第72話 3月27日 欲の衝動、対馬の状況、天皇とは何か

 復和元年3月27日の日曜午前3時、鷹姫の啜り泣く声で麻衣子は目を覚ましていた。同室の里華は姪に会うために山梨県へ行ったので今は二人きりで四人部屋を使っている。

「……今夜も泣いてる……」

「くすん………くすん……お母様……お腹が空きました……くすん……お母様……どこですか…くすん……鷹は、お腹が空きました……くすん……ご飯、食べたいです……」

 鷹姫は啜り泣きながら寝言を漏らしている。

「夕食抜きだから、そりゃ、そういう夢をみるよね。しかも虫と草しか食べてなかったのに」

 麻衣子が暗闇に慣れた目で向こうの二段ベッド下段にいる鷹姫を見ると、かけ布団を咥えて噛んでいる。モグモグと布団の生地を口に入れていた。とてもひもじい様子だった。

「私も無理なダイエットして寝惚けて布団を口に入れたことあるなぁ……っていうか草と虫の食生活なんて三日限定でもつらいのに、この先、一生続ける気とか、ありえないって。人生の楽しみ激減じゃん」

 麻衣子は目が覚めてしまったので自分のスマートフォンをいじる。やはり対馬が心配だったし、自分の立場では司令室に行っても何も教えてもらえないどころか叱責されるし、巧妙な嘘をつくとすれば鷹姫や鮎美が気にかけているからと言えば、教えて貰える可能性はあったものの、それで嘘がバレたときの処分が恐ろしい上、そこまでして知りたい情報ではないのでインターネットで調べてみる。短文投稿が見つかった。不特定多数の人が投稿している。

 

 やっと砲撃がやんだ。

 なんで麗国が日本に攻撃してくんだよ、イミフ。

 難民船を転覆させた仕返しじゃね? 勝手に来ておいて勝手にキレてる。

 対馬の人はいる? 被害は?

 家に当たったみたいで2件くらい火事が見えるよ。

 あなたの家? あなたの被害は?

 私の家は無事。ずっと山の陰に隠れてたから怪我もしてないけど被害といえば、おしっこ漏らしてパジャマが濡れた。人間、怖いとマジで漏らすんだって思ったよ。

 現場は悲惨そうだなぁ。ご愁傷様。

 自衛隊は何してんだよ?

 仲国軍との戦いの直後だからかな、まだ何も反撃してくれてない。

 麗国だって北朝鮮とやったばっかだろうに、あいつら元気だな。

 そろそろ家に戻りたいけど、砲撃がまた来ないか怖い。どうしよう?

 まだ隠れてた方がいいんじゃね。家って木造だろ、当たったら死ぬぞ。

 漁協が避難船を出すみたい。女子供は乗れって。乗ってくる。圏外になるし落ちるわ。

 

 麻衣子が現場の雰囲気をつかんでいると、鷹姫が起き上がる気配がしたのでスマートフォンを伏せた。

「……ぐすっ……情けない夢を見て……自制心が足りない……」

「………」

「はぁぁ……食べたい………こんなに、つらいとは……」

 タメ息をついた鷹姫はお腹を撫でると、パジャマの上から制服の上着を羽織り、素足で靴を履いて部屋を出て行く。消灯後は原則として任務以外は部屋から出るのもトイレ以外は禁止されているので麻衣子は行き先が気になった。

「夕べも出て行ったし……どこに……まさか調理室の冷蔵庫とかに……」

 盗み食いするような性格とは思えなかったけれど、心配になり麻衣子はあとをつける。足音を消して歩けるように靴下だけ履いて廊下へ出た。

「なんだ、やっぱりトイレか」

 鷹姫が女子トイレへ入っていったので安心して引き返した。引き返す途中、廊下の向こうに人影を見た気がする。

「…こんな時間に……女の人っぽかったけど……」

 また気になるし、鮎美を守るという任務も世話役に兼務されているので、基地内に不審者がウロついているなら誰何しておく必要がある。単にトイレへ行くだけの関係者なら問題ないけれど、人影が消えた方向にトイレはない。そっと近づいて声をかける。

「あの、ここで何をされているのですか?」

「…っ…ぐすっ…何でも、ありません…」

 柱の影で泣いていた迪子が振り返って答えた。着ている制服が海軍のものなので麻衣子は、すぐに察した。仲国軍との戦闘で麻衣子たち陸軍には、ほとんど死者はでていないけれど、海軍と空軍には巨大な損失があった。

「もしかして仲間が亡くなったのですか?」

「……。艦が……轟沈して、私だけが助かったのです……放っておいて、泣かせてください。あっちへ行って」

 迪子が逮捕されたのは麗国人難民向けの狂言で、実際には基地内での謹慎待機で処分は放置されていたけれど、艦長として迪子が預かっていた艦は副長指揮のもとで戦闘に参加し、遅れて沖縄沖へ到着することになったおかげで本隊の後背へ回り込もうとしていた敵潜水艦を発見、これを撃滅することができたものの、敵航空機からの大規模攻撃を受け、対抗して反撃したものの多数の空対艦ミサイルを受けて轟沈していた。仕方のない偶然とはいえ、艦長の自分だけが助かったのが申し訳なくて、そして迪子も他の女性士官との相部屋になっていたので泣き声をあげると迷惑で、どうにも我慢できず泣きたくなったので廊下へ夜中に出てきているのだった。死にたいくらいに、悲しいし申し訳ない。いっそ部下たちの後を追って自害したくなる。きっと一世紀前の海軍軍人なら艦長一人が助かったなどというのは醜聞中の醜聞で恥ずかしくて生きておれなかったと思うし、死ぬ方が楽かもしれない。迪子も女性艦長として気負う部分があって、今後の女性艦長就任者に与える影響も考えている。強く自殺に誘惑されるけれど、今の日本は70年前と比べて、ずっと軍人が少ない。まして佐官クラスとなると極少なのに津波と戦闘で大きく失われていて、これから10年先20年先の組織再編を考えると、恥を忍んで生き、業務に尽くすことで国と戦死者に返していくしかないとわかっていた。わかっていたので、もう泣くことしかできず、泣いていたのだった。そういう切羽詰まった幹部士官の気持ちは麻衣子にはわからないので、とりあえず敬礼する。

「はい、失礼します」

 麻衣子の階級で気軽に話しかけていい相手ではなかったけれど、つい鮎美たちと接するうちに高官慣れしてしまい、あまり階級の差を気にせず平然と部屋に戻る。再びベッドに寝転がってスマートフォンをいじった。

 

 対馬には観光で来てた麗国人も多いのにな。

 この時期に日本観光って非国民じゃね?

 いやいや、だから北朝鮮が核ミサイルを撃ってくる前によ。で、帰れなくなるというか、さすがに難民船と違って追い出すわけにいかんし。

 にしても、よく日本へ来るよな、原発事故もあったのに。

 対馬は事故原発から遠いし、結局、私たち日本人も10キロも離れてれば安全って思い込まされてるし。

 まあ、発電所の作業員で死んだ人はいるけど、近所だったから死んだ人は、まだいないしな。

 麗国とも戦争になるのかな?

 ってか、なってるじゃん。すでに。

 宣戦布告とかしないのな。

 日本も兵役とか言われるかな。やだな。

 芹沢なら言いかねないぞ。あいつ男を犬だと思ってるらしい。

 まあレズビアンにとって男は異生物だよな。

 鮎美は今頃なにしてるんだろうな。砲撃を受けて。

 グースカ寝てたりしてな。

 あいつが起きてても役に立たないしな。防衛大臣が畑母神のおっさんで良かったぜ。

 ホント、それな!

 でなきゃ昼の海戦で日本終わってたかもな。

 あれの勝敗どうなんだ? どっちも勝ったって麗国と北朝鮮みたいなこと言ってるけど。

 イギリスのニュースじゃ日本の勇戦勝ちって報道してたぞ。

 そうそう東郷平八郎の再来とか言ってな。

 じゃあ次は李舜臣VS東郷平八郎か。

 畑母神は敵前で回頭したのか?

 アホかお前は、今の海戦でそんなことやるか!

 じゃ、どんな戦術だよ。

 知るか、極秘だろ。なんかイージスとか潜水艦とか、うまく使ったんじゃね?

 まあ、少なくとも鮎美ちゃんが指揮するよりは、いいよな。

 胡錦燈だって自分で指揮しないだろ。

 金正陽は自分で指揮したかもな。百戦錬磨の大将軍だし。

 百戦錬磨の大元帥、初陣で散る。しかも病死。

 不敗の将軍だったな。

 鮎美ちゃんにとって昨日が初陣になるのか。

 現代の政治家に初陣とか関係ないだろ。しいて言えば刺されたときじゃね。

 鮎美は仲国との戦闘中なにしてたんだろうな?

 どっかの地下室でガクブルだろ。

 おしっこ漏らしてたりしてな。

 鮎美ちゃんのおしっこ飲みたい。

 オレも。

 鮎美ちゃんとヤリてぇ。

 女装して頼め。

 ちょっとオレの砲撃も飛ばしてくるわ。鮎美まんこまで射程に入れて。

 

 麻衣子は目を細めて、つぶやく。

「こんなときにバカな男。…………宮本さん、遅いなぁ……」

 すでに鷹姫がトイレに入って15分が過ぎている。再び心配になった麻衣子は、また足音を消して部屋を出ると、女子トイレへ入ってみた。一つだけ個室のドアが閉まっている。

「……………」

「……ハンバーグ……いただきます……」

「?」

「…………湖東メロン……ああ、美味しい……」

 個室の中から鷹姫の一人言が漏れてくる。

「………カツとじ丼………京風おすまし……ずずっ…」

「???」

 いったい鷹姫が個室の中で何をしているのか、とても気になって麻衣子はマナー違反だとわかっていたけれど、隣の個室へ音を立てずに入ると、便座の上に立ち、鷹姫が何をしているのか覗き見た。鷹姫は便座に座っているけれど、パジャマはおろしていない。用を足しているわけではなく、右手は箸をもっているように動かし、左手は丼をもっているような動きだった。

「…はふっはふっ…美味しい……カツに出汁がしみて…」

「…………」

 もしかしてエア食事? 食べてるつもりになってる? そこまで飢えてるんだ、と麻衣子はまるで落語家のように鷹姫が一人で食べているつもりになっているのを見下ろした。鷹姫は次々と食べたい物を連想し、熟練した落語家のように美味しく食べるフリをしている。脳内で味も思い出し、美しい唇もパクパクと開閉させている。ときおりヨダレを垂らしてしまい、行儀良くハンカチで拭いていた。

「ああ、美味しかった……もう食べられません……あ、でもデザートだけ……かねやのシュークリームと丁稚羊羹、マロンパフェ、ロイヤルミルクティー、苺大福、チョコレートケーキ、アップルミルフィーユ」

「…………」

 まだ食べるの? デザート、そんなに? っていうか、食べてないから満足まで時間がかかるのかな、これって一種の自慰行為? 食欲のオナニーみたい、と麻衣子は気づき、あまり見ていると気の毒だと思い、音を立てずに部屋へ戻った。

