第84話 どちらで裁くか
翌3月29日午前0時過ぎ、疲れて眠っていた美紗子は夢を見ていた。悪夢だった。部下の中村少尉がスナイパーに撃たれた時の記憶は脳にこびりついていて離れない。美紗子の目前で中村は被弾し、右肩から胸部にかけて弾丸が走行し、そのまま倒れた中村は2秒ほど、目に生気があった。けれど、自分自身に何が起こったのか、よく認識しないまま意識を失い、二度と動かなくなった。
「東北東に見えるビルを砲撃しなさい! それから鉄塔もすべて! 東南東の工場も!」
そのときは冷静に判断したつもりではいた。部下を殺されて、その報復というよりは自分たちを守るため、ともかくスナイパーが潜んでいそうなところを次々と砲撃した。結果、撃たれたと思われる東の方角にある建物は、すべて破壊した。終わってから考えると、ただパニックになって撃ちまくっただけだと、よくわかる。
「……まるで津波の……痕みたい……」
ウクライナの街は、津波被害を受けた日本のように壊滅していた。そのせいで悪夢の展開は亡き父を捜した11年前になる。父の遺体は見つからなかった。とても探しきれないほど広い街の壊滅した痕、憎らしいほど広い海、美紗子と母は探し回ったけれど、歩くに歩けないし、喉が渇いてもコンビニ一軒ない。疲れて座り込む母と美紗子に通りがかった自衛隊の女性隊員がペットボトルの水をくれた。その隊員も疲れた顔をしていて汗の匂いがしたけれど笑顔をつくって、美紗子たちを励ましてくれて嬉しかった。いつか彼女たちが父を見つけてくれる、もしくは奇跡が起こっていて父は太平洋のどこかで生きていて帰ってくるかもしれない。ついに遺体がなく11年が過ぎた父と、目前で死体になった部下、壊滅した街、それらが混交して悪夢になり魘されている美紗子を今泉が起こしに来た。
「森ノ宮隊長! 起きてください! 異変ありです!」
「…んっ…ぅぅ…」
疲れて眠っていた脳が起床を拒否している。
「起きてください! 起きて!」
今泉は美紗子の目元が涙で濡れていることは見なかったことにして起こし続ける。
「…お父さん…………中村…少尉……ぅぅ…」
美紗子は眠気で目まいを覚えながらも、今泉が身体を揺すってきたので目を開けた。
「…伍長……どうしたの? 何かあった?」
すぐに美紗子は陸軍中尉であり中隊長という立場にふさわしく顔を引き締め、寝汗を拭くついでのようにみせて涙も拭いた。
「状況に異変ありです。ボルズナー市のパトカーが15台以上、接近中です。灯火あり、サイレンなし、未確認ですが武装は拳銃以上と推測。人員、パトカーは最大数を動員しているものと推測」
「……。全員、起こしなさい」
美紗子は時刻を見て2秒ほど考え、判断を下した。部下の数は総員で135名、機甲隊が2個小隊、歩兵が3個小隊、その大半は時刻が時刻なので眠っているはずだった。
「全員ですか…?」
「ええ、接近しているパトカーが陽動で、異方向から不意打ちしてくる可能性も考えます。機甲隊は臨戦待機で全方向を警戒、歩兵も同様に」
「はい、了解です」
「あと、小本兵長と他10名の歩兵を私に同伴させなさい。小銃に着剣で」
「はい、了解です」
警戒するなぁ、この人も中村少尉が戦死してから変わったな…、と今泉は最大限の警戒をする美紗子の心理状態を心配しつつ、命令を伝えていく。美紗子は小本たち歩兵を連れてパトカーの車列と対峙した。対峙する体勢も狙撃を警戒して美紗子を中心にした円陣だった。パトカーから警官たちが30名以上は降りてくる。すぐに美紗子たちは相手の武装へ着眼したけれど、平時の警察官が持つ拳銃のみの武装だった。美紗子がロシア語で問う。
「用件は何だ?」
「はい」
すでに顔を見知っている警察署長のグスタフ・ネイガウスが美紗子へ敬礼してから述べる。ネイガウスは警察署長にしては若く見えるけれど、美紗子よりは10歳以上は年上で長身の堂々としたエリート感のある警察職員だった。
「貴軍の兵士にボルズナー市の市民が強姦されたという訴えがあり、逮捕状が出ています。ヨウスケ・コモトを引き渡していただきたい」
「………」
