第68話 3月23日 アメリカ製憲法への解釈、総理大臣、帰ってきた陽湖

 復和元年3月23日水曜、午前0時、鷹姫は医務室で背中にガラス片が刺さった負傷を治療してもらっていた。

「どう? 痛むかしら?」

 以前に鮎美を寝かしつけた看護師の資格を持つ舟崎美紀子という女性自衛官が包帯を巻いた鷹姫の美しい裸の背中を眩しそうに見ながら問うた。

「大丈夫です、ありがとうございます。……」

 舟崎が女性同性愛者であることは鷹姫にも一目瞭然にわかった。胸につけているマークでわかる。義隆と泰治が組織化した芹沢少数者差別阻止部隊に任意で参加している者は、同じく任意でマークをつけることになっていて、部隊名の頭文字をとってSSSSでフォーエスと義隆が決めた。金属製のバッチや記章を作る時間的余裕も予算もないので、ただの紙に印刷したマークを切り抜いて貼るというだけだったけれど、総理代理が同性愛者である今、かなり存在感のあるマークになっていた。さらにSSSSのマークを虹色で印刷すると、LGBTのいずれかであることのカミングアウトになるし、虹色でなくピンクを選ぶとレズビアンであるとしていた。

「あなたも女性同性愛者なのですか……意外に多いのですね」

 背中を見られていた鷹姫が制服を着ながら言った。

「変な目で見たつもりはないけれど、不快だったら、ごめんなさいね。あんまりにも、あなたの背中がキレイだから」

「別に気にしていません。私はノンセクシャルらしいですから」

「へぇ……いるのね、話には聴いたことがあるけれど。あなたはフォーエスのマークは着けないの?」

「私は芹沢総理の秘書であることが第一ですから」

 鷹姫の制服には秘書としての議院記章がついている。もう国会議事堂は存在しないので、出入りに要する用途は消えても、いよいよ着け始めて時間が経ち、自衛官が階級章を誇りに思うよう、鷹姫も議院記章を誇りに思いつつあった。

「そう。それも、いいわね。そう言う私も、やっと、ふんぎりがついて、さっき着けたばかりだもの」

「そうなのですか?」

「ええ、自分の性的指向のことは生涯、黙って、男性と結婚して子供もつくったことだし、愛人との密会のことも夫に黙って、ひっそり生きていこうと思ったけれど、さっきの核ミサイルで死んでいたかもしれないと思ったら、隠しているのがバカらしくなって」

「……。やはり女性同性愛者でも異性との結婚は可能なのですか?」

 急に鷹姫が興味をもって問うた。

「え、ええ。まあ、……本意ではないけれど、結婚すれば両親も喜んでくれるし、やっぱり、子供は愛しいから」

「子供……」

 鷹姫は憧れた目をしたけれど、今は非常時なので顔を引き締め、制服を整えた。背中の傷は医官に3針縫われただけで、貴賓室の窓ガラスを割って飛び込んできた金属片も自衛隊側の迎撃ミサイル由来の破片だったので放射性物質なども無く、北朝鮮側のミサイルに搭載されていただろう核物質は大半が海に没したようだった。

「治療を、ありがとうございました」

「いえいえ、とても大変なことになったけれど、あなたにも総理さんにも、どうか頑張ってほしいわ。お願いします」

「はい、頑張ります」

 秘書として答え、鷹姫は医務室から鮎美たちが緊急閣議を開いている地下室に移動する。

「………鮎美……」

 心配だった。鮎美は無傷だったし、鷹姫の傷を心配してくれたけれど、それよりも鮎美の精神的ダメージが心配だった。やっと母親の死から立ち直ってくれた様子だったのに、その直後に核攻撃という最悪の事態が発生し、どんな気持ちになっているのか、とても心配している。足早に鷹姫が地下室に入ると、鮎美と石永、鈴木、新屋、三島の他2名の閣僚がいて緊急の閣議を開いている。夏子や久野などの閣僚は省庁をおく金沢市や福井市に宿泊していたので、その場で安全に過ごしてもらうことにしていた。防衛大臣と統合幕僚長を兼ねる畑母神は司令室にいて、地下室とは有線でモニターをつないだので盗聴の危険なく閣議に参加しながら自衛隊全体への指揮もとれる体制になっていた。

