第71話 3月26日 石永の独断、鮎美の激情、仲国との戦争

 復和元年3月26日土曜朝、鮎美は京都にいる義仁へ電話をかけていた。昨夜のミクドナルドとの対談は義仁も見ていたけれど、他の政治的決定についても、これからは2、3日に一度くらい報告してほしいと言われているので、それを実行している。

「鮎美さんがお疲れにならないか心配です。大丈夫ですか?」

「うちは、まだ大丈夫ですよ」

 会話していると、やはり義仁からは好意を感じる。男子からの好意には鈍い鮎美でも、そうだと知っていればわかりやすいし、自惚れでもなく実感し、まだ15歳でしかない異性愛者からの好意を、どう扱うか、相手が世界で唯一、自分を罷免できる人間であるだけに戸惑っていた。

「ほな、うちは閣議の準備がありますんで」

 報告すべきことを報告し、あまり素っ気なくならないように電話を終えた。鮎美が電話を終えると、鷹姫と里華、麻衣子が朝食の準備をしてくれる。準備が終わると鷹姫だけは貴賓室を出て廊下の隅で義仁へ電話をかけた。

「おはようございます。芹沢鮎美総理大臣の首席秘書官、宮本鷹姫です」

「おはよう、宮本さん。わざわざ、ありがとう」

「いえ、それで、芹沢総理のご反応は、どうでしょうか?」

「うん、あなたの言う通り、彼女への呼びかけ方を、鮎美さんと変えてみていいかな、と訊いて、いいと言ってくれたので、そうしてみたよ」

「それはよかったです。呼びかけ方は男女交際の第一歩だと、私へ恋愛を指南してくれている者も言っておりましたから」

 鷹姫は麻衣子から男女の恋愛について教わりながら、鮎美と義仁の仲をすすめようとしていた。鮎美に位人臣を極めた総理大臣になってほしいと心から想っている。もし鮎美が総理大臣のまま義仁と結婚することがあれば、かの道鏡や日野富子、北条政子、淀君らもなしえなかった日本の政治的頂点に立つことになると、誇らしく想っている。麻衣子は普通の恋愛として、とりあえず呼び方から変えてみたら、と軽い気持ちでアドバイスしていた。今朝の電話で若干の戦果をえた義仁だったけれど、やや気落ちした声で言う。

「私にとって恋をしたのは初めてのことですが、このようなときに、しかも大切な仕事をしている人に懸想するなど、のちのち愚かな天皇であった回顧されるでしょうね」

 まだ15歳であっても、天皇として、どうあるべきかを考えている義仁が自嘲気味になっているので鷹姫は進言する。

「いいえ、おそれながら、御身のお立場で、もっとも重要なことは皇統の存続です。その意味で、なすべきことをなさっているのです。どうぞ、誇りに思ってください」

「………宮本さんも、面白い人だね。たしかに、理屈の上で私の立場ではその通りかもしれないけれど、このようなときに恋へうつつを抜かしたと言わず、そういう風に誉めてくれる感覚は現代風でも古風でもないのに真理の一面ではあって面白いよ」

 義仁は少し笑うと、ありがとう、と言って電話を切った。鷹姫は貴賓室に戻る。鮎美は女性の勘で鷹姫が誰と電話していたのか察していたけれど、何も言わずに制服を整えると、食べ残した朝食を鷹姫にすすめる。ハムエッグと焼き鮭が半分ずつと、パン一つがトレーに残っている。

「鷹姫、食べておいて」

「せっかくですが、私は遠慮します」

 鷹姫はトレーの方を見ないようにして答えた。

「……あんた、まだ草と虫を食べてるの?」

「はい」

「…………。それでは、栄養が足りんかもしれんよ?」

「いえ、しばらくは大丈夫だと言われています」

「それでも……もったいないし…」

 鮎美は自分のウエストを摘む。今は適正体重を維持しているので、朝から軍人向けの高カロリーなメニューを食べきりたくない。

「この御時世、まさか捨てるわけにも………石原はん、食べてくれる?」

「人の食べ残しを食べる趣味はないわ」

「……。ほな、大浦はんは嫌?」

「嫌とか以前に、私は食堂でガッツリ食べた直後なので遠慮しますよ」

「ほな、どうしよ。あ、鷹姫、あいつにも草と虫しか与えてへんて言うたよね?」

「月谷ですか?」

「うん」

「はい。私と同じ物を与えています」

「ほな、あいつに喰わせといて」

「……。わかりました」

 捨てるよりはいいと、鷹姫は閣議の前に陽湖を拘禁している部屋に行く。部屋は基地建物の最上階にある研修室に付属した準備室で、2畳もない広さで、もともと使われていなかったし、今後も使う予定がないので、とりあえず陽湖を入れていた。部屋には窓があるけれど、核ミサイル攻撃に備えた鉄板は準備していないし、施錠していないので陽湖が、その気になれば飛び降り自殺することは可能だった。鷹姫が食事トレーをもって部屋に入ると、陽湖はハムエッグと鮭の匂いに反応して、お腹を鳴らした。陽湖のそばにはバケツに盛られた草と虫を湯がいた物が残っている。鷹姫の朝食と同じ物だったけれど、鷹姫は食器で食べている。草と虫がバケツに入っていると、どう見ても食べ物には見えなかった。しかも準備室にトイレはないので、食べた物が出てくるときは同じバケツにするよう言いつけてあり、草と虫を入れる前には洗ってもらえるものの刑務所以下の扱いだった。

「月谷。芹沢総理の慈悲です。その草と虫を食べきれば、これを与えます」

「こんなの食べられませんよ! お願いです! もう許してください! 私が悪かったです! あのときは酔ってたんです。どうか、この通り!」

 陽湖は土下座して貯めていた小便を垂らした。その姿を鷹姫は汚物を見るように見ながら言う。

「早く食べきりなさい」

「…ぅぅ…」

「冷めると余計に不味くなりますよ」

「本当にシスター鷹姫も、これを食べているのですか?」

「はい」

「………」

 あまり嘘をつくタイプではないと陽湖も知っている。鷹姫は食事トレーを床に置いた。鷹姫のお腹も鳴る。お腹いっぱい草と虫を食べたばかりだったけれど、最低限の塩分でしか味付けされていないし、牛のように大量に食べないとカロリーは不足しやすい。草と虫に比べて、ハムエッグと鮭とパンは魅力的すぎて鷹姫は見ないようにしているのに唾液が口の中に湧いて何度も飲み込んだ。その様子を見ると陽湖も鷹姫が嘘をついていないと感じる。

「シスター鷹姫も何か失敗して罰を受けているのですか?」

「あなたと、いっしょにしないでください。私は自分が言い出したことの責任を自分にかしているだけです」

「言い出したこと?」

「鮎美へ男性と結婚するようお願いしています」

「っ、それはっ、素晴らしいことじゃないですか?!」

「いいえ、同性愛者にとって、それは、とてもつらいことだそうです。言うなれば、一生涯、美味しい食事を与えられないのと同じだと」

「……もしかして……それで?」

「はい。他人に苦行をもとめておいて、自分が快楽にふけるわけにはいきませんから」

「…………」

「早く食べなさい。私は忙しいのです」

「……ぅぅ…」

 とても嫌だったけれど、陽湖は草と虫を口に入れ、飲み込んだ。陽湖は貧しい家庭の育ちではあっても基本的にスーパーで売られているものを食べてきていて、お金がない日はモヤシと卵のスープや、モヤシのオムレツということが多く、鷹姫のように山菜や淡水魚の雑魚、川エビ、ときには蜂の子といった物を食べる機会はなかったので、とても抵抗があった。しかも調味料で味付けされていないので、えぐいし不味いし気持ち悪い。それでも、すべて食用可能なものだったので胃に入ると、吐き気まではしない。なんとか食べ終えると食事トレーへ手を伸ばした。

「ああ……美味しい…」

 冷めたハムエッグが感動的に美味しいし、焼き鮭が香ばしくて涙が出る。

 クゥゥ…

 また、鷹姫のお腹が鳴った。気がつくと食べている陽湖の口元をジッと見ていたので視線を背ける。陽湖がパンに手を伸ばして、半分に裂いた。

「私には主イエスのようにパンを増やすことはできませんが、分かち合うことはできます。半分、どうぞ」

「けっこうです! さっさと食べなさい!」

 基地には十分な食料があるので、どうにも食べたくなれば食堂へ行けば食べられる。あえて我慢しているのに、見せられると余計につらい鷹姫は苛立って言い放った。そして食事トレーを回収して食堂に返却すると、閣議に秘書として参加するため地下室に向かったけれど、義隆と泰治が探していた風に駆けよってきた。

「あ、いた! いたぞ!」

「宮本さん!」

「はい、何ですか?」

「石原少尉が探してくれってさ!」

「宮本さんに訪問者があるらしい。けど、基地には入れられないからって」

 それほど忙しいわけではない義隆と泰治は里華に頼まれたようで鷹姫を玄関ロビーまで連れて行く。玄関ロビーでは里華が待っていた。義隆が敬礼して里華に告げる。

「石原少尉! 宮本を連れてきました!」

「…ええ、…ご苦労様、ありがとう…」

 高校生にすぎない義隆の敬礼に返礼すべきか、かなり迷ったけれど、年下男子の期待に応えて里華も敬礼しておいた。まだ、軍制が変更されて3等空尉から空軍少尉になったことに馴染んでいない上、総理大臣首席秘書官が呼び捨てで、少尉が尊重されるのに戸惑いがあるけれど、ともかく用件を鷹姫に伝える。

「宮本さんに訪問者が6名あります。ですが、アポイントが無く急な訪問であり基地敷地外にて待たせています。お会いになりますか?」

「訪問者……どのような人ですか?」

「岡崎と白川という家の両親と中学生くらいの子供です。あなたに謝罪すべきことがあると言って基地を訪れたようです」

「謝罪……わざわざ……ここまで……もう、よいのに…」

 謝罪を受ける覚えはある。一方的に岡崎は許婚のことを破棄して白川と交際したので人としても鬼々島の風習としても謝っておくべきところだった。けれど、遠い小松まで両親をともなって来ているようで、とっくに鷹姫の中では済んだ件だったので、わざわざという気がした。里華が告げる。

「一応、全員に身体検査をしましたが、怪しい物はありませんでした」

「わかりました。会います」

 鷹姫が頷き、里華に案内されて通用門まで行く。義隆と泰治も気になるので同伴した。通用門へ近づくと、敷地外の道路に6人が両手両膝をついて待っており、鷹姫の顔を見ると一斉に頭をさげて土下座してくる。岡崎の父親が震える声で告げる。

