第9話 狙われたのは誰?

 バスが来米家に着く頃には夜の6時を回って辺りはすっかり暗くなっていた。暖房の効いていたバスを降りると、一段と風の冷たさを感じる。暦の上では立春を迎え春が来たことになってはいるが体感的にはまだまだ冬だ。


「さっむ!」


 茉莉が暖かな家が恋しいとばかりに少し早足で家の門をくぐる。


「ちょっと、茉莉! あんまり慌てると前みたいに転ぶよ!」


 玄関までのアプローチが凍結しているということはないけれど、暗がりで足を取られて転ぶことは十分にありえる。


 そんなわたしの心配を他所に茉莉はスタスタと歩いていく。茉莉を追うようにこちらも歩くスピードを上げたその矢先に事件は起きた。


 ちょうど池を渡すように設けられたアーチ状の石橋の中腹あたりに差し掛かった瞬間――


「んにゃぁっ!?」


 真下に引っ張られるような感覚に襲われ池に落ちた。


「んぎゃば――!!」


 いきなりの出来事に冷静さを失ったわたしは暴れ、もがく。


「八重様!!」


「助け――って!!」


 ――わたし泳げないんだよ! 溺れて死ぬから!


 テンパりすぎて思ったことが声に出せない。 


「ちょっと楡金ちゃん!? 寒中水泳!?」


「ちが――ぅ!! 助け――って!!」


「いやさ……池浅いから。普通に足つくから」


「……え?」


 茉莉の一言で冷静になるわたし。


 よく考えればもがく手が池の底を掻いていることに気づく。立ち上がって見ると、池の水は膝と同じくらいの深さだった。

 すると今度はさっきまで必死だったせいで感じていなかった水の冷たさが一気に襲ってくる。


「はっ……は、う」


 縁まで歩いてよじ登り池を這い出る。濡れた服がピッタリと肌に張り付いて、そこに風が吹きつけるたびに体の熱が奪われ芯まで冷えていく。


 ――ヤバい……このままだと凍え死ぬ……


「大丈夫ですか、八重様!」


 明里が四つん這いのわたしに視線を合わせるようにしゃがみ、心配そうに顔を覗き込んでくる。


「む、むむっむ……む、り……」


 歯の根が会わずうまく喋れなかった。


「卯佐美ちゃん! そっち抱えて!」


 2人がわたしの体を両脇から抱え無理やり立ち上がらせてくれる。


 そして玄関へと……


 自分ではちゃんと歩いているつもりだけど、それはつもりでしかなく、わたしの体は半ば引きずられるように運ばれていく。


 明里が相変わらずの無表情でわたしを見つめてくる。眼鏡の奥の澄んだ瞳がわたしの顔を捉える。たぶん心配してくれてるのかななんて思っているとその視線が下へと移動してわたしの胸のあたりで止まった。


「あ……あきゃ、り……?」


 わたしが声をかけると、明里は慌てたように視線を上げて何事もなかったかのように前を見据えた。


 明里は何も言わなかった。でも絶対わたしの胸を見てた。


 なぜ……?


 コートを着ているから下着が透けたりとかはないけど。意識するととたんに恥ずかしくなってくる。


「うん? なんか言った?」


 茉莉の言葉に対してふるふると首を左右に振った。


 ――――


 家に入るとちょうど廊下を通りかかったトミさんに茉莉が事情を説明して。すぐにお風呂の準備に取り掛かる。


「それじゃあ、すぐに風呂の準備をしてきますね」


 トミさんが早足で家の奥に消えて行く。


「とりあえずアタシはバスタオル持ってくるから待ってて」


「はい」


 明里が返事をした。


 わたしは首を上下に振るので精一杯だった。


 人がいなくなって、明里と2人だけになる。


「八重様失礼しますね」


 そう言うと、明里はなぜかわたしのコートに手をかけた。


「ぅえ!? あちょ? なん、で?」


「濡れた服を着ていたら風邪を引いてしまいます。それにこのまま家に上がるのは来米さんに迷惑ですよ」


「うぁあ……でも……」


 明里はわたしの服を無理やり脱がし始めた。寒さで体がいうことを聞かず、抵抗することもできず、あれよあれよという間に裸にされたわたしは、最終的に明里の着ていたロングコートを羽織らされ、全裸にコートと言う状態になった。