「………オナニー……私も……最近してなかったなぁ……」

 鷹姫と鮎美が来てから、ずっと一人になるタイミングが無く、健康な女子として月に2回くらいは自慰するのが習慣だったのに、ご無沙汰だった。入隊してから相部屋生活が基本で男性だと開き直って同室者がいても自慰したりしていると聞くけれど、さすがに女子は他の人に知られるのは、たとえ同性でも恥ずかしすぎるのでチャンスは少ない。鷹姫のようにトイレの個室にこもるか、たまたま相部屋に一人でいるときか、あえて入浴時間を早めるか、遅めるかして一人でシャワーを使ったりするかになる。そして、今は一人だった。そう思うと急に、したくなる。とくに、大勢の人間が死んだ後だからなのか、単に自慰して性欲を発散したいという気持ちだけでなく、もう妊娠して子供を産みたいという衝動さえ、お腹の奥で感じた。そっと静かにベッドの中で股間に手を入れた。鷹姫が戻ってくるまでに果てようと思い、指を動かす。

「……ハァっ……ハァっ……あんっ…」

 喘いでも一人なので安心だったのに、鷹姫が戻ってきてしまった。戻ってくるかもしれないのは予想していたので、ベッドの中で動きを止める。

「………」

「………」

 鷹姫は眠たそうな目で自分のベッドに潜り込むと、すぐに眠ってくれた。

「………」

「…すーっ…すーっ…」

 食べたつもりになって一応の満足をしたのか、寝息を立てている。

「……………」

 いいところだったのに……どうしよう………熟睡してるし、いいかな……と、麻衣子は再開することにした。いつもは1回の絶頂で満足できるのに、今夜は気持ちが高ぶっているのか3回もしてしまったし、鷹姫が熟睡しているので少々声も漏らしてしまった。

「……ハァっ……三井……しんじ……つい、使っちゃった……」

 筋骨隆々とした男性に、ちょっぴり強引に、でも優しく抱かれたい、という比較的平凡な性的指向をもっているので、自慰に好きになっても無駄だと最初からわかっていたのに結局は好きになってしまった男性を使っていた。デートの後にラブホテルで抱かれるという平凡すぎる想像で1回目の絶頂を迎え、次は趣向を変えて三井は妻帯者で自分は処女、そして上官と部下の不倫という状況設定で楽しみ、ラストは鮎美のように自分は全裸で入浴しているのに、三井らゲイツが軍服姿で自分を囲んで平然と見られているという状況設定で、とても恥ずかしいのに自分もすました顔で男たちに裸体を見せ、そして見ている男たちが次第に手を出してきて大勢に掴み上げられ、優しく抱かれるという妄想で自慰を終えている。

「あの人も、なんでゲイかなぁ……ノーマルにならないのかなぁ……眠っ…」

 とりあえず自慰で満足すると麻衣子は急激に眠くなったので心地よく眠る。鷹姫は5時半になって目を開けた。

「…はぁぁ……お腹が空きました……武士は喰わねど高楊枝とは……なかなか難しいものです……」

 一人言を漏らしつつ、朝稽古のために素早く基地内の武道場へ向かう。屋外に出るとカラスが2羽、植え込みにおりていた。

「………」

 カラスは………焼いたら食べられるのでしょうか……、と鷹姫は動くものを見ると食欲が刺激された。虫より、はるかに食べ応えがありそうで、肉を口にしたい衝動が湧く。弓で射殺(いころ)して捕まえたくなった。弓道の心得もある自分なら命中させる自信がある。

 バサッ! バサッ!

 鷹姫の視線に気づいたのか2羽とも飛び去った。

「ははっは! 野生動物は勘がいいからな。そんな目で見られたら逃げるだろう」

 ランニングしていた高木が笑って言ってくる。

「………私は、どんな目でカラスを見ていましたか?」

「飢えた虎みたいだった」

「そうですか……」

 鷹姫の目が虎から、恥ずかしく感じる人になる。

「あまり追い込むなよ。自分自身も、総理も」

「………」

「とくに今は、いろいろ大変な時期だ。総理のためを想うなら、たまには手を握ってやるくらいのサービスをするといい」

 非番だった高木は護衛者としてでなく、ただの年長者として助言するとランニングを再開して走り去った。鷹姫は武道場へ行く。わずか30分なので集中して稽古したし、場所柄相手には不足しない。何人かの男性有段者と手合わせしてもらい、また急いで部屋に戻ると制服に着替え、きっちりと化粧もしたし制汗スプレーも使い、眠そうに起きた麻衣子と食堂へ行く。基地周辺の夜間警備をしていた隊員が空き時間に鷹姫と陽湖のために草と虫を獲っていてくれたので量は少なかったけれど、それを朝食として食べる。

「宮本さん、よく続くね」

「武士は喰わねど高楊枝というところ、私は食べる物があるのですから、これで十分に満足です」

「………」

 凛とした顔で言ってるけど、めちゃ痩せ我慢じゃん、夕べ夢みて泣いてたくせに、トイレにこもって飲食オナニーしてさ、涙ぐましい努力するよねぇ、特殊なオナニーを見たことは黙っててあげよ、と麻衣子は言わないことにしてベーコントーストを食べる。食べ終わると、鮎美のために一食分を持ち、二人で貴賓室へ向かった。

「「おはようございます」」

「おはようさん」

 すでに起きていた鮎美は内線電話で畑母神と会話していた。当然、対馬のことを聞いている。麗国軍からの長距離砲撃は3時間続いたものの、それ以後は上陸してくる気配もなく、また日本軍にはもともと海を渡った先で対地攻撃する能力が乏しく、仲国軍との戦闘直後で補給や休養の必要もあり、たいする麗国軍にしても対北朝鮮に残存戦力の多くを向けていて、対馬を砲撃してきた部隊は北朝鮮に攻め込まれていたとき最終防衛拠点として集めていた自走榴弾砲のうち、北朝鮮へ攻勢に出るときは故障や整備の都合で残ったもののようで数も少なく、現状としては日本軍は山口県にて反撃部隊を編成中とのことだった。対馬における被害は遠距離攻撃ゆえに精度は低かったものの、不運にも砲弾が直撃した官舎にいた2名が戦死、戦傷者3名、自宅で就寝中などだった民間人69名が死亡、362名が負傷、死亡者のうち1名は観光で日本に来ていて帰るタイミングを逸していた麗国人、さらに永住外国人としての3名の在日麗国人が犠牲になっていた。

「わかりました。ほな、あとは閣議で」

 鮎美は内線電話を置くと、苛立ちをぶつけるように壁を殴った。怪我しない程度には加減したけれど、一発で満足しなかったのでベッドへいって枕を殴りまくる。

「…………」

 うわぁ、キレてるなぁ、まあ当然といえば当然だけど、むしろ部下に当たり散らしたりしないだけ立派だし、私が18歳19歳の今の年齢で国の代表とかさせられたら一言、無理って言って畑母神大臣か石永さんあたりへ丸投げするのに、ちゃんと関わろうとするのは、えらいよねぇ、と麻衣子は苛立つ鮎美が、それでも自制心をもって行動するのを尊敬しつつ見、枕を殴ることで、とりあえず落ち着いた鮎美へ温かいうちに朝食を受け取ってもらう。

「朝食です、どうぞ」

「毎度おおきに」

 鮎美は麻衣子から朝食を受け取る。受け取る瞬間、鮎美は敏感な嗅覚で麻衣子の手の匂いに気づいた。

「……」

「? ……っ!」

 麻衣子も自分の失敗に気づいた。明け方に自慰した後、そのまま寝てしまい、手を洗っていない。せいぜい洗顔のときに漱がれたくらいで、しっかり石鹸で洗ったりはしていない。それでは女性器の独特の匂いはとれにくいし、鮎美はそばに鷹姫が立っているだけでも制汗スプレーを使っているのか、いないのか嗅ぎ分けるほど鋭敏な嗅覚をもっている。

「大浦はん……もしかして…」

「っ…な……なにも! なにもありません!」

 そう答えた麻衣子が真っ赤に赤面するので鮎美は確信したし、麻衣子もバレてしまったとわかりたくないのに、わかってしまう。

「す、すいません。すぐ手を洗って、新しいのをもらってきます!」

「いや、別にええよ。もったいないし。フフ」

「ううっ……すいません…」

 申し訳なさそうにする麻衣子と、意味ありげに微笑む鮎美の様子が不思議で鷹姫が問う。

「大浦さんの手が、どうかされましたか?」

「ううん、なんでもないよ。な、大浦はん」

「は、はい! なんでもないです!」

「クスクス、大浦はんも可愛い顔して、すること、ちゃんとするんやね」

「っ…う~っ……」

 うくぅぅ、このセクハラ総理ぃ、と麻衣子は恥ずかしくて顔を伏せつつ、食事トレーを渡した後は両手を後ろに回して隠す。鮎美はベーコントーストを美味しそうに囓った。

「う~ん、美味しっ、今朝は特別、美味しいわ」

「「………」」

「この肉汁の香り、最高やよ」

「「…………」」

 麻衣子は顔を伏せたまま、鷹姫はトーストを見ないように顔を背けたままでいる。

「このトースト、大浦はんが手で取ってくれたん?」

「ち、違います! ちゃんと専用のトングがあって、それを使うから手は触れてないです!」

「へぇ……そっか。ってことは、その後、そのトングを触った隊員さんらは、みなさん、今頃、その手でトーストを食べてはるんやね?」

「っ?!」

 恥ずかしすぎて麻衣子が頭を抱えて悶える。これがバレたら、もう基地にいられない。食堂に行けない。

「もちろん、うちの胸のうちだけに仕舞ておくよ。フフ」

「く~っ……」

 セクハラ発言されても言い返すことができず、麻衣子は悶え続ける。鷹姫が悩みながら問う。

「すみません。さきほどから二人の会話の空気が、まったく読めないのです。説明していただけませんか?」

「フフ、どうしよかな?」

「や~めぇ~てぇ」

 さらに麻衣子がグネグネと悶える。鷹姫は答えを知れず、鮎美はいつもは残すのに朝食をすべて美味しく食べ終えた。

「あ~っ、美味しかった♪ なんか元気でてきたわ。おおきにな」

「……」

 このレズビアンめ、私をそういう目で見ないでよ、ああ、もお、と麻衣子は恥ずかしくて頭を抱えていた両手で顔を隠したけれど、自分の匂いを感じて手を離す。その手首を鮎美が握ってきた。

「麻衣子ちゃんの匂い、もうちょっと嗅がせて」

「やめてくださいよぉ」

 麻衣子は手の匂いを嗅がれて困ってしまう。ずっと、大浦はんと呼ぶことで距離感を取っていた鮎美が親しげに、麻衣子ちゃんと呼びかけ、クンクンと匂いを嗅ぎ続ける。

「ヤダ、やめて」

「黙っててあげるよ?」

「う~……」

 たしかに私が悪いんだけどさぁ、オナニーした後の汚い手でご飯もって来られたら、同性愛者じゃなきゃ逆に怒ってトレーごと投げつけられても仕方ないけど、だからって、もうセクハラだよ、これじゃ、と麻衣子が困り切るのに鮎美は続ける。強引に手首をもちあげ、今度は麻衣子の腋を嗅ごうとする。