「この度は愚息がしでかしましたこと! お詫びいたします!」

「うちの娘の横恋慕を、この通り! 心からお詫びします!」

 白川の父親も切羽詰まった声だったし、二人の母親は震えて泣いていた。そして6人とも裸足だった。鷹姫が心配になって問う。

「まさか、島から裸足で来たのですか?」

「「はい! 当然!」」

 二人の父親は答えつつ、息子と娘の髪を掴み、土下座した姿勢のまま顔をあげさせた。

「お前も謝れ!」

「さあ、詫びろ!」

「「ううっ…」」

 二人も泣きながら謝ったけれど、発音が不明瞭で聞き取れない。ほんの軽い気持ちで自由恋愛を優先した二人だったけれど、日に日に島内で誹謗中傷されるようになり、とくに鷹姫が天皇から叙勲を受けた日から一気に村八分状態になっていた。今や鷹姫は島生まれでは一番の出世頭だったし、鮎美は総理大臣であり、そんな鷹姫との許婚を反故にするのは顔に泥を塗る行為と島民たちはとらえたようで、岡崎と白川の両家は吊し上げられていた。まだ中学生にすぎない二人は、まさかこんな事態になるとは思ってもみず心底震え上がったし、両家とも豊かではないので島を追い出されると、ほぼ無一文に近い。生活保護家庭にならざるをえないし、はたして総理大臣首席秘書官に睨まれていて、生活保護の申請や父親の就職ができるのか、不安と恐怖しかない。生かされるも殺されるも鷹姫の意向次第という心地で母親などは他の子供のこともあるので涙ながらに謝っている。しかも、島の風習として許婚を反故にするときは平身低頭で相手の家へ裸足でいくことになっていた。風習では火事を出した家と、許嫁反故のとき裸足で謝罪にいく決まりだったけれど、最近はゆるやかになっていたし、狭い島内なら裸足で回れても鬼々島から小松までは200キロ以上もある。鷹姫が心配になって問う。

「ずっと歩いてこられたのですか? ここまで」

「っ…、は、早くに謝りに来るため、列車を使わせていただきました。それで堪忍ならぬとお怒りならば、幾日かけても歩いて参ります!」

「いえ、そこまでせずともよいです。朧月は望月に、望月は朧月に、等しく月のあるように」

「「おおっ!」」

「「ああっ!」」

 両家の両親が許して貰えたときの言葉を聴いて心から安堵した。鷹姫は心配そうに岡崎の母親を立たせるために手を握った。

「どうぞ、立ってください。お帰りは靴を履いて、どうか、心安らかに」

「ありがとうございます、ありがとうございます。ああ、宮本様、ありがとうございます。本当に、申し訳ありませんでした」

「もうよいのです。では、私が仕事がありますから」

 鷹姫が前にいては両親が謝り続けてしまうので早々に背を向けた。玄関ロビーに戻りつつ鷹姫は後悔する。

「お父様から聴いた日に、言っておくべきでした。……朧月は望月に、望月は朧月に、等しく月のあるように……」

「おぼろづき? もちづき? さっき言ってたそれ、何だよ、宮本」

「込山は源氏物語を知っていますか?」

「ちょっとだけ」

「右大臣の六の君、天皇に仕える尚侍(ないしのかみ)だった彼女は朱雀帝の寵愛を受ける一方で源氏との関係も続けていました。それが源氏が須磨へ流される一因となるのですが、彼女の別名は朧月夜の君です」

「ふ~ん……で?」

「望月は説明しなくてもわかりますね」

「いや、わからん」

「……。源氏のモデルとなった藤原道長が詠んだ歌に、この世をば、わが世とぞ思ふ、望月の欠けたることも、なしと思へば、とあります。意味は、この世は自分の世界のようだ、すべて満足して欠けたことは何もない、まるで満月のように、ということです。対して、朧月は、かすんだ月です」

「「「………」」」

 義隆も泰治も、そして里華もついて歩きながら聴いているけれど、よくわからない。

「つまりは、欠けたところのない満月である望月も、かすんだ月である朧月も、同じ月の一面ですから、朧月夜の君のような不祥事も、もう許してあげます、という風に使っています。おそらく私たちの島だけで」

「へぇぇ…とりあえず、あの6人、ガクブルだったな。宮本が許さないって言ったら一家心中しそうなくらいに」

「……早く言っておいてあげるべきでした」

 鷹姫は二人の母親の憔悴した顔を思い出して気の毒に思ったけれど、気を取り直して閣議に向かった。やはり閣議は国内情勢より海外に目が向けられていて、朝鮮半島では麗国軍がソウルを取り戻し、さらに平壌へ向かって進軍していた。この報告を受けて石永が言う。

「案外、あっさりだな。まあ、前線の主力と後方の中枢が同時に叩かれれば、こんなものかもな。オレら日本だって今、前線に出している艦隊主力と、ここに地下室まで破壊する核ミサイルが落ちたら似たようなものかもしれない」

 司令室にいる畑母神がモニター越しに言ってくる。

「たしかに、そうなれば、我々は何の尽力もできないが、国内各地に残った陸軍は頑張ってくれるだろう。私が死んだとき、次に誰が実戦指揮をとるか、すべて順位を決めて表にしてある。そちらにも表を送らせよう。芹沢総理に相談なく勝手に決めてしまったが、この表にある者たちは、ふさわしい者を選んでいる。信じてほしい」

「はい。畑母神先生の選抜やったら、うちに異論はありませんわ。異論を唱える材料そのものが無いですし」

 すぐに鮎美たちの手元にも畑母神が作らせた表が来たけれど、階級や経験、人物で選ばれているものの、それがわかるのは畑母神だけで他の閣僚たちには黙って頷くことしかできない。鈴木が言う。

「やはり麗国は趙舜臣をリーダーとして動いているようですね。非常時に戦果をおさめた指揮官が台頭するのは当然といえば、当然ですが。彼は日本に対しては、どのような態度で接してくるでしょうね?」

「どうせ、反日だろ」

 石永が言い、鮎美が付け加える。

「軍人がトップちゅーのは、ちょい危なそうやし、ワンコちゃんか、ヨンソンミョはんを押し立てて民主的にトップについてもらえるよう影から誘導できんやろか?」

「それは国際社会から、すぐに傀儡政権だって見抜かれるぞ。満州国を繰り返す気か?」

「あ、そういや、そうやった」

 鮎美が諦めたのに鷹姫は挙手する。

「鷹姫、何か案があるの?」

「はい。芹沢総理の案は素晴らしいと思います。ですから、満州国の失敗をふまえ、次こそ成功するように注意を払って実行しては、どうでしょうか?」

「失敗は成功のもとてか」

「好戦的だなぁ……また、朝鮮半島を足がかりに大陸へ出るとか言うなよ」

「大陸へ出ないまでも、朝鮮半島の情勢、ことに核ミサイル発射基地は問題です」

「それは、そうだが……趙舜臣が、なんとかしてくれそうな勢いだし。援助でもしておくか……いや、それは戦争協力になるから、まだ北朝鮮に発射能力があるかもしれないうちは、やめておいて……能登で保護している難民たちに本国の勝利を伝えて、帰ってもらおうか。ヨンソンミョも利用しそこねて余計なトラブルの種になる前に、帰ってもらうのが一番じゃないか?」

「そやね、こうも簡単に麗国軍が押し返してくれると思わんかったし、ミクドはんの核ミサイル1発には、まあ3億ドルの保証人になる価値はあったかもしれんね」

 一昨日までの麗国劣勢が挽回されたので閣議の雰囲気も、やや明るくなっているけれど、別の問題も生じていた。久野が責任を感じているので言う。

「私が推して芹沢総理の秘書にしていただいた牧田詩織さんの件ですが、国民の間でもかなり話題になっているようです。ドイツに問い合わせたところ、ICPO経由で逮捕状を出していたのは事実のようで、申し訳ない」

「………」

 鮎美は黙って目前にあった紅茶を飲む。昨夜まではミクドナルドとの対談に備えて彼女のことを予習したりと忙しかったけれど、今朝になって世間で詩織のことが連続殺人犯ではないかと騒がれていると知り、とても不快だった。鐘留からも連絡があって、ショックを受けないように聴いて、と前置きがあってから、事実であるか、事実でないとすれば、かなり巧妙すぎるほど巧妙に落とし入れられている、と説明があった。けれど、鮎美は詩織を信じているので動揺せず、ただ怒っている。

「悪質なデッチアゲに決まってますやん。相手にせんとこ」

「…………。お気持ちはわかりますが、ICPOはめったなことでは逮捕状を出さないのです。十分な証拠があってのことでしょう。まして、あのときの時点でも一国の国会議員の秘書という立場でしたし、国際的に注目され始めた時期でしたから、逮捕して間違いでしたではすまないだけに、ドイツ警察もICPOも慎重に検証した結果でしょう」

「………………新屋はん、国内で詩織はんが、どう追いつめられたか、わかってる範囲を教えてください」

「はい」

 新屋がまとめていた資料やインターネットに出回っている動画を見てもらいながら説明する。

「日本側の関係者が、すべて亡くなっているので不明な点が多いのですが、ドイツ警察は以前から牧田詩織さんをマークしていたようで、捜査そのものは3年前からおこなっていたそうです。日本警察側は直前まで知らず、ICPOから依頼があったので他の海外事件と同様に、たとえ国会議員の関係者でも手続き通りに進め、おそらくは牧田さんの行動パターンを調べた後、自宅マンションにいるところを逮捕するため、数人、おそらくは10名ほどのチームで行ったものと思われます。そのとき、何らかの理由でマンションで爆発が起こり、現場は騒然となり、多くの救急車なども呼ばれていた様子はインターネットに投稿されています。次に足取りが判明するのは、羽田空港から都内へ戻る列車の中です。空港から駆け込み乗車で乗ってきた女性、牧田さんと刑事のように見える男が対峙し、女性はそばにいた母子から赤ん坊を奪い、人質にしていたようです。動画があります」

 新屋が大型液晶モニターで動画を再生させる。別の小型モニター越しの閣議参加である畑母神からはとても見づらいけれど、指揮下の日本軍部隊と麗国、北朝鮮、仲国、台湾の動きに注意を払っているので、鮎美の同性婚の相手に、どんなスキャンダルがあろうと無かろうと、正直なところ実にどうでもいいし、意見する気もないので黙っている。

「ハァハァ、牧田だなっ?! 動くな!!」

「動かなければ殺しません」

「た…助けて…」

 動画は乗り合わせた乗客が、膝の間あたりで隠し撮りしたようで、あまり状況がわからない上、列車の走行音もあって聞き取りづらい。それでも詩織の声だったし、久しぶりに詩織の声を聴いて鮎美は胸と目頭が熱くなった。

