第73話 3月28日 里華の初陣、若すぎる国家指導者が二人

 復和元年3月28日月曜朝、陽湖は静江と狭い準備室の床で1枚の毛布にくるまって眠っていた。昨日までは一人で1枚の毛布を使い、身体に巻くようにして床からの冷たさと3月末の北陸の寒さに耐えていたのに、静江まで何か失敗したらしく昨夜、鷹姫が投げ込みに来た。本当に投げ込まれた静江は受け身を取ったけれど、それなりに全身を打撲している。収容者が二名になったのに毛布の追加はなかった。

「……ぅぅ……」

「…私たち……本当に……死刑なんてこと……ないですよね?」

 陽湖の問いに静江は不安そうに震えるだけだった。陽湖は環境に慣れてきたので少しばかり眠ったけれど、静江は一睡もできていない。暖房も効かせてもらえないので二人とも寒さに震えて、仕方がないので抱き合って寝ている。ずっと陽湖は入浴もさせてもらえずにいるので静江は最初は抵抗を感じたけれど、もう鼻が慣れてしまったし、そんなことより自分の運命が恐ろしくて泣いている。

「……助けて……お兄ちゃん……」

 不当な接待を受けた自分が悪いのは理解しているけれど、平時ならせいぜい秘書職の解雇と社会的制裁、刑事罰はあっても罰金20万円前後の罪で、今は死刑になるかもしれない。独裁者鮎美はかなり怒っていたし、その腹心の鷹姫は激怒だった。そして鮎美は独裁者であっても、それなりに周りの大臣たちの意見を聞く。なのに、今回は大臣たちも冷たい目で静江を見てきた。じわじわと死刑の水準が下がってきていると感じる。五人の女児を強姦殺人した男が死刑になるのは、誰もが納得する。次が混乱に乗じて三重に戸籍をえようとした外国人、これも反対意見は少ない。けれど、陽湖は酒に酔って調子に乗ったのと鮎美の恥ずかしい写真を流出させたこと、静江に至っては接待とワイロだけなのに、殺されるかもしれない。望みは兄が官房長官として周囲を止めてくれることと、周囲と鮎美が踏み止まってくれることだった。

「入ります」

 準備室のドアがノックされ山梨県から戻ってきた里華がバケツを持って入室してきた。ドアに施錠はされていない。けれど、逃亡したら銃殺w、と張り紙されているので二人とも怖くて出ていない。巧妙にwをつけることによって、あとで冗談だったので監禁ではないとも言えるし、逆に逃亡させて銃殺するための罠なのかもしれない、とても怖くて出られたものではなかった。里華が言う。

「……これが食事だそうよ。……まあ、食べて食べられなくはないし、宮本さんも食べてるけど…」

 他人に草と虫を食事として与えることに戸惑いが残っている里華はバケツを二人の前に静かに置いた。中には湯がいた草と虫、お湯が入っている。

「せ、芹沢総理は、私のことを、どうするって?!」

 静江が震えた声で里華に問うた。

「さあ。……」

 里華も、かなり静江のことは軽蔑している。まじめな公務員として震災後に豪華な接待を受けていた官房長官の妹など、同じ空気を吸うのも嫌だったし、かなり準備室の空気は臭い。里華は姪の笑美と精神病院で会ってきた。笑美は詩織が園児たちを虐殺するのを目の当たりにした直後にドクターヘリから東京が巨大津波に飲み込まれるのを見ている。両親の生死について医師や看護師たちは曖昧に答えているけれど、ほぼ死んでいることは本人も5歳ながら理解していて、お互い唯一の血縁となったので病室で出会ったときは抱き合って泣いたし、このまま退官して笑美のそばにいようかと思った。とくに笑美はショックからか失語症に罹っていて会話ができなかったので、とても心配だった。

「…私が…死刑なんてこと…」

「………」

 それでも里華が小松基地に戻ってきたのは、多くのパイロットが戦死し、パイロット養成課程を終えて小松に配属されたばかりだった里華の存在が軍にとって貴重となっているし、仲国軍との対決の日に山梨県にいて何もできなかった里華が、この状況下で退官を言い出せば、認められない可能性もある上、後ろ指を指される。これから始まる女性戦闘機パイロットの歴史の中で、お笑い種になるか軽蔑の対象になるかもしれない、だから逃げたくなかった。そして、戻る途中の列車内でニュースを見て、他の女性パイロットの戦死も知った。

「…いや……死にたくない…」

「…登田さん…」

 同期でいっしょに養成課程へ入った登田共恵(とだともえ)という明るい性格の人だった。けれど、同時期に女性パイロットを目指すということで、里華との仲は複雑だった。女性パイロットなど一期につき一人も出ればいい方で、なれるとしてもどちらか一人しかパイロットになれないという意識があって、まるで1名しか選抜されない宇宙飛行士の選考試験を受けているような嫌な緊張感があった。しかも登田は周囲の男性とも協調性が高かった。ごく自然に肩などに触れられるのを嫌わなかったし、登田からも男性たちとスキンシップしていた。逆に里華は、指導として頭を叩いたりしてくださるのはよいのですが、みだりに身体に触れるのはやめてください、と公言していたので、あつかいにくい女だと思われながら過ごした。だから、その分、学科も実技も登田に負けない結果を出した。はっきりと点数化されない評価でも、常に勝っていた自信がある。そのおかげなのか、意外だったけれど二人とも戦闘機パイロットになれた。嬉しかったし、登田に抱きつかれて珍しく人に触れられて心地いいと感じた。はしゃいだ登田が、将来は女性パイロットだけのレッドインパルスを結成しよう、などと言っていたのも微笑ましく覚えている。

「…死……嫌…」

「……どうして彼女が…」

 そうして里華は小松基地に配属されたけれど、あまりF15に搭乗する機会は与えられなかった。もともと男性パイロットだけで足りているところへ予備的な人員として配属されたようで、しかも里華がスキンシップを嫌うと余計に機会が減り、そこにきて鮎美と鷹姫の世話役に回すという厄介払いをされた。たいして登田は新田原基地に配属され先輩パイロットからも評判がよく、自衛隊広報部が女性パイロットの生活という記事で紹介していたし、希望通りにパイロット業務をこなしているようだった。そのために対仲戦でも出撃し、散華したらしい。立派な最期だと想う。

「…し…死にたくない……死刑は嫌……」

「………」

 その直後のニュースで静江の不正を知った。かたや厳しい戦闘機パイロット養成課程を経て、ようやく女性パイロットになった同期の登田がほんのわずかな経験で出撃し、国のために戦死したのに、この女は震災後に贅沢三昧をして汚れた金を受け取っていた。あまつさえ、それが発覚しても死にたくないと啜り泣いている。その腐れきった根性を見ていると吐き気がした。いっそ、死刑でいい気がしてくる。国民の多くも、軍も、そういう気持ちだった。

「お願い、どうか芹沢総理に……いえ、お兄ちゃんに…」

「汚い手で触らないで」

 すがってくる静江の手を払った。嫌悪感しかない。そばにいて鮎美が頑張っているのは知っている。嫌いなところもあるけれど、たった18歳で可能な限り日本を立て直そうと政治面で奮闘している。なのに、その秘書が不正をしていたことでマスコミは、ますます鮎美を叩いているし、ニュースを見ていると静江とマスコミが腹立たしかった。静江は死刑、マスコミは検閲したくなる。感情としては、そうだった。ただ、理性の部分で死刑はやりすぎだし、検閲もいけないとは考える。里華は準備室を出るとドアを閉めた。

「………笑美……お姉ちゃんも頑張るからね」

 正確には叔母だったけれど、お姉ちゃんと自称している里華は歩いて貴賓室に入った。昨夜、鮎美と鷹姫は同衾していた。里華と麻衣子は鷹姫と同室なので、いなかったのを知っているし、麻衣子の顔を見れば、鮎美と鷹姫に性的関係が存在していることは察した。鮎美は満ち足りた顔で挨拶してくる。

「石原はん、おはようさん♪」

「おはよう」

 かなり機嫌よさそう、これならあの二人の死刑はないかな、と里華は思いつつ鮎美に告げる。

「ずっと担当しておりました総理と秘書官の世話役ですが、多くのパイロットが戦死し、帰還した者も負傷しておりますことで、養成課程を終えている私も前線に出ることになりました。今日まで、ありがとうございました」

「「「………」」」

 鮎美と鷹姫、麻衣子が動揺した目で見てくる。多くの戦死者が出ているけれど、知り合いだったといえるのは百色くらいで、あとは他人といえば他人だったし、麻衣子も仲間うちで戦死した者はいない。なのに一番危険なパイロットに、いっしょに過ごした里華がなると聞くと、胸が痛くなって泣きそうになった。

「どうか、無事でいてな。石原はん」

「武運長久祈念いたします。どうぞ、ご無事で」

「石原空尉………死なないでください」

「ありがとうございます。では!」

 未練を断つように敬礼した里華が退室していく背中を三人とも見送った。鮎美が考えながら迷う。

「……畑母神先生に………石原はんは前線で使わんといて……なんて言うのは越権やし……間違ったことやんな……」

「はい。……それに、彼女の誇りを傷つけることになるかもしれません」

「そやね………パイロットか……」

 先月までの状況で自衛隊のパイロットになりたい、と志望するのと現在の状況で空軍のパイロットになるのは、まったく覚悟が違うはずだった。

「大浦はんは……対馬の防衛につけ、って言われたら、いける?」

「え………ま、…まあ、命令なら頑張ります!」

「軍人に…自衛隊に入ったんは、なんで?」

「それは……高卒で、いい就職で、私も剣道やってたから採用されやすいし、女子が少なくて彼氏つくるの簡単そうで、いい筋肉した男性が、いっぱいいそう…、っ、いえ、なんでも…」

「あんた筋肉フェチやもんなぁ。いつも三井はんを見る目がちゃうし」

「ぅぅ…バレバレ?」

「当たり前やん。ま、性の衝動は生きる原動力やもんね」

 そう言った鮎美は紅茶に使ったシロップが残っていたので、それを直接に口へ入れてから鷹姫とキスをする。キスすると草と虫しか食べていない鷹姫はシロップの甘味を感じて脳が蕩けた。

「はぁ…」

「フフ」

 嬉しい。もっとキスしていたかった、という顔を鷹姫がしてくれるのが、とても嬉しい。けれど、もう時間が迫っている。

「ほな、閣議に行こか」

「「はい」」

 鮎美たちは大会議室で閣議を始め、考えている新憲法の草案を一部、石永らに見せた。それについて話し合うと石永は妹の処分について相談したかったけれど、予定していた10時よりも早く富山市に集まっている県議等が新しい国会の結成を宣言したので、鮎美たちはテレビを見る。

「ここに日本国の平和憲法のもと! 私たちは国会の開催を宣言するものであります!」

 議長に選出されたという眠主党の香川県県議が司会している。会場は富山県庁の議場で傍聴席まで使って300名強が集まり、テレビカメラは2台が入っている。スペースの問題で傍聴人は入れていないものの、テレビと同時にニタニタ生チャンネルとヨーツーベでも配信していた。

「これより内閣総理大臣の選出をおこないます!」

 眠主党、自眠党、供産党、活力党の政治家が集まっているけれど、身分は県知事、県議、市議、落選中だった元衆議院議員とバラバラで市議レベルで顔を出しているのは近場の北陸からが多いし、富山市議がおもだった。不破島も県知事臨時代行として目立つところに座っているけれど、映りが小さいので顔の表情まではわからない。

「決まりました! 新しい内閣総理大臣は金本勝龍(かなもとしょうた)くんとします!」

 議場で拍手と落胆が混じる。従来の首班指名と同じく、やはり眠主党は眠主党所属の議員を推すし、自眠党も供産党も活力党も、それぞれ自分の党の候補者を推す。結果、全国の県議の数では自眠党と眠主党は拮抗していたけれど、富山に参集したのは眠主党が多かったので、眠主党の金本に決まった。鮎美がつぶやく。

「結局は一人一票にしよったんや」

「らしいな。かなり揉めてのことだそうだ」

 石永も鮎美が不破島を情報源としているように富山へ誰か送っているようだったし、久野や鈴木も同じだった。

「うちが聞いた話では県知事を10とか県議を5とか格差つけるって」

「ああ、その案も強かったが、じゃあ、オレのような落選中の元衆議院議員は、どうする? 10か、5か、それとも落選しているのだから民意なしとして0か1。そして市議も1。さらに芹沢総理が知事の臨時代行にした…ふわ…ふわ…えっと…ふわぁ~…」

「不破島はんな」

「あ、そうそう。不破島、その人も10か5か微妙だから、もう、いっそ一人一票としよう。その方が集計も楽だ、平等だ、みたいになったのと、もともと落選中の元衆議院議員は自眠党がほとんどで、眠主党の県議らは拒否したかったようだ。まあ、落選中だから民意なしというのもあるし、我々の政権は落選議員が多く入っているから、それを否定したい意味もありつつ、かといって追い出すわけにもいかず、やっぱり一人一票という形らしい」

「それを決めた過程に権限と根拠があったのか、自分らでも迷いがあったやろね。久野先生、自眠系に声かけてくれてはります?」

 鮎美は引き抜きを頼んでいたので問うてみた。

「ええ、愛知県と静岡県の落選中だった元衆議院議員が応じてくれるそうです」

「北海道もいますよ。青森も、秋田も!」

 鈴木も言ってくる。やはり地盤か、その近所に人脈があるようだった。石永派でも工作していたので何人かは通じていた。その彼らを特命大臣と副大臣、政務官などに割り当てる予定だった。

「夏子はんは?」

「ごめん、私は眠主党に入って日が浅かったし、あっちの議会は眠主党が優勢でしょ。こっちが声をかけても様子見って感じでさ。ごめんね、一人も釣れてない」

「いえ、気にせんといてください。時間もなかったし」

 テレビの中では金本を囲み、眠主党の議員らが万歳している。新屋が問うてくる。

「芹沢総理、陛下と富山議会代表者への親任について、お話されましたか?」

「はい。もちろん、富山の議会が親任を求めてきても応じないおつもりであると、確認してますわ」

 久野が補足して言う。

「島津先生の段階で断っているようです」

「ほな、お礼を言わんとね」

「そんなヒマがあれば対馬のことを考えろ、と叱られますよ」

「対馬かぁ……」

 鮎美が畑母神に視線を送る。今は状況が安定しているので畑母神も司令室ではなく大会議室に顔を出している。

「麗国軍に動きはない。だが、いつでも砲撃の再開はできる体制をとっているし、砲弾の補給と見られるトラックも2台が到着したようだ」

「仲国軍は?」

「あまり動きはない」

 テレビの中では金本が所信表明の演説を始めている。

「未曾有の大震災にて、たった一人を残して国会議員が欠けた今、私たち有志は日本国の正統の政府を造り上げるため。ここに参集しました! この大災害において新しい国会のみなみなさま方と協力し、日本の復興を必ずや成し遂げると、ここに私は内閣総理大臣として誓います!」

 演説が終わると、すぐに国務大臣となるメンバーを発表している。当然、全員が眠主党の県議だった。石永がつぶやく。

「知事との兼務はさけるんだなぁ」

「うちらとは違うちゅーアピールですやろ」

「だな」

 三島が言う。

「陛下からの親任がないのでは淋しかろうな」

「賊軍です」

 おもわず鷹姫が発言してしまい、閣議の場で許可なく発言したことを詫びるように頭をさげたけれど、誰も気にしない。この子が言うことは、いつも古いなァ、と思うだけだった。鮎美は時刻を見る。そろそろ鮎美の出番だった。静江の件で国民へ謝罪し処分を発表するため、録画ではなく生放送でニタニタ生チャンネルに出る予定となっていて、それが10時開始だったし、富山の議会が開催されるのも10時が予定だったのに、おそらくは鮎美と重なったので前倒ししたのだと思われた。

「そろそろ準備しよ」

「芹沢総理、本当に静江の件では申し訳ない」

 石永が深々と頭をさげ、それから言う。

「頑張ってくれている君の足を引っ張るようなことをしてオレも静江を強く叱りたい。だが、もしも君が本気で静江を死刑にする、もしくは不当に重い罪を着せるようなら、オレは君と戦う。それこそ、富山の議会へ入ってでも」