「こっちの匂いも嗅がせてな?」

「っ、嫌ですって」

 気持ち悪くて寒気がした。なのに鮎美は迫る。

「みなさんが使ってるトング、どういう手で触ったんかな?」

「あうぅぅ……」

 言われたくない秘密を握られてしまい、どうにも麻衣子はセクハラを拒否できない。ずっと不思議そうに見ていた鷹姫が気づいて止める。

「芹沢総理、おやめください。それはセクハラです」

「ええやん、べつに。麻衣子ちゃん、どうする? 拒否せんよね? 匂い嗅ぐだけやし、舐めたりせんよ」

「はぅぅぅ…」

「芹沢総理……どうして、そう急に人が変わったように………いえ、欲望を抑えきれないのは、わかります。ですが、なにか大浦さんの弱みを握って脅しているようにしか見えません。違いますか?」

「………」

「宮本さん、助けてぇ」

 すがれそうなところへ麻衣子は助けを求める。鮎美は手を離して舌打ちした。

「ちっ……せっかく……べつに、麻衣子ちゃんは、はっきり拒否してへんし」

「何か弱みを握って黙らせても、あとあと告訴されれば、今のお立場を危うくします。どうか、ご自重ください」

「はいはい!! ああ! もお!! どいつも、こいつも!!」

 欲求不満になって再び苛立った鮎美はベッドを蹴り、枕を投げた。

「「…………」」

「ホンマ腹立つわ!! 何、いきなり砲撃してきてんねん?! イミフなんじゃボケが!!」

「「……………」」

「あんたも、あんたや! 人の食事、どんな手で持ってきたん?! 言うてみぃ?!」

 美味しく食べたはずなのに、今になって詰問されると、より麻衣子も困る。

「……いえ……普通に……」

「はん?! ほな、科学鑑定しよ! うちは毒殺されかけたこともあるし! 怪しい手やし調べてもらお!! 何がついてたか!」

「ひぅぅ……」

 それはもう公開処刑だった。そんな科学鑑定をされて、匂いの原因を特定されたら、もう恥ずかしくて生きていけない。鑑定を拒否しようにも毒殺未遂の件がある鮎美が変な匂いがするから調べてほしいと言い出せば、きっと調査される、麻衣子が拒否すれば拒否するほど怪しくなる。そして詳細な検査で、ただの自慰による匂いだと判定されたら、周りは笑い話で終わるかもしれないけれど、麻衣子にとっては地獄だった。そんな地獄に堕ちるくらいなら、ちょっと腋の匂いを嗅がれるくらい、とても気持ちが悪くて鳥肌が立ちそうだけれど、我慢するしかないと思える。麻衣子は白旗をあげ降伏した兵士のように両腕をあげて頭の後ろで手を組んだ。

「どうぞぉぉ、嗅いでくださいぃぃ」

「………」

 鮎美が迷う。かなり強引に麻衣子を抵抗不能にしてしまった。どうしようかと、迷っていると鷹姫が鮎美の手を握って、言ってくる。

「どうにも欲望を抑えきれないのは、わかります。ですが大浦さんでは、あとあと問題になりかねません」

「……」

 竹刀を握るために皮膚が厚くなった鷹姫の手に握ってもらうと、鮎美は苛立ちが消え、気持ちがあたたかくなる。鷹姫は握ったまま伝える。

「私でよければ、私の身体で満足していただけませんか?」

「鷹姫……」

「どうぞ」

 鷹姫が胸のボタンを外して、ブラウスを半脱ぎになって腋を見せてくれる。きちんと昨夜も入浴時に剃ったキレイな腋で、制汗スプレーをふっていても朝稽古のために少し汗の匂いがする。漂ってくる香りを感じて鮎美は、鷹姫と出会ったばかりの頃、登下校のために琵琶湖を小舟で渡っていたときの光景を思い出した。あのときは平和だった。秘かに鷹姫へ恋をしていた。鷹姫の匂いが好きだった。穏やかな凪いだ湖面を二人で小舟にゆられて漂いたい。

「……く、くすぐったいです…」

「ごめん、もうちょっと」

 気がつくと鮎美は夢中で鷹姫の腋を舐めていた。さらに手を鷹姫のスカートに入れる。すぐに腿を撫でるだけでは満足できなくなって股間に手をやる。

「……芹沢総理……そこには手を入れないでください…」

「鮎美って呼んでよ」

「鮎美、そこには手を入れたりしないでください」

「……上から撫でるだけ、指を奥に入れたりせんから……」

「………撫でるだけですよ…」

 鮎美の指が鷹姫のショーツの中に入って撫でる。また撫でるだけでは満足できなくてベッドに押し倒して舐めた。舐めながら鮎美は自分の指で自分を慰めて終わった。ずっと詩織と結婚したと想っていたので我慢していたし、鷹姫への恋は機内での出来事で幼児化した姿を見たとき萎えきったはずだったけれど、やっぱり好きだった。そして、詩織の死が確実となったので、もう解き放たれ、しかも鷹姫本人が了承してくれたので、鷹姫の身体をむさぼった。腋と股間だけでなく乳首も吸うし、キスもする。麻衣子は静かにしていた。

「………………」

 本当にレズなんだ………私の目の前でヤリ出すとか………うわぁぁ………すっごいエロい……しかも朝っぱらから……、と麻衣子は黙って動けずに見ていた。ベッドに押し倒されたままの鷹姫が壁時計を見て言う。

「鮎美、そろそろ閣議の時間です」

「もうちょっとだけ」

「時間がありません」

「ええやん、遅刻しても」

「ダメです。今朝はネットを通じた御前会議となるはずです」

「待たせといたら、ええねん」

「ありえません。織田信長でさえ、天皇を敬っています。熱田神宮を大切にし、伊勢神宮の式年遷宮も彼が復活させたのです」

「………ほな、今夜、うちと、このベッドで寝てくれる?」

「はい。………ですが、条件があります」

「ええよ、なに?」

「陛下と睦まじくしてください」

「………」

「お願いします」

「…………まあ、素っ気なくは、せんよ。それでいい?」

「はい」

 鷹姫は自分の身体を取引材料にして野望を進めた。ベッドから起き上がって二人とも制服を整え、閣議に出席する。午前中の閣議はインターネット回線を使って義仁も謁見する形式を取り、防諜工作はしているものの内容は万が一盗聴されても問題ない程度にすることになっていた。義仁へ奏上する主な議題は昨日の海戦における畑母神の勇戦を讃えて叙勲するか、否かだったけれど、もともと議題になる時点で結論は決まっているようなものだった。義仁が心から言う。

「本当に、ご苦労様でした」

「いえ、私などは……本当に奮戦してくれたのは水嶋ら戦死者です」

 畑母神は起立して頭を垂れた。

「勲章は本来、私が手渡したいのですが、由伊を使いにやりますので、受け取ってください」

「はっ、もったいなきこと、ありがとうございます」

 叙勲の儀式としては、やはり直接に手渡すのが原則だったけれど、畑母神が司令機能のある小松基地を現在の状況で離れるわけにもいかず、また義仁が勲章を届けに来るのは鼎の軽重を問われることになるので中間案として由伊が使者として島津と来ることになった。畑母神への叙勲の件が終わると、鮎美が挙手した。

「鮎美さん、なにかな?」

「はい。あと二人、叙勲していただきたい者がおります」

「誰かな?」

「加賀田夏子ならびに亡き牧田詩織でございます」

「うん、なにゆえに?」

「「「「「…………」」」」」

 夏子ら閣僚たちは、やっぱり言うのか、と思った。詩織が連続殺人犯ではないか、という件は仲国軍と麗国軍の攻撃によって世間の話題から注目度がさがっているものの、消えてはいないし、外患が去れば内憂が再燃する可能性は大いにあった。鮎美も動画を見て、詩織が残虐に赤ん坊などを人質にしたのは捏造ではない事実かもしれないと考えている。もともと詩織は聖人君子とは、ほど遠い性格で自分の快楽のためなら鮎美の羞恥心さえ遊び道具にしたので、問題ある人格だとは理解している。きっと、それだけにタックスヘブンからの陰謀で冤罪なのに追われていると認識したなら、全力で逃げようとするのは予想ができたことだった。自分を守るため、やむをえず行動したのだろうと想っている。だから、詩織の名誉を晴らしたかった。

「はい、この二人はIMFを中心とした国際的な通貨の安定、とくに大規模災害時に各国の通貨価値を半固定化することで経済的混乱を避けるマニュアルを作成し、今回の震災直前にハワイにて各国関係者へ配布しており、このおかげで現在も日本円、米ドル、豪ドル、ニュージーランドドルは震災前に近い価値でやり取りされております。これは億単位の人々を助け、大袈裟でなく世界全体を救っていると言っても過言ではありません。十分に叙勲に値する働きと存じますゆえ」

「たしかに、そうですね」

 画面の向こうで頷く義仁へ、畏れながら、と言いつつ侍っていた北房が何か告げている。その内容は鮎美にも閣僚たちにも想像がついた。詩織が殺人容疑で国際手配を受けていたこと、鮎美とは法的には成立しない同性婚の間柄であること、他にも勲章の乱発は避けるべきであること等だろうと感じる。

「うん、北房の心配もわかるよ」

 義仁が迷っているのがわかるので、鮎美が畳みかける。

「たしかに、牧田への叙勲には小さな問題がいくつかあるかと思います。彼女の霊を慰めるにしても、それは他の津波の犠牲者と同列であるべき、という意見や、多くの戦死者を差し置いて叙勲することにも。ですが、戦死者へはいずれ確定となってから陛下が格別の扱いをされるかと存じますし」

 戦死者の正確な数や氏名については、まだ少数ながら海上で救助される見込みがあるので、はっきりとしていなかった。そして畑母神を叙勲するのは戦闘が日本側の勝利に終わったと印象付ける政策的狙いもあり、戦死者を悼むばかりでは敗戦という雰囲気になるので必要な措置だった。鮎美が続ける。

「何より牧田が冤罪で追われていたこともあるかもしれません。けれど、うちは彼女を信じています。あの嫌疑は陰謀です。これが何よりの証拠です」

 鮎美がスマートフォンを義仁へ映像を送信しているカメラに向けた。こういう行動は女子高生らしいと石永らは思ったけれど、黙って見守る。スマートフォンには詩織が最期に鮎美へ送ったメールが表示されていて、タックスヘブンによる冤罪だと訴えていた。

「うち自身、何度も暗殺されかけましたし、詩織はんの両親も犠牲になって、それでも彼女は連合インフレ税のために中心となって動いていてくれました。その彼女をタックスヘブンの汚い金持ちたちが落とし入れようとしたんです」

「……」

 義仁が迷い、北房が鮎美へ言ってくる。

「僭越ですが、女官長の立場ながら私に発言の機会をいただけますか? 芹沢総理」

「……どうぞ」

「冤罪を晴らす道具に、陛下をお使いになるのは、お控えください」

 ぴしゃりと言ってくる北房の指摘は正しかったけれど、鮎美は押し通す。

「冤罪は関係ありません。私は牧田の功績が評価されるべきだと言っているのです。もし今、日本円が1ユーロ500円だったら、どうです? ドルも、そうです。1ユーロ5ドルだったら、さらに、どんどん変動したら? どれだけの混乱、そして、その混乱による死傷者や餓死者が出たと思いますか? それを防いだんですよ! 冤罪は富裕層が不当に蓄えた富が弱者へ再配分されるのを嫌ってやったことです! そして今また死人に口なしで彼女が誹謗され続けるのに、私は我慢ができません! 私は彼女を信じています! どうか、お願いします、陛下!!」