「こと強姦罪においてはイヴァネンコ市長と貴軍の協定により、こちらの警察権が適応されることになっております」
「……小本兵長!!」
「…はい」
かなり逃げたそうな顔で小本は答え、美紗子は怒鳴るように日本語で問う。
「釈明はある?!」
「あります! 強姦じゃなくて買春です!」
小本は背筋を伸ばして敬礼しつつ全力で言った。
「……か……買春していたの?!」
「はい!」
「……この状況下で………」
美紗子は頭を抱えたくなったけれど我慢して軍人らしく直立したまま思考する。市と結んだ協定では、兵士による略奪強姦などの明確な犯罪で証拠が明確なものはウクライナ側の司法権を認めている。一方で日本国において犯罪とされない行為で、ウクライナでは犯罪となるものについては証拠の保全のみとして、その処分は戦後に持ち越すと決めていた。そして売買春は日本では認められていて、ウクライナでも禁止されているが実質は黙認されている。
「小本兵長! 売春したのね?! 売春だったのね?! 強姦じゃなく!」
「はい、買う方で! しました! 強姦じゃないです!」
「………」
百名を超える部下の中でもウクライナ語ができる小本とは接する機会が多く、性格も把握してきている。この男なら買春はしていそうだったし、その分だけ強姦などはしなさそうに感じる。何より隊の中でウクライナ語が十分にできるのは美紗子と小本、そして亡き中村だけだったので、とても困る。小本を殴り飛ばしたい衝動は覚えるけれど、美紗子は兵を守る。
「ネイガウス署長、小本兵長は売春だったと主張しています」
あえて美紗子はウクライナ語で説明しつつも売春という単語は覚えていなかったので、それだけはロシア語で言った。ネイガウスがウクライナ語で反論してくる。
「いいえ、売春ではなく強姦です。被害者は暴行を受け、強姦されたと主張し、傷跡もあり、また体内から男性の精液も検出され、簡易のDNA検査でウクライナ人やロシア人のものではなく、高い可能性でアジア系の民族であると出ています」
ネイガウスの言葉を証明するように部下の女性警察官が私服の女性をパトカーから連れ出してくる。その顔に小本は見覚えがあったし、向こうも小本の顔を忘れていない。
「この男よ!! 私はこの日本兵に襲われたの!!」
「……シャナちゃん……なんで……」
シャナは赤毛が腰よりも伸びた女性で20歳を越えていたけれど、幼く見える印象でウクライナ人と別の民族の混血が感じられる。シャナに指されて小本がうなだれ、ネイガウスが言ってくる。
「協定通り、こちらにヨウスケ・コモトを引き渡していただく」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ、本当に買春だって!」
小本は混乱気味でも確かなウクライナ語で反射的に答えている。ネイガウスは警察署長らしく冷静に言う。
「彼女の身体には暴行された痣もあった」
「いや、暴行なんて一切してないし!! むしろ、シャナちゃんの方から50ユーロでOKってさ! な? 言ってきただろ?!」
「私はお金なんて受け取ってない! この男に殴られて強姦されたの!」
「殴ってないし! なんで、そんなこと言うんだよ?!」
動揺する小本へネイガウスが近づき拘束しようとする。
「続きは取調室で聴く。ウクライナの警察権によって君を逮捕する」
「ちょっと待ってくれって!」
小本が抵抗し、美紗子も反論する。
「状況が判然としないので、我が方の兵士を引き渡すことはできない」
「モリノミヤ隊長閣下、それでは協定と違う」
あくまでネイガウスは落ち着いているのに対して、美紗子は少し焦ってきた。なんとか反論を考える。
「いいえ、明確な証拠がなければ、部下の拘束は認められない」
「証拠はあります。彼女が被害者であり証人です。DNA検査の結果も、暴行を受けた痣の写真、医師の証明書も」
「……、見せなさい」
美紗子の前に若い警察官がファイルを突き付けてきた。その突き付ける仕草に敵意が滲み出ている。美紗子は暗い中で今泉がライトで照らしてくれるファイルへ目を走らせる。DNA検査の結果は専門家ではない美紗子には読み取りにくいけれど、非スラブ系、モンゴロイド系という単語は拾えた。そして痣の写真は明確で肩や背中、太腿に内出血による痣があった。医師の証明書は、殴られたことによる打撲傷、と記載している。