「「「「「………」」」」」

 大会議室が静まりかえる。テレビの音だけが響くけれど、誰もが放送内容よりも石永と鮎美の言葉に集中している。

「国民への謝罪も、オレと静江がやるべきだと思う。今からでも替わろう。だから、どうか、わかってほしい。感情的な死刑など、あってはならないことだ」

「………まあ、死刑にはしませんよ」

「ありがとう!」

「けど、死刑になるかもしれん、という恐怖は、たっぷり味わってもらいます、ええですね?」

「………わかった……だが、あまり重い刑罰も…」

「はい、どういう罰になるにせよ、それでええか、石永先生に同意をとってからしか、くだしません。そんでええですか?」

「…すまない…お願いする」

「ほな、まず謝罪会見で、晒し者にはなってもらいますけど、ええですね?」

「……わかった」

 石永は頷くしかなかった。鷹姫は手鏡を鮎美へ向ける。鮎美は前髪を少し直して唇にリップを塗った。そうして出演の準備をしていると、富山の議会に新たな動きがあった。

「麗国政府からの使者として! 金本勝龍内閣総理大臣の政権こそ、正統な日本の政府であると、ここに承認します!」

 東京や大阪の大使館や領事館などは津波により壊滅しているし、今まで鮎美たちの政権にはコンタクトがなかった麗国の関係者が、どういう身分で承認しているのか不明だったけれど、国家として承認するとして何らかの証書を渡している。受け取った金本が頭をさげる。

「ありがとうございます! これからも日麗友好のため微力を尽くします!」

「頑張ってください」

 使者は日本語に堪能なようで、ほとんど発音は正しい。そして付け加える。

「だが、この度、日本の一部の暴走した政治家が私たちの避難を妨げ、多くの避難船を沈没させた件については深く反省し、補償を考えていただきたい」

「まことに申し訳ないことです。一部のなしたことですが、私たち日本政府の責任として受け止め、ここに謝罪し賠償をお約束します」

 金本が頭をさげながら握手を交わしている。この光景に対して議場にいる自眠党県議らから野次が飛び、野次だけでなく靴も飛び、止めようとする眠主党県議らと揉み合いになっている。議場には警察や守衛などもいないので大乱闘になってきた。

「どつき合いになってるやん……平和憲法を言うてるのに…」

 呆れる鮎美へ、鷹姫が冷静に出番が近いことを言ってくる。

「芹沢総理、あと3分です。広報室へお急ぎください」

「そやね。めちゃ先が気になるとこやけど、これ録画しといてな。あとで、うちも見るし」

 鮎美は大会議室を出て広報室に移った。斉藤たちが生放送の準備をしてくれている。斉藤が指を3本立て、放送開始のカウントダウンをしてくれた。鮎美はタイミングを合わせ、国民へ挨拶する。

「おはようございます。芹沢鮎美です。この度は私の秘書の件で、大変なお叱りを国民全体から受けており、ここに深くお詫び申し上げます」

 鮎美は深く頭をさげた。長い髪がサラサラと落ちる。長く頭をさげた後、ゆっくりと顔をあげた。ニタニタ生チャンネルなので視聴者からコメント投稿が入っている。

 

 謝って済むか。

 石永を出せ!

 鮎美やらせろ。やらせたら許す。

 ホストクラブに静婆が行くってことは、あいつはノーマルか?

 鮎美ちゃんはキャバクラ行く?

 富山の方が面白いぞ、大乱闘してる。

 

 大衆からの無責任なレベルの低いコメントが流れている。鮎美には読んでいる余裕など無いので斉藤が、だいたいの感触をまとめ画用紙に大きく書いて鮎美へ伝える手筈になっていた。予想通り野次られているという走り書きを見て、鮎美は次の段階に入る。

「本人を連行してきておりますので、本人からも謝らせます」

 鮎美が軽く手で合図すると、三井と高木に左右の腕をつかまれた静江がガクガクと震える膝で歩いてきた。膝が笑い腰が抜けて、もう自力で歩けないので体重のほとんどを三井と高木が支えている。

 

 静婆ガクブルだw

 死刑、死刑!

 ズボンにシミできてる。漏らしてるぞ。

 シズちゃん、おもらしだ、きゃははは!

 

 昨夜から静江は着替えさせてもらっていないし、死刑にされるかもしれないという恐怖で夜中のうちにも何度もパンツスーツの股間を濡らしていたし、今も怖くて少量の失禁をしたので4重5重にシミができている。とても可哀想な姿だったけれど、この場にいる全員が震災後、日本のために働いてきたという自負があるので不当な接待を受けて迷惑をかけている静江に対しては、やはり嫌悪感が大きくて誰も同情していない。石永は大会議室で二つの液晶画面で富山と妹を見ている状態だった。鮎美が冷たい声で問う。

「石永静江さん、国民の皆様へ何か言うことはありますか?」

「っ、す、す、すす、すみまあせん、すみああぬんせん! ごほええおごへへせんせん! ごめ、ごめえ、ひぐ、あひ、ぐひま、せん!」

 涙を流しながら意味不明な声と尿を漏らしている。頭をさげているつもりなのかガクガクと首も上下させていて、乱れた髪が涙と鼻水で顔へ貼りつき、表情が見えにくいものの、明らかに怯えて泣きながら青ざめている。それなりに美人なのに、とても醜い顔になっていた。そばにいた鷹姫が乱暴に静江の髪をつかみ、顔をあげさせた。

「はっきり話しなさい! 聞こえていません!」

 きちんと静江本人であることを視聴者に示すため予定された演技だったけれど、鷹姫は本気で怒鳴っている。

「芹沢総理の顔に泥を塗ったあなたは死に値します! 今からでも自害なさい!!」

 鷹姫の鋭い声は視聴者に、はっきり届いている。

 

 鷹姫ちゃん怖ぇぇ

 なんかイメージと違う。

 いやイメージ通りだぞ、オレの。

 シコシコ

 この子もレズなのかな。ペロペロ

 っていうか自害って今どき使う言葉か?

 じゃ自死でw

 自害のがカッコいいよな。自殺から自死に変えるより自害に戻そうぜ。

 自決が一番カッコいい。

 カッコいいからダメなんだろ。ついヤルし。

 

 コメントは気にせず、鮎美が続ける。

「すでに報道されている接待や現金の受け取りは本人へ確認したところ事実でした」

「ひうぐう、すみぐあうせにうん」

「国民の皆様方の怒りは、きわめて深いと感じております」

「すみすみませんん!」

「正直、私も強い失望とともに深い怒りを彼女に覚えます」

 鮎美は泣きながら謝っている静江を一瞥してから、またカメラを見る。

「はっきり言えば死刑にしたい、という感情があります」

「ひいいいい! いあ嫌あああ!」

 静江が藻掻いたけれど、高木と三井につかまれているので何もできない。

「ですが、罪刑法定主義というものがあります。簡単に言えば、その犯罪が犯される前に、それが犯罪であり、どれだけの罰をかすか、決めて発表しておかなければ、たとえ悪いことをしても、それは罰せないという法律上の決めごとです」

 鮎美は横髪を耳にかける仕草をしたくなったけれど、今は自分も監督不行届で謝罪している立場なので我慢する。

「もし、今回の件で石永静江を従来の裁判に、従来の法律でかけた場合、せいぜい罰金が20万円前後という実に軽いものです。さらには、申し訳ないことに震災後の忙しさで石永静江の身分などは、はっきりと決めておりませんでした。このことが被告人に有利に働くと、無罪とされる可能性さえあります。実体としては政府の一員として働いてくれていましたが、形式に不備がありました。実は正規の給料さえ、まだ払えていませんし、決まってもいません。では、だからといって無罪になるのが正しいことでしょうか? そんな道理に合わないことがあるでしょうか?」

「ずびばせげん…ハァひ…すぐせん…」

「うちは彼女を死刑にしたいと思いますが、みなさま賛成いただけるでしょうか?」

 すぐに投稿が飛んでくる。

 

 賛成!

 死刑決定。

 反対の賛成なのだ。

 賛成の賛成。

 アルカリ性の酸性。

 死刑死刑。

 これで死刑にしたら鮎美も終わるな。

 いいとこ懲役5年じゃね。

 んなにならねぇよ。

 死刑しかない。

 婆は死刑、女は姦刑。

 鮎美ちゃんの今日のパンツ何色?

 お前の精子は何色だ。

 純潔の白で。

 まだ純潔なんだな。童貞。

 

 ろくなコメントが入ってこないし集計する気もない。けれど、真剣に見ている視聴者もいるだろうと鮎美は続ける。

「ある事件を事例として紹介します。新潟県で誘拐された少女が2000年1月に発見されましたが、この少女は1990年11月に9歳で拉致監禁され、約9年間も加害者宅で監禁され続けていたのです。この犯人は当時28歳、それ以前にも別の9歳の少女への強制わいせつ未遂で現行犯逮捕され、懲役1年執行猶予3年の有罪判決を受けていましたが、9歳から9年間、ほぼ青春のすべてを拉致監禁されて過ごしたことへの代償として一審では14年、二審では11年、最高裁では14年となっています。拉致監禁の間も暴行は常に続いており、検察は非人道的で血の通った人間の行為とは思えない。極悪非道であるとして異例に、裁定未決拘置日数は刑期に算入すべきでないと主張し、また逮捕監禁致傷罪は懲役10年が最高刑であるため、法的な技術を駆使して刑を重くするため、犯人がホームセンターで女児に着せるために4点の下着を万引きしていたことに窃盗罪で追起訴をおこない、併合罪という計算で15年の懲役を狙いましたが14年と一審ではなり、二審では併合罪の解釈が意図的だとして11年に減刑、最高裁では一審を支持して14年となりました」

 ほぼ無意識に鮎美は横髪を指先で耳にかけてから話し続ける。

「たった14年ですよ? しかも前科もあって。刑務所にいる14年て三食ちゃんと出てきて…ま、ここ最近、きっと、こいつにも飯を出してないと思いますけど…、刑期通りなら、あと3年で出てきおります。懲役刑というても、のんびり仕事させるだけでシバき回したりするわけちゃいます。けど、こいつは9年間、拉致した少女を暴行し続け、殴るのはもちろん、スタンガンで痛めつけたり、やりたい放題やったし食事は1日1食、コンビニ弁当のみで少女の体重は38キロまで減少、トイレはビニール袋にさせて監禁中に入浴させたのは一回だけ。それで14年と見合います? ぜんぜん見合わんと判断したから最高裁は併合罪の強引な解釈を認めましたけど、法文の字面通りやと二審が正しい判断です。なんで、こんなことになるかというと罪刑法定主義があるからです。もともと逮捕監禁致傷罪の上限が10年やから、もっと増やしたいくらい極悪非道な犯行やし、ほな軽い万引きがあるし、それ足して15年にしたろ、という発想ですわ。それは、ちゃうでしょ? いっそ、逮捕監禁致傷罪の上限が10年やったのは、こんな長期間の拉致監禁と暴行を想定してなかったからで、そこを罪刑法定主義を少し押さえて、あまりに非道な犯罪で想定外やったもんには、その犯行の様態を、みんなで考えて、ほな20年にしよ、いやせめて9年監禁の三倍で27年という刑をつくろう、いやいや無期懲役、もしくは死刑、と増やせるようにしたらええと、うちは思います。もちろん、みんなで考えるときには恣意的にならんように国民から無作為に選んだ裁判員をもちいて合議体でやったらええと。大切なんは法律の原則である罪刑法定主義を守ることなんか、ちゃんと犯罪に見合う刑罰をくだすことなんか、そこを考えたら、どちらに道理があるか自明やのに、つい法学を勉強しすぎると、原則が大事になってしまう。数学の公式とちゃうねんから、しっかり慎重に検討して曲げるときは曲げたらええんです。それで道理が立つほど非道な犯罪なんやったらね」

 長く話した鮎美は水でも飲みたくなったけれど、基本的に謝罪会見なので我慢して語る。隣にいる静江は罪刑法定主義を、やっぱり無視されるのだとわかり震えが大きくなっていた。

「暴力による犯罪だけやないです。経済での犯罪でも刑と被害が見合わんことがあります。ライフトア事件では粉飾決算額は50億円、これによって1600億円の資本調達をおこない、代表取締役社長は145億円の持株売却をやっとります。これで経営陣にかされた刑罰は懲役2年6ヶ月や1年2ヶ月、他3名には執行猶予つき。法人としてのライフトアには罰金2億8千万円。しかも主犯は最高裁へ上告して来月くらいに判決の予定でしたが…まあ、東京は津波で全部ワヤですけど、おそらく最高裁は2年6ヶ月とし、5年や10年とはならんでしょ。単純にもし145億円もらえるなら2年半、刑務所に入れ、と言われたとき、どうです? ぜんぜん余裕で入るんちゃいます? こういう経済犯罪にはね、やっぱりそれで儲けた金額の全部を没収、プラス500万円くらいの本人への罰金、そして誰かを肉体的に傷つけたわけではないので、税金で飯くわせる懲役刑は無しで借金して罰金払っておけ、くらいでええんですよ」

「…うぃひぃ…」

 恐怖のあまり静江は変な声を漏らしているし、尿も漏らしている。

「サブプライムローンの問題も似たような側面があります。今アメリカが混乱してるのも2008年に起きたリーマンショックの影響もありますわ。日本も大迷惑やった。リーマンは64兆円という負債額で史上最大の倒産をしたのに、倒産するまで格付け会社からはAAAの信用格付けを取ってました。これ完全に詐欺でしょ? 経営陣は高額の報酬をずっと受け取ってきたのにサッと逃げるし、格付け会社は信用格付けはただの意見です、と逃げる。お前らはグルメサイトのレビューでも書いてるつもりか?! と世論の嫌悪感を買っても重い刑罰をかすことはできん。これでええんですか? 資本主義、自由競争、これはええ、けどそれをバンバン悪用して法の網の目をくぐって、自分らに有利な契約を組んで、他人に損させて逃げ切る。そして罪刑法定主義があるから守られる。うちは、こういう社会は大きく間違ってると思います」

 久野が広報室に予定外に入ってきて、生放送中のカメラに一礼すると、鮎美へ耳打ちしてくる。

「富山の金本氏が芹沢総理に面談を申し込んでいます。できるだけ早く会いたいと、電話や通信ではなく直接に。どうされますか?」

「……待たせておいてください。今は謝罪会見中なんで」

「わかりました」

 本来は官房長官が伝えに来るような内容だったけれど、今は石永は大会議室で待機していて久野が代わりに来たのだった。久野は再びカメラに一礼して被写界から消える。鮎美も謝る。

「すみません。業務連絡が入りました。会見を続けます」

 鮎美は、どこまで話したかを思い出し続ける。

「今の日本、この大震災においても暴動や強盗も少なく、みなさん我慢いただいて治安が維持されているのはなぜでしょうか? 明治維新後、法治国家になったからでしょうか? 違います。すでに江戸期には治安の良さは世界屈指、こうなったのは織田信長の一銭斬りが始まりです」

 鮎美は鷹姫からえた知識を語る。

「それまでの戦国期、占領地で略奪や暴行をするのは勝利軍兵士の権利といってもいいほど、当たり前のことでした。けれど、古くは源義仲が京で略奪をし、人心を失ったように勝利軍によって住民が被害を受けるのでは世の中ハチャメチャです。これを変えたのが織田信長でした。信長は勝って新たな土地に進行するときでも自軍の兵士に略奪暴行を強く禁じていました。結果、わずか一銭を盗んだだけの兵士でも切り捨て、これを模範としています。おかげで治安はよくなり信長の占領下となることを民衆は喜んで受け入れたのです。また、これは秀吉、家康にも受け継がれ、江戸時代は10両盗めば死罪といわれるようになっています。その結果が今日です。けれど欧米から入った法律と、犯罪者の人権を重視する憲法で、いささか歪んできました。そこで今回の石永静江の件ですが、私は最高刑として死刑もふくめた上で、11名の裁判員による裁判をおこなう社会実験をしたいと考えております」

「はひぅひいう」

 静江が震え上がり、視聴者からはコメントが投稿される。

 

 死刑に一票。

 よし、死刑だ。

 死刑に二票。

 死刑に3000点。

 ところで今回の配信、ニタ生だけでヨーツーベにはあげてないのな。

 なんでだろうな。

 外国に、あんまり見せたくないんじゃね。

 まあ身内の恥だしな。

 あと死刑にするには乱暴な案件だよな。

 裁判員で決めるし、一応は手続き、あるだろ。

 いやいや、それって人民裁判って言わね?