 鮎美は訴えながら涙を零した。鮎美の論理は破綻をきたしていたけれど、一方で巨大な功績があり、他方で殺人の疑いがあるものの、もう裁判が開かれることのない故人の名誉を晴らしたいという気持ちはわかる。そして、恋している女性の涙ほど、強力なものはない。天皇として公正公平であろうとしている義仁もまた例外でなかった。

「わかりました。その二人と鮎美さんに贈ります」

「っ?! いえ、うちは! いえ、私はけっこうです!」

「あの通貨安定の手立ては先のニュージーランド地震のおり、鮎美さんが発案され、加賀田さん、牧田さんが手伝われたと聞いていますから、二人を叙勲して、あなたを叙勲しないのはおかしなことになりますから」

「いえ、うちは、ちょっと思いついて二人に言うただけですから! 勲章なんて大袈裟なもん、ホンマ要りませんし!」

 慌てる鮎美を見て夏子が笑う。

「クスクス、ほらね、いざ自分がもらうとなると、くすぐったくて嫌でしょ?」

「夏子はん……」

「鮎美さん、贈らせてください。そしてやはり由伊ではなく私が行きましょう。四名も叙勲するのであれば、使者というわけにもいかないでしょう」

「ですが、それは危険性も……」

 鮎美に続き、畑母神も止める。

「仲国軍は引いたとはいえ、いまだ完全に安全というわけではありません。また、麗国軍まで動いております。どうか、ご自重ください」

「弾道ミサイルの前には、どこも同じほど危険でしょう。また、かつて昭和天皇は戦時中も戦後の占領期も安全には気を配っておられても過度に逃げ隠れはされませんでした。私もそうありたく思いますし、畑母神防衛大臣には石永官房長官からの進言があった元帥の号を下賜したいと考えています。また、他の国務大臣へも鮎美さんを使者として、すでに親任式をしていますが、やはりお会いしておきたい。畑母神大臣、道中の安全を確保できますか?」

「はっ! 必ずや!」

 そこまで言われると畑母神も即答するしかなかった。実際、すでに北朝鮮にはミサイルに搭載できるような核弾頭が無いことはほぼ確実で、あっても日本に向けるよりは朝鮮半島の統一に使いたいはずであり、麗国にしても射程500キロ1000キロとあるような通常弾頭ミサイルは対北朝鮮で撃ち尽くしており、尖閣諸島以外の防空識別圏内での制空権は日本軍にあるし、ミクドナルドのN友の会の存在を考えると、仲国軍が日本へ核攻撃を行う可能性もゼロに近い。現状で義仁が皇宮車両で動くのに、それほどの脅威はなかった。結果、義仁と由伊を小松に迎えることとなり、その準備が忙しくなる中、別の来客もあった。イスラエルからエフラヒムが95歳という高齢をおして輸送機の編隊で鮎美が頼んだ武器をインド洋経由で届けてくれた。輸送機が滑走路に着陸し、エフラヒムがおりてくると鮎美は駆けよって固く握手をしたし、イスラエルの文化では問題ないはずなので抱きついて感謝した。笑顔で抱き返してくるエフラヒムには留津が同伴していて通訳を務めてくれる。

「ははは! アユミが、ご注文の携帯式防空ミサイルシステム、スティンガーと携帯式対軽装甲車両用ロケット弾発射器MATADORそれに自動小銃でNATO弾使用のIMIガリル、いずれも6000を用意したぞ」

 杉原千畝がビザを与えたユダヤ人の数には諸説あり2000から2万人と言われているけれど、もっとも6000という数が広まっている。その6000に因んで掻き集めてくれた武器に鮎美は心から感動したし勇気づけられた。

「おおきに、ありがとうございます!」

 思わず同性愛者なのにエフラヒムの頬へキスするほど嬉しいし、心が躍るように安心もする。これで日本は大丈夫、という根底的な安堵だった。石永が不思議そうに問う。

「大変ありがたい品々だが、これで朝鮮半島を攻撃することは、できないだろう。まあ、陸軍以外に義勇兵を募るなら、その武器に最高だが……どうする気だ?」

「義隆はんと相談して決めたんよ。ホンマの最後の最後、どうにもならん場合、どういう武器があったら根強い抵抗ができるか、結果、この三つが三種の神器なんよ、現代の!」

「最後の最後か……」

 石永がつぶやき、畑母神も輸送機からおろされてくる武器を見て言う。

「スティンガーか……我々も91式携帯地対空誘導弾ハンドアローを採用するまでは使っていたし、今でも世界標準だが、また6000とは、なんという数を……」

「日本にハンドアローは津波でダメになった分を考えたら500もありませんやん」

 もう鮎美は里華からの講義のおかげもあって現代戦の知識をある程度は身につけていたし、日本軍の兵器や装備についても理解を深めていた。そして畑母神が海洋で敵を止めようとし、石永がロケットで抑止しようとするのに対して、鮎美はアメリカやソ連をベトナムやアフガニスタンで苦しめ、追い返したのと類似した手段を想定していた。

「これで、どうですよ? 畑母神先生が仲国軍の総司令官やったら日本を占領できる? しようと思う? たった1本のスティンガーで何十億円するヘリや戦闘機がゲリラ的に狙われるかもしれんのよ。まだまだ侍魂が残ってる人らの手に対戦車ロケットやら自動小銃があったら、どうよ?」

「………無理だ……損害が大きすぎる。なるほど、そういう狙いか。もしも昨日、我々が大敗していたとき、それでも抵抗するための。沖縄失陥だけでなく本州に上陸された場合の徹底抗戦を考えて。たしかに、艦船や航空機をすべて失っても、これらがあれば根強い抵抗ができる」

「アユミは常に先を考える指導者だな。通貨のことも、そうだった。昨日の勝利で、これらは、もう出番がないかな?」

「いえ、使いようはいくらでもあります。核兵器と同じで使わずに持っているだけでも心強いですし、より積極的に動くなら、モンゴル人、ウイグル人、チベット人に裏から、これを配ってもいいし」

「っ、ははははっ! アメリカを割った次は仲国を割るのか! こいつは恐ろしい! 恐ろしい女傑に肩入れしてしまったものだ! はははは!」

「すぐに陛下がここへ来られます。杉原の名誉回復の件も奏上しますし、いっしょに昼食を、どうぞ」

「うむ、いただこう。アユミが好きな日本料理がいいな」

「わかりました! うちが作ります! お好み焼きを! えっと、豚肉はダメでしたよね。カシュルートに合うよう頑張りますわ!」

 エフラヒムと笑顔で提供された武器類を背景にして記念撮影する。まずはエフラヒムと鮎美が握手している写真を撮り、さらに鮎美が自動小銃を持ち、鷹姫には対戦車ロケット、麻衣子にスティンガーを持たせ、日本は女子も最後まで戦うという印象を持たせる写真も撮り、そしてゲイツの屈強な兵士を多く整列させ、全員にスティンガーを持たせてカメラに視線を送ってもらった。それらの写真や動画は、すぐに斉藤がインターネットで配信する。石永が感心して言う。

「簡易の閲兵式だな。目的は国内向けには安心感を、国外には抵抗の意志表示。……ほんの10ヶ月前、こんな子が参議院議員か、と思ったのに。今は本当に、芹沢総理にクジ引きが当たってよかったと思うよ」

「誉めてくれたん?」

「そのつもりだ」

「ほな、美味しいお好み焼き、食べさせてあげるわ」

 鮎美はユダヤ教の料理における戒律であるカシュルートを留津に補佐してもらいつつ、久しぶりに料理を作る。その途中で義仁たち一行も到着し、エフラヒムを囲んで昼食会をもった。昼食会には上座に義仁とエフラヒムを迎え、鮎美、由伊、島津、畑母神、石永も参加し、北房と鷹姫は給仕役を務める。儀礼的な挨拶と、なごやかな会話が続いた後にエフラヒムが言う。

「食事の席で、いささか不粋な話題ではあるが、日本が宇宙ロケットに核を搭載しているというのは、本当だろうか?」

「ズバっと来ますね。うちは知らないことになっていますが、どこかの官房長官さんが独断で何かしているようですわ」

 打ち解けて鮎美は国家機密を認めた。もうアメリカなどが衛星で観測し、マスコミへリークされているようなので恩人であるエフラヒムに隠す気はなかった。話題が話題なので石永がお好み焼きを食べる手を止める。

「まだ、ここだけの話にしてください」

「うむ、やはり日本も核開発を秘かに進めていたのだな」

「いえ、国としてというより、完全に自分の独断専行です。誤解のないように言っておきますが、急ごしらえなのでロケットの性能は確かですが、肝心の核弾頭は核爆発しない、ただの使用済み核燃料です」

「なるほど、汚染できるだけか。これは私の一存では決められないことだが、イスラエルが日本と協力して、その方面も進めるというのは、どうだろうか?」

 エフラヒムの言葉を通訳している留津も驚いてから、なるべく冷静に伝えた。

「っ、願ってもないことです! ありがたい!!」

 石永は即答したけれど、鮎美はエフラヒムへの2枚目を焼いている顔を複雑にし、考え事をするときの癖である横髪を耳へかける仕草をしたけれど、料理をする都合上、髪を一括りにしていたので指は髪に触れなかった。

「アユミは乗り気ではないようだな」

「………即断即決できるようなことではないので」

「慎重だな。福岡では何万人と殺されたろうに」

「ですから、迷っています。………とくに、私たちの宇宙ロケットは地球上のどこへでも、それこそ宇宙空間の小惑星にまで届きます。当然、イラン、イラク、シリアへも、きわめて正確に。……イスラエルと日本の今後の友好も願いますが、イスラーム社会との対立も避けたいのです。……それに、絵空事になるか、現実になるか、ミクドナルド大統…一応、大統領のN友の会という商業的な同盟によって、世界の核軍縮も進むかもしれません」

「なるほど、若い世代に期待しよう」

 結論を曖昧にして核開発の話は終わり、鮎美は焼き上がった2枚目を半分に切って、エフラヒムと義仁に差し出す。

「どうぞ」

「おお、ありがとう。具が焼き込んである上に、さらにソースをかけるというスタイルは面白いな」

「鮎美さんは料理もできて、本当に何でもできる人ですね」

「いえ、料理はお好み焼き限定で、あとはさっぱりです。家庭的な料理なら、鷹姫の方がずっとうまいですよ」

 話題にあげられた鷹姫は静かに目を伏せるだけで、鮎美と義仁の会話には入らない。そういう様子を北房は畑母神へノンアルコールビールを注ぎながら、しっかりと見ていた。昼食会が終わると、鮎美たちは式典の準備に入るけれど、給仕役だった北房と鷹姫は食事休憩となる。鮎美が二人の分も焼いておいてくれたけれど、鷹姫は食べずにいるので北房が問うた。