「………」
どうしよう……このまま引き渡すか………それとも日本側で小本を軍律裁判にかけるか……戦地での強姦……最高刑は死刑……銃殺もありえる……いっそ、署長が求める通りに引き渡して現地裁判にかける方が……でも、敵国兵士の人権を守った裁判をするとは、思えない……どうしよう……どうすべき……中尉として……日本の一角を担う士官として……私は、どうすべき……、と美紗子は激しく悩んだ。答えが出せない美紗子の隣で小本が調子の軽い声をあげた。
「あ! 証拠ならある! オレの方にも買春だって証拠が! ほら、これ!」
小本は軍服のポケットからスマートフォンを出して録音データを再生する。
「シャナちゃんは積極的だね」「エヘへ♪ そうかな、そんな感じするかな…」「お金に困ってる?」「うーん、食べ物が、すごく高くなってるし」「ごめんな、オレら日本とロシアのせいで」「ヨウスケはぜんぜん日本人のイメージと違うね」「そうかな、っていうか、日本人に、どんなイメージもってる?」「剣を使うのが巧くて、その剣で鉄も切ったり、死ぬのを怖がらずに突撃してきたり、なのに頭もよくて発明したり、すごい武器をつくったりする……そんな感じ」「あははは♪ まあ、そういう人もいるねぇ。でも、オレは、こっちの方がいいかな」「あん♪ おっぱいが好き?」「シャナちゃんのおっぱい、すごく形がいいね」
再生された音声は小本とシャナの会話で、ところどころに衣服を脱ぐような衣擦れの音も有ったりする。静かな森で大勢の兵と警官が聴くには場違い感の大きい売買春する男女の馴れ馴れしい会話だった。そして、その音声を聴いていて、もっとも動揺したのはシャナだった。明らかに顔が狼狽し、頭を抱え、その場にうずくまった。
「………ハァ………ハァ………シャ…ナは………私は……ハァ……」
「ほらな、やっぱり買春だったろ。ちゃんと50ユーロもチップもあげたのに、なんで強姦とか言うんだよ。ひどいじゃないか」
「…録って…たなんて……なんで…」
「オレ、とある界隈では有名なエロブロガーだからさ。あははは♪」
真昼のように明るく笑う小本以外は誰も笑っていない。ネイガウスは苦々しく頬を硬くしているし、美紗子は怒りで顔を真っ赤にしている。怒りに震える手で拳銃を抜いて掲げた。
「これはどういうことだ?! 我々を騙すつもりだったのだな?!」
美紗子は強い語調のロシア語で怒鳴った。ネイガウスは両腕を開いて真顔で答える。
「モリノミヤ閣下、どうか信じてほしい。我らも彼女に騙されていたのです。部下が聴取し検査結果を見て、私の責任で逮捕状をとっています。ですが、これは愚かな間違いだったようです。まことに申し訳ない」
「それで済むか?! ふざけるな!!」
ロシア語で怒鳴る美紗子へ小本がウクライナ語で言う。
「いや、もういいっすよ。一件落着したし」
「お前は黙っていろ!! いずれ処分する!!」
「ぇ~……」
「ネイガウス署長、この件は重大かつ明白な協定違反だ!」
「……お言葉ですが、我らの捜査に重大なミスがあったことは確かです、それは認めます。ですが、協定に違反するつもりも、その事実もない。ただ、我らが愚かにも彼女の偽証を見抜けず動いてしまった。そういう事情なのです。どうか、信じていただきたい」
「…………」
美紗子がネイガウスの目を睨み、ネイガウスも視線を受け止めて目をそらさない。
「………」
「………」
暗い森に重い沈黙が続き、美紗子はネイガウスが嘘をついていないと判断した。すると次に怒りの矛先はシャナに向かう。
「では、そこのウクライナ女性が我が日本兵に強姦されたという嘘をつき、警察を動かしたということだな? ネイガウス署長」
「…はい、そうなります…遺憾ながら…」
「わかった。では、その女を引き渡せ、銃殺にする」
「ヒっ?!」