「無駄な抵抗はやめろ!!」

「銃を捨てなさい!」

 たしかに詩織の声だった。

「弾倉を抜き、弾を床に捨てなさい! でなければ、この子の腕を折ります! 3! 2! 1!」

「ビギャーーーーっ!!」

 腕を折られた赤ん坊が大声で泣く。

「次! 反対の腕! その次は首です! 3! 2!」

「くっ…わかった! わかったからやめろ!」

 動画の中で、刑事より詩織の方が落ち着いているくらいだったし、詩織は赤ん坊を刑事に投げつけて隙をつくり瞬時に蹴倒しているようだった。

「動けば殺します!」

 乗客たちへ、そう叫んだ詩織が非常停止レバーで列車を止め、車窓から線路へおりていった。そこで動画が終わる。

「……詩織はん……」

「………」

 新屋が心配そうな視線をくれるので鮎美は泣きそうだった表情を引き締めた。

「続けてください」

「はい。この動画の直後、付近の保育園が不審者によって占拠され、警察が包囲しますが園児を人質にされ、膠着状態となります。その動画もあります。保育園の向かいにあるアパート2階から撮影されたもののようです」

 また動画が再生される。

「やめろ!!」

「やめるんだ!!」

 道路から警察官が叫び、保育園のベランダから女児を人質にした詩織が叫ぶ。

「近づけば、この子を落とします!」

「うわああ! 怖いぃい! 怖い怖い! やめてやめて!」

「私の要求を飲めば、子供たちは殺しません!!!」

「わかった!! 要求は何だ?!」

「銃と車両を用意しなさい!! 1時間以内に!!」

 保育園内の様子はわからず、ときおり詩織が外に叫ぶのが撮られている。

「一人解放します!! 早く要求に応じてください!! 私は無実です!! これは陰謀です!!」

「このとき、一人の園児、石原笑美さん5歳が解放され、運良くドクターヘリに乗せられたことで津波からも逃れています。この後も映像は続きますが、膠着状態のまま地震が到来し、それでも撮影者は撮影と同時配信を続けたようで、牧田さんが保育園から混乱する警察官の囲みを突破しようと出てくるのですが、そこで銃撃戦となります。……かなりショッキングな映像ですが、ご覧になりますか?」

「……はい、お願いします」

 鮎美が頷き、新屋は止めさせていた再生を進めた。保育士の衣服で変装した詩織が二人の幼児を抱えて保育園から出てきて逃げ去ろうとするのを警察官が呼び止める。

「動くな!!」

「っ…」

 詩織は地震で怪我をしていた別の警察官を盾にしつつ拳銃を奪い、迷い無く撃つ。見事な射撃の腕前と落ち着きで、次々と警察官を射殺している。その様子は連続殺人犯と思われても仕方ないほど冷静かつ冷酷だった。冤罪を訴える者にしては殺人に躊躇いが無さすぎるし、元ドイツ警察勤務だったゆえの射撃術だとしても、同じ警察職員に対して容赦が無さすぎる。けれど、さすがに多勢に無勢で詩織も腿と腕を撃たれ、弾も尽きて反撃できなくなる。被疑者を生かして逮捕する気でいる警察官たちが包囲していく中、詩織は巨大津波が迫ってくるのに気づいて、空を見上げている。何か言っているけれど、声が小さくて収録されていない。けれど、最期の言葉は唇の動きでわかった。

「……鮎美……」

 そう言った詩織は銃を捨て、結婚指輪にキスしている。その詩織と警察官たちを津波が飲み込み、次の瞬間には撮影者とカメラも飲み込まれ、映像が終わった。

「……詩織はん……必死に無実を訴えて……ぅっ…ぅううっ…」

 鮎美が涙を流し、我慢しようとしても結局は閣議中に号泣するのを、石永たちも予想していたけれど、地下室の外にいた里華が予想外に開いていた扉から入ってきた。大会議室と違い、鉄扉なので官僚たちが資料をもって出入りするたびにバタンバタンとうるさいので、最近はどのみち関係者しか基地にいないので開けたまま閣議をしていた。その扉から入ってきた里華が言う。

「石原笑美、5歳の子って、笑うに美しいと書いてエミですか?」

「え、ええ。そうですが…」

 新屋は閣議に割って入った里華へ丁寧に答えていた。男性同性愛者ではあっても、里華の切羽詰まった顔を見て、叱ろうとは思えなかった。インターネット情報やマスコミは把握していない笑美の氏名などが記されたファイルさえ見せてやる。そのファイルを見ながら里華が涙を零すので、閣僚たちも黙って待った。待ってもらった里華が説明する。

「……ぐすっ………すみません……兄の子です……生きて……いたの……あの子が……」

「そうですか。よかったですね」

「はい……ぅぅっ…」

 天涯孤独になったと思っていたのに、横浜市から大田区に通勤していた兄夫婦の子が生きていたと知ると、嬉しくて泣けてきた。大嫌いな兄だったし、姪と会ったことも少ないのに、嬉しくて嬉しくてたまらない。

「ぐすっ……笑美の両親、兄と奥さんは生存していますか?」

「付近で仕事をしておられたようですし、生存情報はありません。笑美さんは山梨県の精神病院に入院しています。身体は無傷なのですが、ひどい心理的ショックを受けているようです。……あなたには、あとで教えますが今は閣議中ですから、控えていてください」

「はい、すみません」

 里華が敬礼ではなく頭をさげて退室し、新屋は続ける。

「えーっ…この笑美さんですが、ショックからか口がきけず、医療関係者からの問いかけには頷いて答えているようです。そして、笑美さんが描いた絵に、牧田さんが保育園内で園児を何人も殺していたような絵があり、それがインターネットに流れています。けれど、そもそも精神病院に入院している子供が描いた絵がネットに流出するということ自体が怪しく、ここを追求したところ、看護師の一人が情報を漏洩したようで、しかも動機は牧田さんへの反感というか、同性愛者全体への反感があったようです。つまりは総理大臣が同性愛者であるのが気に入らないというわけです。ここ最近、芹沢総理のおかげで同性愛者への理解は拡がりつつありますが、拡がりつつある一方で逆に強い反感をもつ層がいるようで類似の事案は見受けられます」

「なんやの、それ?! ふざけんな! そんなヤツ、逮捕したって!」

 泣いていた鮎美が怒鳴った。

「すでに情報漏洩で逮捕しています。精神病院は公立で公務員でしたから」

 新屋の答えに鮎美は涙を拭いて頷き言う。

「そんな怪しい情報、子供にテキトーお絵かきさせただけかもしれんやん。これ、見てください」

 鮎美は自分のスマートフォンを見せる。詩織からの冤罪だと主張するメールだった。さっと読んだ石永が言う。

「タックスヘブンの罠か……まあ、ありそうだな」

「せやろ! 詩織はんが連続殺人犯なわけないやん!」

「うむ……ICPOまで抱き込むのは……どうだろうなぁ……タックスヘブンの力、巨額の金銭がからめば、ICPO職員の弱みを握っている金持ちもいるのかもしれない…」

「だいたい、誰のおかげで震災後も日本円や米ドルが暴落せんと通用してるか、みんなわかってんの?! 詩織はんと夏子はんのおかげなんよ!! なぁ?!」

 鮎美に求められて夏子はなだめるために同意する。

「そうね、彼女はすごかったね。語学力もコミュニケーション能力も、彼女がいなければ、ハワイでの会議もまとまらなかったでしょうし。ね、畑母神大臣?」

「え? あ、ああ、うむ」

 都知事として、いっしょに会議へ出席していた畑母神は仲国軍の動きが気になっていたので、まったく聴いていなかったけれど、とりあえず頷いておいた。鮎美は詩織の名誉のために怒る。

「こんな悪質なデマ! 流したもんは許さんし! 詩織はんが世界に、どんだけ貢献したと思ってんの?! 通貨の安定で救った人の命は一万や二万ちゃうねんで!! 一億二億の人が助かってるはず! そや、陛下に頼んで勲章を贈ってもらお! それで日本中に冤罪やって言うたるわ!」

 そう言った鮎美は即座に義仁へ電話をかけようとする。

「ちょっ?! 待てよ! そんな軽々に陛下へ電話するなって! 小渕総理のブッチフォンじゃないんだから!」

「お待ちください! 陛下との関係は大切にしてください!」

 冷静なようでいて、かなり気が立っている鮎美を石永と鷹姫が慌ててとめる。

「離してや! ええやん! 詩織はんと夏子はんの貢献は、あきらかに表彰もんやん! 誰にも文句言わせんよ! なっ?! 夏子はん!」

「え~…贈られる側としては、そんな思いつきはヤダなぁ。貢献した自負はあるけどさ、それだけに、もうちょっと落ち着いて検討してよ。冤罪を晴らす道具に使わないで」

「………………」

 鮎美が勢いを無くして、うなだれた。

「……ぐすっ……ほな、どうしたらええんよ?! こんなん言われて放っておくの?!」

「鮎美ちゃん総理、落ち着いて。悪質なデマほど妙に拡がるものだから。慌てて何かすると余計に混乱するよ?」

「…………はい…」

 詩織と接していた時間のある夏子もデマだと思ってくれているので鮎美は落ち着いた。夏子は別の議題を進める。

「はいはい、次の議題の方が深刻なんだけどさ。石永くんが秘かに核ミサイルを造ってるってデマは、本当にデマなのかな?」

「……デマだ」

「あ~、そっか、本当なんだね。準備してるんだぁ」

「………なぜ、わかる?」

「女の勘と、石永くんの答え方、そして、今、カマかけに引っかかった♪」

「くっ……」

「はい、説明してください」

「………わかった……」

 石永は一堂を見回してから、言う。

「すまない。オレの独断。何名かには説明したが、芹沢総理にも黙って、実は核ミサイルを準備している」

「………」

 鮎美が涙目で石永の顔を見つめ、それからモニター内にいる畑母神の方を見た。畑母神も視線を感じて答える。

「私にも石永官房長官から、わずかに説明はあった。おかしな動きをする船舶があったので不審に思っていたら、見逃してほしい、と。それで、だいたい察しはついたが、詳しく説明してほしいものだ」

「わかりました。すべて説明します」

 石永が観念して語る。

「核ミサイルと言っても、残念ながら核兵器と言えるほどのものではない。使用済み核燃料を種子島に持ち込み、ロケットに搭載する準備をしているだけだ。関西便利電力に命じて。大津田一朗技術課長を覚えているかな?」