「もはや戦争状態だな」

 石永が言い、三島が頷く。

「もともと朝鮮戦争は休戦していただけで終戦しておらんからな」

「麗国と北朝鮮……どう戦っているのか…」

 朝鮮半島で起こっていることで、入ってくる情報は、せいぜい衛星写真を分析したものや電波を傍受したものくらいなので、つかんでいる情報が正確なのかは不明だったし、北朝鮮軍は快勝しつつ南下中という宣伝をしている。小型モニターに映っている畑母神が発言する。

「推測にすぎないが、麗国は首脳部が核攻撃を受けて、かなりのダメージがあるようだ。もし、大統領が健在であったなら、もう何らかの報道なり、反撃宣言をするだろうに何の反応もない」

 日本では石永が着弾直後に全国に向けて官房長官として動画を配信していて、平時から核ミサイルにそなえるべきだ、日本も核武装すべきだ、と持論を展開していただけあって何度も脳内で想定していた事態だったので、落ち着いて国民に自宅待機と爆心地から遠ざかるよう指導していた。石永が畑母神へ問う。

「麗国軍の現況は?」

「各個に反撃しているような戦火は衛星写真や電波傍受で確認できるが、優勢か、劣勢かは正確にはわからないが、やはり核攻撃直後の混乱と、米軍不在を突かれ押されているようだ。市民は逃げ出そうとし道路は大渋滞。しかも道路と鉄道、電力設備へ潜入していた工作員が爆破テロを行ったようで重要箇所で交通と電力が寸断されている。車のヘッドライトのおかげで、衛星写真で渋滞の程度はわかりやすい。だが、いずれ車を諦め、徒歩での避難になるだろう。……他国の国民とはいえ、気の毒なことだ」

 司令室にいて生々しい電波傍受の声や戦火を見ている畑母神は普段は蔑視している他国民に、やや同情していた。今しも再度の核攻撃が小松にあって、今度は迎撃ミサイルが外れてしまえば、地上階である司令室は危険だったけれど、その怯えは彼にない。地下室の方は、基地なので爆撃ということも多少は想定した造りになっているけれど、本格的な会議を開くような造りにはなっておらず、狭くてジメジメとした壁紙もない剥き出しのコンクリート壁の部屋へ緊急にテーブルを運び込んで顔をつきあわせているので、まるで敗戦寸前のような気分になりそうだった。官僚や隊員が状況報告を記した文書をもって出入りする鉄扉の音もバタンバタンとうるさい。新屋が報告を受けた国内の治安について述べる。

「我が国でも爆破テロが試みられましたが、夜間外出禁止令と職質の強化のおかげで2件の爆破テロを未然に防げています。引き続き厳重に警戒しておりますが、不幸中の幸いというか、大阪と東京、名古屋が壊滅しているため、平時から潜入していた北朝鮮工作員も多くが津波で流されたのでしょう。わずか2件の未遂で終わりそうです」

 鈴木が外務大臣として言う。

「北朝鮮の金正陽(キムジョンヒン)は演説と対外向けメッセージを発し、長い演説でしたが、ようするに他国は朝鮮半島のことに口出しするな、我々は米軍によって盗まれた勝利を取り返す、日本は核攻撃を受けたことを大戦中の代償として甘受すべき、他国が朝鮮半島に介入しなければ、これ以上の核攻撃はしない、朝鮮南部の民衆は邪悪な資本主義から目を覚まし、我らに協力すれば寛大なる処遇が待っている、無駄な抵抗をすれば無慈悲な炎に焼かれるだろう。と」