「タオル持ってきた――よ……」


 バスタオルを手にした茉莉が、わたしを見て固まった。


「変態だぁ!! 変態がいるっ!!」


 茉莉はそう言ってわたしを指差し茶化すのだった。


 …………


 玄関でずっと待つというのもあれだということで、お風呂が沸くまで部屋で待機することになった。


 暖房をガンガンに効かせた部屋で布団の上にバスタオル一枚の状態で膝を抱え体を縮こませる。


 ハッキリ言ってこの状況、寒さよりも恥ずかしさが勝った。この格好もさることながらさっきの玄関でもやり取りもだ。


 ――明里に裸を見られた……


「あぅ……」


 顔が熱くなる。たとえ同性でも人に裸を見られるのは恥ずかしい。


「顔が赤いですけど。熱でもあるんですか?」


 明里がが心配そうに声をかけてくる。心配そうなのは声だけで表情は相変わらずの無に近い。


 いったい誰のせいだと……とは口が裂けてもいえなかった。


「いやいや。熱ってそんなに早く出るもんじゃないでしょ?」


 茉莉の方は特に心配しているって感じはない。どっちかと言うとこの状況を楽しんでるふうだ。


「いやぁ、それにしても相変わらずだね。背がちっちゃい分栄養が全部こっちに行っちゃったのかなぁ?」


 茉莉の視線が露骨にわたしの胸に注がれていた。


「こっち見るの禁止!」


 わたしは胸元のバスタオルを上げる。


「そうやって隠すとさ、下が見えちゃうんだよ」


 茉莉は口に手を当てぷぷぷと笑い出す。


「うがぁー! もう、あっち行ってよ!」


 手を振り上げると、茉莉はぎゃははと笑いながら距離を取る。


 さっきはわたしのこと変態呼ばわりしてたけど、茉莉のほうがよっぽど変態だと思った。


 …………

 

 お風呂に入って温まったわたしが部屋に戻ってくると、そこには明里がいた。


「八重様、大丈夫ですか?」


「うん体も温まったしさっきよりはだいぶマシだよ」


「そうですか。それよりずっと考えていたんですが」明里はいつものように表情を変えずに、声だけ潜めて言う。「先程の件なんですが、もしかして犯人が八重様を亡き者しようとしたんじゃないでしょうか?」


 明里はわたしの命を狙った犯人が橋に細工を施したのだと言いたいらしい。ここで言う犯人というのはもちろん脅迫状の送り主のことだ。


 ミステリ小説などでは探偵が犯人から命を狙われるというシチュエーションはよくある。だけどそれだけは絶対にないと断言できる。なぜならここにいる人でわたしが探偵だと知っているのは茉莉だけだからだ。