 問いは鮎美に向けられていたので答える。

「はい。うちを刺した男子の兄さんでしょ?」

「ああ。彼に頼み、実は震災直後から用意を始めてもらった。まさかオレも米軍が撤退するとは思わなかったが、あらゆる事態を考えたとき、日本にも核ミサイルが要るというのは前からの持論だったから」

「………小松基地に来はった、あの日ですか? うちと鷹姫が寝てる間に勝手に閣僚を決めた」

「うっ、うむ」

 もう公然の事実なので石永も認める。鮎美にしても、わずかな人脈で集めた畑母神、夏子、久野などはともかく刑務所にいた鈴木に至っては一か八かの賭けだったし、それで十分な働きをしてくれているので抜擢してよかったと思っているものの、畑母神と夏子は仲が悪いし、三島も群れることをよしとしないので、派閥というほどの結束はない。たいして石永が選んだ新屋らは、じわじわと長年におよんで築かれた人脈なので、さすがに協調性が高いし、無難に仕事を進めてくれていて久野や鈴木などとも仲がいい。なので、もう閣僚メンバーに鮎美も納得していたけれど、あの日のうちに一朗に根回しして原子力発電所から使用済み核燃料を徴集していたと言われると、さすがに驚きだった。

「やや卑怯ではあったが大津田課長は、弟の件で我々に借りがあったからな。無理を言って動いてもらった。もちろん、発覚したときの責任は私が取るということで」

「うちの知らんうちに………」

 独断専行が自分だけでないと実感し、鮎美は戸惑いを覚える。総理大臣が知らないうちに官房長官の独断で、そこまでの事が進められるのだと、やや怖くもなる。けれど、すべてを一人で把握するのは不可能だと思い直し、頷いた。

「それで、どういうミサイルができたんですか?」

「ダーティー・ボム、いわゆる汚い爆弾と言われるものだ。核爆発を起こすには高度な技術シュミレーションや設計を要するし、核物質の精製も要るが、ただ単に強い放射能をもった使用済み核燃料を弾頭として搭載し、着弾点にバラ撒くというだけのものだ。それでも破壊力は小さいが、長期にわたって人が着弾点に接近することができなくなる。発射基地に命中させれば使用不能にできるかもしれない。そして、命中については去年、小惑星イトカワへ送った探査機はやぶさを回収した日本の技術だ。少なくとも那須御用邸を狙って高原山に落ちた北朝鮮製ミサイルのようなことにはならない。きっと、オレを狙えば、ここにいるオレの頭の上に落ちてくるだろう」

「命中精度は信用するとして、長期って、どんなもんですの?」

「長ければ10万年だそうだ」

「………10万……人類も進化して次の人類になってそうやね……未来の人類に、めちゃ文句言われそうな爆弾やわ。あの猿ども、こんなもん地上にバラまいて、やっぱ猿やんけ、って」

「核爆発を起こす技術は無いからな。核物理学者にも協力を秘かに要請したが、みな断られたし、短期に造り上げるのは全力で取り組んでも無理だと言われた」

「そうですか……それにしても、震災直後やと米軍撤退も北朝鮮の核ミサイルも、まだやったのに、大津田はんを使って用意させてるなんて、先見の明があるというか、たんに核ミサイルが好きやったというか。どさくさに紛れて日本も核武装したろ、という気やったんですね?」

「……まあ、否定はしない。だが、現状となれば役に立つかもしれないだろ?」

「どうなんやろ……畑母神先生、どうです? この核爆発せんミサイル」

 話題が話題なので畑母神も仲国軍への注意を各幕僚長たちに任せて聴いていたし、答えてくれる。

「無意味ではないが、戦術的には大きな力になるわけではない。かりにダーティー・ボムを街中に落としても、たまたま周囲にいた数十人を即死させ、さらに放射能によって近づいた者を死傷するかもしれないが、それも百人に満たず、すぐに避難するだろう。それで終わりという爆弾だから、うまくすれば敵基地の一つを使用不能にできるが、基地にあった移動可能な兵器などは持ち出せばよいから、大きく戦局を動かせるようなものではない。水爆ならともかく原爆でさえ、それだけでは一国家を屈服させるには足りないものだ。撃ち込まれた麗国や我々を見ればわかるだろう。あまりアテにしない方がよい、と言っておく」

「「そうですか……」」

 鮎美と石永は残念そうに言い、鮎美は責任を求めておく。

「ほな、引き続き、石永官房長官による独断ということで、うちは知らないことにしときますね」

 にっこりと笑顔で女子高生に言われたので石永は諦めて頷いた。

「ああ、いつでも発射できるようにはしておくよ」

「あ、それって他国から気づかれてます?」

「精密な観測ができる人工衛星をもった国なら可能だろうな。なにも、この時期に日本が普通の人工衛星を打ち上げる必要性は少ない。津波に遭った種子島宇宙センターを急いで復旧させていることも、もしかしたら敦賀湾から出港した船が種子島へ行ったことも把握しているかもしれない。……いや、そのうえで日本のマスコミへリークしたのかもしれない。バレるのが早いと思ったが、そういうことだろう」

「情報戦かぁ……」

「おそらく米露仲は把握しているだろう。そして今のところ黙認しているのも、どうせ核爆発は起こせないタイプの弾頭だろうと推測されているからだろうし」

「だろう、だろうなんやね。どっちも正確な情報はつかめず、推測で攻め合うしかない」

 鮎美はタメ息をつきたくなったけれど、それを我慢して総理大臣らしく姿勢を正した。まだ詩織のことは胸の中で疼いているけれど、それだけに進めておきたいこともある。

「ちょっと休憩とします。新屋はん、三島はん、ちょい来てください」

「はい」

「了解した」

 三人で地下室を出る。新屋はさりげなく石原笑美の入院先などが書いてあるファイルを里華に渡した。里華は礼を言い、連絡を取りたいので鷹姫に許可をもらって持ち場を離れる。鮎美は護衛のゲイツたちに囲まれて地上1階にある自動販売機で紅茶を3人分買って、新屋と三島に渡しながら言う。

「うちらが秘かに進めてる同性婚の法整備の件、そろそろ閣僚らには言うておこかな、と思うのよ。どやろ?」

「なるほど。敵を欺くには味方から、というのが常套とはいえ、さきほどの石永殿の独断専行を見て、考え直されたか?」

 三島の問いに鮎美が頷く。

「うん、石永派との協調も大事やし。ところで新屋はんは、日本製核ミサイルのこと知ってたん?」

「はい……すみません。黙っていて」

「そっか……うちらの計画のこと、あっちに喋った?」

「いえ、それは誓って」

「つまり、どっちにも黙っていてくれたわけやね?」

「はい」

「ごめんな、板挟みみたいにして」

「いえ、大丈夫です」

「ほな、もう秘密も無しにして、石永先生らにも同性婚のこと喋るの、どうやろ、新屋はん?」

「私は石永派ですから、同性婚のことで芹沢総理の味方をするのは周りには意外かもしれませんが……」

 新屋の目が迷う。それが同性愛者であることを周りに告白してしまおうか、強く迷っているときの目だと、同じ属性を持つ鮎美たちにはわかるし、ゲイツたちも気づいている。気づいていないのは麻衣子と鷹姫くらいで本当に休憩だと思って、麻衣子は自分で買った缶の炭酸飲料を、鷹姫は水道水を飲んでいる。美しく化粧もしている鷹姫が水道の蛇口の下に手をやり、手のひらからコクコクと行儀良く水を飲んでいる姿は独特の色香があって、とくに日本人形のようにおろした髪が濡れないように反対の手でおさえているため、ポニーテールにしていた頃はよく見えていた耳が久しぶりに顕わになっているのは、抱きついて舌を入れたくなるような魅力がある。この場で女性に興奮を覚える鮎美だけは見惚れていた。その間に、新屋が結論を出した。

「法案を準備してることは閣議で言っておくべきかもしれません。芹沢総理が同性婚法案を言い出すことは、ある程度、予想されたことですし、反対する者がいても、それを聞かずに進めることも予想の範囲です。いっそ、ある程度は議論した上で公布施行される方が閣内での理解は得られるでしょう」

「そやね。ほな、そうするわ」

 暗に新屋が個人的なカミングアウトを今はしないと決めたことには、あえて触れず紅茶を飲み終えると、地下室に戻った。着席して鮎美が閣僚たちに告げる。

「核ミサイルほどではありませんけど、うちも独断専行で進めている件があるので、これ以上は黙って進めず、みなさんに言っておきます」

「「「「「……………」」」」」

 やはり一堂が静かになり、何事かと構える気配がした。

「実は同性愛者同士の結婚を合法化しようと法案を練っています」

「その話か……」

 石永が予想内という顔で言った。

「はい、その話です。進めて、ええですよね?」

「……この時期にか? もっと落ち着いてからで、よくないか?」

「よくないです。いつまで経っても議論が成熟してないとか言うて同性愛者の権利を無視してきたのは、多数の異性愛者による専制です。なので今、うちが独裁者であるうちに決めてしまいたいと考えています。一応、ご意見をうかがうので、どうぞ」

「「「「「……………」」」」」

 この子は何を言われても進める気だ、と閣僚たちも悟った。核ミサイルに比べると、それほど衝撃的ではないけれど、異性愛者が多数である閣僚たちは考え込む。世界には、すでに同性婚を合法化している国があるし、そこで大きな問題が生じているとは聞かない。猛反対するほどの理由は思いつかず、どのみち個人の自由、という気がしてくる。久野が慎重に問う。

「どのような法案にまとまりつつあるか、見せてもらえますか?」

「はい。三島法務大臣、お願いします」

「はっ!」

 指名された三島が起立して、法務省官僚たちに資料を配らせ、熱く語り始めると、どうして三島を法務大臣にしたのか、震災直後から石永と同じく鮎美も画策していたのだと、閣僚たちは悟った。法案を読み進めた久野が指摘する。

「この法案は公布施行後、施行前まで遡って遡及適応できるのですか?」

「はい」

「それは………大きな問題を生みますよ」

「わかっていますが、この震災でパートナーを亡くした人も多いはずです。……うちも、そうですし」

 鮎美は胸にある結婚指輪を押さえて言った。ずっと覚悟していたけれど、とうとう詩織が100%確実に死んだのだと、映像を見て知り、胸が痛いし、ヘタをすると泣きそうだったけれど、喉に力を入れて言う。

「不幸中の幸い、うちは愛する人の最期を知ることができました。けれど、日本全国にはパートナーの安否情報を確認することさえ、個人情報保護の壁に阻まれてできない人もいるのです。入院していても、入院先を教えてもらえなかったりします。こういった方を救うためにも、同性婚を合法化し、なおかつ遡及適応可能とし、二人が結婚したと想っている時点から、結婚したことにすればよいと考えています」