 法治国家が情治国家になるぞ、麗国みたいに。

 

 コメントに鮎美が意図するものがあったので拾う。

「はい、今、情治国家というコメント投稿がありましたし、人民裁判というご指摘もいただきました。現在、麗国とは戦争に準じた状態であり、みなさまの感情が悪いのはよくわかりますし、私も同様です。ただ、麗国では悪いことをした経営者の追求がかなりしっかりとなされます。賛否わかれると思いますが、たとえば詐欺みたいな商法をおこなう会社が巨額の利益をあげ、そして警察に摘発されたとしても、社長は逮捕されても社長の子供などは追求されません。当然です。会社にかかわってなければ、それでいいでしょう。けれど、社長の子供はやっぱり平均的な子供より豊かな生活をし、不当に親がえた資金で遊んだり大学に行ったりと、そういうことをしてきたわけです。さらに親から贈与を受けていても、この金額には追求が日本ではおよびません。けれど、麗国ではなされるそうです。子供から何もかも身ぐるみ剥ぐのはよくないとしても、平均的な子供が受ける親からの享受を控除した部分は追求するのが一種の正義ではないかと考えます。世の中を見渡して、詐欺で騙された親の子が苦労して奨学金で大学に行ったのに、騙した親の子は楽々と大学に行き平均より恵まれて育つし奨学金の返済もない。これで、ええのでしょうか? せめて、悪徳による資金で育ったなら平均程度を差し引いた残りは背負っていくべきとちゃいますやろか。そういう意味で麗国の治世は、頷ける部分もあるのかな、と思いますし、日本が欧米の法治を重視しすぎて犯罪者の権利を守りすぎるのは、どうかな、と考えております。また、人民裁判となるかどうか、そこは裁判員の良心にもよりますし、私としては感情で治める情治ではなく、道理と道徳、すなわち人道と仁徳をもって治める徳治の国家であってほしいと考えております。その意味で、大震災でみなさまが苦しむ中、富山と福井でコンペをしたことで誘惑に負けて、ありえない豪遊をしていた私の秘書に、どういう判決がおりるのか、どういうところでみなさまに納得いただけるのか、見守りたいと思いますので…」

 再び広報室に誰かが入ってくる。鈴木と石永だった。二人もカメラに一礼して、鈴木が耳打ちしてくる。

「北朝鮮の金正忠代表より芹沢総理とネットで面談したいと急ぎの申し込みが入ってきました。どうされます?」

「……受けざるをえませんね」

「はい」

 無視できない人物だったので鮎美はカメラへ謝る。

「申し訳ありません。他国の代表より重要な連絡が入りましたので、謝罪会見を石永官房長官に引き継ぎます」

 そのつもりで石永が来ていることは明白だったので鮎美は交代して廊下に出る。石永は二世議員で官房長官となった者として紳士的かつ従来通りの謝罪に切り替えていき、鮎美は鈴木の案内で司令室に向かう。向かう途中、鮎美は軽い目まいを覚えた。

「…っ…」

「芹沢総理っ!」

 ふらついたので鷹姫が抱き支えてくれた。

「大丈夫ですか?」

「うん、おおきに、ちょっとクラっとしただけ」

「御心労が重なってるところに、いきなりの国家代表との面談では当然です」

「……鷹姫、ちょっと抱きつかせて」

 そう言った鮎美は支えてくれている鷹姫を抱きしめ、その胸に顔を埋めた。鈴木が言ってくる。

「あまり待たせていい相手ではないですよ」

「1分だけ」

「「「「「…………」」」」」

 異性愛者である鈴木と麻衣子は不思議に思うけれど、護衛のゲイツたちは理解できる。充電中なんだな、と思ったし、鈴木と麻衣子も鷹姫が彼氏だったなら、と考え直してみると鮎美が癒やしを求めているのがわかった。

「……はぁ…鷹姫…」

 甘えた声を出して鮎美は1分が過ぎる前に鷹姫の上着のボタンを外すとブラウスの上から腋に鼻を入れて犬のように匂いを嗅ぐ。鷹姫も謝罪会見中だったので緊張と怒りが強かったようで腋が汗ばんで濡れていて匂いも強い。鮎美は鼻を擦りつけて味わい、そして離れると両手で両頬を叩いた。

「よっしゃ、頑張ろ!」

「はい。お姿を整えます」

 鷹姫は鮎美の髪を直し制服の乱れを整え、議員バッチとブルーリボン、レインボーブリッジのバッチも位置を正した。鮎美たちは早歩きで司令室に入った。司令室では32インチほどの液晶モニターに金正忠の顔が映っており、待っている間は畑母神と対峙していたようで、二人とも無表情で睨まないように睨み合っていた。畑母神と鮎美が交代し、つい鮎美は日本人らしく謝ってしまう。

「すんません、遅くなりました。うちが…私が芹沢鮎美です。どうも」

「……」

 まだ26歳の若き北朝鮮の指導者と、若すぎる18歳の日本の指導者がモニター越しに初めて顔を合わせた。つい忙しかったので、あまり緊張せずに顔を合わせたけれど、鮎美に対策は何もない。鈴木のおかげで相手のプロフィールくらいは予習しているというだけだった。鮎美の言葉を外務省職員が朝鮮語へ翻訳する前に、金正忠が言ってくる。

「おう。ええよ気にせんで。ワシが急に申し込んだんやさかいな」

「「「「「……」」」」」

 違和感と意外さのあまり畑母神らは目を丸くしたけれど、鮎美だけは母語なので違和感を覚える間もなく反射的に返事していた。

「おおきに。ほんで、お話ちゅーのはなんですのん?」

「まあ、待てや。お互い、ちょっとは知りおうてからにしよ」

「そらそうですね」

「ワシのオカンな、おまんといっしょでアユミてオトンに呼ばれとってん。知っとる?」

「あ、はい。聞きましたわ。お母さんは大阪出身やて」

「そやねん。ワシの関西弁、完璧やろ」

「めちゃ完璧ですやん。道頓堀におったらわからんで」

「せやろ。ちょっ、おまんのこともアユミて呼んでええか?」

「ええよ、ええよ。ほな、うちはキムやんにするわ」

 相手が関西弁なので鮎美の関西弁も普段より濃くなっていく。

「アユミ、写真で見るよりめんこいなぁ。惚れそうやわ」

「また、そんなっ、誉めてもなんも出んよ!」

 鮎美が大阪人らしく空中を叩いた。

「しかしアユミも18で指導者て大変やな?」

「まあ、きついですわ。いろいろ! ほんでもキムやんも26やろ。大変ちゃいます?」

「これがな、きついわ! しかもオトンが戦争しかけとくやろ。このタイミングでワシに替わるんかいっ?! ってとこやわ」

「そっちの立場も、きつそうやねぇ」

「アユミも頑張っとるやないか。そや、あの秘書、やっぱ死刑か?」

「う~ん……迷いちゅー」

「切れ、切れ、あんなもん許しとったら、すぐ調子にのりよるど」

「うちらの情報よぉー知ってはりますねぇ」

「嬉しそうにネットへ流しとるでよ。アユミとミクドのしゃべくりなんか5億ヒットいっとるぞ」

 たっぷりと鮎美と金正忠は30分以上も近況や大阪について語り合った。畑母神や鷹姫は、こんなに仲良く話していていいものか、と疑問に思ったけれど外交畑が長い鈴木はニコニコと見守っている。国同士が争っていればいるほど、首脳同士の会談はスタート時は関係の形成から始まるので、あえて止めずにいる。いずれ、お互いに狙いや目標、条件を出し合ったときどうなるかは別として、今は人間と人間で深くコミュニケーションを取っておくのが常道だったし、関西弁のおかげなのか急接近している。

「アユミ、そっちも、そろそろ飯時やろ?」

「うん、そやわ」

 日本と北朝鮮には時差がなかった。

「いつかいっしょに飯喰える日もくるやろけど、今はこのまま飯喰いもて話そか」

「あ、ええね、それ」

 モニター越しに会食することにもなり、麻衣子らが食事トレーを持ってきてくれた。鮎美たちのメニューはエビチリソース野菜炒め、チキンサラダ、オニオンスープ、白米、イチゴだった。金正忠の提案で鈴木や畑母神たちも着席して食べる。金正忠らも数名の幹部を相席させ、ヤキソバを食べ始めた。

「日本人はエビが好きやなぁ、ワシも好きやけど」

「そのヤキソバ、具は?」

「豚や」

 ご機嫌で食べている金正忠だったけれど、彼が見ている画面の端に鷹姫が草と虫を食べているのが映ったので問うてくる。

「あの子は、なに喰うとん?」

「あ~……ちょい事情があって草と虫ですわ」

「マジか。津波で日本の食料、そんなヤバいんか?」

「なことないって。凶作でもギリいける計算やよ」

「凶作でイケるのは羨ましい限りやな。けど、ほな、なんで? なんか失敗でもしよって罰でか?」

「ちゃうて。まあ、罰で草と虫にしてる秘書もおるけど、鷹姫は自主的に挑戦中なんよ」

「ふ~ん……話かえるけど、仲国とやり合って日本の戦闘機、なんぼ残った?」

 さらりと金正忠が探りを入れてくる。

「けっこうヤられたけど、そこそこには残っとりますよ」

 もう、ぼやかして返答することなど鮎美も政治家として慣れているのでオニオンスープを啜りながら答えた。鮎美は核爆弾の残存数について訊きたい気持ちはあったけれど、それこそ教えてくれないに決まっているので訊くこともしない。金正忠は再び大阪について語る。

「アユミ、大阪のどこ出身よ?」

「天王寺区やよ。生國魂神社あたり」

「オカンがいたとこの隣やんけ」

「ホンマ?!」

「おう、生野区や。1キロも離れとらんなぁ」

 二人ともゆかりの地が近所なので、ますます親近感を持った。

「ワシらの親は、えらい近いとこにおったんやのぉ」

「そやねぇ………運命て不思議なもんやねぇ」

 お互い食べ終わり、いよいよ本題に入る。

「アユミ、対馬の方はどや? 今も砲撃あるか?」

「えっと…」

 鮎美が畑母神の方を見る。

「とくに動きはないが、海岸線に自走砲を並べているので、いつでも砲撃できる体勢をとっているし、数も増えている」

「だそうですわ」

「数は、なんぼか教えてくれるか? おっちゃん」

「………」

 おっちゃん扱いされた畑母神は、わずかな情報でも与えたくなかったけれど、鮎美が促す。

「まあ、それくらいええんちゃいます?」

「……。31両と見込んでいる。ダミーもあるかもしれないが」

「しっかり数えとるなぁ」

「うちも訊きたいことあるねんけど、ええ?」

「おう、言うてみぃ」

 鮎美は核弾頭の数以外で訊きたい数があるので問う。

「ずいぶん前に、そっちに攫われた日本人、あと何人、残ってはる?」

「あ~、その話かぁ……」

 金正忠も鮎美たちの胸にあるブルーリボンの意味は知っている。質問としては予想内だった。

「7人はおる。12くらいかもしれん」

「そんで、終わり? もっと生きてはらへんの?」

 鮎美が勇気を持って追求してみた。

「だいぶ前の話やしな。自然と病死ちゅーこともあるし、あとアメリカの核攻撃でも2人は死んどるわ」

「こっちで登録してはる人、もっと多いんよ? 横畑さん夫妻以外にも、いっぱいいはる」

 鮎美は夫妻との会談中に居眠りしたけれど、鷹姫が熱心なので気にかけていたし、自分も母親の美恋を亡くしてからは、親子離別のつらさが実感としてわかってきている。生きているなら、なんとしても会わせてあげたいという想いが鮎美の瞳に宿り、その輝きを金正忠は取引材料にできそうだと感じる。

「ああ、横畑な、あいつは生きとるで」

「返したって! あと、他にも、もっと!」

「もっと言われても、ワシの把握では、せいぜい12や」

 金正忠は側近に朝鮮語で何か命じた。おそらくは資料を調べろいう指示に感じる。鮎美は粘ってみる。

「百人くらい、いはるやろ?」

「いやいや、そんなにおらんし」

「けど、こっちで訴えてはる人は多いよ」

「あれなぁ、全部が全部ワシらとは限らんやろ。アユミもさっき新潟の拉致監禁いうとったやんけ。ああいう風に、おまんら日本人同士の中で拉致っとったりして死体が見つからん分とか、たんに蒸発したとか、うっかり海に落ちて溺れて死体があがらんかったもんもおるやろ?」

「うちの会見をライブで見てたんや。そやのに途中で連絡してきたん?」

「謝罪会見するアユミの顔を見てたら話してみとうなったねん」

「う~…………ともかく、せめて残ってる人、返してくれへん?」

 鮎美は少し首を傾げて女の子らしくお願いしてみた。

「そやなぁ、まあ、条件によっては返してもええけど」

「……どんな条件なん?」

「敵の敵は味方ちゅーやろ、いっそワシらと日本で南朝鮮を南北から挟み撃ちにせんか? あいつらビビりよるで」

「クスっ…そらビビりよるわ」

「どや?」

「う~ん……けど、うちらは砲撃さえ無かったらええし……あんま朝鮮半島のことに手ぇ出しとうないし」

「ほな、拉致家族の返還プラス竹島の領有権で、どや?」

「それ麗国を完全に占領したうえで、うちら日本には小さい島一個ちゅー話ですやん。割り合わんわ。しかも、もともと領有してるちゅーのが、うちらの主張やし」

「やっぱそう言うか。ほな、超出血大サービスで竹島にプラスして、任那やった地区を99年租借させよ」

「ミマナ?」

「なんや日本人のくせに知らんのか?」

 鷹姫が素早く教えてくれる。

「663年まで存在したとされる朝鮮半島南部の国もしくは地域で日本とつながりが深い、もしくは日本の統治下にあったところです。5世紀6世紀にかけて前方後円墳が造られています。ですが、白村江の戦いによって唐と新羅の連合軍に、倭国と百済の連合軍は敗れ、この地を失っています。この戦いは元寇、対米戦争と並んで日本の危機であり、天智天皇や天武天皇は国家体制の整備を急ぎ、仲国のシステムを習い律令国家へと進み、国号も倭国から日本に変わっています」

「ああ、あったね、それ。急に言われたから思い出せんかったけど、日本史の最初の方に出るやつな。でも、いきなりなんでやろ?」

「おそらく金正忠代表は、かつて歴史的な経緯のある地なれば今回協力すれば99年貸し出すと言いたいのでしょう」

「おう、優秀な秘書やんけ、草と虫で、よう働くのぉ」

「鷹姫は一番の秘書やし」

「ほんで、答えは?」

「……う~ん……」

「芹沢総理、悪い話ではないかと思います。かつて女性ながら斉明天皇は百済から乞われ、自ら軍を率いて今の大阪である難波を出立しています。かの女性天皇が再来となるは、この上無き栄誉かと存じます」

 かなり鷹姫が興奮気味に語ったので鮎美は余計に引いた。

「やめとくわ。今さら占領とか、しとうないし」

「なんや蹴るんかいな」

「そう言われても冷静に考えて、そんな土地いらんし。占領しても絶対、住民にテロられるやん。ヘタしたら伊藤博文の二の舞や、うちは刺されて板垣退助やったし、もうええわ」