「………」

 座ったままの鮎美は黙って無表情に聴いている。石永はテーブルを拳で叩いた。

「ふざけやがって! だから、こっちも核ミサイルを持っておくべきだったんだ! ちくしょーめ!」

「……まずいな………やはり押されている……」

 小型モニターに映る畑母神が斜め上を見上げながら、つぶやいている。その方向には司令室なので、いろいろなモニターがあった。

「……陸でも……海でも……意外に潜水艦による攻撃が巧いのか……」

 鈴木が報告を続ける。

「オパマ大統領は北朝鮮へ、核による報復を行う可能性を強く伝え、ただちに進軍を止めるよう求めています。ですが、そのアメリカ自体が内部分裂しており、白人中心主義を是とする州が、独立宣言をしてミクドナルド・トランプ氏を新たな大統領としたり、黒人が多い州では黒人の州だと言って独立宣言したり、すでに2007年からインディアンの末裔がアメリカ大陸中央部のネブラスカ州、サウスダコタ州、ノースダコタ州、モンタナ州、ワイオミング州の一部を自分たちの領土であるとしてラコタ共和国をつくっています。ずっとアメリカ政府は無視しているのですが、法的には19世紀にアメリカ連邦政府とスー族が不可侵条約協定で確約したものを、その後、一方的にアメリカ側によって破棄されたもので不法占拠しているのはアメリカという状態でもあったりし、勢いづいています。銃の乱射も各所で生じ、まさに大混乱しており、米軍でさえ、手続き上の正当な大統領であるオパマ氏を支持する部隊と、ミクドナルド氏を支持する部隊に別れているようですから、核攻撃といった大胆な決断は期待しにくい状況です。オパマ氏は以前からの軍事予算削減で軍幹部に嫌われており、ミクドナルド氏はアメリカ人兵士の血を流してまで海外の平和を守る気はないという論調で海兵隊層に受けがよいようです」

「…………」

 鮎美は黙って横髪を耳にかけた。その仕草をするときの鮎美が怯えているわけでも悲しんでいるわけでもなく、むしろ冷静に考え事をしようとしているときだと知っている鷹姫は安心した。鮎美の目には恐怖や悲嘆より、かなり強い怒りがある。その目を見つめていて目が合った。

「あ、鷹姫、傷は、どうやった?」

「ご安心ください。かすり傷です」

「ザックリ刺さってたやん。縫うた?」

「ほんの3針だそうです」

「……ごめんな、うちのために……嫁入り前の、女の身体に……」

「お気になさらず、その話も流れましたから」

「え?」

「先日、地元で父に会ったおり、健一郎さんは白川と交際しているので、もう許婚の件は無かったことになったと言われました」

 小さな島で交際を始めた中学生2人が隠し続けられるはずもなく、もう周りに知られているようだった。無表情だった鮎美が気の毒そうな顔をする。

「っ………そんなん……ひどいやん…」

「気にしていませんから、ご心配なく」

 もともと剣道場を継承していくために結婚する気だった鷹姫は破談となっても傷ついていなかった。父から告げられたときも、そうですか、の一言だったし、これで秘書の仕事に専念できるという気持ちもある。むしろ、鮎美の方がショックを受けていた。

「……けど……それなら、なおのこと、嫁ぎ先が未定やのに身体に傷が……この状況では桧田川先生の治療も受けられへんし……ごめん、うちのために…」

「どうか、お気になさらず、気にされると逆に苦しいです」

「………ほな、おおきに、ありがとうな」

 鮎美は立ち上がって鷹姫のそばによると両手で握手する。

「うちが生きてるのは、あんたのおかげよ。鷹姫が背中を押してくれんかったら金属片が直撃して死んでたかもしれんもん。お腹を刺されたときも、そう。あんたは二度も総理大臣を助けた立派な秘書よ。陛下に会うことがあったら、勲章を頼むわ」