「芹沢さんのご不幸は本当にご愁傷様です。けれど、落ち着いて考えてみてください。たとえば、牧田さんの家は地元でかなりの資産家でした。国会議員や県会議員も選挙で味方につけておきたいと考えるほど、名望家でもあります。そして、これまた不幸なことに牧田さんの両親も殺されています。その時点で牧田家の財産は長男次男、そして詩織さんの三等分にされるのが法定相続ですが、詩織さんの生前に遡って芹沢さんとの結婚を有効とされてしまうと、ほぼ自動的に牧田家の資産の3分の1が、あなたのものになります。その点、どうお考えですか?」

「うちは相続放棄します」

「あなたは、そうするかもしれない。けれど、そうしない人も出てくる。何より異性愛者でも結婚詐欺のようなことは常から発生していますから、この混乱期と遡及適応可能な同性婚というのは、とても危険な組み合わせですよ。死人に口なしで、私だって実は同性愛者でした、近所の金持ちと結婚していましたが、彼は津波で死んだので財産は私のものです、などと言い出せる」

「そういった悪質な行為には婚姻冒涜罪という罪をつくり、最高刑を死刑とする、ということも考えていますが、どうでしょう?」

「ある程度の効果はあっても、すでに戸籍の取得で3重に不正を犯し死刑となりうる者も出てきているように、必ず人間は不正を行います」

「そんなヤツは死刑でええですやん」

「罪を犯させる機会を与えないことも為政者の仕事ですよ。その点で芹沢さんは身分証明で指紋や頭髪の採取を強制したので、かなり戸籍の不正取得は予防できたでしょう。けれど、結婚はそうはいかない。まして遡及適応可能、しかも死者との結婚も対象となると、芹沢さんは牧田さんとの結婚をテレビで公表したので誰も疑わないでしょうが、他の人の場合、どうなるか、もっと冷静に考えてみてください。婚姻届もない、指輪も紛失しているかもしれない。たんなるルームシェアの同居なのか、同性婚だったのか、誰が証明するのです?」

「…………」

「また、逆に財産相続を目的として結婚を騙るのではなく、本当に結婚していたと想っていても、最高刑が死刑である婚姻冒涜罪が怖くて申請できない人もいるでしょう。証明してみせろ、と言われたとき、せいぜいツーショット写真くらいしか無かったら、どうです?」

「…………」

「さらには詐欺目的で申請され、それを逮捕したとき、有罪とする証拠はどうします? 本当は詐欺目的であっても、詐欺目的だと立証できなければ、かなり困ります。まんまと財産を騙し取るケースも多く発生するでしょう」

「……丁寧な捜査と審理をすれば、ええですやん」

「では、異性愛のカップルでも一夜限りの関係というのは生じますが、もし、あの震災前夜に、たまたま出会い、意気投合して同性愛者同士、性的な関係をもったとします。そのとき、本気とも冗談ともつかず結婚しよう、と言っていたら、どうです? また、結婚する気など、まったく無く最初から一夜限りの関係とお互いに割り切って過ごしたけれど、片方が津波で死んでいて、あとになって芹沢総理が便利な法案を公布施行したので、財産目的で申請した者は、どうします?」

「う~……」

 鮎美が額をおさえて呻った。それが反論が思いつかない人間の一般的な仕草であることは、だいたい皆が知っている。

「芹沢さん、あなたは震災後、混乱を避け秩序を保つために、多くのアイデアを出してくれたし、人権無視と言われても指紋頭髪を採取させたのは、賢明でした。けれど、この同性婚法案、とくに遡及適応可能とする条項は問題だらけです。きっと、大きな混乱が生じる。そこを、もっと考えてください。同性婚がダメだと言っているわけではないのです。法の遡及適応というのは刑法に限らず、極めて危険なのですよ」

「………っ……………」

 鮎美が考え事をするときの癖で指先で横髪を耳へかけようとするけれど、その指がフルフルと震えていて、うまく耳にかからず髪はハラハラと半分が落ちた。誰が見ても今にも爆発しそうな感情を抑えている顔で閣僚たちは息苦しさを感じた。ぼそっと鮎美が言う。

「……今から言う人だけ残って……三島はん……新屋はん……石永はん……久野先生……鷹姫」

 その五名を残して閣僚と官僚たちが出て行く。地下室の鉄扉が閉まると鮎美は抑えていた感情を爆発させた。

「くっ………くぅぅぅ!」

 鮎美が両手を握り、震わせた。そして振り上げると、机を叩く。

 ダンッ!

 一度で済まず、二度三度と叩き続ける。

「ああああ! ううあああああ! なんで嘘をつくヤツがおるねん!!! くぅううう!! 神聖な結婚で嘘をつくヤツは、みんな死刑や!!!」

「「「「「…………」」」」」

「結婚で嘘をついたら死刑!! そう公布したるわ!!」

「何人殺す気だよ」

 石永が言った。あえて友人のように気安く忠告している。鮎美は怒鳴り続ける。詩織の死が確実になった今、同性婚の遡及適応が不可ならば、詩織との結婚は永遠に不可能になる。法的には無かったのと同義になる。それが悔しくて叫ぶ。

「何人でもや!! 結婚での嘘は厳禁!! それでも嘘をつくようなヤツは絶滅させたらええねん!! そや! そうすれば、人類の進化は、その方向性に淘汰される!!」

「……スターリンやポル・ポトみたいになるぞ」

「前例があるんやん! そんでええわ! そうや、スターリンがおった、あの人の治世で今のロシアがあるわけやん! 混乱期の政治には粛清も要るねん! うちもヤるわっ、スターリンのように!」

「「「「「………」」」」」

「ああああ! ハァハァっ! ちくしょーめ!!」

 大声をあげて息が乱れた鮎美へ、久野が穏やかに言う。

「本気でないとしても言うべきでないことですよ」

「……。三島はん! 新屋はん、どう思ってる?! 遡及適応のことを!」

「「………」」

 三島と新屋がお互いを見て目を合わせ、呼ばれた順番に答える。

「人には誠実な者がいる一方、不実な者は、どこまでも不実である。口惜しいが、それも含めて世を治めてこそ為政者であろう。不実をすべて斬り捨てるは、我もその意は汲むも前例はみな悪政と言われている」

「芹沢総理のお気持ちは痛いほどわかりますが、遡及適応には……」

 新屋も気の毒そうに、そして鮎美に短慮なことはしてほしくないので願うように言う。

「問題点が多すぎます。どうか、ご理解ください」

 鮎美と詩織のことを性的少数者として理解している三島と新屋は法案を練っている段階から久野が指摘する点には気づいていたけれど、ここまで進めていた。

「………鷹姫………どう思う?」

 石永と久野には問うまでもないので、鮎美は鷹姫に求めた。鷹姫は少し考え、故事を引き合いにする。

「白川の清きに魚のすみかねて、もとの濁りの田沼恋しき、と歌われておりますことから、お考えください。結婚にかかわることで反故を許さないとなれば、私と岡崎のことも対象となるやもしれません」

 あっさりと鷹姫は独裁者の怒りを恐れず、あまり空気も読まずに言った。

「…………」

 鮎美は右手を額にやると、クシャリと前髪を掴んだ。そして、唐突に鷹姫の胸を見て言う。

「………おっぱい揉ませてよ」

「……。どういう空気で、そうなるのですか?」

「濁ってもええんやろ?!」

「………。どうぞ」

 よくわからなかったけれど、鷹姫は了承した。もう許嫁の話は無くなったので、自分の乳房で気が済むのなら、と人が変わったように非理性的になっている鮎美へ身を捧げた。鮎美の手が鷹姫に触れる。石永たちは目をそらした。しばらくして気が荒ぶっていた鮎美が落ち着き、久野たちに謝った。追い出した閣僚と官僚たちにも謝って席に戻ってもらう。閣議が再開した。

「やっぱり、久野先生が言われるような問題点が思いつきますやんね……はぁぁ…」

 鮎美がタメ息をついて言う。

「うちらが法務省の職員と内密に話し合ってるときも、だいたい久野先生が言われた問題点が出て来ました。ほな、いっそ、遡及適応の場合は財産相続権を無しにするとか、そういう対策も考えましたが、今度は外国人との結婚の問題が出てきます。日本人と外国人の同性婚を想定したら、異性愛者の婚姻制度でも日本国籍ほしさに擬装結婚が横行してるのに、遡及適応可能な同性婚を用意したら、津波で亡くなった人の死体を拾ってパートナーやと言い出す外国人が出てくるかもしれん。いや、きっと出てくる。そのとき、結婚は認めるけど日本国籍は与えんという処分にするのか、という問題もあるし。そうやって、とりあえず結婚は認めるけど、その他の権利関係は一切動かさんとしてしまうと、いったい結婚の意味って何やねん、となるし。はぁぁ……」

「芹沢さん、わかっていて言い出したのですね」

「はい……なにか妙案はないでしょうか? 遡及適応しても問題ないような」

 当事者の鮎美が思いつかないことを異性愛者たちが思いつくはずもなく、鮎美は額を押さえたまま、全閣僚たちに問う。

「みなさんのご意向を多数決で知っておきたいと思います。二つ問います。遡及適応が可能である同性婚に賛成していただける方、挙手をお願いします」

 誰も手を挙げなかった。

「では、公布施行の当日以降のみ有効とする同性婚を、いずれ公布施行する新憲法下で創設するのに、反対という方、挙手をお願いします」

「反対に手を挙げさせるのか」

 思わず石永が言う。

「中学生の学級会みたいな決議誘導だな」

「どうせ高校生やし!」

「わかった、わかった、オレは反対しない。けど、新憲法で婚姻の条文は、どうなる予定なんだ?」

「今のところ、婚姻は自由である。婚姻は両人の合意のみに基づいて成立する。という感じですが未定です」

「両性を両人にするのか、その一字の違い、けっこう大きいな」

「反対という方、挙手をお願いします」

 鮎美が涙目で全体を睨んだので誰も反対しなかった。

「ぐすっ……ありがとうございます。みなさまのご意見、参考にします。では、次の議題をお願いします」

 次の議題は税務で確定申告の期限だった3月15日を過ぎても、申告がない人が多いので、すでに期日延長をおこなっているけれど、追加延長を5月15日までとするかだったが、外務官僚が地下室に飛び込んできて北朝鮮に新たな指導者が現れ、再度の核攻撃をおこなった直後に演説を配信したと報告した。司令室にいる畑母神もソウルと平壌の間で核爆発を観測した。演説は今から外務官僚が翻訳するとのことで、走り書きのメモに近い報告書を受け取った鈴木は予想していた人物が指導者になっていたので閣僚たちに落ち着いて語る。