「暗殺されかけとったのぉ」

「頼むし拉致した人ら返してぇな」

「まあ、やぶさかやないけどなぁ……日本語て便利やな、ハンパな答えがしやすいわ」

「スパっと関西人らしゅう頼みますわっ」

「ワシ関西人ちゃうしぃ」

「う~ん……ほな、食料援助とかでは?」

「ははは、今年は足りる予定やねん」

「ほやったら………えっと……うちらも次に砲撃されたら反撃するつもりやし、そんとき一応は挟み撃ちになるやん。少なくとも海岸線にある戦力は叩くし」

「ちょい遠いなぁ……」

「あ、そや、一人返してくれるにつき、スティンガーと対戦車ロケット砲10本ずつ、あげよ。それで、どないよ?」

「スティンガーとロケット砲か、それはええな……けど、10本て、アユミおまんイスラエルから6000ずつもろたんやろ。えらいケチやんけ」

「対仲国用の自衛兵器やもん。減らせんよ。12人で120本やよ。命中率抜群らしいで頑張って当てさせいよ」

「200本」

「………拉致家族は元気なん?」

「たぶんな」

「本物? 偽物やったらキレるで」

「………12人は無理かもしれん。せいぜい9人。けど200本や」

「その条件で即、日本海の真ん中で交換しよ。こっちは武器と家族も乗れる人は乗せるわ。偽物は通用せんよ。あとあとDNA鑑定もするし」

「安心せい、関西弁つかうもんに悪いやつはおらん」

「関西弁つかうもんは基本、悪いこと考えるよ、うちもそやし」

「ええ根性してるわ」

「なあ、他に、もうちょい交換したいもんあんねんけどな。この通信って盗聴されてると思う?」

「きっとな。ワシらのネットって仲国大陸を通すし。日本とも南朝鮮とも直接は、つながってへんから。アメ公も頑張ったら覗きよるやろ」

「やっぱりなぁ」

 鮎美も勘づいていた。鈴木から教えてもらったことに、電話などでの会話でタイムラグが生じたり、ネット通信で画像に乱れが生じるときは盗聴の可能性があるとのことで、今も少し乱れている。必ずしも乱れやタイムラグが盗聴とは限らないけれど、鮎美は生放送の謝罪会見を中座して、この通信を始めているので他国の諜報機関は全力で盗聴に挑戦しているはずだった。金正忠が興味ありげに問うてくる。

「なんや、おもろい提案か?」

「キムやん、うちらの信頼関係って、どんなもんやろ?」

「まあ、とりあえず今回の取引は成功させたいわな。福岡は、すまんこっちゃったけど、大戦中のこともあるしよ。先代、先々代がしたことは、恨みっこなしで」

「うん……」

 福岡2万人の死傷者のことを忘れてはいないけれど、まだ26歳の息子にその罪を問うならば、鮎美とて玄次郎が隠しきって大阪とともに流れた脱税の件を道義的には問われるべきことになるし、どちらも問われても、自分ではない、と逃げたくなる事案だった。すでに津波で数千万の命が失われた後なので2万人という数字が小さくさえ見えている。そして、鮎美には虐殺された2万よりも、これから守るべき日本全体のことが念頭にある。

「うちはキムやんと大きな取引がしたいねん。内容を手紙で今すぐ送るわ」

「どこの郵便屋が、とどけるねん?」

「こっちから戦闘機を飛ばすわ。手紙もたせて」

「ほぉ……」

「撃墜せんといてな」

「一機だけなら通したろ。非武装でなら」

「……」

 鮎美が畑母神を見る。畑母神は考えて答えた。

「空対地ミサイルはつけない。だが、機の自衛に機銃と空対空ミサイルはつけさせたい。それに燃料の増槽。対地攻撃能力がなければ、たった一機、さほど脅威にはなるまい」

「…ま、そやな。どうせ日本に対地攻撃能力、たいしてないけどな」

「うむ…」

 空対空ミサイルをもっていっても、お前たちに航空機ももう無いし、スティンガーを欲しがるあたり地対空ミサイルも無いのだろうがな、だいたい我々との麗国挟撃をもちかけることからして父親が勝手に始めた戦争に仲国も怒っていて援助してもらえないのだろう、まあ、その戦争に便乗して沖縄を攻めてきたヤツらも、いい面の皮だが、と畑母神は言いたいのを我慢した。たとえ相手に航空機が無いようでもロシアや仲国の存在もあり、非武装で行かせることに比べればパイロットの気持ちがまったく違うし、さらに鮎美が手紙に何を書くつもりなのか、とても気になる。

「ほな、キムやん。うちらも急いで準備するし夕方までには家族が再会できるよう。頼むわ。日本海の真ん中といわず、高速艇で近づけるとこまで行かせてもらうかもしれんし」

「せっかちやな」

「大阪人は、せかちんよ」

 そう言いつつ鮎美は男性異性愛者の心をくすぐりそうなウインクをして微笑をつくった。今まとまりかけた話を、さらなる情勢の変化で逃したくないので、とても急ぐ。それは金正忠にしても同じだった。鮎美とは対照的に横髪を刈り上げているのをジャリッと両手で撫で、ニヤリと笑う。

「オカンもそやったわ」

「ほなね」

 鮎美は通信を終えると畑母神と相談し、かなり畑母神を驚かせる提案をしたけれど納得させて手紙を書き、関西弁混じりの日本語に一応は外務省の職員が誤解の生じないように朝鮮語と英語の翻訳もつけた。その間に畑母神は複座のF15を用意させ、パイロットにはベテランを1名、そして里華を手紙の届け役として選んだ。

「石原少尉は着陸後、機を離れ、現地で手紙を渡すように」

「はっ!」

「万一のときはF15が最優先となる。その覚悟はあるか?」

「はっ!」

 遠回しに、もう一人のパイロットは着陸後も操縦席を離れず、何かあれば里華を置いて離陸する可能性を示した。鮎美が心配して言う。

「女より男の方がようないですか? 女やといろいろ不安ありますやん」

 捕虜になったとき強姦される可能性を鮎美は遠回しに指摘した。畑母神は里華に問う。

「石原少尉、不安はあるか?」

「いえ!」

「よし、出発!」

「「はっ!」」

 熟練パイロットである滝橋広行(たきはしひろゆき)大尉と里華が駆け足で司令室を出て行く。鮎美は心配だったけれど、止められる立場ではなかったし、言い出したのは自分だった。まさか里華が任命されるとは思わなかったけれど、今さらだった。畑母神としては万一のこともあるので複座で2名を派遣したいが、熟練パイロットを2名も失うのはさけたいので未熟な里華を配達人としていた。それを口に出すと里華の士気が下がるし、未熟とはいってもF15のパイロット養成課程を終えているので一人前でもある。今の情勢を考えると一日も早く熟練して欲しいこともあっての抜擢だったので黙って滑走路を見守る。格納庫で里華は手紙を搭乗服の胸ポケットに片付けると存在を確認するように上から押さえた。

「…ハァっ…」

「緊張しているか?」

 先輩である滝橋に問われ、里華は否定する。

「いえ、大丈夫です!」

「初陣だ。緊張しておけ。石原の操縦で離陸させてみるか?」

「っ、はい!!」

「よし」

 可愛いな、と思ったけれど、セクハラだと騒がれると鬱陶しいのでそれは言わずに離陸準備に入る。里華が司令塔と通信しながら格納庫を出、エプロンから滑走路の離陸位置へと移動した。

「…ハァっ…」

「ゆっくりでいいぞ。加速はゆっくり優しく…」

 女を口説くように、と男性の後輩にはいつも言ってきたけれど、これも里華に言うとあとで、あの発言は指導として必要とは思えません、と騒ぎそうなので言わないことにした。セクハラにうるさい扱いにくい子だというのは養成課程から噂になっていたけれど、努力家なのも聴いているし、それで押し通す実力があるのだろうとも、このさい期待していた。里華は素直に返事する。

「はい」

 里華がF15を離陸させる。着陸より離陸は、はるかに容易なので里華は緊張していたものの訓練通りに操作したのでF15は小松基地を飛び立った。

「左旋回します」

 左手に見える日本海へ向かうためロールすると、すぐに北陸自動車道を越え、海に出た。空は晴れているし、海は凪いでいて美しかった。

「…ハァっ…」

 けれど、見ている余裕などない。これから向かう先を考えると、肩が硬くなった。しかも、この空はもう平和ではない。殺し合いが連続した空であり多くの戦死者も出ていて、里華と折り合いが悪かった先輩も亡くなっている。配属された日に里華のショートヘアを見て、ロングだったらもっと可愛かったのに、と言われ即座に、そういった発言もセクハラです、先輩は同性へもそういうことを言いますか、髪が長い短いが業務に関係ありますか、そもそも自衛官にロングはありえません、と言い返してしまい以来、業務連絡でしか会話しなくなってしまった人だった。嫌っていたけれど、死んだと聴くと胸が痛む。里華が緊張のあまり余計なことを考えているのがわかった滝橋は軽い調子で言う。

「さてと」

「…ハァっ…」

「すぐに朝鮮半島だ。日本海なんて狭いものだからな」

 戦闘機の速度だと琵琶湖は池のように感じるし日本海も最大速度なら、あっという間だった。今は増槽をつけているものの、燃費のよい速度で飛んでいる。

「石原、これから万一の対空ミサイルにそなえ、超低空で侵入し、向こうが指定してくる初めての空港に着陸する。やり遂げる自信はあるか? 正直に答えろ」

「……ハァっ…っ…ありません!」

「よし、正直はいいことだ。操縦をかわる」

「…はい」

 万が一にも着陸に失敗して機を破損させて離陸できなくなるということは許されないので里華は配達人に徹する。超低空までおりたF15は速度をあげた。海面が近い。操縦せずに見ているだけの里華はお尻の下に海面の存在を感じて寒気がする。

「…ハァっ…」

 朝鮮半島が見えてきた。攻撃される気配はない。滝橋が英語で北朝鮮側と通信を始めたけれど、里華は耳に入ってくるのに緊張しすぎて理解できない。アメリカからの核攻撃を警戒している金正忠は所在を隠しているので、まっすぐには案内してもらえず何度か方向を変えさせられ、そして北部にある滑走路の一つに着陸するよう言われた。里華が地上を見ると、爆発痕がある。

「…空爆の痕………」

 滑走路のまわりには爆撃されたような痕跡があった。

「あれは麗国からの長距離ミサイルによるものだろうな」

 すぐに着陸せず一度は滑走路の上を通過して全体の様子を確認する。少なくとも攻撃してくる気配はなさそうだった。ここまで侵入できたこと自体、ある程度は信用できそうだったけれど、里華ら末端のパイロットには最上層部である鮎美と金正忠が、どういう風な話し合いをして、この突然の使者派遣を決めたのかわからない。つい先日、日本へ核ミサイルを撃ち込んだ国へ、たった2名で着陸する緊張感は相当なものだったけれど、熟練パイロットである滝橋は女性である里華への見栄もあって落ち着きをつくって冗談を言う。

「月面着陸の方が気楽そうだな」

「………」

「何か言えよ」

「……すみません……」

「まあ、いい。石原は女子高生総理のそばにいたんだろ? どうだった? この派遣、彼女は騙されてると思うか?」

「………いえ、そばにいて、かなり賢い人だと思いましたから、あっさり騙されるとは思えません。それに、畑母神防衛大臣もいるのですから」

「そうだな。元帥閣下の命令でもあるな。よし、おりよう」

 決断した滝橋は無事に着陸を成功させた。ここからが里華の任務となる。

「いってきます」

「必ず待ってるから、落ち着いて帰ってこい」

「はい」

 里華は北朝鮮側が規格の合わないハシゴをかけてくれたので慎重におりると、朝鮮半島の地を踏んだ。麗国を観光したこともないので初体験になる。

「………」

「「「………」」」

 北朝鮮側は3名の士官と12名の兵士で里華を囲んできた。英語が堪能な士官が話しかけてくるので英語で答える。

「ようこそ、我らの共和国へ」

「はじめまして。石原里華…日本空軍、少尉です。大切な手紙をもってきました。必ず直接に渡すよう言われております」

「聞いています。案内します。銃はおいてきてください」

「もっていません」

「身体検査をします。いいですか?」

「はい」

 男性2名からベタベタと全身を触られてかなり不快だったけれど我慢した。それから歩いて滑走路に隣接した施設に入ると、そこでレントゲン検査を受けた。

「……」

 この検査があるならベタベタ触らなくていいのに、と里華は不快感が増したけれど顔に出さないよう注意した。

「これから奥へ案内しますが、あなたに目隠しをします。動かないでください」

「……はい…」

 気持ち悪いけれど、最高指導者がいる施設の構造を知られたくないという保安措置なので軍人としては理解できる。分厚い目隠しをされて里華は、まったく光を感じることができなくなった。

「こちらです。手を握ります」

「…はい…」

 嫌だったけれど拒否できず手袋越しに北朝鮮男性の手のひらを感じた。そうして廊下を案内されるけれど、何度も曲がり方向感覚を失う。どこを歩いているのか、よくわからなくなった頃、エレベーターに乗せられ、地下3階くらいは降下した感覚がした。

「………」

 怖い、かなり怖くなってくる。視覚を奪われていることもあって、手を引かれるまま歩くしかない。進めば進むほど恐怖が増してくる。

「…………」

 怖くない、ぜんぜん平気、手紙を渡すだけ、まったく怖くない、と里華は自己暗示をかけて恐怖を乗り切り背筋を伸ばす。これまでも防衛大学校やパイロット養成課程で男性教官や先輩に、肩などにも触れないでほしいと言うときも怖かった。その場では了承してくれても、あとで不利に扱われて志望通りの進路に進めないのではないか、という不安は常にあった。それでも、はっきり言ってきた。そうして、ここまで来た。だから今も怖くない、そう里華は自分を励ましつつ、見えない廊下を歩き、しばらく歩くと厚い絨毯が敷かれているエリアに入った。

「目隠しをとります。動かないようにしてください。あまり周囲を見てはいけません」

「はい」

 やっと目隠しを外してもらった。大きな扉があり4名の歩哨が立っている。士官に案内されているからなのか、とくに誰何されることはなく扉を開けてもらえた。さらに扉があり2名の歩哨がいて案内役の士官が何か朝鮮語で短く会話すると、すぐに扉を開けてもらえる。そして応接間のような部屋に出て、里華は金正忠と対面した。

「……に、日本空軍少尉石原里華です。芹沢総理の手紙をもってきました」

 里華は敬礼して英語で言った。

「おう、よう来たな。関西弁、聞き取れるか?」

「はいっ」

 思わず里華も日本語で答えてしまうほど完璧な関西弁だった。なんとなく鮎美と意思疎通がうまくいった理由がわかってくる。きっと言語の違いは太古の昔から戦争の大きな理由だったのだろうと、妙な納得をしてしまう。突っ立っている里華へ金正忠が催促してくる。

「ほんで手紙は?」

「こちらです」

 里華は搭乗服の胸ポケットから出した手紙を両手で金正忠に渡した。片手で受け取った金正忠は自分で開封せず、側近に検査させてから読む。

 

 前略、鮎美です。

 さきほどの会談、楽しかったですわ。これからも、よろしく。

 さて、取引内容ですが、うちら日本が提供するのは

 

 1衛星写真による麗国軍の詳細な配置

 2分析している麗国軍の残存戦力の資料

 3おそらくは確かな趙舜臣の位置

 4追加のロケット砲300本と使い方紹介DVD、ただしヘブライ語

 5引き渡しは東京の金庫が開封できて整理がつく数ヶ月後になりますが金地金10キロ

 

 キムやんに提供していただきたいのは

 核爆弾に見える模擬核爆弾です、アメリカやロシアの衛星から見られて核爆弾に見えるような物をください。いかにも怪しく核施設のある基地から出して、こちらから輸送艦を派遣するので港で受け取ります。

 報酬の1から4は即日交換、できれば今日中でお願いします。

 5は成功報酬となります。きっちりアメリカなどを騙せた場合、お支払いします。騙せなかったときは、ただの鉄クズといえば鉄クズなんで1から4までのみとなります。

 よろしゅう頼みますわ! キムやん!