「もったいなきお言葉、そのお気持ちだけで私は十分です。この戦乱の世にあって身を尽くしてお守りいたします」

「「「「「………」」」」」

 石永たちは見ていて、やっぱりこの二人は普通の女子高生じゃないな、と思った。二人とも男と結婚するという気持ちに欠けるので、養ってもらう、守ってもらう、という気持ちにも欠けるのかもしれない。とくに沖縄より遠い小さな無人島にすぎない尖閣諸島だけでなく、いきなり自分たちがいる場所まで狙われて、もう何もかも嫌になって石永たちに地位も権限も投げ渡してくるかもしれない、という不安と期待を持っていたけれど、それは無いようだった。鈴木が続ける。

「仲国とロシアは沈黙、事態の推移を見守っているようです」

 三島が問う。

「麗国政府から日本へ何か連絡はあるか?」

「大統領の健在が確認できておらず、何もありません。こちらから問い合わせるのも、かえって混乱させますし、手助けを求められても……困りますから」

「……避難民には赤ん坊もおろうに……」

「「その件だが…」」

 石永と畑母神が同時に言いかけ、畑母神はモニター越しなので石永に仕草で任せる。

「その件だが、もし避難民が日本へ渡ってきても、我々としては受け入れられない。正直、どこの公民館も、学校の体育館も震災の避難所として使っていて手一杯だ。やっと今日になって初めて食料を届けられた被災地さえある。この上、何万何十万という難民など、まったく受け入れられない。来ても排他的経済水域で追い返し、追い返しても入ってくるようなら、非常時だ、非常の手段をとるしかないだろう」

「非情な………だが、……以前の朝鮮戦争でも難民の処遇に困っておったな」

「ああ、難民を受け入れろと要求され、もともと不法入国者も多いのに、戦火が治まっても、帰還を受け入れず、逆に排他的経済水域のラインを巡って争う過程で日本の漁師を捕縛し、こちらが漁師の返還を求めると、難民の帰還を受け入れるのでなく日本国内に収容所から解放しろと言ってくるし、あげく日米の隙を突いて竹島を占拠する始末だ」

「……それも、また非道な……」

「まして今は、こっちも限界ギリギリだ。いっそ、麗国語でデマを流そうかと思う」

「欺瞞工作か、なんと流す?」

「日本は原発事故と核ミサイルで放射能まみれ、バタバタと人が死んでいる、と。在日麗国人に報酬を払って頼み、動画でも撮るか、外務省のスタッフに作文してもらうかで」

「……それは……諸刃の剣では…?」

「少し危険だが、では逆に日本にいる日本人で、危ないと思い、朝鮮半島や仲国大陸へ漁船で逃げ出す者がいるだろうか? まして情報ソースは麗国語だ」

「………我が乳飲み子を抱えておれば、岐阜の山奥か、奈良盆地に逃げるかもしれぬ。赤子がおらぬ今は自ら剣をとって戦いたいが、国土を守る戦いならともかく朝鮮半島の争いは朝鮮人に任せておこうとも……だが、第二第三のミサイル攻撃があるのであれば、ミサイル基地だけでも叩きたいが、いかんせん上陸作戦も空爆も我らには手段が乏しい。麗国軍と協力しようにも対日感情を考えると、うまくいかんだろう……」

 三島は国を憂う心でクーデターまで起こそうとした武断的な面と、障碍のある子供たちを守りたいという慈愛的な面を併せ持つので、震災後に自国民を助けることには一切の迷いが無かったけれど、もはや戦争状態となり自国にも余裕が無い中で、隣国の弱者が苦しんでいるだろうことを想うと、大きく揺れていた。新屋も治安維持を意識して問う。

