとりのお手伝いさんは母のことを知っていて、名字で私の素性に気づく可能性があったからだ。公には来米さんには血の繋がった子どもがいないことになっているので、些細なことからそれが露見することを回避するためだ。
来米さんに連れてこられた家はとても大きな家だった。これまでの生活が嘘みたいな生活がで、お金の力の偉大さをまざまざと感じた。
トミさんはとても優しくていい人だった。
晶子さんも優しくて笑顔が素敵な人だった。
茉莉さんは……
蓮司さんと晶子さんの間には複雑な事情があるということは聞かされていた。だから多少は推し量れる部分があった。だけど晶子さんの娘である茉莉さんに対してはあまりいい感情は沸かなかった。
いい年して仕事もせずに毎日遊び歩いてばかりで苦労とは無縁の生活を謳歌していた。血の繋がっていない連れ子の分際でふざけるなという感じだった。
実の娘である私はずっと苦労し続けてきた上、今度は来米家でグータラ女の世話をさせられるというのだから、この差はなんだと叫び出したい気持ちでいっぱいだった。
私のダメなところはそういった感情を隠すことができないところだった。普段の生活の中で茉莉さんに対して露骨に嫌な感情を出してしまっていた。だけど当の本人は大して気にした風でもなく……それがまた私を苛立たせる原因にもなった。
来米家での仕事が板についてきた頃、来訪中の橋口さんに声をかけられた。橋口さんは次期村長で茉莉さんの許嫁の男性。
度々家に来ては来米さんと夜遅くまでお酒を飲みながら談笑しているので家に来ること自体は珍しいことではなかったが、直接話しかけられるのはその時が初めてだった。
そして、彼の言葉に耳を疑った。
彼は私と来米さんの関係を知っていた。その上で協力して欲しいことがあるのだとお願いされたのだ。お願いと言えば聞こえはいいがこれは立派な脅迫だった。そのときの私は自分がどうすることが最善なのかわからず彼の言葉に乗ってしまったのだった。
橋口さんの立てた計画は、この村に大型の商業施設を誘致することだった。さらに山を切り開いてゴルフ場を建設する予定なのだとか。そのためには山の中腹にある今は使われていない紡績工場が邪魔になるらしくこれをどうにかするというものだった。
その方法はすごく単純。茉莉さんと結婚して来米さんを亡き者にして遺産を相続することで橋口さんに所有権を移すというものだった。自分の持ち物なら自分がどうしようと問題ないから。
来米さんを亡き者にするという計画には当然反対したけど、そこまで強く拒むことはできなかった。秘密を握られているという手前仕方なく受け入れるしかなかった。
加えて橋口さんは元はと言えばっ私が不幸になったのは他でもない来米さんの所為だと私に言い聞かせるように言う。悪いのは来米さん、悪いのは来米さんと言われ続ければ不思議とそうなのかも知れないと思うようになってくる。
そして極めつけは、来米さんを亡き者にした後茉莉さんとの婚約を破棄して私と結婚すると言い出した。来米さんが亡くなった後で私が彼の実の娘であると名乗り出て家を継ぎよそ者を追い出すのだと。
ここまでになると、もはや何がなんだかよくわからなくなってくる。だけど不思議と彼の言葉を信じるようになっていった。
…………
定期的に橋口さんが家にやってくるようになった。時には表立って、時には密かに。家にやってきた彼と一緒になって私は屋敷内の来米さんが足を運びそうな場所にトラップを仕掛けていった。
それから私は橋口さんの命令で来米さん宛の脅迫状を郵便物に紛れ込ませる役を請け負った。脅迫状が届いた後で来米さんがトラップに掛かって事故に遭えばその犯人は脅迫状の送り主という話になるという筋書きだった。
最初は警察沙汰になって、定期的に見回りの人が来るようになってどうなることかと思ったけど半年経つか経たないかくらいでほとぼりが冷めた。一向に来米さんに危害が加えられることがないとのことで悪戯として処理されたのだ。
しかし、計画がスタートしてからおよそ1年。中々思った通りに事が進まないことに橋口さんが若干の苛立ちを見せていた頃、計画は思わぬ形で綻びを見せた。
来米さんに危害を加えるための罠が別の人間に対して発動してしまったのだ。
最初は晶子さんのお兄さん。次はたまたま遊びに来ていた茉莉さんのお友達。最悪のタイミングでアクシデントが続き、私は不安にかられていた。
そんな事件が起きてままならない中、橋口さんは朝早くにわざわざ私に会いに来てくれた。ここに自分がいることは誰にも知られたくないと言う橋口さんと蔵の影で逢瀬を交わす。
私が自分の不安を彼に打ち明けると、彼は親身になって話を聞いてくれて優しい言葉をかけてくれた。最後に事件とは関係のない“あること”を彼に伝えようとしたところで不意に唇を奪われた。
これをされると、私はもう何も言えなくなって、去っていく彼をただただ見送った。
橋口さんのことだからすべてが上手くいった後で改めて話しても大丈夫。彼のあっと驚く顔が目に浮かぶようでついつい頬が緩んでしまうのだった。