 もちろん、うちらだけの秘密ってことで、手紙を届けた者にも言わずに頼みます。色よいお返事、期待しとります。せっかちで悪いけど、返事は届けた者に渡してください。戦闘機のエンジンが回しっぱなしなんで早めに。

 

 読み終わった金正忠は笑い出した。

「くっ…ククク、くはははは!」

 笑いながら里華に近づく。

「っ………」

 里華はとても怖かった。鮎美が書いた手紙の内容次第では、この場ですぐさま拉致監禁され、もれなく強姦がついてくる気がする。強姦だけならいい方で、首を切り落とす公開処刑をされる可能性だって考えてしまう。こわばる里華の肩をバンバンと金正忠は笑いながら叩いた。今ばかりは肩に触れるなどもやめてください、とは言えなかった。

「ええわ! めっちゃええわァ、アユミ! おもろい女やわ! 笑かすわ!」

「………」

 とても怖いけれど里華は背筋を伸ばして起立姿勢を保つ。ここで腰を抜かしたら日本女性の恥だと戒める。それでも恐怖で心臓はバクバクと高鳴るし、背筋と両腋から滝のように汗が流れて搭乗服の中を濡らしている。

「……」

「おっしゃ、すぐ返事したろ」

 金正忠は側近から紙とペンを受け取ると走り書く。この取引は金正忠にとって失う物が少ないし、える物が多い。鮎美ら日本側の方も1から3までは世界中で売れるのは金正忠らだけだし、まだ朝鮮統一を諦めていないので喉から手が出るほど欲しい情報だった上、対地攻撃用のロケット砲まで追加してくれている。きっとその数があれば撃破できるという見込みで300本と言っているのだろうと感じるし、鮎美らはもう無いだろう核攻撃より、まだあるだろう対馬砲撃を防ぎたいようで、呼応すれば挟撃に乗ってくれる可能性も感じる。そして鮎美からも老将軍畑母神からも、朝鮮半島への領土的野心は感じない。何より騙そうとする相手は麗国ではなくアメリカを含めた世界中だというのは痛快だった。おまけに先ほど通信中に合意した拉致家族返還の取引も成功させてこその5番目の成功報酬となるのは自明なので鮎美の手堅さが笑えた。

 

 了解や!

 すぐ準備したろ。

 アメ公の反応、めちゃ楽しみやわ。

 頑張ってな。

 演習用につくったる模擬核爆弾があるし、模擬といっても少しばかり使用済み核燃料が突っ込んだるもんやから外から軽く検査したくらいでは、ばっちり本物って感じのをやるわ。

 アユミ、ワシおまんのこと好きになったし。いつか遊びに来てや。日本が滅びたときでも、おまんだけは助けたるしな。

 あと、ワシらはアユミの政権が日本の正統な政権やと承認しとくわ。頑張れよ。

 ほな、またな。

 金正忠より愛と核を込めて。

 

 手紙を封筒に入れると里華に渡した。

「ご苦労さん。えっと、おまん名前は?」

「はっ、石原里華であります」

 再び里華は名乗った。

「そうか、サトちゃんも元気でな」

「はい、失礼します!」

 無事に帰れる、という喜びに包まれながら里華は施設を出て滑走路に早歩きで戻る。待ってくれていたF15に乗り込んだ。

「おお、石原! おかえり! どうだった?」

「おそらく任務成功です! 機嫌のよさそうな顔でした!」

「そうか、よかったな。帰ってこれて」

「はい!」

「はぁぁ、オレも無事に帰れる」

 滝橋はタメ息をついてF15を離陸させると、一応は帰りも超低空で帰投した。日本海を飛び越え、小松基地が視野に入ると二人とも帰ってきたという実感に包まれる。

「石原、着陸をやってみるか?」

「…………すみません。精神的にクタクタで……」

「だろうな」

 熟練パイロットの操縦で小松基地に着陸すると、鮎美と畑母神が出迎えてくれた。

「おかえり!」

「よく戻ってきた」

「「はっ」」

 二人は敬礼し、里華が手紙を鮎美へ渡す。鮎美はすぐに読むと、笑顔になった。なんとなく陰謀めいた笑顔なので、その質が金正忠に似ている、と里華は感じてしまった。鮎美は急ぎ畑母神へ求める。

「畑母神先生、拉致家族と武器の交換で派遣する高速艇以外にも、輸送艦を用意してください」

「わかった。………OKしたのか……あの男…」

「はい!」

 アメリカが広島長崎へ投下する前にパンプキンという模擬爆弾を造っていて、それで鮎美が国会で追悼した亡き西村議員の父親が殺されていることから考えて、北朝鮮にも同じように本物以外に模擬爆弾があるだろうという鮎美の読みは当たっていて、それを日本へ渡しても本物でないことを知っている北朝鮮としては脅威とならない。しかも麗国軍の正確な位置と戦力は喉から手が出るほど欲しいだろうという読みも当たり、鮎美と金正忠の取引は成立した。畑母神は忙しく拉致家族のうち近くにいる人を集めて高速艇に乗せることと武器の積載、そして輸送艦へは武器と麗国軍の情報を準備させ始めた。鮎美へは久野が言ってくる。

「金本氏との対談を、どうされますか?」

「あ、それがあったんや。それより謝罪会見は、どうなりました?」

「石永先生が誠実に謝り、ともかくは社会実験としての裁判員による裁判を開くことになっています」

「裁判は明日やね。即日結審、即日執行で。公判前証拠整理は終わってるし」

 静江の他に女児5人を強姦殺人した田熊と、本名国籍不明で三重に戸籍を取得しようとした男の裁判も予定されている。久野が懸念して問う。

「救いようのない二名はともかく、誘惑に負けてわずかな不正をしただけの石永さんへ、あなたが心底怒る立場なのはわかりますが、どこまでの罰をかすつもりですか? それによっては人心をえるようでいて、人心が離れますよ」

「う~ん………静江はんについては、あんまり罪刑法定主義を無視せん方がええような気もするんよなぁ……身内だけに憎さ100倍な部分もあるけど」

「どうされるつもりか、三島法務大臣も影では気にしていましたよ。私も知っておきたい。教えてくれませんか?」

 年長者にへりくだられると鮎美も口を開く。

「…………まあ、ここだけの話……裁判員にも事前に説明して、とりあえず死刑の判決は読んでもらうし、処刑場にも連れて行くけど、死刑にするのは二人だけで、静江はんには本人同意のうえで事故原発に一番近い避難所でボランティア6ヶ月の刑かな」

「ボランティアは刑罰ではないですが……まあ、針のむしろでしょうな……」

 久野は事故を起こした原発のために家を追われた人たちが集まる体育館で雑用をする静江の姿を想像した。急に得た権力の周辺にいたことで富山県関係者から影の女王あつかいしてもらい、調子に乗ってホストクラブで豪遊していた官房長官の妹が避難所にいる人たちから、どういう目で見られるか、いっそ刑務所の方がマシかもしれないと思うほどだったけれど、本人同意でのボランティアという名目なら罪刑法定主義も関係なくなる。刑罰なしで、これ以上ないほど社会的制裁をかす、という発想だった。

「あなたの発想は、本当に……なんというか……まあ、その処分でよいでしょうが、護衛はつけてあげてください。でなければ、本人も危ないし、感情的になって石を投げてしまったりする避難者も罪に問われますから」

「そうですね、そうしますわ」

「この件はそれでよしとして、もう一人、同級生も反省室送りにしていますね。あの子は、どうする気ですか?」

「死刑。裁判なしで」

「………」

「というのは冗談で」

「冗談に聞こえないから怖いですよ。それで?」

「裁判なしで処刑場に送ってキリストさんの疑似体験してもらって終わりかな」

「………まあ自業自得といえば自業自得ですが、殺されるかもしれないという体験は……かわいそうに……。そろそろまともな物を食べさせてあげなければ、いよいよ人権侵害ですから気をつけてください」

「はい。あと例の広島県警の件は、どうなりました?」

 外国との事変もあれば、身内の不祥事もあり、そして全国各地で鮎美自身とは、まったく無関係な事件も生じ、それが場合によっては総理大臣として対処を要することも出てくる。田熊の強姦殺人や三重戸籍取得の件は鮎美が想定していたものだったけれど、まったく想定していない件も起こってくる。広島県警では会計課の金庫から8572万円が盗まれるという事件が生じていた。その8千万円の出所は津波で被害に遭った地区へ派遣されていた消防隊員が拾った金庫であり、もともとは被災者の財産だった。そして、広島県警内部の犯行であることが確定的であり、警察官による国民財産の横領という醜聞中の醜聞だったので総理大臣まで対処があがってきている。

「捜査したところ犯人は不明という結論になっているようです」

「アホちゃうか。広島県警の署員がやってる事件を広島県警が捜査して犯人不明て。それで国民が納得するわけないやん。まして、津波で亡くなった人の財産を拾っておいて保管してたのに盗まれるとか、ありえんわ」

「広島市内ではデモと小規模な暴動が起こっています」

「で、それを取り押さえるのも広島県警やから余計に反発が拡がるわな」

「おっしゃる通りです」

「取り押さえるのを島根県警の職員に替えてやって。あと、捜査は山口県警に」

「それは管轄外になります」

「もともと無理があるんですよ、自分らの組織の犯罪を自分らが捜査するって。前にも白バイと修学旅行バスが衝突事故やって、生徒らはバスが止まってた言うのに、結局はバスの運転手を懲役刑にした事件がありましたやん。たしかに殉職した白バイ運転手は気の毒やけど、ああいうのも別の県警が出てきて捜査するシステムに変えたら公平な捜査と裁判ができると思いますよ。ともかく、総理大臣令でこの事件については県警が越境することにしてください」

「わかりました」

「あと、デモや暴動の代表者が望むなら、ここに来るよう伝えてください」

「お会いになるのですか?」

「広島県警の容疑者も呼ぶし。会計課の金庫っていうたら接近できる人間は限られるんちゃいますの?」

「はい。犯行が可能であるのは、およそ30名、疑わしいのは数名とのことです」

「そいつら全員、明日、ここに連行して。あと署長も」

「……。どうされるおつもりですか?」

「裁判員裁判の見学と、死刑執行の見学、その後、逮捕術の研修という名目で、剣道、柔道をメインとした鷹姫やデモ代表への講習」

「…………。疑わしい者を全員逮捕とはいかないので見学、研修という名目で連れ出し、さらに合法的に暴行が加えられる状況にするわけですか……」

「道場は治外法権っていうのは、県警の人らも、よぉー知ってはるやろし。この事件、曖昧にしたら暴動は全国に拡がりますよ」

「たしかに……」

 津波による被害地区で財産を拾う行為を公務員に限定している中で、公務員への不信感が拡がると致命的だった。それゆえ、容赦しないという鮎美の態度に久野も理解せざるをえない。秩序維持は最大の課題だった。容疑者たちとデモ代表者を呼んで鮎美がしようとしていることを、だいたい久野も予想できたけれど、反対せずに新屋と三島に手配させることにした。

「それで最後になりましたが、金本氏との対談はどうされます?」

「直接に会ってでしたっけ? どこで?」

「富山県と石川県の県境あたりで、と」

「そんな38度線みたいな……うちはキムやんとの取引を見守りたいし、ここを離れるのは嫌やわ。富山から小松て、すぐやん。来てくれるように言うてみて」

「わかりました」

 久野に頼み、鮎美は司令室へ行って畑母神と事態の推移を見守る。話はついているので基本的に順調に動いているようだった。日本の人工衛星でも金正忠による指揮で核関連施設から何らかの物体が取り出されているのが確認できたし、高い可能性で米仲露も気づくはずだった。当然とっくに小松基地を飛び立ったF15が北朝鮮へ不審な一往復をしたことも観測されていると踏んでいる。また拉致家族を乗せる作業も順調に進み、双方が出港しつつある。畑母神が天候を見守りつつ頷いた。

「ありがたいことに凪ぎだな。瀬取り同然に交換するには都合良い」

「せどり? って何ですの?」

「船と船を洋上で並べて接合し物資のやり取りをすることだが、意味合いとしては税関を抜ける場合や、麻薬などの取引で使う言葉ですよ」

「ふ~ん……」

「総理がちゃんと拉致家族のことを忘れずにいてくれたのは嬉しい。横畑さんに会ってもらったときは居眠りしていたのに」

「うっ、あのときは疲れてて……すんません。けど、鷹姫が色々と言ってくれたから忘れずにいました」

「そうか、やはり。ありがとう、宮本くん」

 思わず畑母神はそばにいた鷹姫の頭を撫でた。孫の頭を撫でるような触れ方で、鷹姫はセクハラを気にしない性格なので、むしろ誉められた子供が喜ぶような顔になってから、謙遜することを思い出した。

「いえ、私などはたいしたことはしておりません。すべて芹沢総理の手腕あってのことです」

 そう言う鷹姫を鮎美は引っ張ると、畑母神に撫でられたところを鮎美が撫で直した。それで畑母神は忘れていた鮎美の性的指向と胸につけているレインボーバッチの意味を思い出し、もう鷹姫には触れずにおこうと意識する。司令室に久野が入ってきた。

「芹沢総理、連絡を取ってみたのですが、やはり県境か、場所を用意するので富山市に来てほしいとのことです」

「………畑母神先生、どう思う?」

「ありえんな。万が一にも芹沢総理が拉致されれば大変なことになる。まあ、武装した護衛がいるのに無理とは思うが」

「あ、そっか……うちを拉致すれば、うちの権限を使えるんや……」

「そういうことだ。それに、これから北朝鮮とやり取りするにつき指揮は私が執るが、もし現場で揉めることがあったとき、トップ同士で話し合ってもらう方がおさまるだろう。きっと、私と金正忠では話し合っても悪い方向に行く……おそらく…」

「将軍同士ケンカするんやね」

 鮎美が久野に頼む。

「すんません、金本はんに小松基地に来てもらうように言うてもらえます? 大事な仕事中で離れられんから、と」

「わかりました」

 畑母神が付け足す。

「会談の前に身体検査を厳重におこなわねばな」

「「………」」

 久野も鮎美も反対しなかった。久野が出て行き、再び北朝鮮の動きを注視する。しばらくして再び久野が来て金本が議員団とともに来訪すると伝えてくれた。鮎美は不破島に電話をかけてみる。

「もしもし、うちです」

「いいタイミングですな」

「どうですか、そっちの様子は?」

「金本自称総理は、自称を取るために麗国からの承認を利用しようとしたようだが見事に失敗し乱闘になったのは見ていてくれますか?」

「はい、そこまでは」

「外国政府からの承認を自身の政権の正統化に利用するのは、よくあることですが相手が悪いし、いきなりの謝罪で自眠党関係者は一気に抜けてしまった。もともと根回しされていたのでしょうな。もう半分は姿を消し金沢市に入っているようだ。それでも自眠系では富山の市議などは、まだ残っています」

「なんで?」

「もともと議会をつくろうと言い出したのは富山の人間が中心です。コンペに落ちた恨みと、暴走する芹沢政権、失礼、議会を通さず即時判断する芹沢政権にブレーキをかけていこうという動機で」

「やっぱり暴走にも見えますよね」

「自覚があるうちは、まだ大丈夫ですよ。そうして出来上がった議会ですが、一時は県議や元衆議院議員、市議、知事で議決権に差をつけようとしたが、折り合いがつかず結局は一人一票となった。となると、ただの市議だったものが国会議員面できるというわけです。そして、そちらからの根回しは元衆議院議員に集中している。まあ国政経験を買うのは順当ですし、ただの市議を政務官にとはできませんから当然です。そして富山市議らは石永静江を落とし入れる材料も提供した。さらに自眠の元衆議院議員らが抜けても残っていてくれるので眠主党県議らからも大事にしてもらえるということで、ここに残るのが居心地がいいというわけです」

「………」

 クズめ、と鮎美は思ったけれど口には出さなかったのに不破島が言ってくる。

「今、クズが、と思いましたね?」

「ま、まあ、それに近いことは」

「実に見事にクズですよ。おかげで尻尾をつかむのが楽だった。マスコミは接待された側の石永静江ばかり叩き、接待した側については報道しない自由を行使していますが、がっちり尻尾はつかみました」

「どんな?」

「政務活動費です」

「ああ、あれ、たしか市議にもあったね。それに不正があったん?」

「ざっと調べただけで14人、実に杜撰というか、もう詐欺というレベルで公費を懐に入れています。もう何年も前から、ずっと」

「14人て……富山市議会の定数は?」

「38ですよ」

「4割近いやん!!」

「名簿のリストと領収書コピーの一部を、そちらへ送っておきますよ。どうぞ、お役立てください。もう富山の議会も終わりでしょうから、私は茨城に帰ります」

「ホンマおおきにな、不破島はん、なにかお礼せんとね」

「であれば、茨城の復興に予算をいただきたいですな。我斯く戦えり、茨城県に対し特別の御高配を賜らんことを」

「お約束しますわ」

 鮎美は電話を終えると即時、久野へ道路復旧で茨城県を全体の公平性を毀損しない範囲で一番に優先するよう頼んだ。

「わかりました。そこそこにしておきます」

 久野はベテラン政治家として今までの経験で、そういう忖度は心得ているので、すぐに不破島へ電話する。鮎美は次の予定があるので大会議室へ向かった。大会議室には明日、裁判員となってくれる22人の人々が集まってくれている。すでに制度の説明などは終わっているし、もともとは田熊と本名不明の在日外国人を11人ずつの合議体で裁く予定だったところへ急遽、静江についても追加の報酬を払って裁いてもらうことになっている。すでに証拠などは一通り見てくれていて、冤罪の余地もないので鮎美は問うてみる。