シャナもロシア語が理解できるようで短い悲鳴をあげて震えた。そして、さきほどまでシャナのそばにいた女性警官も美紗子と同種の怒りを覚えていて、シャナに寄り添う気配はない。むしろ、警察官としても一人の女性としても、強姦されたという嘘をつく行為の低劣さに嫌悪感を覚えていた。美紗子が言い続ける。
「日本軍に対する悪質なテロとみなし、裁判にかけて死刑にする。我が国では強姦の最高刑は死刑だ。女性の権利は強く守られている。だが、それと同時に強姦の偽証も重罪になっている。強姦が女性にとって魂の殺人ならば、男性にとって強姦冤罪もまた殺されるに等しい苦痛だと、総理が決められた。その女は死に値する。引き渡せ、シベリアか、広島の裁判所で裁く」
「…ヒッ…ひーっ…」
シャナにとってシベリアは極東の恐ろしい土地だったし、さらに東にある広島は日本の最高裁判所が置かれている土地だったけれど、そんなことはシャナは知らない。ただ、ヒロシマという響きは人類最初の被爆地なので学校で聴いた気がする。そんなところやシベリアに送られたら、もう生きて帰れないと心底から恐怖した。
「…や………やだ……わ、私は……私は、言われた通りにしただけ! トゥール君たちに…わ、私は嫌だったのに……日本兵が街に女を買いに来たら、売れって……それで警察に行くって……私は嫌だったし、いっぱいトゥール君たちに殴られて蹴られて、痣までつくられて、本当に嫌だったのに…ぅ、ひっく…うわあーーん! 助けてぇぇ! 死にたくない、死にたくないよぉ!」
泣き出しながら腰が抜けたシャナは地面に座り込み、おしっこを漏らしている。ズボンが濡れて、寒い夜なので湯気があがった。小本がウクライナ語でつぶやく。
「シャナちゃん……可哀想に。変だと思ったよ、中出しOKだったのもオレの精子を取るためか……誰だよ、そのトゥールって奴は?」
「ひぐっ…悪いグループのリーダーだよ、元気なのに義勇軍にも行ってない。ひぐっ…、アラヴァンス・トゥール…ひっく…全部、全部しゃべるから助けて!」
殺されたくない一心でシャナは泣きながら、街にいる平凡な不良グループに脅されて日本兵だった小本に買われるよう仕向けられ、性行為の後に痣をつくるため殴る蹴るされて、警察署に泣きながら行ったと話し、小本からもらったユーロ紙幣も出した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、これも返します、だから助けて、お願いひぃ」
「もういいって」
慰めようとシャナの赤毛を撫でようとした小本の膝裏を美紗子が蹴って倒した。
「お前は黙っていろと言った!」
「痛つぅ…」
「どんな事情があろうと、この女の罪は重い。小本兵長が潔白を証明できていなければ、女の証言が採用されて銃殺になった可能性もある。この女は我々で裁く。引き渡しなさい」
「…イヤーーっ…」
怯えるシャナへの同情ではなくネイガウスはウクライナ警察の署長として美紗子に告げる。
「おっしゃる通り、彼女には罪がある。ですが、それは我々が裁きます」
「ダメだ。引き渡せ」
「彼女の行為はテロではないし、武力闘争でもない」
「成功していれば、我が兵士の一人が犠牲になった。道に外れた曲がったテロだ。もう一度言う、ただちに引き渡せ」
言いながら美紗子は拳銃の銃口をネイガウスの方に向ける。狙いはネイガウスからそれているものの威圧感は大きい。
「引き渡せ、でなければテロの幇助者とみなして射殺する」
「………、どうか、落ち着いてください、閣下」
ネイガウスは紳士に美紗子の目を見る。美紗子の表情は怒りと疲労が顕著で、寝付いたばかりのところを起こされた人間の理性的な限界が感じられる。目の隈が黒いし、汗の匂いも強い。ただそれでも銃口の狙いはわずかにネイガウスの頭上へ向けてくれているので、まだ美紗子に理性的な対応は期待できると測った。
「どうか、ご理解ください、閣下」
説得を試みるネイガウスがシャナを守るように立っていると、他の警官たちも憎むべき虚偽通報者ではあったけれど、守るべき市民という気持ちとネイガウスに助力したいという気持ちから、ネイガウスに並んで立ち、美紗子の前に人の壁をつくった。ネイガウスはその気配を感じて、逆にそれは失策だと考える。これでは余計に美紗子の引っ込みがつかなくなる。案の定、美紗子が感情を刺激され、苛立った。