「次の指導者は金正忠(キムジョンチュン)と決まったようです。彼は金正陽の三男で現在26歳、金正雄とは腹違いの兄弟で母親は日本の北朝鮮帰国事業で北朝鮮へ渡った大阪出身の元在日朝鮮人で、名は高優姫(コシュウヒ)ですが、金正陽からは日本風に、あゆみ、と呼ばれていたそうです。まあ偶然なんでしょうが、ここにも大阪出身のアユミさんがおられますね。それに高優姫は、なんだか鷹姫さんと似ていて、できすぎた偶然ですが、美や姫を女性への命名につかうのは漢字文化圏では珍しくないですから、やはり偶然でしょう。アユミ総理」

「その人の母さんの名前はともかく26歳で国の指導者ちゅーんは、なんぼなんでも無理があるんちゃいますか? もっと、他に誰かおらんかったんかな?」

「「「「「……………」」」」」

 一堂に沈黙が訪れ、鮎美は自分が18歳だったことを思い出した。

「あ……まあ、周りに支えていただければ、やれば、なんとかなるもんですわ。ははは」

「笑って誤魔化すのかよ。まったく……そういえば、趙舜臣は、いくつだった?」

 石永の問いに鈴木が答える。

「46歳だったはずです」

「一番いい年齢だなぁ、経験と若さのバランスが取れてる」

「金正忠の説明に戻りますよ。彼は母親の影響もあってか日本文化に触れて育ったようです。専属料理人が日本料理を用意し、とくに寿司を好んで食べるなど、また東京タワーへ興味をもったりという情報もありますし、来日経験もあり、日本語にも通じているようです。英語、仲国語、ロシア語、ドイツ語、フランス語を話せるとする情報もありますが、どこまで本当かは北朝鮮の公表ですから話半分としても、母親が大阪出身であれば関西弁を話す可能性は、そこそこありますね」

「あ、ちょっと会談してみたいかも」

「向こうも、きっとそう思っているでしょうし、その機会はあるでしょうね。こちらを利用したいでしょうし、お互い若すぎる指導者ですから、興味をもたない方がおかしい」

「そやね……それで?」

「スポーツ好きで、とくにバスケットボールに熱中したこともあり日本のバスケ漫画なども愛読していたようです。映画も欧米のものを鑑賞するなど、本人は主体思想のみに染まっているわけではなく、広く海外の知識もあるようです。そろそろ、演説の翻訳が終わったでしょう、見てみましょうか」

 鈴木が外務官僚に動画を再生させる。北朝鮮の国旗を背景にし、場所を特定されないよう工作した上で配信されていて、短く刈り上げた頭髪の美青年が映った。静江が好みだったので、つぶやく。

「けっこうハンサムね」

 金正忠は目の大きなハンサムといえる顔立ちで短く刈り上げた髪には清潔感があり、体格も金正雄が肥満体だったのに比して金正忠はバスケットボール選手のように良かった。演説が始まり、通訳の声も再生される。

「我が国民よ。銃を手に立ち上がれ! 我が偉大なる父は昨日、偉大な人生の最期の日を迎えた。最期の瞬間まで国を想い、民を憂い、我らの勝利を確信して病身をおして軍を統率しておられた。また、勇敢なる兄正雄は卑劣なアメリカ軍の攻撃に倒れたが、その霊は永遠に我らを守るだろう。父と兄の霊は祖父の霊とともに我らへ勝利をもたらしてくれる! 南朝鮮の蛮族に我らが負けることはない。我らには偉大な父が遺した究極の兵器が残っている。今、愚かにも我らの領内に入ってきた蛮族の軍100万が核の炎によって消滅した。我らの地上核実験に巻き込まれた不運を同じ民族として憂いてはやるが、これからも38度線を越えて入ってくる蛮軍には無慈悲な運命が待っているだろう。容赦なき爆炎を欲するなら38度線を踏み越えよ。命が惜しくば家に帰るがいい。慈悲によって追撃はせぬ。我が軍、我が国民よ、38度線を死守せよ、共和国の命運、この一戦にあり! 我は金正忠、我は新たな領導者として、ここに誓おう。我が国は永遠であると! 何も恐れるものはない、敵を見たら撃て、我らに核は残っている。負けることはない。我らは永遠に無敵である」

 演説が終わり、石永が畑母神に問う。

「本当に核攻撃があったのですか?」

「ああ、衛星画像で確認した。平壌に迫ろうとしていた麗国軍の先方が丘の上に仕掛けられていた核兵器により壊滅した」

「また使うとは………まだ核が残っていたのか……それに、ミクドナルドの報復を恐れないのか……」

「だが、これでわかったことはある」

「なにがです?」

「もうミサイルに搭載できるような小型化された核弾頭は無いのだろう。ゆえに丘の上に仕掛けて待ち伏せ的に使ったのだ。それに、報復を恐れているから、自国領内での実験という名目にしている。本来、38度線を越えないはずの麗国軍が、北朝鮮側にいたとき実験に巻き込まれたのだから、文句はないだろう、という論法だ」

「大胆なのか、姑息なのか」

「手強いやん。百万の軍が消滅したってホンマですか?」

「いや、せいぜい3個中隊ほどだ。とはいえ、押し返して逆に攻め込んでいた麗国軍への精神的ダメージは大きい。まだ核兵器が残っているなら、平壌を目指すのは難しくなるだろう。現に、進軍が止まっている。地上部隊を進める前に徹底的な空爆でもすれば可能だが、麗国軍にまとまった航空戦力は残っていないし、もう核兵器はないと思って陸軍で攻め込んでいたところに、この核攻撃を受けたのだから兵士たちにも厭戦気分が漂うだろう。それを狙って38度線で、また決着としよう、というメッセージにしている。父親が始めた戦争を、とりあえず無かったことに、というわけだ」

「都合のええことを……せやけど、ええ判断かもしれんね」

 まだまだ閣議で話し合うべきことはあり、今日も昼食時となったけれど、ゆっくり昼休みとはいかず、静江たちが食事トレーを運び込んでくれる。昼食はチキンソテーと野菜炒め、フキノトウの味噌和え、ミカン、コーンスープ、白米だったけれど、鷹姫の分だけは草と虫だった。

「鷹姫、ホンマにそれで栄養、足りるの?」

「はい、そう聞いています」

「三井はん、ホンマに足りるの?」

「栄養としては、それなりに足りるのですが……まあ、気分的にこたえるというか、どうでしょう……我々も三日三晩の山での現地採取生活は訓練しますが、ずっと続けることはないので……」

「鷹姫……うちが言うたことで意地になってんの?」

「はい」

「…………これ、半分、食べる?」

 鮎美が自分の食事トレーを向けたけれど、鷹姫は草と虫を食べる。

「鷹姫………一つだけ交換しよ。その虫と、チキンソテーを交換して」

 もらったところで食べる自信はなかったけれど、箸でチキンソテーを渡そうとしたものの、鷹姫は受け取らなかった。

「………桧田川先生はいてくれはる?」

「はいはーい」

 地下室の隅で、桧田川は原爆症治療の論文をタブレット端末で読みながらチキンソテーを食べていた。タブレットには被爆患者の原爆白内障となった瞳や、巨大化した腎臓などが表示されていたけれど、医学生の頃から解剖実習の合間に弁当を食べたりしていたので、そういった映像で食欲を減退させることはなく、飲み込んでから参与として総理のもとに来る。

「鷹姫が、ずっとこんな食事を続けて大丈夫なもんですか?」

「うっ……う~ん……私は栄養士じゃないからねぇ……」

「めちゃ栄養が偏ったりしません?」

「どうかなぁ……虫は一応タンパク質が豊富そうだし、食物繊維は、むしろ理想的なくらい増えるかなぁ……ビタミンとかも、ホウレン草と変わらないかもしれないし。しいていえば、炭水化物が足りないかなぁ」

「病気になったりしません?」

「顔色は悪くないし………偏ってるけど、じゃあ、パンダやコアラの方が偏ってるのに、それなりの身体になるし、とりあえず大丈夫なんじゃない?」

 疑問形で桧田川は健康相談を終えた。閣僚たちは食事をしながら三つの議題に結論を出した。さらに鮎美のスマートフォンが振動した。着信表示は、ミクド大統領(仮)で、昨夜の対談後に登録した番号だった。

「もしもし、芹沢です」

 鮎美は英語で答え、ミクドナルドも英語で言ってくる。

「こんにちは、アユミ。さっき朝鮮半島で核爆発があったのは知ってる?」

「はい」

「報復を望みますか?」

「………うちらは被害者ちゃうし」

「だよね。でも、趙舜臣に訊いたら、報復を望むが、お金は日本が支払うべきだ。って言ったの。払ってくれる?」

「ざけんな、って趙舜臣へ……伝えるのは、やめて………う~ん……趙舜臣はんは、どういう理屈で、そう言うたん?」

「日本は麗国に多くの借りがある。第二次大戦の精算も終わっていない。さらに今回は避難民が太平洋へ逃げるのを邪魔して転覆させ、銃撃までした。この借りは100億ドルを超える。って言ってた。アユミ、日本はN友の会に、まだ入会してくれてないけど、今回は直接の被害者じゃないし2億ドルで1発、撃ちます。どうですか?」

「…どうと言われても……いろいろと……」

「決断できる指導者になろうよ」

「決断しない決断というのもありまして」

「じゃあ、N友の会の入会は考えてくれてる?」

「まあ……じわじわと……あ~、たしか、核保有国がN友の会に入る場合は月額会費300万ドルでしたよね?」

「そうだけど、ダーティー・ボムはダメよ。ちゃんと核爆発するやつね」

「………」

 知ってるんやな、やっぱり、と鮎美は石永が命じたことを衛星などで米軍が観測していることを確かめた。

「アユミ、そっちはランチタイム?」

「はい。ちょうど」

「ミクドナルド小松店もよろしくね。震災にも負けず運営してるから」

「……ハンバーガーに核ミサイルにと、商売熱心ですね」

 かなり疲れる電話を終えて、鮎美は朝鮮半島情勢を見守ろうとしたけれど、今度は自分たちが戦争当事者の立場になった。小競り合いが続いていた仲国軍との戦闘が一気に本格化し、沖縄沖で会戦が生じる。それと同時に仲国政府から外務省へ短い電文があり、日本は本来的に琉球民の土地である沖縄から撤退するべきだ、と通告された。