「すんません、明日、田熊被告を裁く予定の方々に問います。死刑にするつもりでおられる方、何名おられますか?」

 鮎美の問いに11人が挙手した。無作為に抽出したといっても実は状況が状況なので参集してもらいやすいように、近所の小学校の体育館に避難している愛知県からの被災者からクジ引きで選んでいて、みな自宅もなくし、人によっては家族を喪っている人もいる。そんな中での懲罰感情なので5人の女児を強姦殺人した田熊に全会一致で死刑判決をくだす気でいるようだった。

「ってことは、あんまり時間もかからず判決に至りそうですね。本人も死刑でいいとか、ほざいてますし。ほな、次、名無しのごんべい被告に死刑をくだすべきやと思う人、何名おられますか?」

 今度は8人が挙手した。他3人は悪質な犯行ではあるが、死刑にまでしなくてよい、という意見だった。

「では、うちの秘書で、すでに報道でご存じかと思いますし、本人も接待や現金の受け取りは認めておりますので事実確認はよいとして、石永静江に死刑をくだそうと思われる方、何名おられますか?」

 静江の裁判には22人のうちで再度のクジ引きをして11人に関わってもらう予定だった。その11人のうち2人だけしか挙手しなかったので鮎美は安心した。誰もが激怒するような静江の所業ではあったけれど、さすがに死刑はいき過ぎだという感覚でいてくれる。

「ありがとうございます。みなさまの量刑感覚に感謝いたします。ですが、明日は彼女へ反省をうながすため、演技として死刑をくだしてください。遺憾ながら、法的には無罪となる可能性が高い案件です。とはいえ、この時期にああいうことをされると国民全体としても許し難いですし、数年は刑務所にぶち込みたいと思われるのも当然です。ただ、刑務所の方も余裕がなく、私としては彼女に事故原発に近い避難所で6ヶ月程度のボランティアをしながら生活してもらおうと思っています。ただ、それで済むと本人が思う前には深く反省させたいのと、国民の手前もありますので演技として死刑判決することに、ご協力を願えませんか?」

 鮎美の問いに、しばらくはざわついたけれど、結局は頷いてくれた。

「ありがとうございます。では、明日のために金沢市市内のホテルを用意しましたので、そちらでお休みください。ちなみに、そのホテルは石永静江が定宿としていたホテルです」

 震災から数日はビルの屋上や車内で眠り、岐阜県あたりの避難所はいっぱいで、ようやく小松市に辿り着いても小学校の体育館の床という生活をしてきた人々に静江が公費で泊まっていたホテルに行ってもらう。出て行く前に3人が鮎美へサインを求めてきたので、久しぶりにサインしていると、結局は22人全員にサインを求められた。静江の件で自分からも人心が離れているのではないかと心配していた鮎美は笑顔で応じる。記念撮影も求められ、応じたけれどSNSなどのネットにあげるのは裁判終了後とするよう頼んだ。その途中で金本らが到着したと斉藤が連絡してくれたけれど、待たせておくよう言い、全員へ丁寧にサインと記念撮影をして握手をかわした。

「金本はんらに会う前に、司令室の様子を見てきますわ」

 どちらかといえば拉致家族のことの方が気になっている鮎美は司令室を覗き、畑母神から順調であると報告を受けると、いよいよ金本らに会うために再び大会議室へ向かった。

「遅うなって、すんません。芹沢鮎美です」

「はじめまして、金本勝龍です」

 鮎美が自分の肩書きを口にしなかったので金本も名乗りだけにして握手を求めてくる。鮎美は一瞬、迷ったけれど握手に応じた。金本は中肉中背の50代ほどの県議会議長で少し禿げた髪を丸坊主に近い刈り上げにしている。男性なのに濃いメイクをしていたけれど、そのファンデーションの塗り方が額に集中していて、隠しきれていない痣があり鮎美は靴を投げられてできた傷なのだろうと察した。政治家が必要に応じて男性であってもメイクするのは見慣れているので気にしない。金本の他に50人ほどの議員団がいて富山市議の中川もいた。全員との握手は時間もかかるので避けたいという顔をした鮎美は着席する。訪問者の数が多いのでゲイツも増員されていて8人が鮎美の周りにいるので威圧感が大きかった。久野と石永も同席し、石永が官房長官として問う。

「それでご用件は?」

「はい、率直に申し上げて、まだ18歳でしかない芹沢さんが総理大臣でいるのは無理があると考えております。今朝方、首班指名をいただきました私に替わっていただきたい」

 鮎美が即答する。

「お断りします」

「………なぜですか?」

「あなた方は正統な国会議員ではありませんし、何より私は陛下から任命いただいております。学校の掃除当番やあるまいし、はい、そうですかと替われるもんちゃいます」

 鮎美は金本と接してすぐこれまで対面してきた相手に比べると、何の迫力も感じない小者に過ぎないと直感していた。剣道試合でも少し打ち合えば勝てそうか、負けそうかわかるように、政治家同士の対面でも初見でわかることは多い。今までに言葉を交わした政治家と比べて金本に押し負けるとは、まったく感じなかった。

「はは、掃除当番ですか。高校生らしい表現ですね」

「………」

 鮎美は沈黙と無表情を返答にした。金本は愛想笑いをやめて強めの語調で問う。

「しかし、一国の代表が、あなたに務まるとは思えない。その点、いかがですか?」

「ここには久野先生、鈴木先生をはじめ多くの方々がおられ、私を支えてくれてはります。途中で投げ出すことはしません」

「……。だが、久野先生は引退された身であるし、鈴木先生に至っては刑務所におられた。石永先生らは落選中の議員です。その点は、いかがお考えですか?」

「国会議員でないという意味では、あなた方と同じですから、誰も私以外に正統な為政者はおりません。また、すでに私が総理大臣として指名し陛下より親任いただいております大臣らには十分な正統性があります。他にご用件はありますか?」

 鮎美は席を立ちたい素振りを見せた。実際のところ本当に席を立って司令室で北朝鮮とのやり取りを見守りたい気持ちでもいる。鮎美の態度に金本は、ややムッとして応じる。

「議会がなく行政だけが暴走していく危険というものを我々は強く警戒しているのです。この点、いかがお考えですか?」

「暴走という点でいえば、今朝方の麗国政府代表を自称する者との債務承認、あれは何ですか。実に迷惑なんですけど」

「あれは…、難民船を海自が転覆させたことに対する当然の謝罪です」

「あなた方は昭和21年の日本国憲法が有効とお考えでしたね?」

「はい!」

「あの憲法には第85条に、国費を支出し、または国が債務を負担するには国会の議決に基づくことを必要とする、とありますが、あなた方は国政議員ではなく、地方議員の集まりです。権限なく空手形を外国政府、それも正統の大使であるのか不明である者に渡される行為は、もはや内乱、外患に類するもので現在の状況下では逮捕に相当するような行為です」

 そう言った鮎美は大会議室の端に長瀬がいるのを確認した。鮎美の目線は金本も見ているので、長瀬のスーツ姿と雰囲気で自衛隊員ではなく警察関係者だと気づく。

「お、横暴です! まさに権力の乱用だ!」

「………」

 また鮎美は沈黙と無表情を答えにする。金本は額に浮いてきた汗をハンカチで拭き、そこに痣があって痛かったのと議場で揉み合いになったときにヒビが入った肋骨が疼き顔を顰めた。

「と、とにかくですね! 行政だけで暴走するのは、いかんわけですよ! あなたがおっしゃったように平和憲法は予算の使い方に議会のチェックを入れている! また、大臣は国会に出席して答弁する義務がある」

「第63条ですね。現在の情勢下でそんな悠長なことをしている時間があるとお考えなのは遺憾です。明治政府が発足し戊辰戦争の傷跡が落ち着くまでの間、またアメリカから売りつけられた戦争の期間中、そして今現在、そんな時間的余裕も人的余裕もありません。政治形態とは状況に応じて臨機応変に人々が生き残るための策を打っていくものです。ここに来る時間があるのなら、地元へ帰って各避難所の手伝いでもしておいてもらえませんか?」

「………。現に、あなたの秘書が不当な接待を受けていた事件も起きていますよね? この責任は、どうお考えですか?」

 議員団には接待をしていた中川も加わっているので諸刃の剣だったけれど、いよいよとなれば中川は自眠会派なので眠主党の金本としては切りやすいし、もともと静江の秘書としての立場が不明確なので刑事事件化しにくいのは計算に入っている。鮎美は静江のことを突かれても、完全に予想内だったので表情を変えずに答える。

「私の責任として厳正に処分していきます」

「あなた自身の進退も考えるべきではないですか?!」

「考えていません」

「……それだけですかっ?!」

「それだけです」

「………あくまで我々との話し合いを拒否されるのですか?」

「いいえ」

「…………」

 意外な答えだったので金本の思考が止まる。

「……で…では、話し合いを続けていきましょう」

「はい。提案ですが、実は大臣の数を増やそうと思っています。特命大臣として、また、その副大臣、政務官などとして、あなた方の中から何名かを選んでいます。ご協力ください」

「ぃ、…いいでしょう…」

 大臣のポストがもらえるならそれもいい、と金本が受ける態度になった。鮎美は石永に頼む。

「石永官房長官、リストを読み上げてください」

「はい」

 石永が用意していた名簿を読み上げると、金本たちが怒る。金本らは主に眠主党の県議だったのに、読み上げられた者は自眠党の落選衆議院議員ばかりで、この議員団に入っていない者ばかりだった。明らかに根回しされたのだとわかる。鮎美たちへ野次が飛んできた。

「自眠党の専横だ!」

「ふざけるな!」

「民意は眠主党にあったんだぞ!」

 しばらく野次を聞き流した鮎美は軽く手をあげ、ゆっくり答える。

「眠主党からも加賀田先生に財務大臣となっていただいております。震災直前、眠主党政権は前原外務大臣と鳩山直人総理の在日麗国人からの献金問題で支持率は低下しきっており、加賀田大臣が一人いるだけで十分な割合かと考えています」

 また野次が飛ぶ。再び靴も飛びそうな勢いだったけれど、すでに身体検査のときに金本らは靴からスリッパとなるよう求められているので、スリッパが飛んできた。鮎美に命中する前に鷹姫が前へ回って身体で受け止めようとしたけれど、さらに前へ高木が出て守ってくれる。スリッパが飛んでこなくなってから鮎美が言う。

「ご心配なく、あと14名の名を読み上げますので、ここにおられる方も数名はあたると思います。鷹姫、呼んで」

「はい」

 鷹姫が不破島から送ってもらったリストを読む。

「中川! 村山! 岡本! 針山! 高田!」

 呼び捨てな上、鷹姫の呼び方がまるで容疑者でも呼びつけるような口調なのでかなり心外だったけれど、政務官くらいにしてもらえるかな、と富山市議たちは期待して立ち上がる。

「藤井! 浅名! 谷口! 市田! 岡村! 丸山! 浦田! 宮前! 笹木!」

 鷹姫が呼んだ14名のうち5名が議員団の中にいた。やはり自眠会派の市議が多いので金本は渋い顔をしたけれど、中川らは喜々として胸を張っている。鷹姫は見下した目で冷厳に告げる。

「以上14名を政務活動費の不正による詐欺罪で逮捕します。長瀬警部補、お願いします」

「はっ」

「な……ふざけるなっ!!」

「どういうことだ?!」

 怒声があがり騒然となるけれど、鷹姫は冷静に一人一人へ証拠となっている領収書のコピーを見せた。

「「「「「…………」」」」」

 どの市議も黙り込む。領収書を誤魔化した認識はある。記憶にございません、と言いたいけれど、白紙領収書に自分で書き込んだものや、パソコンで自作した領収書、市政報告会の茶菓子代で20万円も計上したものなどがあり、反論は出てこず脂汗だけが出る。

「…わ、……罠だ! これは、罠だ! 石永の復讐だというのが罠だという証拠! 妹の仕返しを、こんな風にするのか?!」

 意味不明なことを叫んだ中川がコピー用紙を持っている鷹姫を押し倒して紙を奪おうとするけれど、瞬時に鷹姫は大内刈りという柔道技で中川を投げた。大きく脚をあげて股間を開く大技なので制服スカート姿の鷹姫のショーツが見えるけれど、見る間もないほどの早技だった。受け身がとれなかった中川は失神する。

「私への暴行の容疑で現行犯逮捕します」

 警察官でなくても現行犯なら逮捕できることを知っている鷹姫がそのまま中川を押さえ込み、介式から習った逮捕術で自由を奪っておく。長瀬は市議たちに声をかけ、警察職員らしい丁寧さで、とりあえず話を聞きますので金沢署の方へ、と導いている。すでに証拠を握られているようなので市議たちは肩を落とし俯いて大会議室を出て行った。議員団は1割ばかり減らされたけれど金本は虚勢を張る。

「まあ、彼らはしょせん市議ですから規範意識にゆるみもあったのでしょう。今後、襟を正していきます」

「あなた方に国政に参加する資格なしと思いますが、その点いかがですか?」

 鮎美は相手の喋り方を模倣して問うた。

「わ…私たちはね、みな県議や知事として一定の信託をえているわけです。そりゃ国会議員としての選挙ではないですが。なにより眠主党政権だったものを、大震災を奇貨として自眠党政権へ変えるなんてのは邪道ですよ! せめて議席配分を考えて国会をつくりなおすべきだ!」

「たしかに思えば、阪神淡路大震災でも村山政権から自眠へバトンが渡されましたし、今回の大震災でも眠主党政権が崩れる……うちはもともと無党派やったので一つ二つ運命が変わっていれば、眠主党に入っていたかもしれません」

「……」

 少し金本の顔がゆるみ、同時に鮎美の年齢で阪神淡路大震災時の政権について回顧するだけの勉強はしているのだな、とも感じている。

「村山政権も眠主党も、ようやく政権を取って、これから改革という時期の受難で気の毒やと思いますし、今、逮捕された人、ほとんど自眠党系ですよね。自眠党が日本を支えてきた側面も大きいけれど、腐敗が続いてきた側面も多いと思いますよ」

「そうでしょう! もう自眠党の時代ではないのです!」

「とはいえ、日本がここまで追いつめられ、災害と外部からの脅威を考えると、襟を正しつつ自眠党でいくしかないのかな、と思っておりますので、うちの政権に入れる眠主党関係者は夏子はんだけ、とします。とくに、あの麗国への債務承認は言語道断ですから。もちろん日本政府としては、ただの私人による一主張として無効としますが、まったく迷惑なことをしてくれたもんやわ」

「………」

「石永はん、何か言うて帰ってもらって」

「ああ、そろそろお引き取り願おう」

 やや横柄に石永が言うと一気に反発が起こる。鮎美は若すぎるけれど、石永も30代なので政治家としては若い。金本らは50代以上が多かったので怒った。

「若造がえらそうに!」

「妹の件は終わりじゃないぞ!」

「「………」」

 石永と鮎美は顔を見合わせ、困ったな、という表情をつくった。それで金本たちは勢いづき、また野次を始めた。

「落選議員が!」

「比例復活もない者が官房長官で、どうする?!」

「妹の責任を取れ!」

「「…………」」

 石永も鮎美も黙って聞く。そのうちに野次はヒートアップし罵りになってくる。

「石永もホモだろう?!」

「ホモレズ政権が!」

「気持ち悪い部隊で国を動かすな!」

 性的指向のことについて罵られると、鮎美は傷ついたという顔になってビクっとした。ずっと何を言われても平気そうだった鮎美がひるんでくれると、ますます攻めてくる。

「パンツ大臣をかばう変態政権じゃないか!」

「子供に政治ができるか!」

「牧田は殺人鬼だったんだろう?!」

「責任を取れ! レズ!」

「結婚しろ!」

「変態ども!」

 いよいよ罵詈雑言になってくると鮎美は泣き出しそうな表情をつくる。なので予定通りに鷹姫が慰めるように頭を撫でたし、鮎美は抱きついて鷹姫の胸へ顔を伏せる。それで余計に性的指向に対する罵りが増す。鮎美が肩を震わせているので、金本らは精神的に追い込んで辞めさせるという野党的な常套手段をとるため、思いつく限りの侮辱を言論による戦いだと信じて投げつけていく。