「ですが……」


 まだなにか言いたそうな明里。そんな明里の言葉を遮るように部屋の障子が開いて茉莉が入ってきた。


「あ、お風呂上がってたの? 今ちょうど夕飯食べ終わったとこなんだけど、楡金ちゃんもいる?」


「ん。わたしは大丈夫かな」


「それと。濡れた服はトミさんに洗濯してもらうようにお願いしといたから」


「そなの? ありがと」


「ってかね、思ったんだけどさ。楡金ちゃんまだあんな子どもっぽいパンツ履いてんだね。あのピンクの縞々のやつ」


「ちょっ!? い、いいでしょ別に! 安いんだから!!」


「それにしたって、子どもっぽすぎだよ。まさか学生時代のやつそのまま使ってるとかないよね?」


「なわけないでしょ!」


 あれから何年経ってると思ってるんだ……


「と・に・か・く! 湯冷めしちゃうとあれだから寝るから!」


 わたしは逃げるようにして布団に潜り込んだ。


「寝るって……まだ7時過ぎじゃん」


 茉莉の言葉は無視してわたしは眠ってしまうことにした。


 …………


 早朝、いつもより早い時間に目覚めた。それもそのはず昨日は7時過ぎに寝てしまったからだ。


「5時か……」


 トイレに行きたくなったので、わたしにしがみついて眠る明里をやんわりと剥がして部屋の外へ出た。


 外はまだ真っ暗で軒先の戸板は開け放たれたままで外気が直接廊下に吹き込んでくる。


 わたしはトイレに向かうため玄関の方に向かって歩く。玄関に差し掛かったところでちょうど戸が開いた。両手で抱えるように新聞を持つ鹿谷さんと鉢合わせになった。


「あ……」


「えっと、どうも……」


「おはようございます」


 鹿谷さんは顔を伏せて挨拶するとわたしの脇を通り過ぎようとする。


 その時わたしはを思い出して彼女を呼び止めた。


「あの?」


 わたしが声をかけると鹿谷さんは立ち止まり「なにか?」と振り返る。


「いつも鹿谷さんが新聞を取りに行ってるんですか?」


 鹿谷さんは露骨に訝しげな表情をして「そうですけど」と一言残して廊下の奥へと消えた。


 トイレを済ませて客間に戻ると、明里が茉莉の布団にまで移動して茉莉に抱きついていた。


「楡金ちゃん。朝早いね」


「あ、起こしちゃった?」


「ううん。今さっき自分で起きた。……てかさ、アタシ抱きつかれてんですけど……」


「ははは。明里の癖なんだよ」


「美人なのに寝相が悪いのか……。天は二物を与えずってやつ? いやでも男だったら嬉しいのか?」


「まぁ、明里もぐっすり寝てるみたいだからもう少しそのままでいたら」


「……楡金ちゃん。これ結構苦しいよ」


「うん。知ってる」


 わたしは本来明里が寝ていた布団で横になった。


 …………


 朝食をごちそうになったあと、昨日わたしが足を踏み外した場所がどうなっているのか確認しようと思い外に出ようとした。ところが、玄関に自分の靴がなかった。


「昨日トミさんが洗ってくれると言っていましたから。もしかすると外に干してあるのかもしれませんよ」


「そっか。でもそうなるとまだ乾いてないかもしれないってことだよね」


 何から何までお世話になりっぱなしだ。


 すると、ちょうどそこに茉莉が現れた。


「なんか適当に履いて出れば? 別に減るもんじゃないし」


「そう? じゃあ……」


 お言葉に甘え、下駄箱に入っているつっかけを適当に選ぶ。庭にちょっと出るだけだからちゃんとした靴である必要はない。ちょっと大きめのつっかけを履いて、いざ外に――


「って、ぎょわっ!?」


「どうしたんですか!?」


 わたしは何かにつまずいて転びそうになった。


 運良く前に明里がいて身体を受け止めてもらえたからよかったものの、そうじゃなかったら今頃玄関の戸に直撃していたに違いない。


「なにやってんの、楡金ちゃん」


 茉莉が呆れた様子で首を左右に振った。


「いや、だって……何かにつまずいて――。あ……」


 わたしが選んだスリッパ型の茶色のつっかけ。そのつっかけの甲に当たる部分がちぎれていた。どうやらわたしはつまずいたわけじゃなく、甲がちぎれてそのせいで転びそうになったようだ。


 ――って、冷静に分析している場合ではなく。


「こ……壊しちゃった……? ど、どうしよう!?」


「あぁ、気にしなくていいよ。それ古いやつだし。父さんもほとんどそれ使ってなかったしね」


 しかもよりにもよって、蓮司さんの所有物とはついてない。サイズの大きさで気づくべきだったと反省。


「直接謝ったほうがいいかな」


「いいっていいって、気にしなくて。それよりなんか調べ物するんでしょ?」


 わたしは申し訳なく思いながら、ほかの靴を選び直し外へ出ることにした。


 …………


「どうですか? 何かありました?」


 石橋の上にしゃがみ、橋の欠けた部分を調べているわたしに明里が尋ねてくる。


「ない……ないけど、ある」


「え?」


 石橋の端の一部が崩れてなくなっていた。崩れた一部は池の中に落ちてそのままになっていた。


 どうやらわたしが足を踏み外して池に落ちたわけではなく、橋が崩れてそれに足を取られて落ちてしまったようだ。しかし、橋の崩れ他部分が妙に綺麗だった。

 橋の欠けた部分は半円を描くように崩れていて、その弧面がヤスリを掛けたみたいに綺麗なのだ。崩れたとか欠けたという表現よりも“切った”という表現がしっくりくる。もちろん石なので紙を切るみたいに簡単にはいかないだろうけど、明らかに自然な崩壊ではない。

 考えたくはないが、人為的なものである可能性が極めて高い。

 

 ――これってもしかすると……


 わたしの中にひとつの考えが浮かんだ。

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