「宮本さんは、なぜ食べないのですか?」

「私は陛下と芹沢総理の結婚を願っていますが、それは同性愛者にとってはつらいことなのです。それを求めている自分が美味しい物を食べることはありません」

「………。そうまで本気で陛下と、あの人の結婚を……」

 北房が悩む。とくに朝一番の会議では、かなり強引に詩織への叙勲を鮎美が求めた。義仁がそれを容認したのは、公平公正なこととは言い難い。その点について北房が問う。

「たしかに陛下は、あの人に好意をもっていらっしゃるようです。お二人のご年齢なども悪くない……同性愛者の子が必ず同性愛者というわけでもないようでもあります。ですが、あの人は俗世の最高権力者です。古来から権力の集中は避けるべきとされていますよ」

「そういう歴史の見方は本当に正しいでしょうか。権力の分散は迂遠さと浪費、腐敗も生みます。そして何より迅速さに欠けます。北条政子や日野富子へ権力が集中したのは、その手腕もさることながら、それを世の状況が求めた結果でもあったでしょう。とくに北条政子は貴族社会から武家社会への変遷期を生き、のちのち鎌倉幕府が二度の元寇を防ぐ礎石となっています」

「……日野富子は世継ぎ問題から応仁の乱の原因をつくっていますよ」

「世継ぎ争いが起きる以前に、今は皇統存続にとって史上最大の危機です。少しでも早く、一人でも二人でも、子をなしていただくのは喫緊の課題です。その母が権力者であるか否かなど、些末なことで、後の世の語り草になって終わることでしょう」

「些末と言うなら、いっそ、あなたがお産みなさいな」

「っ…畏れ多きことです。ありえません」

「………」

 この子は皇統を敬っているのか、利用しようとしているのか、あるいは、その両方なのかしら、と思いつつ北房はお好み焼きを食べた。鷹姫はお好み焼きを拘禁している陽湖のところへ持っていく。その途中、何度も唾液が湧いて、それを飲み込んだ。

「……こくっ…」

 鮎美が作ったマヨネーズの美味しさは覚えている。新鮮な卵黄をふんだんに使っているので市販品の何倍も美味しかった。それが、たっぷりかかっている。あえて鷹姫に栄養が取れるよう、たっぷりと大きめに作ってくれている。その気持ちを陽湖などに与えてしまうのは申し訳なかったけれど、それでも鷹姫は一口も食べなかった。空腹で大会議室での式典に出席すると、まずは昨日の勝利を讃えて義仁が元帥の号を畑母神に与え、さらに鶴田ら各幕僚長に中将から大将への昇進を与える。対仲戦において功績があったのは空軍と海軍であったけれど、いまだ陸軍は全国で津波被害の復旧に取り組んでいるのを功績とした。もともと各幕僚長は階級ではなく役職であるが階級章は改まるという扱いであり、中将相当である空将などから昇進して大将相当としての待遇になっていたけれど、今回を機に、大将という階級で各幕僚長という役職にあたる扱いになり、統合幕僚長は上級大将もしくは元帥をあてることとし、元帥は実戦において戦果のあった者、と規定した。さらに杉原千畝の名誉回復式典とイスラエルへの感謝状をエフラヒムに手渡す式典を準備している最中に、ふと鮎美がつぶやいた。

「そういえば、なんで大将、中将、少将なんやろ? 普通に漢字の意味からしたら、大きいの対義語で、小さいの小将となるべきちゃうの? 小佐とか、小尉も。少ない将軍って意味が変やん。逆に多い将軍で、大将は多将とかにならんのかな?」

「「「「………」」」」

 元帥となった畑母神も、鶴田ら新たな大将たちも、そういうことは考えたことがなかった。現代戦の知識は勉強しても、そもそも古い軍制については習わないし、少将が少ないという漢字の少将なのも、そういうものだと思っていた。現役の軍人たちが答えないので鷹姫が言う。

「芹沢総理、かつて律令制では大納言、中納言、少納言といい、少ないという字をあてています。また、すないすけ、と読み少将も規定され皇居の警備などを担当した近衛府におかれ、その長官は大将、次官は中将、少将となっておりますから、律令制を仲国から導入した頃から、そうであったと思われます」

「さすが、鷹姫。そういえば、源氏物語にも頭中将とかいたし、清少納言も少ないの方やね」

 鮎美が感心し、聴いていた北房も宮内庁勤務という立場ゆえに知っていたけれど、とっさに出てくる鷹姫へ、いっそ義仁が好きになったのが鷹姫だったなら畏れ多いと震え、かしこまりつつも断る選択肢もありえず、だんだんと覚悟を決めて嫁いでくれたかもしれない、そうなればなったで皇室の文化に適応しそうだし、尊い義務と考えて多くの子供を産んでくれそうで、また秘書としての有能さを天皇を補佐する出しゃばらない皇后として発揮してくれそうなので惜しい、と思った。

「仲国から習った律令制ちゅーんが今は癪やけど吸収できるもんいただくのは日本人のええとこやしね」

「はい」

「鮎美さんと宮本さんは、良いコンビなのですね。そして、なぜ、そうなっているのか、もとは何なのか、そういう風に考える鮎美さんの視点は素敵です」

 義仁が眩しそうに言い、そこへ呼び出されていた迪子が緊張した顔で現れる。

「芹沢総理、お呼びとのことで出頭いたしました」

 鮎美だけでなく軍のトップと天皇までそろっている場に呼ばれたので迪子は中佐として、かなり緊張していた。

「迪子はん、これから杉原千畝の名誉回復の式典と、復和勲章の授与をおこなうし、杉原はんの代理として受け取って」

「………私が…ですか?」

「尊敬してはったし、ちょうど適任かなって」

「…………辞退いたします」

「別に遠慮せんでええよ。代理やし。あと実は政策的な裏もあって、一応は難民を受け入れてたことも国際社会に宣伝するかもしれんし、そのとき杉原はんの代理として受け取ってた迪子はんが艦長として決断してたとなると、二重にも三重にも美談として宣伝効果があるし、頼むわ」

「…………………どうか、辞退させてください、お願いします。恥ずかしくて、できません」

「恥ずかしがることでもないやん」

「………」

 鮎美の求めに迪子が困り切っているので畑母神が止める。

「芹沢総理、宣伝効果を目的とするのは、よい策かもしれないが今の世々部中佐に叙勲の代理人は酷だ。彼女が指揮していた艦は九州沖で奮戦の結果、轟沈している。おそらく誰一人、乗組員は救助されまい。そういう心情をくんでやってほしい」

「……。そうやったんですか、すんません、余計なこというて」

 畑母神は総司令官として轟沈した艦を諳んじているけれど、鮎美のレベルでは艦数でしか把握していなかった。畑母神が心配なので釘を刺しておく。

「世々部中佐、くれぐれも早まったことはせぬよう。貴官は国が育てた貴重な人材だ。その働きをもって返すべきものが多いと心得よ。つらいだろうが、それに耐えて生きるのが試練だと思ってほしい」

「はい」

 敬礼した迪子へ畑母神は謹慎の継続ではなく、艦隊再編の補佐を命じ、鮎美には代理人の提案をする。

「やはり杉原は外務省の職員であったので、鈴木外務大臣が適任ではないかな?」

「…………。ほな、そうします」

「考え込まれたようだが、異存がおありだろうか?」

「いえ、なにか利用できる方法や、よりベストな人選があるかなって。けど、鈴木大臣がベストやと思いますよ」

「芹沢総理………今の状況で利用できるものはなんでも、というお考えはわかるが、叙勲制度は本来、そういうものではない。あなたが宮本くんへの叙勲を求めたときも利用する気であったろうか?」

「そんなつもりでは……そうですね。おっしゃる通りです。つい、なんでも利用してやろう、なんて気持ちになってました。鷹姫の勲章は、うちを助けてくれたことの感謝やし、杉原はんへもそうであるべきですね」

 鮎美が反省し、式典が始まると鈴木を代理人として義仁から名誉回復と叙勲がなされ、さらにエフラヒムへは感謝状が贈られた。そして鮎美と詩織、夏子へも叙勲がなされる。鮎美は詩織の代理人として証書を受け取ったとき、静かに泣いた。これらの式典の様子は斉藤が撮影し、すぐに配信している。式典が終わり、エフラヒムは義仁に述べる。

「古代より続く高貴の方にお会いできて光栄です」

「私もイスラエルの方々にお会いできて嬉しいです。杉原が撒いた種が実っていることもまた国民の多くが知ることとなるでしょう。遠路ありがとうございました」

 義仁は天皇として適切な言葉を選んで礼を言った。そして長距離移動で疲れているエフラヒムらイスラエルの一行には金沢市内の一流ホテルへ向かってもらい、義仁らには京都へ近い福井市のホテルで以前に皇族が使用したこともある老舗を用意していて、そこへ向かう前に、鷹姫の手筈で鮎美と義仁が二人きりで喫茶する時間を用意しようとしていたけれど、北房の進言で由伊と鷹姫も含めた四人でとなり、北房が給仕を務めて貴賓室で談話する。鮎美は由伊に声をかけた。

「由伊様とお会いするのは久しぶりですね。この前、うちらが京都御所に行ったときは慰問に出られていたとか。避難所の様子は、どうですか?」

「はい、みなさん頑張っておられて、お元気そうでした。ただ、私が行ったので無理をして笑顔をつくってくださったのだと思います。……」

 やや悲しそうに由伊は言った。

「それでも笑顔になってくれはるんやったら、それで十分、励みになってますよ。うちも由伊様とお会いすると元気になれますもん」

「まあ、ありがとう。私もお二人に会うと元気をいただけますわ」

 まだ7歳という幼さと、皇族としての上品さを併せ持っている由伊の笑顔は本当に元気をくれる。義仁も微笑んだ。

「ボクらは年齢不相応な立場にあるから」

 四人とも二十歳に満たないので、今の境遇に共感する部分もあり、かなり打ち解けた会話をし、紅茶を飲み終わる前に義仁が問う。

「お二人は皇族というものを、どう感じていますか?」

 その問いは天皇として、とても口にしにくいものだったけれど、場の雰囲気と15歳という年齢が問わせていた。

「「………」」

 鮎美と鷹姫が慎重に考え、鮎美は鷹姫へ先に言ってもらう。

「鷹姫は、どう感じてる?」

「とても尊い存在です。この世にあって神に等しい方です」

「「……」」

 義仁と由伊にとって、それは聞き慣れた答えだった。鮎美は、もしかして二人は自分たちが神扱いされるのに疲れているのではないかと思い、鷹姫に問う。

「……う~ん……けど、今、いっしょに紅茶を飲んでるやん?」

「人のうちでもっとも神に近くあられても、人であられるゆえのことです」

 鷹姫は揺らがなかった。鮎美が問いを重ねる。陽湖の信仰へ質問したように、気になる点があった。

「たしか、神話では天皇家の祖先が、夫婦で日本列島を創り出したことになってるやん。そういうことも、信じてる?」

 キリスト教の創世記と科学的事実が合わないように、記紀も地球の歴史とは相容れず、そういう種類の質問に対して、鷹姫は静かに答える。

「主上の尊さとは、そういった理屈や理論、根拠によるものではありません。ただ、尊いのです。これは禅宗の概念ですが、不立文字(ふりゅうもんじ)というものがあり、禅における悟りは文字や言語で伝達されるものではなく、心から心への伝達や、生命の本質への直視によって至るのです。これと同じく主上への尊崇の念は、文字や理屈で成り立つものではないのです」