「気持ち悪いぞ、異常者!」

「変質者がのさばるな!」

「ケダモノ以下だ!!」

「パンツ売るのか売春婦!!」

「ちゃんと結婚しろ! 男を知れ!」

「……くっ………くくっ…」

 鮎美は肩を震わせて、笑い出してしまいそうなのを必死に我慢していた。もう性的指向について何か言われたくらいで傷つくような弱さはない、むしろ作戦が成功しすぎて笑ってしまいそうだった。これで一網打尽にできる。この状況は最初から斉藤らが撮ってくれているし、廊下にはヨンソンミョの護衛につけている今泉ら数名を除き、一個中隊のゲイツが待機しているので命令一つで逮捕できる体勢だった。鮎美は野次をあおるため、鷹姫の胸から顔をあげ、キスでもしそうなほど唇と唇を接近させて小声で問う。

「鷹姫、全員が野次ってる?」

「はい、首謀者をふくめ全員が参加しています」

「よっしゃ」

 鮎美はチラリを久野を見た。やむをえないという顔をしている。久野としては芹沢政権だけで動くより、ある程度は議会らしきものと協調しながら進めていければ、と考えていたけれど、やはり金本政権独断での麗国への債務承認が痛かった。金本らの政権に少しでも正統性を認めると、この債務も追認しなければならなくなる。それはできないので、こちら側から根回しできた者だけ取り込み、金本らは逮捕という路線を承服している。鮎美は泣いている演技をしながら高木たちに指の仕草で命令した。

「各員、入れ」

 高木が無線で命じると廊下にいたゲイツたち一個中隊が入ってくる。小銃はもっていないけれど腰に拳銃はある。そして自衛隊に入るという志向をもつ男性同性愛者なので、やはり筋肉を鍛える者が多い。屈強さこそ男らしさ、パートナーへも自分へもそれを求めるという嗜好が多数派だった。おかげで軍服を着た筋肉の壁が入ってきたような圧倒的威圧感がある。何よりゲイツたちも全員が同性愛者なので外まで響いていた議員団たちの罵りが愉快なはずがない。その表情を見て次第に野次がおさまり静かになった。高木が命じる。

「侮辱罪の現行犯にて全員逮捕、はじめ!」

「「「「「はっ!!」」」」」

 屈強なゲイツたちに抵抗を試みた議員は警察職員のような優しい逮捕術ではなく近接格闘術で打ちのめされ、床に転がった。それを見て、ほとんどの議員たちは無抵抗になる。不逮捕特権だの、議院でおこなった演説で責任は問われないだの、と昭和憲法に基づく権利を主張していたけれど、そもそも国会議員ではないし、会期中なのかも怪しい上に現行犯なので全員が逮捕された。その様子を鮎美たちにとって都合がいいように編集してもらう作業を斉藤らに頼み、鮎美は司令室で北朝鮮とのやり取りが成功しつつあることを確認しながら、これから国民に向けて頼むことを考えた。

「芹沢総理、準備ができました」

 鷹姫が配信動画の準備ができたことを告げてくれたので、鮎美は広報室に行くと、カメラの前に立った。

「こんにちは。芹沢鮎美です。国民の皆様も注目しておられたかと思うのですが、富山で議会が立ち上がったということで、その代表らとさきほど面談いたしました。動画をご覧ください」

 動画は鮎美と金本が握手するところから始まるけれど、すぐに麗国への債務承認で決裂ムードとなり、さらに中川らの政務活動費問題で逮捕者が出る事態となり、さらに罵詈雑言を投げつけたことで侮辱罪として逮捕した過程を紹介して終わった。

「できれば私も議会政治をおこなえればと期待していたのですが、彼らは話し合うべき相手ではなかったようです。麗国への問題もそうですし、政務活動費について地方議員の一部はひどすぎると考えます。地方自治は民主主義の小学校と言いますが、ずいぶんと学級崩壊しているクラスもあるようです」

 高校生の鮎美に小学生あつかいされると、これを見ている地方議員たちはどう感じているだろうと思った。さらに鮎美が続ける。

「小学生でも他人に向かってクズだの、デブだの、バカだの言うのが悪いことだとは認識しているはずですが、昭和の憲法に第51条で、議員は議院でおこなった演説や討論で責任を問われないというものがあり、これを勘違いして野次を飛ばしてもいいと思っていますが、まったく条文本旨の解釈が間違っています。これは天皇機関説などを唱えた美濃部達吉が不当に追い込まれたことに対する反省で、思想や体制への批評において何を発言しても逮捕されたりはしないという条文です。人を侮辱してもいい、と書いてあるわけではありません。また、政務活動費の問題はひどすぎます。一部の領収書を見せます」

 スライド形式で中川らの領収書が紹介された。

「残念ながら、これは事実のようです。そして、氷山の一角というように、まだ存在すると思います。そこで国民の皆様にお願いします。平穏にあくまで静かに暴動を起こさず、市役所や県庁へ行って、情報公開を申請してください。他の地方議員の領収書で不正なものがあれば、厳正に対応すると同時に不正を発見した人に、指摘額の10%を報奨金として出します。実際の支給は事務的な時間がかかりますが、地方議員らが提出している領収書をチェックしてください。また、この情報公開について職員は、ただちに協力し手続きを遅らせることなく、即日その場で今すぐ公開するよう努めてください。お疲れのところ恐縮ですが、ご協力ください。また国民の皆様は市役所の窓口で騒いだり暴動を起こすようなことはしないでください。あくまで平穏に請願してください。暴れたり怒鳴ったりということがあれば、職員を保護するためにも警察もしくは軍で対応します。あと、できれば復興作業に関わっている国民は復興作業を続けてください。これにも手当てが出せるように検討します。作業したことを証明する方法は、単純に今までも公園の草刈り作業などで町内会役員がやっていたように作業前と作業後の写真と、その場にいた作業に関わっていた人々を撮っておいてください。少なくとも架空の領収書よりは、よほど公費を支給するにふさわしいことですから。なので議員が出した領収書のチェック作業は足腰の弱い人や避難所にいて、やることがない人にお願いします」

 鮎美は横髪を指先で耳にかけてから言う。

「そんな財源が今の日本にあるのか? とご心配いただくかもしれませんが、実は財務状態は改善する見込みです。これは単純に喜べることではないのですが太平洋側では多くの人々が亡くなりました。このとき家族もふくめ全員が亡くなっている場合、その財産は相続する人がいないので国庫へ入ります。心苦しい部分もありますが、そうなるのです。では、せめて、これを活かしていくということを考えたとき、どのように支給していくのがよいか、考えていきますので、ご自分が復興のためになさった作業は記録しておいてください。そして、気づいている方も多いと思いますが、相続人不明の財産が何千万人分と生じているということは、不正の温床になります。ゆえに、これまで以上に戸籍の厳正な登録に協力してください。そして嘘はつかないでください。津波で亡くなった人の財産を不当に相続しようとする行為にも、最高刑を死刑として裁判員による裁判をおこなう可能性があります。広島県警の事件へも厳正に対処します。このように不正されると実に困る時期でもありますので、地方議員らの今までの政務活動費への不正も許し難く感じるかと思われます」

 震災後のやり場のない不満が静江だけに向かっていたのが、全国の地方議員に向かっているだろうことを鮎美は感じ、言い加えておく。

「不正に心当たりのある地方議員さんに告げます。今すぐ自首し、自ら不正を告白すれば、復興作業を要する時期で政治的混乱を避けたいこともありますので、かなり軽い処分とする予定です。それぞれに警察署へ行くなり、SNSで市民へ謝罪するなど対応をしてください。もちろん、隠していた人、逃げようとした人には重い罰をかすようにします。以上ですが、国民の皆様、くれぐれも平穏に請願してください。市役所で暴れたり物を壊したりした場合は、ただちに現行犯逮捕となります。市役所の貴重な公務員を守るためにも、それぞれの課の判断で警察官の到着を待たず現行犯逮捕していただいてかまいません。また、その場にいた市民の方が逮捕に協力した場合は3万円の協力金を出しますので、できれば動画などで証拠を残した上でお願いします。以上、よろしくお願いします」

 鮎美の演説が配信されて一時間後、芹沢政権にいる副大臣2名と政務官1名も石永に相談してから鮎美のところへ自首しにきたので、頭痛を覚えた。

「……やってたんや……はぁぁ……」

「「「……すみません……」」」

 落選前の議員だった頃にガソリン代や茶菓子代などで誤魔化しがあると告白され、仕方がないので発表して処分するとしたし、全国からも相当数の自首があるようだった。そして、ようやく日本海の洋上で拉致家族が再会できたので、その様子も配信した。引き替えに北朝鮮へ武器類を渡したことは公表せず、まして模擬核爆弾を受け取る予定であることなどは極秘のままとした。

「……あ~……疲れた……」

 夕食をとると眠気を覚えたけれど、まだ模擬核爆弾の受け取りが残っているので司令室へ行く。そんな鮎美の背中を見送りつつ、麻衣子は休息時間に入った。ずっと鮎美と鷹姫についていると一切休憩時間がなくなってしまうので一日4時間程度は自由時間をもらっている。今日も疲れたので自動販売機でカフェインが入っていない栄養ドリンクを買い、四人部屋に戻った。

「あ……石原空尉、寝てるんだ……お風呂、まだかな…」

 麻衣子よりもはるかに疲れていた里華はベッドで眠っていた。就寝時間以外に眠ることは控える規則だったけれど、今日は戦闘機で北朝鮮へ往復し、しかも向こうでは一人で金正忠に手紙を渡すという大役をしたので疲れきっている。そして悪夢を見ていた。

「……ぅぅ…」

 やはり昼間の体験による悪夢で、金正忠に手紙を渡して帰ろうとするけれど、拉致されそうになり、逃げる、必死に逃げてF15へ乗り込み離陸しようとしたものの先輩の滝橋が銃で撃たれて死亡し、里華一人で離陸させる、なんとか離陸に成功したものの、今度は追撃を受けることになり、なぜかロシア軍のミグが追いかけてくる、やむをえず空中戦となり反撃したのに空対空ミサイルが反応してくれない、機銃も撃てない、そのうちに多数のミグから包囲され、夢の中の非現実性でミグの機体で上下を挟まれ連行されるという状態になり、そのまま着陸という超アクロバットを決め、再び金正忠の前に引き出され、捕虜として輪姦されそうになり、目隠しされ闇の中で北朝鮮男性の足音に怯えるというところで、目が醒めた。

「嫌ァっ! ハァっ! ハァっ! ゆ…夢? …ハァ…」

「大丈夫ですか、すっごい魘されてましたよ?」

 麻衣子が心配そうにハンカチを渡してくれる。空軍制服のまま横になっていた里華は全身汗だくだった。

「…ハァ……ハァ……」

「なにか嫌な夢でも?」

「ええ……まあ……」

「夕飯と、お風呂は?」

「まだよ」

「私、夕飯、食べました」

「そう。行ってくるわ」

 里華は汗を拭いて食堂に向かった。もう遅い時間だったので人が少ない。そして同じF15で北朝鮮へ渡った先輩の滝橋も遅い時刻なのに食べに来ていた。

「よぉ、昼寝しすぎたか?」

「はい」

 つい正直に答えてしまったけれど、先輩も同じなのかと思う。

「悪い夢でも見たような顔してるな」

「……まあ…」

「だろうな」

「滝橋大尉も?」

「ああ、嫌な夢だった」

「どんな夢ですか?」

「う~ん……」

 北朝鮮へ着陸して里華を送り出したはいいけれど、いつまで経っても里華が戻ってこず、そのうちに回しっぱなしのジェットエンジンのために燃料が無くなってきて、いよいよ日本へ帰れなくなる前に里華を見捨てて出発してしまい、そのことを悔い続けるし、やっぱり北朝鮮に拉致され強姦され続けていた里華が収容所で首吊り自殺をして、その幽霊が毎晩のように出てきて、どうして私を置いていったの、と責めてくるのへ、化けるなら金将軍のとこに行ってくれ、と頼む悪夢だった。

「そういう石原は、どんな夢だったんだ?」

「私は別に……」

「………」

 お互いに相手が死亡するストーリーの悪夢を見たので語らないことにした。里華は食べながら、ふと言い出した。

「私は女でもパイロットになれるって思ってやってきましたが、いざ戦争になって捕虜になるということを考えると、女は不利すぎると今日の体験で感じました」

「う~ん……そうか……そうだろうな……辞めたいのか?」

「いえ、そういうつもりではありません」

「………」

 滝橋は会話に困る。明らかに里華は女性軍人が捕虜になると強姦される可能性があるという話題をふってきているけれど、それを肯定しても否定してもセクハラ発言あつかいされそうで困る。話題を変えることにした。

「これは空軍内の機密だが、対仲戦で敵の空対空ミサイルをどう避けたか、もう聴いたか?」

「反転し射程距離外へ、と聴いています」

「ああ、だが敵さんだってバカじゃない。それでも届く距離で撃つさ。そして、今回の空中戦は、さながら火縄銃の撃ち合いみたいになった」

「やはり遠距離で空対空ミサイルを撃ち、撃ったら反転帰投して基地にて新たな空対空ミサイルをつけてもらい再び戦場へ、という形ですか?」

「そうだ。まるっきり一発撃つごとに弾込めしていた火縄銃みたいにな。けど、そのサイクルもタイミングによっては味方の艦や基地を守るために踏み止まらなくちゃならないこともでてくる。無茶を承知で敵編隊を止めなくちゃいけないタイミングがな」

「……。どうするのですか?」

「石原が指揮者なら、どうする? たとえば味方は4機、敵は8機、こちらの空対空ミサイルはもう短距離ミサイルしかない。敵は長距離空対空ミサイルと空対艦ミサイルをもっている。そして自分たちの後方には守らねばならない味方艦、なんとか420秒間、新しいミサイルに換装している味方機が戻ってくるまで、その場を保たねばならない。もう、敵がロックオンしてきた。発射されたミサイルは1機につき2発、どう指揮する?」

「………反転し超低空で避けます」

「それも一つのセオリーだったな。だが、現場は海上だ。地上と違い障害物も熱源もないから敵ミサイルのセンサーは働きやすい。その逃げ方をした場合、今回の戦闘では50%が被弾していた。二度目の攻撃を受ければ、残り1機。ドッグファイトに持ち込んでも味方艦も轟沈だった。他の避け方を考えてみろ」

「………。増速してランダムに操舵します」

「いい答えだ。それをやると被弾率は25%まで下がった。いい勝負になるし、味方艦も残った。だが、もっといい手を考えたヤツがいた」

「どんな方法ですか?」

「増速しつつ、僚機と接近するのさ、それこそブルーインパルスみたいにな。けど、展示飛行でやるような数メートルまでの超接近を超音速飛行でやるんだ。それこそレーダー上でも敵センサーからも4機が1機に映るようにな。横から見れば4機はミクドのダブルチーズバーガーみたいに、ぴったり重なってる。上から見れば1機にしか見えない。そのくらいにな」