「どけ! どかねば撃つ!」
「……」
ネイガウスも引けない。美紗子が部下たちに命じる。
「全員、撃ち方、用意」
命令に従い、小本以外の10名が小銃を構えた。逆にネイガウスは腰に拳銃はあるものの火力の違いを熟知しているので、両手を肩の高さにあげる。
「彼女はテロリストではありません。国内犯として、私たちが必ず処罰します」
「……、……」
美紗子が迷っている。射撃用意を命じられた今泉たちにしても、小銃を構えてはいるものの上官に倣って銃口の狙いは警官たちの頭上にしていた。目前にいる警官たちとは、この街に駐屯してから道路での検問という作業を協同して行ってきた。かりそめの協同作業であっても顔を見知った間柄になっている。ネイガウスが男性らしい太い声で言ってくる。
「どうか、銃を納めてほしい。私にも息子と娘がいる。明日の夕食もあの子たちと食べたいものだと切に想う」
「………どうしても引き渡さないのであれば、市のインフラ設備、電気、ガス、水道のいずれか一つの設備に砲撃を加える」
目前の人間は撃ちにくくても、数キロ先の設備なら攻撃しやすい。美紗子の脅しにネイガウスは困る。
「それもまた酷な話だ」
「先に仕掛けてきたのは、そちらだ」
「我らのミスは認めます。こんな夜中に訪問したのも、てっきり強姦だとばかり思い込んだゆえの不調法で、その点も謝ります。ですが、彼女を引き渡すことはできません」
「堂々巡りだな、水道は困るだろう、電気か、ガス。ガスにしよう」
「この寒さでガスを断たれれば、何人も死ぬでしょう」
「だったら引き渡せ!!」
見事なまでに膠着した美紗子とネイガウスの対立へ、新たな車両が森に接近してくることで緊張がわずかに緩む。接近してきたのは市の公用車でネイガウスだけでなく美紗子も見知った車であり、予想通りに市長のオレクサンドルが降りてきた。
「事情は聴いておる。せめて、銃口をおろしてくれんか。いつまでも構えていては疲れるじゃろう」
「………わかった」
美紗子が拳銃を納め、今泉たちも構えを解いた。
「では、ここで起こっている事態より、より大きなニュースを伝えよう。英仏連合軍がポーランドから国境を越え、首都キーフへ援軍をさし向けてくれておる」
「「「「「………」」」」」
「「「「「おお!」」」」」
美紗子たちが黙り、ネイガウスたちは吠えた。イギリスとフランスは核兵器を持っている。露米と比べれば、はるかに少ないけれど、核保有国の参戦は大きい。オレクサンドルが続ける。
「英仏首脳部は、あくまで首都キーフの防衛に限り参戦し、他の地域へは進軍せず、核兵器の使用は絶対にしない、と発表した上で国境を越えておる」
これには全員が沈黙で反応した。世界大戦を避けたい英仏の思考は理解できる。けれど、その宣言だけで本当に核兵器使用が避けられるのかは未知数で冒険的要素もある。
「さて、お嬢ちゃんや、確かに強姦の疑いをかけたワシらが悪い。自分の部下が戦犯と言われては、さぞ不安であったろうし、それが誤解どころか偽計じゃとわかれば、怒りのほどは火山のようじゃろう」
「うるさい! さっさと用件を言え!!」
「可愛い顔で汚いロシア語を使いなさんな。では用件に入る。戦局は大きく変わった。容易に落ちると見られていたキーフは落ちん。セレンスキーのやつも逃げずに頑張っておる。となると、ここボルズナー市は兵站線の予備経路として、その整然たる維持がますます重要になる。さて、どうする? 中尉どの、ワシらとの協定の維持か、破綻か、お前さん次第じゃ」
「…………くっ……」
美紗子は思わず額に手を当て、それから気を取り直すために深呼吸を繰り返す。まわりにいるのは大半が美紗子より年上の男性で威圧感が大きい。それなのに、すべての決断と責任が美紗子の肩にかかってくる。一瞬、泣きたくなる。
「…っ…」