「それを琉球人が言うのはわかるけど、あんたらが言うてきても………胡錦燈はん、優しい感じの人やったけど、国家と個人は別やなぁ………うちも難民追い返して転覆させたし、みんな鬼や……」

 つぶやいた鮎美は両手で顔を叩いた。鮎美にできる命令は一つしかない。

「畑母神先生! やれる限りのことをお願いします!」

「了解した。総理らは地下室から出ないで欲しい。小松の防空も削って沖縄へ向ける」

 そう言った畑母神はモニターの中で次々と命令をくだしている。専門用語が多くて、ほとんど理解できないけれど、小競り合いなどではなく戦闘機も軍艦もすべてが出動するような大戦闘が起こっているのだと、伝わってくる。しかも、日本軍の軍艦や戦闘機が次々と撃破されている気配だった。戦闘は一方的ではなく最大限の反撃もしているようで、仲国軍へもダメージを与えている様子だったけれど、よくわからない。鮎美たちが問うても邪魔になるだけなので、見守ることしかできない時間が3時間も流れ、鮎美は一つの可能性にすがりたくなった。畑母神は報告する暇さえ無く命令をくだし続けているけれど、その雰囲気から震災で7割となっていた戦力が仲国軍との戦闘で半減しつつあると感じている。このままでは危険だと感じ、何度も迷ったけれど、ミクドナルドに電話をかけてみた。

「一つお願いしたいことがあるんですけど、いいですか?」

「言ってみて」

「仲国軍の基地や軍艦に核攻撃をお願いしたら、いくらですか?」

「核には核、それがN友の会の方針です。通常兵器による戦闘に我々は関与しません」

「………10兆円、いえ、1兆ドルでは、どうですか?」

「私は他国を守るためにアメリカ兵の血を流す気はありません」

 さきほどの電話では打ち解けた軽い調子で会話していた二人だったけれど、鮎美には差し迫った危機感があり、ミクドナルドには譲れない信念と公約がある。ミクドナルドは断言的に言ってきていて、交渉の余地は無さそうだった。それでも、鮎美は額の汗を手で拭い、自分が言おうとしている英文が間違いないか、静江に問いかけ確かめた。問われた静江も金額の大きさに驚きつつも、危機感は鮎美と同様だったので英会話を助けた。鮎美がミクドナルドに告げる。

「10兆ドルで、お願いします。加えて日本にあるドル準備高のすべてと、金地金のすべてで」

 とてつもない金額を鮎美は呈示したけれど、地下室にいる閣僚たちも反対しない。いくら払ってもいい心地だった。しかし、ミクドナルドも固い信念で言ってくる。

「日本が仲国軍から核攻撃を受けない限り、私は仲国軍に何もしません。金額は関係ありません」

「……。核兵器を売ってもらうことは、できますか?」

「できません」

「…………」

「ごめんね。なんとか頑張って。応援してる。じゃ」

 ミクドナルドは電話を切った。鮎美は机に両肘をつき、頭を抱える。他に助けを求めるとすれば、オパマかフーチンだったけれど、もともと米軍撤退を決めた男がミクドナルドとの対決もあるのに来援してくれるとは思えないし、自分がオパマの立場でも国内事情を優先する。自分がフーチンの立場だったら、胡錦燈に話を持ちかけて日本の北半分をロシア、南半分を仲国が統治しようと裏で約束するかもしれない。そもそも自分たち日本も麗国を見捨てていた。誰かが助けてくれる、という思考は虫が良すぎると実感する。

「……くっ……結局、自分らを守るのは自分らだけや……」

 あいかわらず畑母神は次々と命令や決断をくだしているけれど、戦況が良いとは感じられない。地下室にいても何もできない鮎美や石永たちは、他の仕事も手につかないし、地下室から出ても足手まといなので、さらに4時間を過ごした。緊張で喉が渇くし、手のひらと腋がベッタリとした汗で濡れて気持ちが悪い、自国の戦力が損耗していると、まるで自身の右脚が消えていくような感覚がして、鮎美は椅子に座ったまま腰が抜けたような気分になるし、喉の渇きを潤そうと飲んだ紅茶で尿意をもよおし、気を抜くと失禁してしまいそうなほど怯えている自分に気づいた。

「……ハァっ……ちょっと、トイレ…」

 地下階にはトイレもないので、次の瞬間にミサイル攻撃があるかもしれないと思うと、唯一の正統な国会議員で総理大臣である鮎美が死亡するのは避けなければならないので、地下階の廊下の隅でゲイツたちに囲んでもらってバケツに用を足す。心底みじめな気持ちになった。まるでイジメられている少女のように廊下でバケツへ排泄しなければならないのは本当に情けない気分にさせられる。囲んでくれているゲイツに身体を見られるのは平気でも、人として排泄行為を感知されるのは泣きそうなほど苦痛だった。

「…ぐすっ……非常時の設備を東京だけや無くて日本海側にも、造っておくべきやったわ……こんな不便な地下室しか無いとか………危機管理、ぜんぜんやん……」

 夕食時になり小松基地の食堂は、予定通りに食事を作ってくれた。沖縄沖は激戦だったけれど、北陸地方には何の戦火もない。鮎美たちの前にトンカツをメインとした食事トレーが運ばれてきた。あまり食欲がないので半分ほどしか食べられない。モニター内にいる畑母神は握り飯を食べている。目は状況確認しながら、口を動かしていて、彼は食欲を失っていない様子だった。

「……鷹姫………現状で、うちにできることは、あると思う?」

「………いえ……何も……」

 小松基地を守衛する陸軍も、いつもなら空き時間に鷹姫と陽湖のために草と虫を採取してくれているけれど、さすがに戦闘へ加わっていなくても厳戒態勢を敷いているので、鷹姫の前にもトンカツが来ている。それを一口も食べずに、お湯だけを飲んでいた。三島は落ち着いて雄然ときれいに食べ終えると両手を合わせている。石永は押し込むように飲み込んで、わからないなりに畑母神がくだしている命令に耳を傾けておく。久野は2時間前から、もう戦闘状況のことは意図的に頭から追い出して、道路復旧計画の見直しを国土交通省の官僚と進めている。鈴木は戦況を見守りつつ、ときおりロシアや仲国の知人と電話をしていた。夏子は日本軍が優勢に終わった場合と、劣勢に終わった場合の財務計画を脳内で想定しようとしているけれど、不確定要素が多くて難航し、眉間に皺を寄せている。鮎美は何もできない時間を過ごしていたけれど、鈴木が言ってきた。

「フーチン大統領へ連絡を取ってみますか?」

「……………。いえ、日本軍を信じます」

「……そうですか……」

「……」

 鮎美は冷めてしまったトンカツを無理に食べた。味を感じない。

「これで終わりか」

 畑母神の声がモニターから響いて、全員が凝視する。

「おおむね、戦闘は終わった。これから報告におりる」

 畑母神は司令室を鶴田に任せて地下室へおりてきて報告する。

「沖縄沖で始まった海戦だが、仲国軍が投入してきた戦力は我々の4倍だった。艦艇の数も戦闘機の数も敵軍優勢だった。結果として日本軍はイージス能力のある艦船は一隻のみを残して失った。戦闘可能な水上艦は7隻を残すのみとなった。また、戦闘機も32機が帰還したのみで、他は帰ってこない」

「「「「「……………」」」」」

「だが、潜水艦は水嶋艦長の艦が撃沈されたのみであるし、彼は敵の最深部に切り込み、1隻で7隻を撃沈させてくれた。戦闘全体でも4倍だった仲国軍を4分の1まで撃ち減らした。そこまでの損害を双方が出した時点で戦闘は終わり、結果として彼我戦力差は核兵器の存在を除けば、変わっていない。勝敗の評価は、いろいろとあろうが、私は我々が勝った、と言う。戦死者の数は、正確な集計がまだであるし、海上での救助の可能性もあるから未定となるが、3千名から5千名が戦死したのは確実です」

「「「「「……………」」」」」

「概要は以上です」

 畑母神が敬礼したので鮎美が答える。

「……ご苦労様でした……本当に…」

 鮎美は畑母神へ抱きつきたい衝動を覚えたけれど、自分の立場と相手が異性愛者であるので、それを自制した。

「ありがとう!」

 代わりのように、夏子が畑母神へ抱きついていた。石永も畑母神へ握手を求め、新屋たちも集まって国を守ってくれた男に感謝した。それでも、畑母神は笑顔一つ見せず、戦死者を悼んでいたので、夏子たちも喜びよりも追悼の念をもった。鮎美が総理大臣として問う。

「再び仲国軍が攻めてくる可能性は、どうですか?」

「近日中、数年のうちには、きわめて可能性は低いはず……向こうも陸軍は、そのまま残っているが、航空戦力と海洋戦力が半減し、周辺国とのパワーバランスを考えれば、これ以上の損害は出せないゆえに」

「そうですか………おおきに、ありがとうございます、本当に」

「……散っていった者たちに……」

 畑母神は何か言おうとしたけれど、言葉にならず飲み込み、せめて問う。

「陛下への報告を私がなしてもよいでしょうか? 戦死者のことも含めて」

「はい、お願いします」

 総理大臣をさしおいて報告する許可を鮎美は迷い無く与えた。この状況下で京都へ行くことはできないので、畑母神はこの場で電話する。戦闘結果は機密であっても、もう各国も観測しているはずなので盗聴を恐れず、まずは島津に報告し、それから義仁へ直接に申し上げた。それで義仁は英霊を祀る儀式を始めることになる。鮎美は国民への報告のために斉藤に撮ってもらう。

「こんばんは。芹沢鮎美です。本日13時14分、仲華人民共和国の軍隊により沖縄沖にて日本軍が攻撃を受け、これに反撃し大きな勝利をおさめましたが、ある程度の被害も受けています。双方の被害は大きく、これ以上の衝突は、どちらのためにもならない状態です。被害の詳細は機密ですが、いまだ日本軍には十分な戦力が残っておりますので、ご安心ください。また在日仲国人へ暴行を働くことは、やめてください。そんなことをしても戦死者は帰ってきませんし、当然、在仲日本人でいまだ仲国から脱出できていない人が暴行に遭う可能性があがるだけです。くわえて在日仲国人へ通告します。帰国を望まれる方は、お近くの市役所に登録してください。航路の安全を確認の上、台湾を経由して帰国していただきます」