「……う~ん………わかるような、わからんような……生命の本質への直視……」

 鮎美は首を傾げ、北房は再び鷹姫を見直した。いっそ本当に鷹姫を皇妃にと考えてしまうほど、逸材だと感じる。義仁も鷹姫へ興味をもった。

「難しい概念をご存じなのですね」

「父からの受け売りにすぎません」

「鷹姫の父さん、風格あるもんなぁ。うちのオヤジとは大違いや」

「では、鮎美さんは皇族を、どう感じていますか?」

 鮎美は慎重に前置きする。

「………それは、率直に答えてよいものでしょうか?」

「ええ、ぜひ、あなたの忌憚ない見解を聴いてみたい」

 やはり義仁から男性としての好意を感じ、鮎美は正直に答える。

「はい、では。神話の時代はおいて、確認できうる王朝の中で現存しているものとしてはエチオピア王朝が滅びた今、最古です。これは、とても貴重であると同時に、他のすべての人間も5万年、10万年前から生きてきました。どの命の可能性もある中、それでも、やはり天皇の存在というのは貴重な可能性であり、日本人という民族の集団において、どのような意味を形成していくか、これからもあっていてほしいと願う存在です」

「………それは言葉を選んでくれたけれど、絶滅危惧種や天然記念物ということかな?」

 義仁の問いも率直だった。鷹姫と北房は、やや不敬ではないかと鮎美に視線を送っている。鮎美は横髪を指先で耳へかけた。その仕草を義仁は女らしくて美しいと感じる。

「そういう意味もありますが、政治も宗教も人が生きるための道具です。この道具を、どういう形にするのがよいのか、欧米人も仲国人も私たちも、これからも工夫していくと思いますが、美濃部達吉の天皇機関説とは違う意味、より生物学的な意味で私たち人間は、それぞれの位置で、それぞれの役割を担いつつ、多様な可能性を試しながら、どこかの方向に進化していくでしょう。その進化の試行の一つとして、私たち日本人は長く長く天皇の存在を大切にしてきました。この形質をもっていてこそ日本人というほどに。それこそ政治、宗教という区分や言葉が設定される前から、ずっとです。そして、これからも生き続けて、どういう方向に行くにせよ、みなで頑張って生きていこう。そう思います。………すみません、陛下相手に説教のような言い方になって」

「あなたは私より三つ年上なのだから、教わることの方が多くて当然ですから、気にしないでください。あなたと話していると、とても楽しいし、興味深い人に感じます」

「……はい…私も、……楽しいです…」

 鷹姫に義仁と睦まじくしてほしいと願われたので鮎美は、そう答えた。わずかな喫茶の時間が終わり、鮎美は義仁らを見送ると司令室に行った。麗国軍と仲国軍の動きを見ている畑母神に説明を頼んだ。

「麗国軍も北朝鮮軍も、すでにミサイルやロケット砲、航空機、艦船などの兵器は使い尽くしている。以前の朝鮮戦争と違い、アメリカや仲ソが援助するようなことが今のところ見られないので、北朝鮮は攻め込んでいたときに主力を趙舜臣に叩かれ、中央を核ミサイルに焼かれ、各地にも麗国軍からの通常弾頭ミサイルのダメージがあるし、麗国軍にしても当初に4カ所の核攻撃を受け、混乱の中で最大限の反撃をし、さらに趙舜臣が会戦で勝利し、逆に攻め込んでいたところ、もっとも戦力の充実していた先方を待ち伏せ核攻撃で叩かれ、両者ともすでに残っているのは装甲車両や自走砲の類と、あとは武装した歩兵というところで、麗国軍は、その兵力のうち7を北朝鮮との国境付近に、3を対馬方面に向かわせているところだ」

「その3で対馬は、どの程度危険なんですか? 占領されたりは?」

「占領されることはまずない。そもそも制空権、制海権が我々にある。だが、我々として困った点は遠距離対地攻撃能力に乏しいところで、対馬へ海峡ごしに砲撃されるのに対抗しようと思うと、本土から攻撃ヘリなどを補給線を確保しつつ展開する必要がある。この準備はしているが今少し時間がかかる。今すぐ砲撃を再開されても対抗手段がないという状態だ」

「…………。仲国軍は?」

「もともと彼らの狙いは沖縄だったが、その目的を達するには戦力が低下しすぎた。結果、芹沢総理が狙ったようにモンゴル、ウイグル、チベットなどがざわつくし、台湾の存在も相対的に大きくなり、尖閣諸島に小隊を置くだけで、あとは国内向けにまだまだ戦力があることをアピールするため、わざわざ見えやすい位置に戦闘機を駐機したり、あえて艦船を哨戒に出さず港に停泊させている。また勝利を宣伝してもいるが、欧米各国の評価と報道は我々の勝利となっているから情報統制に腐心しているようだ」

「ということは、直近の問題点は対馬への砲撃再開ですか?」

「うむ、そうなる」

「………」

 鮎美は考え込む。

「砲撃してきた理由は難民船を転覆させて20万人を溺死させたことの復讐って言うてるけど、実際には転覆は7隻、うち日本の艦船が、そばにいたのは3隻ですよね?」

「うむ。近くだったのが3隻なのは確実だが、そうでない4隻はレーダー上での憶測にすぎない。もっと多いかもしれないし、少ないかもしれない。とはいえ20万人ということはない。一隻200人として、せいぜい1400人だし、我々の近くで転覆した船には仕方がないので救命筏だけは放出しておいた。それでも溺死者はいるだろうが半分以上は助かっただろう」

「………あ、こういうのは、どやろ!」

 鮎美が閃いたことを畑母神に言う。

「迪子はんが助けた難民が能登にいるやん。あの人らを迪子はんが誘い出して船へ乗せて対馬に移動してもらうねん。しかも一番、砲撃が当たりやすい島の麗国側斜面に、バラバラに点在して難民キャンプを張ってもらうねん。で、そのことを大々的に宣伝する。どやろ?」

「……………」

 畑母神が実に渋い顔をする。そばで聞いていた鷹姫も悲しそうな顔になる。

「「そんな策は…」」

 二人とも言いかけて、鷹姫が黙り畑母神に譲った。

「そんな策はとりたくない。それは人間の盾だ。我々がするようなことではない」

「そうなんや……あかんの? うちらの領土内やん。どこにキャンプを張ってもらおうと、うちらの選択次第やん」

「理屈の上ではそうだが、世界各国は日本が人間の盾を使ったと言うだろう。イラクではあったし、それで大きく批難されている。どちらが悪かを見たとき、我々が悪に見えてしまう。今回、仲国軍はある意味で紳士的に行動している。少なくとも商船には攻撃していない。純粋に軍艦と軍艦、戦闘機と戦闘機が衝突しており、通商破壊のために一般商船を潜水艦で撃沈するような策はとらなかった。また、超長距離ミサイルによって、この小松や日本各地の発電所などのインフラを破壊する作戦も取らなかった。それは核弾頭でなくても、弾道弾を撃つことでのミクドナルドの反応が不確定要素だったこともあるだろうし、もともと震災と北朝鮮からの核ミサイルで民間人が多く死亡している日本へ、そんなことをすれば、いよいよ仲国が国際的に孤立する可能性もあったし、他に那須や札幌を狙ったミサイルが外れたように、彼らのミサイルも配備されてから時間が経っている。核弾頭ならまだしも通常弾頭では山などに落ちれば、こちらは痛くも痒くもないし、向こうは実に虚しい上、威信も落ちる。沖縄解放という名目での正規戦なら、ギリギリいけるだろう、という、そういうバランス感覚で戦闘が行われているのだから、ここで日本が人間の盾など使えば、一気に我々の評判が落ちる。はっきり言えば愚策だよ」

「う~ん………策謀と卑怯さの加減が難しいですね……」

「あと、対馬に難民キャンプをつくるのは、もしも次に再び北朝鮮が優勢となったとき、対馬なら受け入れてくれると、ドッと押し寄せられる可能性がある。趙舜臣が勝利してから難民船が来るのは止まったが、それまでは対馬周辺が一番大変だった。これから4月5月となれば、浮き輪で泳いででも50キロなら、なんとかなる者もいるだろう。やめておいた方がいい」

「そうですか」

「だが、少数ではあるが難民を受け入れていたということを公開するのは良いかもしれない。すべて追い返したのではなく、石永官房長官が発表したように安全と思われたものは受け入れたと、能登にいる彼らと世々部中佐を引き合わせ、その映像を海外にアピールしよう。彼女も命令違反を反省し後悔もしているが、人命を救ったことは事実だ、その実感を与えるのは、彼女への救いにもなるだろう」

「ええですね。それ」

 鮎美と畑母神は司令室へ鈴木と石永も呼んで話を詰めると、迪子を出頭させた。説明を受けた迪子は命令に従った。

「はい、行って参ります」

 迪子は斉藤らと能登へ向かってくれたし、石永は本当に最低限だった食料の提供を増やして鶏肉をつけた。鮎美たちも同じ鶏肉での唐揚げを夕食とし、今日は無事に一日が終わりそうだったのに、食後になって鮎美を悩ませる事態が生じてきた。陽湖と静江がもたらした件だった。

「あんた! うちの写真、ちゃんと消したはずやんね?!」

 鐘留からインターネット上に鮎美が土下座して失禁しながら泣いて謝る写真が流出していると報告があり、確かめてみると陽湖に撮られた写真だったし、日本だけでなく仲国や麗国でも広まっていて、修学旅行中の鷹姫が機内で仲国武装警察に銃口を向けられているときに我慢できなくて失禁した動画と合わせて、面白おかしく茶化されて拡散し、鮎美が胡錦燈に泣いて謝り沖縄から退却してもらったとか、鮎美がミクドナルドに泣いてすがり守ってくださいと土下座したとか、鮎美が趙舜臣に土下座して過去の日本の罪と今回の難民船転覆を心から謝罪したとか、いろいろと加工や尾ひれがついていたし、日本国内でさえ一部の男性たちが冷やかす言葉をつけたり、いろいろな加工をして笑いのネタにし始めていた。鮎美は拘禁している陽湖の前に立つと、詰問した。

「どういうことなん?!」

「し、知りません! 私は逮捕されて、すぐにパスワードを知念さんに教えて、クラウドデータは全部、消したはずです!」

「嘘つけ!」

「嘘はつきません! 信じてください! 嘘じゃないです! それに逮捕されたとき私のスマフォを証拠として取り上げたじゃないですか?!」

「………」

「アユミン、月ちゃんが設定してたパスワードを訊いてみて」

 鬼々島にいる鐘留とはスマートフォンで通信したままだったので助言してくれる。

「あんたのパスワードは何やったん?!」

「えっと……1225です」

「……あんたの誕生日?」

「いえ……」

「アユミン、たぶん、これクリスマスだよ。12月25日」

「………あんたらの教団はクリスマスは祝わんのちゃうの?」

「………………」

 陽湖はうなだれるだけだった。

「きゃははは! きっと、憧れてたんだよ。アホみたい!」

「…ぅぅ……」

「っていうかさ。今どき、たった四桁のパスワードで、しかも数字のみ。おまけに世界的な記念日ってアホとしか言い様がないパスワードチョイスだね。これじゃ2秒で破られるよ。とくに月ちゃんは日本と台湾の信徒とも通信があったし、アユミンの秘書補佐だし、いろいろ注目される立場だから、誰かが覗き見してたんだよ。で、面白い画像があったから盗用された。これが真相じゃない? きゃははっは! アユミン、これマジ? マジに、おもらしして泣いて土下座したの? ね、どういう状況?」

