第80話 英雄誕生

 翌3月21日、マルーシャは母と妹の三人で朝食の後片付けをしていた。そこに市長の秘書が訪ねてきて、大統領から勲章が授与されるので首都まで行くことになった。

「キーフまで195キロ、車で2時間56分かぁ」

「お姉ちゃん、お土産、よろしくね」

「カトルーシャ、今がどういう時かわかってる?」

「だからこそ、美味しい物、お願いね」

「……うん、まあ、有ったら買ってくるよ」

 自宅アパートを出ると市の公用車に乗った。市長秘書との日帰り予定でボルズナー市を出る。街の外れで日本軍の検問を見かけて、マルーシャは舌打ちした。

「チッ…あいつら…」

 市の公用車も例外なく検問される。

「トランクを開けてください」

 小本がウクライナ語で言ってくるので、市長秘書は従っている。車を調べられた次は手荷物と身体検査だった。二人とも日帰り予定なので荷物は少ない。

「手荷物OK。あと身体検査、かわいこちゃんはオレがやりたいけど、できねぇからな。ったく楽しみがねぇぜ」

 日本語で小本は何か一人言を言っているけれど、マルーシャたちにはわからない。小本は男性だった市長秘書だけ身体検査して、そばにいたウクライナ人女性警官に声をかける。

「こちらの女性の身体検査をお願いします」

「了解です」

 女性の身体検査は女性が行う体制にしているようで、日本兵は監視するだけでマルーシャの身体に手を触れてくるのは、同じウクライナ人だった。市の警官が日本軍の手先になっているのは不快だったけれど、日本兵にベタベタと身体を触られる不快さに比べれば軽いかもしれない。マルーシャの表情を読み取った女性警官が身体検査を終えながら言ってくる。

「あなたの勇気には敬意を表します」

「うん、ありがとう」

 短い会話だったけれど、気持ちよかった。小本が市長秘書に何か書類を手渡してくる。

「検査済み証です。次の検問では、これを見せれば素通りできるので、検査済みレーンに車両ごと入るようにしてください」

「わかりました」

 検問が終わるまでに、すでに30分が経っていた。出発して幹線道路を50キロほど走ると、また日本軍が検問していたけれど、言われた通りに検査済みレーンに並んで書類を見せると素通りできた。けれど、書類を見終えた日本兵に言われる。

「ここから先はロシア軍の管轄になるので、この検査済み証は有効でないとされる場合もあります。お気をつけください」

「……わかりました」

 首都に近づくとロシア軍が検問していた。検査済みレーンそのものが無く、国外脱出を試みている人たちの車両と同じ渋滞に並び、2時間かかって検査を受ける。

「トランクを開けろ」

 ロシア語で言われ、市長秘書が従っている。そしてマルーシャには別のロシア兵が言ってくる。

「両手を頭の後ろで組め」

「………」

 マルーシャは返事する気になれなかったけれど、言われた通りに両手を後頭部で組んだ。身体を触られる。さきほどの女性警官は日本兵の手前、マルーシャが武器など隠し持っていないか、その点については入念に調べて来たけれど、このロシア兵はマルーシャの胸やお尻ばかり触る。しかも、股間を撫でながら言ってきた。

「お前、クラゲダンスのおもらしマルーシャだろ?」

「………」

 インターネットに昨日の動画が出回っているのはロシア圏でも同様だったけれど、悪意に満ちた紹介をされているようで、たしかに銃口を向けられてマルーシャが失禁したとき、もう撃たれて死ぬと思っていたので両腕を拡げていてもクネクネと変な動きをしていたし、両膝もガクガクと震えていたので、クラゲかタコのような状態だった。ロシア圏ではクラゲダンスと嗤われ、日本語圏ではタコ踊りと紹介されているのを、知りたくないけれど、カトルーシャが調べたので知っている。とくに日本語圏では動画が素材として使用されて、ニタニタ動画ではキーボードを叩き壊す白人少年以来の逸材と称され、なぜだかアメリカ系のハンバーガーチェーン店ミクドナルドのマスコットキャラといっしょにダンスを踊る動画が多数作成され、出回っている。いくつか見たけれど、日本人の感性は理解できなかった。

