Extra1 蓮司

 来米蓮司は石橋の上に立ち鯉に餌をやっていた。彼は朝と夜は必ず自分で餌をやるようにいしていた。特に夜は餌をやりながらその日一日にあったことを考振り返りながら考えをまとめるのが彼の日課となっていた。


 そしてこの日は昼に起きたあの出来事のことを考えていた。


 ――――


 池に向かって餌を放ると、腹をすかせた鯉たちが水音を立てながらそこに群がった。橋の傍にはポールライトが立ててあって暗がりでも池の様子は確認できる。


「村長になる……か……」


 私の考えが古いことは私自身重々承知していた。しかしそれでも茉莉が村長になるのを頑なに拒むのには理由があった。


 それは来米家が隠してきた黒い者たちとの交流。来米家では村長の座についたものが代々それを受け継いでいる。ハッキリ言ってしまえば茉莉に村長の座を継がせることは容易だ。だが、茉莉と彼らがうまくやっていけるとは到底思えないし、私自身茉莉に彼らを近づかせたくないと思っていた。ならば雅治はいいのかということになるが、彼ならうまくやってくれるだろうと思っていた。


 しかしそれも先程までの話。雅治が私に隠れてやっていたことを知ってしまったことで、私の考えは180度変わった。


「終りが近いのかもしれないな……」


 これまでやってきたことをすべて公表してしまおうか。それをしたら確実に私は殺されるだろう。だが自分ひとりの命で彼らとの縁を断てるのならばそれでありなのかもしれない。


 だが問題は――


「何が終わるのかな?」


「む!?」


 反射的に声のした方に顔を向けた。


「やぁ! こんな夜遅くに餌やりかい?」


 そこにいたのは佐伯撫子だった。私の考えを阻止するかのように突然現れた彼女。彼女こそが来米家との繋がりを持つ黒い噂のある者だった。


 キツネ目が特徴的な女性で、歳は20代前半に見える彼女だが、奇妙なことに初めて会った頃から彼女の容姿は一切替わっていない。化粧で外見を取り繕うことはできても流石に限度というものがある。ならば整形かとも考えたが、この国にそれほどまでに高度な整形技術があるという話は聞いたことがない。仮にそれが可能だったとしても、歳とともに体の内面――骨、筋肉、臓器にガタが来るものだ。しかしながら彼女は健康そのもののであった。そういう意味において真に奇っ怪な人物であった。


 私が彼女と初めて出会ったのは18の頃、父の紹介で出会った。交わした会話は決して多くはなかったが、子どもだなという印象を抱いた。外見が20代前半なのに対して言動が子どもじみていたのだ。まるで大人の体に子どもの精神が宿ったようなそんな感じだ。


 佐伯撫子の紹介とともに父から知らされた来米家の秘密――それは、来米家には先祖代々管理してきた紡績工場にあった。私が生まれるよりも前に潰れてしまってすでに廃工場となっていたその場所は、表向きはただの廃工場なのだが、その地下に研究施設が設けてあり、そこで非合法な薬物の研究をしているのだ。そしてそれを管理しているのが彼女、佐伯撫子というわけだ。


 その話を聞いた私は犯罪の片棒を担ぐことに良心が傷まないわけではなかったが、工場跡を貸す見返りとして莫大な金を得ていて、その金がこの村を支えるための資金源となっていると知って口を噤むことを決めた。


 最後に私は父から彼女には絶対に逆らうなと釘をさされた。確かに金銭的な援助を受けている立場上逆らえないのはわかる。だが父の言い方は、立場的なものではなく佐伯撫子自身を恐れているようなそんな口振りだった。父から見れば彼女は若造だ。時代的にも女性の地位がそんなに高くない時代に何を恐れることがあるのかと疑問に思ったのだが、この父の言葉の意味を私は数年後に思い知ることとなった。


 それは茉莉の実の父、伊藤鉄矢が亡くなった事故だった。


 今から24年前、私が村長を任されるようになって2年ほど経った頃の出来事だった。安西鉄矢は役所で働く職員の一人だった。とても優秀で私も自然と彼に様々な仕事を振るようになっていた。そんなときに起きたのがあの交通事故だった。