 もう台湾とは鈴木が話をつけてくれていたので、お互いの邦人帰国は台湾経由となっているけれど、そう数は多くない。すでに震災直後の原発事故で帰ろうと思う者は帰国しているし、残りたいと思う者は残っている状態だった。鮎美の発表は英語と仲国語にも翻訳されて配信された。その配信が終わって鷹姫が淹れてくれた紅茶を飲むと、鈴木が胡錦燈による配信情報をもってくる。日本語に翻訳されて流してくれた。

「仲華人民共和国主席、胡錦燈であります。本日13時5分、日本の軍隊と称する武装組織に我が軍が東シナ海で攻撃を受け、これに反撃し大なる戦果をおさめ、我々は勝利しました。このような事態につき、日本政府へ謝罪と賠償を求めます。また、沖縄は不当に日本が占拠しているものであり、人民は解放を待っているのです。我々は、これからも人民の解放に努力を惜しまない覚悟をもっています」

「………どっちも勝ったと宣伝するんやね……うちらもアホやわ……、もともと人民解放軍と称しつつ、思いっきり人民抑圧軍やし、うちらは、うちらでイージス艦まで装備しておいて、これは軍隊ではありませんやったからなぁ。建前と実体が違いまくりの嘘つきまくりの欺瞞だらけやん……」

 鈴木が言ってくる。

「芹沢総理の発表内容は、やや正直すぎませんか?」

「嘘ついても国民は見抜くやろ。ちょっとした軍事マニアやったら帰還した戦闘機の数くらい数えるやろし」

「たしかに……」

「こういうとき胡錦燈はんと会談した方がええの?」

「いえ、どちらも引っ込みがつかないので、しばらくは冷却期間をおくものですよ」

「そういうもんですか、やっぱり……はぁぁ……」

 鮎美は22時を過ぎているので、鷹姫に勧められて入浴した。エネルギー節約のためには女性隊員たちと同じ女湯を使いたいけれど、護衛と鮎美が同性愛者である都合もあって貴賓室で一人で湯に浸かる。里華は仲国軍との戦闘が始まる前に山梨県にいる姪へ会いに行くため休暇許可をもらったのでおらず、鷹姫と麻衣子が世話をしている。

「……ご飯食べて、のんびり、お風呂に入って……津波直後も思ったけど、うちは、こんなんで、ええんやろか……」

「…………」

 鷹姫が答えられず、麻衣子が答える。

「だからといって、お風呂に入らないでいて、何か解決するわけじゃないから」

「そやけど……この小松基地のパイロットも何人も帰ってこんかったのに……大浦はんの知ってる人とか、亡くなった?」

「私は陸自……陸軍だから、空軍の人、ぜんぜん知らないし。でも、基地の雰囲気は暗くなったかな………」

「芹沢総理、お疲れでしょう。お背中を流します」

「……うん、おおきに」

 素直に鮎美は背中を洗ってもらう。鷹姫は丁寧に洗いながらも、強い空腹を感じていたし、柔らかそうな鮎美の肩の肉を見ていると、あろうことか噛みつきたいという衝動を覚えて、自分でも驚いたし同時にお腹が鳴った。

 クゥゥ…

 鮎美が振り返って問う。

「鷹姫、トンカツは食べたの?」

「いえ」

「もったいないやん」

「月谷に与えました」

「……ほな、鷹姫は何も食べてないんやろ?」

「はい」

「…………それって、暗に、というか、モロに、うちに陛下と結婚せいと圧力かけてる?」

「はい」

「………………はぁぁ…あの人、まだ15歳やん」

「結婚の年齢制限など、今のお立場なら、いくらでも変更できます」

「はいはい」

 クゥゥ…

 また鷹姫のお腹が鳴った。

「あんたなぁ……うちが陛下と結婚したら、ちゃんとご飯を食べるの?」

「いえ、もう一生、食べません」

「え~………鷹姫って食べるの、めちゃ楽しみにしてたくせに?」

「我慢します」

「痩せ我慢そのものやなぁ……どうしたもんかなぁ……あんた頑固やもんなぁ…」

 あえて鮎美は国際問題を忘れて身近な問題を考えようとして、再びお湯に浸かったけれど、三井が浴室のドアをノックしてきた。

「鶴田中将より至急の報告があります!」

「ええよ、入って」

 ゲイとレズビアンの間なので浴室に入ってもらった。三井も目のやり場に困ったりせず、鮎美が服を着ているときと同じ態度で報告する。

「麗国軍と思われる武装勢力から、対馬が遠距離砲撃を受けています」

「っ…」

 鮎美は急いで浴槽から揚がろうとしたけれど、自分が司令室に駆け込んでも何もできないことを思い出して、そのまま問う。

「畑母神先生は?」

「別の士官が報告に走っているはずです」

「ほな、ごめんやけど、ちょくちょく往復して、うちにも経過報告して」

「はっ!」

 三井が敬礼して出て行くと鮎美は髪を洗う。核兵器と長距離ロケットをもっている仲国軍との戦闘が始まったときは、失禁しそうなほど怖かったのに、核兵器どころか航空戦力も無くなっているらしい麗国軍からの砲撃と聞いても、のんびりとトリートメントまでするほど、落ち着いていた。

「あいつら、北朝鮮軍との戦いの後やのに、何を考えてるんやろ」

 鮎美は麗国の立場で考えてみる。趙舜臣の人柄は知らないけれど、自分自身が好戦的な軍人だったら、という仮定で考慮した。

「………北朝鮮へは38度線を越えて侵攻したら核兵器の待ち伏せがあるかも……兵士も怖くて行きたがらん……しゃーないし停戦しよ……けど、国内も核ミサイルで4カ所もやられたのに賠償金も取れん………停戦したら、これからは内政で自分の専門外になってまう……もう一つくらい戦果がないと大統領になれんかも……そういえば、仲国が日本へ攻撃して大勝利したらしい……大きな被害があったって総理も認めよった……もともと日本がムカつく……難民船を追い返して、北朝鮮との戦闘も高みの見物やった……1発目のミサイル代も勝手に折半とか決めよったし、2発目を求めたのにミクドへ払わんかった……イラクでは1兆円も出したくせに……超ムカつく……あいつらから金を取りたい……今なら仲国軍との戦闘でヘロヘロかもしれん……とりあえず対馬に砲撃して様子をみよ……どうせ、リーダーは小娘やし、ビビって泣き入れよるかも……賠償金と、うまいことしたら竹島を李承晩が確保したみたいにオレも対馬を取れるかも……そうなったら大戦果や……よし、攻撃や! 撃て! ………こんなとこか…」

 思考しながら髪を洗い終わると、再び三井が入ってきた。

「報告します! 司令室へ畑母神防衛大臣が到着、総指揮に着かれました。くわえて対馬への砲撃を麗国軍によるものと特定。おそらくはK9-155mm自走榴弾砲によるもので、発射位置は朝鮮半島最南部!」

「……対馬と麗国って、どのくらいの距離でした?」

 鮎美は問いながら日本近海地図を思い出してみる。近いとはいえ、対馬と朝鮮半島最南部にはそれなりの距離があった気がする。

「約50キロです!」

「……50キロも……そんなに遠くに現代の大砲って、届くんですか?」

「はっ! 長射程榴弾砲に特殊な砲弾を用いれば、届きます」

「すごいもんやなぁ……戦艦大和の主砲でも、そんなに届かんかったんちゃうの?」

 鮎美の問いは鷹姫に向けられていたので、すぐに答える。

「大和の主砲射程は42キロです」

「大和以上なんや」

「………」

 三井は入浴を終えて身体を拭く鮎美が腋だけでなく股間も剃毛していたので、ちょっと意外だったけれど、そもそも女体に興味がないので見なかったことにする。身体を拭き終えた鮎美は裸のまま貴賓室の椅子に座り腕組みして考え込む。鷹姫がドライヤーで鮎美の髪を恭しく乾かし始める。その姿は秘書というよりメイドに近かった。

「対馬に自衛隊…やなくて、日本軍はいてくれてはるの?」

「はっ! 谷村博史(たにむらひろし)対馬警備隊長が指揮する対馬警備隊約350名が駐屯しております」

「民間人は?」

「約3万人超が居住しています」

「……3万、けっこうな人数やね、位置的に津波の被害はゼロやったやろけど……にしても、三井はん、詳しいね」

「自分も去年まで対馬におりましたから」

「それはまた……仲間が心配やろね…」

「いえ! あいつらなら大丈夫です!」

「頼もしい答えやけど、震災と対仲戦で疲れきってはるんちゃうやろか……人数も減らされてたりせん?」

「平時から対馬は防衛の要ですから、畑母神防衛大臣の判断で震災においても人員の削減はされておりません」

「さすが……うちが口出しすることは何もないね……戦闘が終わってから、どうするかやけど、………負ける可能性は?」

「ありません!」

「……思いっきり断言しはるね。根拠はあります?」

「負けるという総理の表現が対馬を占領されるという結果であれば、現状ではありえません。麗国軍は遠距離から砲撃してくるのみで上陸部隊を用意している気配はなく、潜水艦等による潜入も警戒しています。砲撃にしても最大射程ギリギリで精度は低く、また、かりに徹底的な砲撃によって駐屯地等の施設を破壊されても、隊員は軽量で効果的な装備をもって山間部に潜み、地の利をいかした抵抗戦をおこなうことになっています。大規模空爆か、核兵器によって山ごと焼き払うような攻撃を受けない限り、持ちこたえます。それこそ、草と虫、生の蛇を喰ってでも」

 三井がニヤリと鷹姫に笑みかけた。三井は女性に嫌悪感をもつ同性愛者であっても鷹姫には女じみた軟弱なところが少ないし、ここのところずっと草と虫を食べ続けることに挑戦しているので軽い好感を持っている。鮎美は対馬にいたこともある三井の説明で安心した。三井が付け加える。

「畑母神防衛大臣より伝言です」

「はい、どうぞ」

「安心して、おやすみください、どちらかといえば仲国との政治的落着のつけ方こそ、ゆっくり考えておいてください、とのことです」

「わかりました。畑母神先生へも、ご自愛くださいとお伝えください」

「はっ!」

 三井が出て行くと、もう24時が近いので鮎美はベッドに入った。鷹姫と麻衣子も出て行く。

「………たとえ、負けんとしても………今、対馬の住民は、めちゃめちゃ怖い思いをしてるんやろな………」

 シーツの中で寝返りをうった。極度の疲労があるので眠気が襲ってくる。

「……死んでる人もいるかもしれんのに……うちは温かい布団の中………けど、そういえば、うちが刺されて死ぬかと思ってるとき、ぜんぜん無視して受験勉強してる生徒もいたなぁ……あの人は志望校に受かったんかなぁ……受かった大学が残ってるとええけど……」

 そこまで考えて眠気に負けた。

 

 

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