でも………あの人なら………芹沢総理なら………どう考え……どう判断したの……たった18歳で、大人の男たちに囲まれて………私は十分な年齢……訓練も教育も受けた……なら、ここで、しっかりしないと……自分の役割は……兵站線の維持……そう、悔しいけど、この市長の言うとおり……だから、私が妥協すると見越して言ってきてる……だったら、それを逆に利用して……やる! と美紗子は決めた。
「機甲隊に連絡、砲撃準備、目標は市の北東部にある変電所および、南東の水道浄化設備ならびに、ガスパイプライン分配所。施設の全壊を優先し、人的被害は考えなくてよい」
美紗子は日本語で話したけれど、その雰囲気と語調だけでオレクサンドルたちにも最悪の選択が取られようとしているのが伝わる。
「お嬢ちゃんや、ワシらに死ねと?」
「先に協定関係を揺るがせたのは、そちらよ。小本、訳せ」
やはり真剣に物事を進めるときは母語でないと頭が回りきらない。美紗子の日本語を小本はウクライナ語に訳して伝える。
「先に協定関係を危うくしたのは、あなたたちの方よ、と」
「うむ、では、せめて妥協できる点では妥協しよう」
「…」
やった、うまくいきそうね、と美紗子は内心で手応えを感じたけれど、表情には出さない。すぐに条件を考え、日本語で並べ立てる。
「こちらの条件は、より完全な街の非武装化、すべての家宅を捜査し、すべての銃器を押収すること。警察官の銃も含め。さらに今回の強姦冤罪に関わった者をすべて捕らえ、私たちに引き渡すこと。加えて朝にもウクライナ警察が間違った逮捕状で日本兵を逮捕しようとしたことを発表すること。以上よ」
小本が伝え、オレクサンドルが考慮する。
「発表はしよう。ありのまま。とはいえ、市民を引き渡すことは、たとえ犯罪者であってもできかねるし、同時に行うという家宅捜査による非武装化は、かえって暴動のきっかけになる。英仏参戦のタイミングとあれば、ワシのような老人でも古銃を手放すどころか、やみくもな私戦に走ってしまう。老い先短いと、短慮な者もでる。なにより警察の銃まで取り上げられては治安維持のしようがない」
「では、警察官の帯銃は認める。けれど市民は認めない。そして犯人の引き渡しよ」
「引き渡しといっても、そこで泣いておる娘っ子に黒幕が何人かいるらしい。その全員を、お前さんらが連行するのかね。その間の食事は? 見張りは? かなり手間が増えるぞ。英仏参戦の今、そんなことをしておる余裕があるかね? 発表だけで十分じゃろ」
「そうね、だったら、この件については戦後に日本側に被害者としての権利があることを覚書にしてもらおうかしら」
「お前さんらが被害者か………はぁぁ、まったく……盗人猛々しいのぉ……わかった。この件に限り、こちらが加害者、そちらが被害者としよう。どうせ、くだらぬ裁判が戦後何年も続くんじゃろ、みんなが忘れる頃まで」
「非武装化は全戸の家宅捜索が無理なら、14日以内に市内から100丁の銃器を集めなさい。強姦冤罪に怒っている日本側の要求といえば市民も従わざるをえないはず。100丁に満たないときはインフラが攻撃されると脅しなさい。そして本当に100丁に足りなければ、警察の銃を足りない数だけ差し出しなさい」
「………とことん、この件を利用するか……」
「私、怒ってるわよ。怒り任せに砲撃しましょうか? 畑を月面みたいなクレーターだらけに」
「あんたはせんよ、利にさとい、エコノミックアニマルじゃから」
「誉められたと思っておくわ」
美紗子とオレクサンドルの話し合いが終わり、パトカーが駐屯地から去ると、美紗子は気が抜けたのと疲労で倒れかけた。それを小本が支える。もともとバスケットボールをしていたので運動神経がよく、長い手足で美紗子の身体を受け止めてくれている。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「……でも…」
美紗子は自分で立つと、今泉たちに言う。
「小本を体罰にならない方法にいためつけておいて。できるだけ痛く」
「「「了解です!!」」」
腕に自信がある隊員が快諾し、小本は夜中に近接格闘訓練を受けることになった。
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