…………
運命とはなんと残酷なのだろうか……
母の境遇然り、私の境遇然り。
一方で茉莉さんのようになんの苦労もせず自由を満喫している人間もいるのだから、神様とは実に悪魔のような存在ではないだろうか――
お座敷に集められた私たちに茉莉さんは真実とやらを詳らかに語った。私と橋口さんの計画は見事に砕け散ってしまったのだ。
それだけならまだいい。
問題は橋口さんが別の女性と関係を持っていたことだった。その事実を理解した時、私の心を支えていた芯がボキリと折れた。
私は声を殺して泣いた。
横目で橋口さんを見遣ると、彼は自己弁護をするばかりで私を庇おうともしない。所詮私も彼の計画を遂行するための駒でしかなかったというわけだ。
蓋を開けてみれば、橋口さんと私の関係は、過去の来米さんと母の関係にそっくりだった。もしも橋口さんが村長の座についていたらまったく同じ構図になっていたのだ。
――ううん。違う。
少なくとも母と来米さんの関係は他人を不幸にしようと思ってやったことではなかったはずだ。それに引き換え私は、晶子さんと茉莉さんを家から追い出すという不純な理由で橋口さんとの関係を持った。母とは似ても似つかない。
バチが当たったんだ……きっと……
私は涙が枯れるまで涙を流し続けた。
――――
その日はもう何もする気が起きず、家の仕事はすべてトミさんに任せた。私に充てがわれた離れの部屋でこれからどうすべきか考えていた。
初めは黙って家を出ていこうかとも考えたが考え直した。――それでは母と同じ過ちを繰り返すだけだから。
ならばここにいさせてもらうしかない。だけど、あれだけの騒動があった後で何食わぬ顔でいつもの生活を続けられるほど私の神経は太くない。
「謝ろう……」
それから、来米さんにはちゃんと話をしておかないといけないこともある。
来米さんがどのような結論も出そうとも私はそれに従おう。それが私が付けなければいけないけじめだ。
思い立ったが吉日……というわけではないけど、最初に蓮司さんのもとへ行くことにした。
…………
「え……な、に?」
目の前で信じられないことが起こった。
庭園を模した庭の石橋に知らない女の人がいた。そしてその人が来米さんを池に突き落とす瞬間を見てしまった。あまりの出来事にその場を動けずにいると、女の人が私の存在に気づいた。
「おやぁ? まさか人がいたとはね。私もまだまだ詰めが甘いってことか」
その言葉とは裏腹に女性には焦ったような態度は見られない。それどころか冷静な足取りで私に近づいてくる。
逃げなきゃ――
瞬間的にそう思った。
それからすぐに助けを呼ぶことを思いついた私は声を張り上げようとした。
「だれ――かはぁ!?」
お腹に重たい一撃が浴びせられる。あまりにも強烈な一撃に私は気を失ってしまった。
――――
「う……ぅん……?」
気がつくと私は真っ暗な部屋で意識を取り戻した。視線の先には見覚えのある梁、それでここが蔵だとわかった。
「ありゃりゃ? 気がついちゃった? 気を失ったままでいれば楽に逝けたのに、ね――!!」
「――うっッグ!?」
その瞬間、私の首が締め付けられそこを支点にして体が中に吊り上げられた。
宙に浮く体。私は足場を求めてもがく。
「もうすでにひとり殺しちゃってるし。あとひとり増えたところで変わんないしね。あ――、増えるのはひとりじゃなくて“ふたり”か」
この人どうしてそれを――
「あ、今どうして知ってるのって思った? 『天知る地知る我知る人知る。誰にも知られぬ悪事はない』ってね。つまりそういうことだよ」
それは悪事や不正は必ず露見することを言ったことわざだ。私だけの秘密だったのに――そう思っていたのは私だけだったというわけだ。
「それにしても無計画にバカスカ出しまくる男ってほんとやんなっちゃうよねぇ。ま、それを拒否しなかったオマエも同罪だけどね。そのせいで死ななくても良かったはずの命が私に殺されちゃうわけだし」
女の人は細い目をより細めてギャハハと笑った。
この状況でどうして笑っていられるのか理解できなかった。理解したくもなかった。
「うぅん――結構しぶとい? んじゃ手伝おうか?」
女の人はそう言うとジャンプして私にしがみついてきた。
「――うぃっ、く――ッ!?」
縄が支える重さが倍近くに増え首に食い込む縄がよりきつくなる。
爪を立て引き剥がそうと必至にもがく。そんな私をあざ笑うかのように「ほれほれ!」と、しがみついた女の人が下へ下へと体を揺らす。
「――ぐおっ? おぎゅ……んんんっ!?」
体の奥底から得も言われぬ大きな波が押し寄せてきたかと思えば、全身から一気に力が抜け、血の気が引いていく。もはや抵抗することもできない。
「あ、もしかして逝った!? 逝っちゃった!?」
女の人が私から飛び退く感覚があった――と同時に自らの魂もどこか遠くへ飛んでいった。
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