「畑母神防衛大臣、難民が来る気配はありますか?」

「レーダー上は無い。まだ夜間であることと、麗国軍が劣勢であることは市民に知れていないからだろう。だが、逃げるにしても南下するし、とりあえず漁船で海へ逃げた後、仲国、ロシア、日本のどこへ逃げるかと迷えば、日本を選択する者も少なからずいるだろう。やっかいなことだ」

 石永が言う。

「海保と海自で徹底して追い返してほしい」

「うむ……それしか、あるまいな。まず対馬に指令を出す。イージス能力のある艦にはミサイル防衛に専念してもらいたい上、まさかとは思うが北朝鮮の潜水艦も警戒せねばならぬ。救助活動で疲れきった隊員たちに………なっ?!」

 畑母神が急に驚いて、また斜め上を見ている。そして鶴田たち隊員と慌ただしく情報を確認しているので、ろくでもないことが起こったことだけは鮎美たちにも伝わってくる。しばらくして畑母神が眉間に深い皺を刻んだ顔で報告してくる。

「尖閣諸島を巡っていた巡視船が突然に轟沈した。おそらく…いや、100%、潜水艦からの魚雷攻撃だ。座礁や機関の故障であれば沈没までに、いくらでも連絡のしようがある。こうも一瞬で沈没するのは魚雷攻撃以外に無い」

「……尖閣諸島は北朝鮮から、かなり距離があったはず……だいたい、あいつらが手を出す意味がない……」

 石永が懸念を否定したくて、顔を歪める。額に脂汗が滲んでいる。畑母神は断定的に言ってくる。

「どう考えても仲国海軍だ。中央からの命令であれ、中間高級幹部の暴走であれ、現場の艦長が功にはやったのであれ、この海域で海保の巡視船を沈めるのは仲国海軍だけだ」

 三島が言う。

「おそらく現場の暴走であろう。今のタイミングで日本を攻撃するのは大国としては面子が悪い。だが、現場の佐官クラスはもともと尖閣諸島は仲国の領土だと中央指導部も言っているのだから、自国の領海にいた日本の違法侵入船を撃破するのは正当な行為だと上司に言い張るだろう。そして、ここから我ら日本が引けば、仲国は尖閣諸島を実行支配できる。となれば、現場の手柄、暴走した指揮官は昇進できる。おおかた、こういう思考であろうよ」

 新屋が問う。

「三島法務大臣、よく相手の思考まで読めますね?」

「うむ。かく言う我も、似たような手を考えておった。竹島は我ら日本の領土だ、これを現場の判断で、たまたま近くを通ったとき、不法上陸者を見つけたので警告し、抵抗したので攻撃した、という武力行使を糸口に我が国の歪んだ国防体制に風穴を開けるクーデターを考えておったのだ。まあ、この作戦は海自の連中が協力せなんだので廃案となったがな」

「………」

 モニター内の畑母神が迷惑そうな顔をしている。当時、海将補だった畑母神は陸自の三島がグループ化した陸自隊員たちを使って海自隊員へも干渉してきたのを事件化しないよう内密に処理するのに、とても苦労していた。三島は男らしく振る舞うけれど、顔立ちは美人なので艦隊勤務で女性に接することが極端に少ない海自隊員たちを口説くのは志の気高さもあって手早かった。高い理想のためには手段は厭わず、そして同性愛指向のある性同一性障碍の女性という特殊な存在なので、男社会に巧妙に入り込んでいた。憲法9条の縛りのために国防体制に歪みがあるのは大いに同意するところではあるけれど、その改変手段としてクーデターというのは賛成できない。法治国家であるのだから、政治家になって改正すべきであるし、自分はそのために地道な努力を重ねてきたという自負がある。

「我の大義への一手と似ておるのは不本意ではあるが、やはり仲国海軍の潜水艦の艦長か、その艦隊司令部の暴走であろう」

「いずれにしても、ことが起こった以上、双方が引けなくなった。だが、こちらには余裕がない。そして仲国側はこの機に攻め取るつもりで来るだろう。もう面子の悪さは気にせず、どのみちベトナム海軍をイジメておるような連中だ。………くっ…またしても殉職者を海保から出させてしまった……」