「もう戦車の前に立つのはやめた方がいいぜ、また漏らすからな。ぎゃははっ」

「………」

「よしよし、今日はまだ漏らしてない」

 ロシア兵はマルーシャのズボンの股間を何度も撫で、下卑た嗤い声をあげた。マルーシャが睨みながら身を引くと、ようやく身体検査が終わる。再出発して30キロほど走ると、また検問された。今度もロシア兵でマルーシャはズボンをおろされそうになって、両手は後頭部に組んだまま、脚を閉じて脱がされまいと抵抗した。

「イヤ! やめて! 脱がす必要なんて無いでしょ!!」

 できることなら両手を後頭部で組むのをやめて半脱ぎにされているズボンを引き上げたいけれど、それが相手に射撃の口実を与えることになるのもわかっているので脚を閉じることで必死の抵抗をして叫ぶ。

「これではレイプよ!! 誰か助けて!!」

「静かにしろ、これは身体検査だ」

「こんなの検査じゃない! 他の人にはしてないでしょ?!」

 ショーツまで半脱ぎにされてマルーシャが悲鳴をあげると、そばにいた別のロシア兵が言ってくる。

「おい、そのへんにしておけ、その女は有名人だ。お前も有名人になるぞ」

「へへ、漏らしてねぇか、検査してただけさ」

「悪趣味なヤツめ。おい、もういい、行け!」

 やっと検問が終わったので急いで再出発する。その車内でマルーシャは泣いた。

「ひっ…ひぐっ…あいつら…許せない…ひぐっ…」

「……。今回の件、市長に報告した方がよいですか?」

 市長秘書に問われ、マルーシャはしばらく考えたけれど、力なく首を横に振った。

「…どうせ、こんなこと…いっぱいあって……報告したって、どうにも、ならないんでしょ?」

「…はい、おそらく……お気の毒ですが…」

「…………。荷物の中にロープか、紐のようなものない?」

「っ、早まったことを考えないでください。まだ、レイプされたわけではないし、あなたほど美しい人が世を去るのはウクライナにとっても損失です。まして、あなたはもう英雄だ」

「誤解しないで。首を吊るわけじゃないわ。ズボンを脱がされないように縛っておきたいの」

「ああ、そういう……クスっ、失礼、ってっきり、思い詰めてかと…」

「クスっ、フフ、さすがに、あのぐらいじゃ死ねないわ」

 二人が失笑したので少し雰囲気が明るくなり、一時停車して荷物から紐を探したものの、見つからず再出発して通りがかった商店を訪ねた。商店に食料は無かったけれど、ビニール紐が買えたのでマルーシャはズボンのベルト穴に紐を通して3重に縛った。

「これで、脱がされないでしょ」

「………トイレは、どうするんですか?」

「うっ、しまった。これじゃ、おもらしマルーシャが定着しちゃう」

 もう一度、商店に入ってハサミも買って首都に向かう。また幹線道路に検問らしき部隊がいた。市長秘書がタメ息をつく。

「ふぅ、また検問……あ! 違う! 我らが軍だ! よし! よし! やはりキーフは落ちてない!」

「ああ、よかった。ああ、うん、本当に、いい、いいわ、よかった、よかった、最高よ」

 自軍の検問というだけで嬉しくて涙が出た。しかもマルーシャのことはウクライナ兵たちも知ってくれていて、歓迎され検査はされない。

「英雄マルーシャ、我らがキーフへようこそ」

「ありがとう、ありがとう」

「大統領がお待ちです。この電話番号にかけ、指示された場所へ移動してください」

 やはり大統領の現在の居所はミサイル攻撃を受けないためにも詳細は伏せられているようで首都圏に入ってから大統領に会う頃には夜になっていた。市長秘書が運転に疲れた顔で言う。