「………カネちゃん……お願いやし、これ以上、うちを悩ませんといて。どうにか、ネット上から少しでも消えていくような方法、やってみてよ。お願い」

 鮎美が涙声で頼んだので鐘留も嗤うのをやめてくれた。

「わかったよ。まあ、やってはみる。で、月ちゃんは、どうするの? 殺す? 死刑?」

「同じ罰を受けます! 私の写真を晒してください!」

「は? あんたショウベン垂れるの大好きなド変態やん。写真バラ撒かれても興奮するだけちゃうの?」

「…私は変態じゃないです…」

「どっちでもええわ。あんたへの刑罰は決まったし」

「どうされるのですか?」

 鷹姫が問い、鮎美は一言で告げる。

「死刑」

「「「…………」」」

 かなり本気そうだったので鐘留が問う。

「アユミン、本気で死刑?」

「カネちゃんが、うちの立場やったら、こいつ、どうする?」

「……………死刑かも」

「ほれ、楽園の入口が見えてきたよ。せいぜい祈っておき」

「っ……っ…ま……待ってください…」

 陽湖がプルプルと首を横に振りながら、たいして貯まってもいなかった尿を漏らしつつ懇願する。

「助けて…いや……まだ死にたくない……」

 以前と違い、今は死を身近に見てきた分、陽湖は強い恐怖に包まれた。しかも鮎美は国家の最高権力者であり、ほぼ独裁者でもある。次々と法律を変更したり作り出したりするし、憲法でさえ無効にしてしまう、きっと罪刑法定主義も突破して死刑にされそうな気がしてきた。

「…あ…あの30億円は寄付します! だから!」

「免罪符を買いたいてか。だいたい、あれ、もともと、あんたの金ちゃうやん。義援金やろ。どうせ利息つけて貸し出して回収したあと、利息は自分のものにする気ぃやってんろ?!」

「………」

 その通りだった。そして、あと2億円、まだ口座に残っている。せめて、そのお金で現世を楽しみたかった。きっとディスニーランドなら復活してくれるはず、そう信じている。

「いつ死刑にされるか、毎晩、ショウベン垂れながら怯えておき。明日かも、明後日かもしれんね。もう、こいつには水だけでええし!」

 鮎美は陽湖に背を向けると、重ねて鐘留にネットから自分の醜態写真が消えるよう頼んで電話を切り、次の問題に対処するため大会議室に入った。大会議室では夜に集まることができた7人の閣僚たちが静江を囲んでいた。テレビも持ち込まれて民放番組が流れている。

「芹沢鮎美総理大臣の秘書官、石永静江が不当な接待を受けていたというのは、やはり本当ですか?」

「はい、独自の取材により確かな写真とともに判明しています」

 テレビ画面に静江が高級寿司店で大トロを頬張る写真が映った。他にもタクシーに乗り込むとき、厚めの封筒で車代を受け取る様子や、東京や大阪が壊滅したおかげで金沢市と富山市で開店したホストクラブなどで豪遊接待を受けている様子が映る。石永は妹が関わっている事態に頭痛がするという顔で、資料を読んでいた。

「……静江……これらの報道は、本当なのか?」

「……………はい…」

 静江は大会議室の中央で立っている。俯いて震えていた。

「どういう相手から接待を受けていたんだ?」

「……富山県の関係者から……」

「それで富山を推していたのか……そうか……」

「ごめんなさい……お兄ちゃん……つい…」

「ともかく事実確認をしよう」

 静江は兄に問われているので正直に答えている様子だったし、鮎美と鷹姫は遅れて来たので、とりあえず椅子に座って聴く。確認できた事実は、鮎美が富山と福井を競わせると発表した直後から、富山市議の中川を主とした関係者から飲食接待や現金授受があり、ひどいとホストクラブで豪遊したりしていて、一時期は片町の女王、桜木町の嬢帝などとホストから呼ばれていたけれど、副都心が福井市と決まってからは一切なくなっていたということだった。石永がタメ息をつく。

「よりによって富山か……勝手に議会をつくると言ってる………いや、それだけに、陰謀で、こっちを落とし入れてるのかもな。けど、これらの接待は事実なんだな?」

「ぐすっ……はい……ごめんなさい………つい、うかれて……」

 国会議員の娘として育ち、ちやほやもされたけれど、どちらかといえばペコペコと周りに頭をさげることが多かったし、兄が議員となってからは余計に頭をさげて回ることが多かった。それは鮎美の教育係兼秘書になってからも同じだったし、ときには女子高生にすぎない鮎美にも頭をさげてきた。地元では支持者や市議からセクハラを受けても、苦い笑顔で誤魔化してきたし、酔った町内会の役員にスカートの中へ手を入れられたこともあるので、だいたいパンツスーツを着るようになっている。それが震災で兄が官房長官となり急に周りの環境が変わって、接待に誘われる立場になり舞い上がってしまっていた。とくにホストクラブの若い美形男子たちによる接遇は、婚期を逃した女性の脳に痺れるような快感を与えてくれて毎晩のように、はしゃいでしまった。どっぷりと接待漬けになっていた。

「……つい……総理大臣臨時代理には……秘書の規定が曖昧で……これくらい、いいかなって……」

 もともと総理大臣臨時代理には前例がないので、その秘書が公務員となるのか、どういう位置づけになるのかは決まっていなかったし、決めていなかった。それどころではなかったし、震災後は東京にいた石永の男性秘書たちも亡くなってしまったこともあり、実質的には石永の秘書として動きつつ、名目は鮎美の秘書だったけれど、辞令さえ用意していない。鷹姫でさえ、鮎美が口頭で首席と決めただけの状態で、しかも給料もまだ払っていない。それは閣僚たちも同じで、いろいろとバタバタとしていて、いちいち秘書の立場や処遇など、しっかり決めていなかった。また石永がタメ息をつく。

「たしかに法的には罰されないかもしれないが……はぁぁ……実質はオレの秘書だし、オレの妹だし、……世間的には総理の秘書だし………」

 長瀬がノックしてから大会議室に入ってきた。手に持っていた紙袋を石永に渡す。そこには静江が車代として受け取った現金が255万円も入っていた。他に金貨が十数枚、スーツの仕立券が50万円分もあった。長瀬が警察職員らしい感情のない声で報告する。

「彼女のホテルの居室にありました」

「静江、これは?」

「……お金は……車代として……もらったの……いつか、収支報告書に記載しようと………いえ、……その……もらったし……もらって、いいのかなって……」

「ダメなことくらい、お前ならわかるだろ? 車代は、せいぜい3万、多くても5万だろ」

「……北陸は雪が降るからって……」

「一回も降らなかったじゃないか。金貨もまずいし、スーツの仕立券も儀礼的な額を超えてる」

「ぅぅ……ごめんなさい…」

「金貨は、どういう名目でもらったんだ?」

「もらったお菓子の箱の下に入ってたの」

「………」

 石永が黙り、思わず鮎美が突っ込む。

「越後屋か!」

「すみません……ご迷惑をおかけします…」

 震える声で静江が謝る。鮎美は腹立たしさ半分、呆れすぎる半分で金貨を見る。長瀬が証拠品としてビニール袋に入れているので手で持ってみた。しっかりと重いので、こんなものが菓子箱に入っていれば、受け取った瞬間にわかるはずだった。過ぎ去った夏休みに鐘留が自眠党員になってくれると言って入党に来たとき、持参した自家製の菓子を出しながらやった冗談が、冗談でなく本当に政治の場でやられていて、呆れかえる。

「北陸って、いまだにこんな露骨なワイロやってんの? あ、富山は越後か。マジで越後屋さんやね」

 鷹姫がそっと小声で鮎美の間違いを指摘する。

「富山は正確には越中です。かつての越後は、おおむね新潟県となります」

「ふ~ん……まあ、どうでもええけど。どうでもようないのは、静江はんの処分やわな」

「ふ…福井県の関係者からも………元助役の方から、アプローチというか……いただきそうになった物もあるのですが……フタマタはかけず……返却してます…」

「それも金貨とかなん?」

「はい、おそらく……開封しなかったので……でも、重さ的に……」

「越前屋のは断ったと、……はぁぁ…」

 鮎美がタメ息をつく。石永もタメ息が漏れる。

「はぁぁ……」

 石永のタメ息はとても深いし、他の閣僚たちの静江を見る目は冷たい。石永派の閣僚たちは石永と静江が決めて集めているので本来は味方だったけれど、静江は今日まで調子に乗って、私とお兄ちゃんが選んであげたから、あなたたちは大臣になれたのよ、という態度をときどき取ってしまっていた。そのために静江を擁護する発言はあがらない。夏子は途中で、くだらないから帰る、石永派で処理しといて、と言って金沢市へ帰ったし、畑母神もイスラエルから受け取った武器類を各基地に、どう配分するか、やはり陸軍への配布を中心とするか、さらには大打撃を受けている海軍と空軍の再編作業もあって、静江の命運がどうなろうとどうでもよかったし、ただ迷惑そうな軽蔑した目だけは向けて消えた。三島も、くだらぬ、と一言で切り捨てたし、鈴木もいない。芹沢派では久野だけが静かに座っている。だいたいの話が見えてきたので鮎美が言う。

「みょーに5時になったら早う消えてたのは、そういうことやってんね?」

「……すみません……ご迷惑をおかけしています…」

 今も流しているテレビでは、石永と鮎美を叩けるかっこうの材料なので、イスラエルや杉浦千畝のことなど鮎美たちが発表したはずなのに一切報道せず、また対馬の被害さえ、わずかに流しただけで、すでに3万人いた住民のうち2万人が九州や中国地方への避難をよぎなくされていることなど、ほとんど報道していない。鮎美が舌打ちする。

「ちっ……ホンマに偏って報道しよるなぁ」

 石永が悔しそうに言う。

「これは裏で議会をつくろうという連中も糸を引いているだろうな。接待した側の富山市議のことは、まったく出てこないのが、その証拠だ」

「議会………ちょい、うちは離れますわ。そいつはシバき回しといて」

 静江への対処を任せて、鮎美は不破島へ電話をかけるために廊下へ出た。

「もしもし、うちです」

「電話があると思っていましたよ」

 不破島は知的な声で応じてくる。鮎美も無駄話をせず本題に入る。

「議会の方は、どうなん?」

「主に県議が集まっています。とくに眠主党が多い。だが、自眠党で落選中だった元国会議員もちらほら、ある意味で二重に落選した方々ですよ」

「二重に?」

「選挙に落ちたし、石永兄妹からのチョイスにも落ちた」

「はは、なるほど。その分、恨みは深いやろか?」

「いえ、それほどでも。おそらくは、ともかく自分も何かせねば、という気持ちで動いているのでしょう。もともと石永兄妹と交流が少なかったのだから仕方ないという部分も自覚しているようです。ま、人それぞれでしょうが、切り崩すなら、やはり自眠党でしょう。もう少し大臣を増やしてやっては、どうです? 特命大臣で」