 畑母神が本来は軍組織ではない海上保安庁の職員を常に矢面へ立たせていることを悔やんでいる。鈴木が肩を落として言う。

「抗議しても無駄ですよね……遺憾は聞き飽きたでしょうし……私たちも言い飽きました」

「………」

 飽きているうちが花やったんやな、遺憾も、くだらん宴会に顔を出しての挨拶も、と鮎美は平和な頃を懐かしく思った。ダム一つ、新駅一つ造るのにさえ、時間をかけて会議し、根回しし、地権者に交渉し、賛否を問うて選挙までする、それだけの時間的余裕と人員の余裕、予算の余裕があってこそ、市民の声を聴くと称して宴会やパーティーをしていたし、市民運動会や盆踊りにも顔を出した。外国からの不当な干渉にも、とりあえず遺憾の意を表明して終わりで済む程度の干渉だったから、そうしていた。けれど、今はもう核ミサイルを撃ち込まれ、艦船を領海内で撃沈された。遺憾で済まないし、もともと家族を攫われた横畑夫妻などは、とっくに人生を破壊されている。鮎美は胸につけている三つのバッチを撫でた。その動作で閣僚たちの問うような視線が鮎美に集まっていた。鮎美がリーダーとして、どう決断するのか、問うている目だった。

「………」

「「「「「……………」」」」」

 答えを求められ、鮎美が決める。

「うちは、まず石永先生の難民を追い返す案に賛成です。こっちも手一杯、福岡は今頃、地獄で、札幌と那須も死傷者はいる。とても無理です。非常時に非常の手段で難民を追い返すのは、やむをえないでしょう。諸刃の剣でも欺瞞情報もよいと思います。さらに、提案があります」

「うん、何だろう?」

 石永が頷いて求めた。

「うちの知り合いというか仲間にワンコちゃんというローカルアイドルがいます。彼女は在日麗国人でした」

「そうだったのか……犬山市の人間だと思っていたが…」

「犬山市には10歳から住んでいるそうです。静江はん、なにか資料ある?」

「あ、はい。えっと…」

 セクハラ写真訴訟は静江の担当だったけれど、そんな資料など小松に持ってきていないので静江はタブレット端末でワンコのローカルアイドルとしてのSNSページを開いて閣僚たちに呈示した。鮎美が説明する。

「可愛い子やしローカルアイドルに合格したんでしょうけど、本名は李王娘(リーワンニャン)、在日やとわかったんは、セクハラ写真集団訴訟で弁護士に法廷代理人となってもらうのに戸籍を取り寄せたからですが、本人も隠していません。加えて愛人の子供という複雑な生まれですが、それは別問題として、彼女には、うちと似たような役割を担ってもらおうと思います」

「「君と?」」

 畑母神と石永が同時に問うた。

「今、核攻撃を受けた麗国は首脳が健在なのか不明、せめて結束の象徴でもなければ、市民の心も支えられんでしょう。そこで、ワンコちゃんに在日の代表として、日本で在日麗国人の義勇軍を募って、すぐに助けに行くから頑張って、と情報を流すんです。見た目も可愛いし、アイドルだけあって喋りもイケます」

「なるほど……しかし、在日麗国人が本国を助けに行くだろうか……言っては何だが、今の在日の若い世代は、ニューカマーと呼ばれ、ほぼオレたち日本人と同じような感覚でハングルが理解できず、日本語を母語としていることが多い。今さら、どの程度の愛国心があるか、まして、戦争中のところへ行くとなると、よほど勇気と愛国心が無ければ難しいだろう。それに、義勇軍といっても武装はどうする? 自衛隊に余分な武器はないぞ。幸か不幸か、日本には余分な銃さえない。対人戦闘には不向きな猟銃さえ数少ない」