 しかしながらそれは事故などではなく、佐伯撫子が車に細工をして故意に引き起こしたものだった。それが発覚したのは彼女自身が私にそう証言したからだ。伊藤鉄矢が殺された理由は、彼が廃工場の地下の秘密を知ってしまったからだった。そしてその原因を造ったのは紛れもないこの私だ。彼に色んな仕事を任せるうちに、私はつい廃工場に関する仕事を彼に頼んでしまった。その時彼は秘密を知ってしまったのだ。


 私は戦慄した。この女は秘密を守るためなら平気で人を殺せる人間なのだと。そして、警察が車の細工に気づかないはずがなく、それが公表されていないということは彼女の力は警察権力をも凌駕しているということを暗に示していた。


 この時私は父が言っていた絶対に逆らうなと言う言葉の真意を噛み締めていた。


「日課でね、どんなに遅くなっても欠かさないようにしている。それにまだ6時を過ぎたところだ。遅くはないだろう」


 心の内を読まれないように平静を装って会話に興じる。


「でも空は真っ暗だ。夜には変わりない」


「ところで私に何かようかな?」


「あ、そうだった。これ返しに来たんだった」


 そう言って彼女はポケットから鍵を取り出し私に向かって差し出した。手が塞がっていた私は一度鯉の餌を下に置いて、彼女から鍵を受け取った。その鍵は蔵にしまっておいた廃工場の鍵だった。


「君の仕業だったか……」


「別に勝手に持っていってもいいって約束だったじゃん」


 つまり蔵の鍵を壊したのは彼女ということだ。蔵の錠前は到底人力で壊せるものではないが、それをやったのが彼女であると言うなら納得だ。謎多き女である彼女なら何をやっても、何をやれても不思議ではない。


「それにしてもよかったのか? 英太が君とすれ違ったそうだが、拙いんじゃないのか?」


「英太? ……ああ、あの小太りのおっさんね。別に構わないよ」


「そうなのか? 君は人に見られると拙い立場にあるのではなかったかな?」


「まあ、そうなんだけど。ちょっと事情が変わってさ」


 そう言うと、佐伯撫子はゆっくりと目を開ける。開かれた目の奥に見えるのは緋色の瞳、私は吸い込まれるように彼女の目に釘付けになった。その瞬間自分の体が金縛りにあったように動かなくなった。


「!?」


 自分の体に何が起きたのか理解が追いつかないでいると、彼女はゆっくりとこちらに歩みを進めてくるr。


「ほんとはさ、こっそり鍵を返して帰るつもりだったんだけど……キミの家がゴタツイてるっていう知らせを受けてさ、もしかしたらって思ったんだよ」


「な、に?」かろうじて口を開くことはできた。「聞いた……というのは?」


 騒動というのは間違いなく今日の昼の出来事だ。彼女はそれをどうやって知ったというのか。


「ま、それは別にどうでもいいんだけどね。――タイミング的にも重なったことだしちょうどいいかなって思ってね」


「何の話かね?」


「研究所をたたむことになったんだよ。さっきようやくその作業が終わったってわけ。まあ、とにかくそういうことだからさ。アセンブルに関する情報を持っている人間をひとり残らず掃除しないといけなくなっちゃってね」


 アセンブルというのは彼女らが秘密裏に製造していたクスリの名前だ。そして、彼女の言う掃除というのは部屋を掃除する意味のそれではないことは容易に理解できた。


 佐伯撫子が私の背後でに立った。


 なんとかその場から逃げようとするも、体が私の命令を一切受け付けようとしない。


「冬の水は相当冷たいらしいからね!」


 背後から嬉々とした声が耳に届く。


 そんな事は言われなくてもわかっている。だがどうしてこの状況で嬉しそうにしているのかは理解できない。


「やめないか!! 私は誰にも口外するつもりはない!! これまでもそうだっただろう!?」


「あっそ」


 佐伯撫子がそっけない返事とともに私の背中を押す。


 私の体は横倒しになるようにして池に向かって落ちる。池に落ちる直前佐伯撫子ではない別の声が聞こえたような気がした。


 池の冷たい水が身にしみる。体が動かせないためもがくこともできず、ただうつ伏せの状態水面に浮かぶ。佐伯撫子が何か喋っている。だがそれは音として認識できる程度で判然とはしない。


 じわじわと体温が奪われていく。餌か何かと勘違いした鯉が時折私に口をつけてくる。やがて息が苦しくなり口を開けてしまうが入ってくるのは水ばかりで一向に苦しさは解消されない。


 意識が遠のいていく感覚。走馬灯のようにいろんなことが頭に浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返しやがてはそれも失くなった。

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