「…………そんなアクロバットを戦場で……」

 里華は悪夢に出てきたミグに空中サンドイッチにされた超アクロバットを思い出した。

「そして4機は敵ミサイルと相対直前にブレイク、別々の方向に散る。これで率にして6.25%まで被弾率はさがった。4回やって1機のみ被弾だ」

「すごい……」

「だろ。で、このブレイクの名前がまだ決まってないわけだが、インパルスブレイクと滝橋ブレイク、どっちがいいと思う?」

「…………。滝橋大尉たちがやったんですか?」

「おうよ」

「…………」

 男って、どうしてこう……、と里華は呆れ半分、尊敬半分で言ってみる。

「いっそ滝式散開術にすれば、どうですか?」

「全部を漢字にするのか」

「和風でよいかもしれませんよ」

「そうだな。なんか忍者みたいでいいかもな。実質は、逆分身の術みたいなもんだから」

 くだらないことを言っている二人へ空軍兵士が伝言に来た。

「石原少尉、鶴田航空幕僚長が司令室にてお呼びです。出頭してください。朗報だ、そうです」

「お、きっと昇進だぞ、期待して行け」

「……。行ってきます。ごちそうさまでした」

 急いで食事トレーを返却した里華は駆け足で司令室を訪ねた。司令室には鶴田の他、畑母神や鮎美もいて緊張した空気が漂っていたけれど、里華を見ると全員が微笑んでくれた。鶴田が空軍中尉の階級章を手にしている。階級章そのものは2等空尉のものと同じなので里華も見慣れている。

「石原里華空軍少尉、こちらへ」

「はいっ」

 里華が鶴田の前に起立する。

「石原里華空軍少尉! これまでの勤務および本日のきわめて困難かつ重要な任務の完遂をもって貴官を空軍中尉とする! 復和元年3月28日、航空幕僚長鶴田都司空軍大将」

「はっ! はいっ! ………」

 これからも頑張ります、といった言葉が出ないほど里華は達成感で身が震えた。防大卒なので不祥事さえ起こさなければ、いずれ昇進するのは予定路線だったけれど任務の完遂による評価だと感じると、嬉しくて武者震いしそうになる。

「石原中尉、これからも日本国のため励むよう。おめでとう」

「はっ、はい! ありがとうございます! 励みます!」

 敬礼する里華へ、畑母神も敬礼し、鮎美と鷹姫は拍手する。司令室にいた皆が敬礼か拍手を送ってくれる。統合幕僚長兼防衛大臣と総理大臣まで臨席での少尉から中尉への昇進式は偶然とはいえ、戦時ゆえの異例だった。嬉しくて里華が食堂に戻って滝橋に報告しようとすると、行動を読まれていたようで当直以外の戦闘機パイロットがそろっていた。

「お、やっぱり昇進だったな、おめでとう!」

 滝橋自身も対仲戦から帰還した時点で中尉から大尉に昇進していたので、さすがに本日の任務だけでの昇進は見送られているけれど、心から里華を祝ってくれる顔だった。

「「「「おめでとう!!」」」」

 他のパイロットたちも、すでに滝橋と同じく昇進している。けれど、里華が小松基地に配属されたときに顔を合わせたメンバーは、もう半分以下になっている。いない人たちはみな二階級特進していた。

「っ……うっ……くっ……ありがとうございます!!」

 泣きそうになる里華の頭をみんなが叩いてくれて、やっと仲間に入れてもらえた実感がした。しばらく滝橋たちと過ごしてから里華が四人部屋に戻ると、麻衣子は休憩していた。

「……う~ん……何か忘れてる気がする……」

 麻衣子は何かを思い出そうとしていて、里華が昇進していることに気づかない。そういう子だと理解しつつあるので里華は自分のベッドに座った。

「何を忘れてるの?」

「それが思い出せなくて……う~ん……ちゃんと、しなきゃいけないことだったはず…」

「今日は色々あったものね」

「あ! エサの時間!」

 麻衣子は食事を陽湖と静江に持っていくことを忘れていた。今晩は草と虫でなく、まともな食事が用意されているはずだった。急いで食堂に行くと、冷めてしまったけれどチキンオムレツとトマトサラダ、バナナの夕食が残っていたので準備室へもっていく。

「夕飯で~す」

「「……」」

 午前中の謝罪会見で精根尽きていた静江と、拘禁が長くなってきた陽湖が無気力そうな目で麻衣子を見上げたけれど、持ってきたのがバケツに入った草と虫ではなく、まともな食事だったので夢中で食べた。そして食べ終わってからトレーを回収するため待っていた麻衣子へ陽湖が問う。

「どうして……今夜だけ…急に、ちゃんとしたご飯を…?」

 それは久野の助言によるものだったけれど、鮎美は意地悪な理由付けを考えていたので麻衣子は言いたくなかったけれど、問われた上、一応は任務のようなものなので言っておく。

「……えっと……総理曰く……最期の晩餐だって……。明日、二人とも死刑にするって」

「「っ…」」

 陽湖と静江がビクリとして、静江が半狂乱で問う。

「そんなっ?! 私ちゃんと謝ったのに!」

「………謝れば許されるってもんでもないよ」

 麻衣子も同じ女性として静江を軽蔑していたし、故郷の金沢が誇る片町の名を汚された気もしていて冷たい声でいった。別に麻衣子自身は芹沢派というつもりはないけれど、いつもそばにいるので鮎美と鷹姫が頑張っているのは知っているし、その分だけ隠れたところでホストクラブなどで接待を受けていた静江のことは一公務員としても蔑視している。普段から官房長官の妹ということで基地内にいるどの女性よりも偉そうにしていたところも今となっては嫌悪感の材料になっていた。静江は頭を抱えて震え、陽湖は麻衣子へすがった。

「お願いです! どうか、せめてブラザー愛也に会わせてください! 今夜が最期だというなら、せめて少しだけでも!」

 屋城は別室に軟禁されていて、鮎美から日本と台湾の教団を無難に指揮しておくよう求められているのと、鮎美たちの学年全員の卒業証書を用意する作業をしていた。もし教団がおかしなことをしたら、すぐにオウム真理教と同じあつかいにすると鮎美は脅したけれど、陽湖が暴走して変な教義を言い出しただけで、もともと教団は勧誘活動が盛んなだけで、それほど害のある動きはしていなかった。今現在もまじめに被災地で炊き出しなどをしているので、その取りまとめくらいだったし、卒業証書については学園が発注していた印刷所が琵琶湖の津波で倒壊してしまったため、急遽に金沢和紙を頼み、屋城が軟禁状態で時間がありすぎるので手書きしていた。

「お願いです、どうか!」

「う~ん……私に言われても……」

 麻衣子には何の権限もないので迷う。けれど、一人の異性愛者として死刑になる前に会っておきたい人がいるという気持ちは理解できるので頷いた。

「わかったよ。総理に言ってみてあげる」

「ああ! ありがとうございます!」

「あんまり期待しないでね」

 麻衣子は準備室を出ると貴賓室に向かったけれど、鮎美がいなかったので司令室に行ってみると、鷹姫といっしょにいた。

「あの、えっと……」

 麻衣子は声をかけようとしたけれど、司令室の雰囲気がピリピリとした最高度の緊張に包まれていたので陽湖のことを言い出せなかった。今しも輸送艦が模擬核爆弾を北朝鮮の港で受け取り、出港して領海を出ようとしているところだった。北朝鮮の領海に入ったのは輸送艦のみで、水上艦2隻が領海外で待機し護衛にあたり、潜水艦も潜ませている。司令室にいる海上幕僚長が鮎美らへ告げる。

「輸送艦は間もなく北朝鮮領海を出ます。種子島への到着は約50時間後を予定。領海、出ました! 異常なし!」

「「ふぅ……」」

 鮎美と畑母神が同時にタメ息をついた。そして、鮎美はミクドナルドへ電話をかけようとスマートフォンを手にしたけれど、その瞬間にミクドナルドから着信があったので受話する。

「もしもし、うちです」

「アユミ、なにか、とんでもないことしてない? ジョンチュウから、なにを受け取ったの?」

 やはりミクドナルドは人工衛星で監視していたようだった。鮎美は落ち着いて答える。

「日本国はN友の会に入会します。たしか核を保有する国は、月額会費300万ドルで報復時の核ミサイル代は無料でしたやんね? バリュープランで」

「……たしかに、そう言ったけど……」

 ミクドナルドは衛星写真を眺めながら話している感じだった。

「受け取ったのは1発だけ? けっこう大きいね………ミサイルには載せられないくらい……」

「日本のHⅡロケットなら、ぎりぎり搭載できそうですわ」

「……撃つ気?」

「まさか、お守りです」

「…………日本の核兵器保有が国際社会に認められると思うの?」

「福岡、札幌、那須、広島、長崎、いい加減、1発くらい持っても怒られんでしょ」

「………」

「この1発以上は保有しないためにも、N友の会へ入会しますわ」

「…………う~ん…」

「まだ、どこの国も入会してないんでしょ?」

「………」

 そういう発表は無かったし、ミクドナルドの性格からして、どこかの国が入会すれば大々的に宣伝しているはずだった。

「うちら日本が第一号で入会すれば、一気に拡がるかもしれませんよ」

「……まあ……そうかもしれないけど……」

 やはりミクドナルドは日本からは最高月額設定の1000万ドルを取りたかったし、1発ごとの費用も欲しかった。そういう気配を感じた鮎美は提案してみる。

「N友の会に、よりフレンドリーな設定をしませんか?」

「どんな?」

「入会した国が、別の国を紹介すると、双方が10%オフの会費で核の傘に入れる。もし10カ国を紹介すれば自国の分は無料になる」

「わおっ……マルチ商法のやり方を取り入れるのね! いいアイデアかも!」

 もともと日本で広まっているマルチ商法の企業はアメリカ由来のものも多いし、美恋が入会していて陽湖のアトピーが治るキッカケになった製品の会社もアメリカ発祥だった。ミクドナルドもアメリカ人なだけあってマルチ商法の知識もあった。

「どないです? 二人で世界に広めませんか? N友の会を」

「OK! いいわ、そうしましょう! アユミ、あなたは最高の友達よ!」

 アメリカ人らしくミクドナルドは前へ進む決断をくだした。

「おおきに」

「今から二人で世界に宣言しましょう! 日本はN友の会へ入ったと!」

 日本は夜だったけれど、アメリカ大陸は昼間なのでミクドナルドは元気だった。鮎美も疲れていたけれど、それに応じた。その宣言が終わり、とても疲れた顔をしている鮎美へ麻衣子が遠慮がちに陽湖のことを説明した。貴賓室に戻った鮎美は、ぐったりとベッドに寝ころびながら考える。

「なるほどな……そら、まあ、死ぬ前に好きやった人と過ごしたいと想うわな……ずいぶん、まともな要求やん……ショウベン我慢して垂れるのに興奮したり……他人に飲ませて喜ぶのに比べたら………ええ機会やね……ええわ、認めるわ。一晩いっしょに過ごさせてやり」

「ありがとう!」

 麻衣子は自分のことのように礼を言い、それから言ってみる。

「会う前に、あの子にもお風呂を使わせてあげたら? ダメ?」

 死刑になる前夜だと覚悟して会う陽湖が男と何をするか、そのときに何日も入浴していない身体では可哀想だという麻衣子の問いにも、鮎美は許可を与え、それから思いついた。

「静江はんも明日は大変な一日になるし、ベッドで休ませてあげよか。たしか長瀬はんは奥さんが津波で亡くなってはるよね。一晩見張りとして、いっしょにいてもらお」

「………いい案のような………異性愛者なんかテキトーにくっつければ人口回復に役立つかな、みたいな。人をモルモットみたいに見てる感じがするんだけど?」

「どうせ、静江はんに事故原発付近の避難所でボランティアさせるときも警護はつけるし。一名やと交替要員無しで大変やから三名用意するとして。うち二名をゲイツにしたら、選択肢的にも長瀬はんしかなくなるやろ」

「……かもしれないけど、勝手に組み合わせるのは……せめて石永官房長官に相談した方がいいんじゃ?」

「う~ん……そやね、呼んで」

「は~い」

 麻衣子が石永を呼んできて鮎美が見合い婚のように静江と長瀬を配置してみると語った。

「そうだな……静江もそろそろ歳だし……今回の件もあって政界には居辛いだろう………長瀬警部補も奥さんが亡くなっているなら……」

 妹想いではあっても妹に性的な関心はもっていない石永は計画に了解した。石永は静江を解放するために、麻衣子は陽湖を解放するために準備室へ向かい、麻衣子は二人と女湯で入浴した。二人とも明日、死刑になると思い込んでいるので顔は暗いし、お湯に浸かって身体の気持ちよさを味わうと、これが最期なのだと思い、涙を流している。

「…ぐすっ……」

「……ぅぅ…」

「はぁぁ…」

 雰囲気暗いなぁ、当たり前だけど、と思いながら麻衣子は入浴を終え、陽湖を屋城が軟禁されている部屋に案内した。陽湖には着替える服が無かったので麻衣子の私物であるパジャマにもなるし、そのまま外を歩いてもあまり恥ずかしくないデザインで可愛らしいワンピースのような服を貸している。屋城には広くはないけれど個室が与えられていて、そこで卒業証書を書いていた。

「じゃ、ごゆっくり」

 麻衣子が一言いって去る。

「ブラザー愛也、お久しぶりです」

「マザー陽湖、ずいぶんとやつれて……」

 鷹姫はお腹いっぱいに草と虫を食べられるけれど、陽湖はほとんど食べないので、もともと細かった身がさらに細くなっている。もう24時が近いし人生の時間が残っていないと思っている陽湖は迷っている時間も惜しいので言う。

「ブラザー愛也、結婚いたしましょう。今すぐ」

 一時は惜しくなって温存した処女だったけれど、明日死ぬとなれば別だった。

「マザー陽湖………わかりました」

「では、結婚の誓いを…」

 二人とも結婚式を司祭する資格はあるので始めるつもりだったけれど、屋城が言う。

「その前に、あなたはまだ生徒の一人でもあります」

 屋城は一番最初に書いた卒業証書を手にした。

「二人きりですが、結婚式の前に卒業式をいたします」

「はいっ」

 本来の卒業式は3月12日の予定だったけれど、もう3月末、厳密には31日までは高校生なので結婚したり性交したりするのは控えるべきだったけれど28日ともなれば、いいような気もする。あとは形式を整えるのみだった。

「これより卒業証書授与式をおこないます」

「はい!」

「卒業証書授与! 卒業生代表、生徒信仰告白総括会長、月谷陽湖!」

「はい!」

「あなたは琵琶湖姉妹学園の教育に協力し、生徒たちの中心となって信仰を強く導き、数多の生徒へ受洗をなし、主イエス・キリストの愛を広め、神の御名において正しい学園生活をおくり、高校卒業過程を修了したことを、ここに証します。琵琶湖姉妹学園、信仰理事、屋城愛也。おめでとう」

「はい、ありがとうございます!」

 涙ぐみながら陽湖は卒業証書を受け取り、二人で賛美歌を謳った。そして、君が代は歌わないのが例年の式次第なので今も歌わない。来賓も保護者もいない、二人と神だけの卒業式が終わった。

「「………」」

 やや間があって、次に結婚式となる。

「ブラザー愛也、司祭は、どちらにしますか?」

「マザー陽湖がなしてください」

「わかりました」

 偶像崇拝もしなければ、神道のように祭具や仏教のような法具も、そして十字架さえ物質としては必要としないので二人は卒業式では向かい合っていたけれど、今度は横に並んで神に向かって誓う。

「これより私、月谷陽湖と屋城愛也の結婚式を執り行います」

「はい」

「私、月谷陽湖は屋城愛也と永遠の愛を誓い、神の御前に夫婦となることを宣言します」

「私、屋城愛也は月谷陽湖と永遠の愛を誓い、神の御前に夫婦となることを宣言します」

 二人が息を合わせて唱える。

「「アーメン!!」」

 信仰心もないのに、とりあえずドレス姿に合わせてキリスト教式を選ぶ浮ついたカップルと違い、誓いのキスという式次第もなく、ただ神にのみ二人は誓った。

「………愛也……」

「はい、陽湖」

 今までは神の前に兄弟姉妹だったけれど、もう夫婦となったのでブラザーやシスター、マザーも無くなった。二人はキスをして抱き合い、ベッドに入る。

「……ああ……ぐすっ……」

 処女と高校を卒業した陽湖は悔いた。権力や金銭に浮かれて数々の間違いを犯したことを深く悔いた。

「…………神よ…」

 たくさんのお金や権力がなくてもいい、わずかなパンと夫婦の愛、そして子供、あとは雨露さえしのげれば十分なのに、どうして私は酔ったのか、どうかお許しください、と想いながら何度も屋城に中出しで射精してもらった。

 

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