「ええこと言うね。さすが。たしかに、あまりに被災地が広いし、九州、四国、近畿、東海、関東、東北と、それぞれに復興大臣を任命して省庁間の連携を横断的にやってほしいし、事故原発は事故原発で、それ専門の大臣がほしいくらいなんよ」

「さらに、その特命大臣に副大臣、政務官とつけていけば、かなり役職が生まれる。ポストがあれば、ひょい、と釣れる人は多いでしょう」

「それ頼める?」

「いえ」

「あかんの? なんで? あんたが、その人に恩をきせられるよ?」

「いわゆる不破島派ですか。けれど、これから結成する議会の中で県知事クラスは、たった5名、しかも、うち4名は眠主党系、あと一人は私。私は芹沢総理に茨城県議から県知事臨時代行に昇格してもらった身分でね。やっぱりスパイではないかと疑われやすい。ちなみに南国原氏は参加していない。まあ九州と富山は遠いし、茨城と富山より移動も大変だ。それに今度こそ宮崎県の知事職を頑張ろうという意識もあるのでしょうな。それはさておき、スパイに疑われやすい私が引き抜きなどやったら一発退場ですよ。こっちも芹沢政権と同じで従うべき法律が曖昧でね、懲罰や弾劾をどうするか、だいたい昭和憲法に従うとしても決まっていない部分も多いし、知事、県議、市町村長、市町村議で一人一議席の平等とするのか、格差をつけて知事を10、県議市町村長を5、市町村議を1とするのかや。では私のような臨時代行の知事も10なのか、それとも5とするのか、なかなか決まらないので議会が始まらない。だいたい私が臨時代行であるのは芹沢総理が決めたことであるし、それに従うのは癪だという連中もいる。そもそも決まらないのは、決めるためのルールも権限も曖昧で、あとから合流してきてくれている議員たちも歓迎しているが増えれば増えるほど、話がまとまらず決まらなくなってしまう。傑作なまでの悪循環が生じている」

「アホや」

「アホですな。けれど、近いうちに新しい内閣総理大臣を選ぼうという動きもある。そんなわけで私はスパイだと疑われないよう、いつも芹沢総理の悪口を言いまくってます。お耳に入って、不破島め裏切りやがった、と思わないでくださいね」

「はは、何を言うてるかは聞かんことにするわ」

「引き抜き工作は、鈴木先生と久野先生にお願いされては、どうです? 彼らは大ベテランだ。人選眼も鋭いでしょう。あと眠主党で使えそうな人材は加賀田先生が声をかければいい」

「不破島はんも、すごいな。あんたも大臣やってほしいわ」

「ははは、私は茨城県が好きでね。離れたくない」

「そりゃ失礼」

「それで、そっちで石永妹の扱いは、どうなってます?」

「これから決めるとこ。庇う声は少ないけど、まあ妹やし最後は兄さんが拾いはるやろ」

「片町の女王も落日ですか」

「うち、ぜんぜん気づかんかったわ。そんな状態やったなんて」

「秘書も腹心のようでいてGPSでも着けない限り、しょせんは他人ですからね」

「そやね。この静江はんの件、富山からの陰謀なん?」

「はい」

「やっぱり、そうなんや……」

「まあ、引っかかる方も悪いし、もともとは陰謀ではなく副都心コンペの根回しで、コンペに落ちた腹いせと、陰謀の一石二鳥というやつですな。今頃、彼女は冷や汗まみれでしょう?」

「顔からメイクが流れ落ちてるで。白い汗がダラダラと」

「ははは、陰謀には陰謀を、ということで、なにか連中の尻尾をつかめないか、やってみます。スパイだとバレないように」

「おおきに、よろしゅう頼みます」

 鮎美は電話を終えると大会議室に戻ってみた。すると、意外な光景を見た。

 バシンッ!

 静江が強烈に平手打ちされていた。

 バシンッ!

 両頬を叩かれている。叩いているのは鷹姫で、心底怒り軽蔑した顔だった。

「私が秘書を辞めたいと言った日、あなたは私に言いました。秘書業務とは命をかけてするものだと!」

「ぅうっ…」

「接待に注意しろとは、勉強初日に私たちへ、あなたが教えたことです!」

 バシンッ!

 さらに平手打ちするので、石永は止めたいけれど迷い、久野が言う。

「まあまあ、女性同士、そんな暴力的なことはやめて」

「女であることは関係ありません!!」

「そ、そうですね…」

 あまりの剣幕に久野も引く。鷹姫は足払いをかけると静江を床に倒した。静江はビタンと蛙が叩きつけられるように倒れる。

「あなたが金沢市でお寿司を食べているとき! まだ地震から一食も食べていない人は何十万人といました!」

 テレビも鷹姫が指摘するのと同じようなことを流している。静江が旨そうに寿司を頬張る写真と、津波で孤立したビルの屋上で寒さに震える人たちを対比で紹介している。

「あなたが富山市で白エビの天ぷらを食べているとき! 母を亡くした子、子を亡くした親たちが泣いていました! 芹沢総理のお母様でさえお亡くなりになっていたのに!」

「ぅうっ…知らなかったんです……すみません……」

「震災があったことを知らなかったわけではないでしょう?!」

「はいぃ、すみません、ごめんなさい、ごめんなさい」

「………」

 鷹姫は静江から離れると窓の方へ行く。すべての窓に鉄板が装備されているけれど、一つだけは開閉可能なように設置されているので、それを開け、窓から下を見た。それなりの高さがあるので落ちれば死ぬ可能性はあった。鷹姫は振り返り静江に言う。

「切腹では床が汚れます。ここから飛び降りなさい」

「ぇ……」

「さっさとしなさい!」

「……」

 静江が助けを求めるように石永を見た。石永も、そろそろ妹を助けることにした。

「宮本さんの怒りもわかるが、ちょっと落ち着いて。ここはオレが静江に、よく言っておくから」

「石永静江は芹沢総理の秘書です! 処分は、こちらで決めます!」

「………」

 怒ると、ここまで怖い子だったのか、と石永も意外だった。もともと剣道の強さゆえ、穏やかに丁寧語で話していてもピシャリと強い語感のある物言いをするし、達人の余裕なのか、鮎美が関西弁で怒鳴り散らすのに比べて、大声をあげることなど少なかったのに、今は人が変わったように怒り心頭で官房長官でさえ一喝してくる。

「さあ! 飛び降りなさい!」

「っ…お兄ちゃ…」

「飛び降りぬとあらば、私が投げてやります!!」

 鷹姫が静江を引き立たせる。たしかに、この場にいる全員が口裏を合わせて石永静江秘書は責任を感じて飛び降り自殺したと発表すれば、だいたい事件は終わる。過去に秘書の自殺で終わった事件は多い。投げ落とされたのか、飛び降りたのかは、なんとでもなりそうだった。

「ひーーっ! 嫌ぁあ!」

 静江が腰を引いて逃げようとするけれど、趣味で多少のプロレスの経験はあっても、本格的に柔道も習ってきた鷹姫とは実力に違いがありすぎて、逃げられない。いよいよ投げ落とされそうになると、静江はパンツスーツの股間を尿で濡らして泣いたし、さすがに石永も止めに入る。

「待ってくれ、静江を殺さないでくれ!」

「離しなさい!!」

「鷹姫、シバき回せとは言うたけど、殺すのは、まだよ」

「害虫の駆除は早い方がよいです!」

 鷹姫は鮎美にさえ反論した。朝食は草と虫だったし、昼食はエフラヒムがもたらした武器を格納するのに忙しかった隊員たちは採集してやることができず、鮎美は鷹姫のためにキャベツだけのお好み焼きを作ってくれたけれど、それも食べなかったし、夕食もお湯を飲んだだけで、空腹感は強烈だった。そこにきて静江が不当な饗応を受けていたと知り、生まれてきて今まで、これほど怒ったことがないというほど怒り狂っている。しかも、すでに静江との仲は冷え切っていて、小松に来てからは業務連絡で会話することしかなくなっている。それというのも、鷹姫が秘書を辞めたいと言い出したとき、静江は電話で慰留を求めたけれど、それは慰留というよりなじりだったし、年上女性が社会経験の乏しい女子をなじるとき独特の強烈ななじりで、電話口で言われたことの半分は覚えていないほど、精神的に追いつめられたし、そのために鷹姫は泣いて再び漏らしてしまい、見かねたクラスメートが助けに入るほどだった。それに加えて、静江の失態は単なるミスではなく、毎晩のように繰り返された饗応とワイロでしかない金銭の受け取りであり、これまで金銭的な清廉さを心がけてきた鮎美の顔に泥を塗るものだったので、容赦する気は一欠片も無かった。鷹姫の暴力行為を見ている閣僚たちにしても、先日の国庫の危機で鮎美が恥を忍んで30億円を陽湖から借りる前に、自分たちも私的な財産を国庫に入れている。それは寄付にすると公選法上の問題があるので、あくまで個人から政府への貸し付けということで1%の利息をもらうことになっているけれど、返済時期は未定で私財を投じ、大臣や政務官としての報酬も停止中だった。鷹姫でさえ、これまでに秘書としてもらった給与を供出しているのに、静江が石永家の財産は出しても、表にできない金だとわかっていた255万円を隠していたことも印象を悪くしている。今にも静江を殺しそうな鷹姫を鎮めるため、鮎美も同調して言う。

「うちも、かなり怒ってるんよ。うちらが基地で寝泊まりして、みんなが頑張ってるとき、こいつがしてたこと思うと。許せるわけないやん。国民も、みんなそう思うわ。悪人には悪にふさわしい後悔と恐怖を味わってもらってから、死んでもらお」

「っ、はい!」

「おいおい、芹沢さんまで、やめてくれよ。静江が悪かったのは、たしかだけどさ。たかだか饗応じゃないか」

 石永が妹の身を心配しつつ言った。前例から考えると、静江の秘書としての身分も不明確なので、刑事責任も問いにくいし軽い。せいぜい、秘書の職を解かれて二、三年は自宅謹慎し党の雑用でもさせられながら、ほとぼりが冷めた頃また秘書に戻してもらうか、静江の年齢と女性ということから、いよいよ見合い婚でもさせられて世間が忘れていき、議員への影響も限定的で、秘書への監督不行届として政府の要職にあれば国会で野党に糾弾され、しばらくは審議が止まったかもしれないけれど、別の事件が起これば忘れられていくような軽微なもので、しかも富山にするか福井にするかという選定で、結局は福井が選ばれているので副都心が福井になるという決定は小揺るぎもしないものだった。ただ、タイミングが悪すぎるのが痛い。まだまだ被災地では国民が苦しんでいるし、多くの戦死者が出た直後であり、遺族の悲しみも大きい。そんな中での静江の事件に鮎美も心底怒っていた。

「うちは罪刑法定主義を改める道理を国民に披露するわ。とりあえず、こいつは反省室で草と虫がエサな。連行しておいて」

「はい」

 鷹姫が静江を陽湖が入っている狭い準備室へ連れて行った。

 

 

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