「日帰りは無理でしたね。着替えをもってくるべきだった」

「そうですね。まあ、漏らさなければ、大丈夫♪」

「あはは、明るい人だ」

 笑っているうちに臨時の大統領府に到着し、すぐにマルーシャは大統領のもとへ招かれる。それなりに立派な絨毯が敷かれてある廊下を歩くと、マルーシャは平服で来てしまったことに気づいた。

「あ、こんな服で来ちゃった。…ま、いいか、あの人もTシャツだし」

 つぶやいて案内された部屋に入ると、予想通り大統領はカーキ色のTシャツ姿でマルーシャを迎えた。

「おお、美しい英雄に会えて感激だ」

 セレンスキーが両腕を拡げて喜んで見せるので、マルーシャも合わせて微笑む。

「私も感激です。大統領」

 握手し、ハグもされた。その様子は多数のカメラが撮っている。

「……」

 ああ、また今夜も私の姿がテレビとネットに……きっと世界中に……大丈夫かな、こんな急に有名人になって……私、これから、どうなるんだろう……、とマルーシャは一抹の不安を覚えたけれど、まわりが求める受け答えをする。まずセレンスキーが右手で勲章を差し出してくる。

「マルーシャ・コバレンコ、君に市民戦士勲章を捧げる」

「ありがとうございます」

 マルーシャも右手で受け取り、それからカメラの群れに向かって微笑む。セレンスキーの指示なのか、派手さは抑えた授賞式でフラッシュなどは焚かれない。そして、やはり戦時の大統領職は多忙を極めるようで、そっと退場していき、マルーシャへはインタビュアーが近づいてくる。

「素手で戦車に立ち向かったとき、どのような気持ちでした?」

「それは…」

 たまたま道路を横断中でした、とは言えない。

「怒りです。この国は私たちの国です。ロシア人にも日本人にも、それを教えてやらなければならない、そんな気持ちでした」

「怖くはありませんでしたか?」

「怖くはありません。……って、それじゃウソですよね、最初は怒りで怖さを忘れてましたけど、兵士が出てきて銃を向けられると、やっぱり、すごく怖かったです」

「それでも逃げなかった、その勇気は、どこから?」

「えっと……」

 漏らすほど怖くて動けなかっただけなんだけど……、それじゃダメだし、えっと…えっと…、とマルーシャは思考を巡らせる。

「逃げるなんて、まったく考えてなかったです。死んでも、この国を守る、そんな気持ちが胸いっぱいに溢れてきて。あ、私がおしっこを漏らしたのを、怖がってだと誤解されてますけど、あのとき、たまたまトイレに行く途中だったんですよ。買い出しに出ていて、寒かったし。トイレに行こう、って。そのタイミングで私たちの街に侵略してくる軍隊を見かけて、立ち塞がることになって。だから、別に怖くて、漏らしたんじゃないですよ」

「なるほど、ご立派です」

 それからも色々と質問され、マルーシャはその場その場で思いつく言葉を述べた。

「英雄マルーシャ、あなたはまさにウクライナのジャンヌダルクですわ」

「…あはは…」

 ああ、こうやって、英雄の虚像ってのは、つくられていくんだ……あのフランスの聖女も実際は、どんな子だったのかな……セレンスキーも元は、おチンチンでピアノを弾くコメディアンだったし……あの日本のアユミも、ただの学生だったはず……フーチンは父親としては、どんな人なんだろう…娘の前で、ふざけてコサックを踊ったりしたことあるのかな……それとも娘に柔道を教えたり……柔道といえば、あの日本軍の中尉、女のくせに強かった……嘘っぱちの親切顔でムカつく……嘘……ウソか……私も、いっぱいウソついたなぁ……でも、それが歴史に残ったり……まさかね……、とマルーシャはとめどないことを考えながら、ささやかなパーティーで歓待されつつ、自分が奇妙な形で歴史上の人物になるかもしれない玄関口に立たされているのではないかと感じていた。

 

 

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