「義勇軍が組織できるか、できないかは問題ではありません。助けが来る、と信じて戦うことが重要なんです。正直、義勇兵が集まっても武器も食料も供給できません。それをすると日本政府としての戦争協力になりますし、また無慈悲なミサイルが来るかもしれませんから、ワンコちゃんには頑張って演説させますが、それを流すのは麗国に向けてのみで日本では石永先生のいう放射能汚染のデマと同じに、なるべく流れないようにしますし、私たち日本政府は無視します。いえ、むしろ、迷惑扱いして、私たちとは無関係やと北朝鮮にはアピールします」

「……君がひねった策を考えるのは知ってたけど、また、えぐいことを……」

「可愛いアイドルが頑張って演説してるのに、男としては逃げられんでしょ?」

「男の生態を突くなぁ……君はやっぱり、男を働きアリか、ハチだと思ってるだろ?」

「ハチもアリもヒトも同じ命です。巣を守るために頑張るのも同じ」

 鮎美の目は静かに怒っていて、巣を荒らされた女王バチのような冷たい目をしている。鮎美が視線を畑母神が映るモニターへやった。

「畑母神先生、北朝鮮は、あと何発、核兵器をもっていると思われますか?」

「今までに精製されたであろう核物質の量から予測して10発から17発と言われていた。あと7発あるか、それとも、もう1発も無いかもしれない」

 石永が言う。

「いきなり全部は使わず2、3発は残すのでは?」

「うむ。残したいという考えにも説得力はあるが、電撃的に勝利するのであれば、全弾をもって一挙に有利としたい動機もあるだろう。あえて二度目の核攻撃に言及しているが、他国が介入しないのであれば、これ以上は撃たないと言うのは、核の報復を予防するのと、もう無いことをカモフラージュしつつ、もう無いかもしれないので核報復は様子を見ようと、アメリカに考えさせる戦術でもある。結果として即時の核報復はされていない。それどころでないこともあるだろうが、金将軍、敵ながら賢しいことだ」

「つまりは0発から7発ですね?」

 鮎美の問いに畑母神は頷く。

「うむ、すまないな、断言できず」

「いえ、あと一つ提案があります。これは対仲国も含みで」

「ああ、何かな?」

「自衛隊を日本軍にします」

「……軍に?」

「ずっと畑母神先生も三島はんらも自衛隊が完全な軍でないことに忸怩たる思いをしてきはりましたよね?」

「「うむ」」

「とくに戦死しても殉職と言われるし、PKOの海外派遣でも殉職であって戦死でない。軍艦やなくて護衛艦、そんなくだらない言い回しをしてきましたが、これを全部、取り去ります」

「……どうやって? 改憲でもせねば無理だろうに」

「いかに芹沢殿が総理代理令を出せる状況とはいえ、さすがに憲法は……」

 戸惑う二人に鮎美が断言する。

「そもそも、あの1946年のアメリカ製憲法は無効と言えば無効です」

「「「「「…………」」」」」

「法律的思考として、強迫によってなされた意思表示は、取り消すことができ、法律行為の効果を初めに遡って無効とできます。武力によって強迫され押しつけられた憲法は、追認できない部分は無効です。もともと9条なんて何十年も前から守っていません。私たちは、まだ大日本帝国憲法下にあると考え、この国を統治する天皇に、その大権をもって私を内閣総理大臣臨時代理ではなく総理大臣としてもらいます。さらに私が自衛隊を日本軍であると宣言します。その瞬間をもって自衛隊は完全な軍となるのです。また遡って殉職は戦死とします。百色さんも海保の方々も、さらに過去にPKOで亡くなられた方も」

「………そんなことに何の意味があるの……」

 思わず静江がつぶやいてしまうと、鮎美は説明する。

「うちにも実感としてはわかりませんが、自衛隊の方々には大きな意味があると考えます。どうでしょうか? 畑母神先生、日本軍である場合と、自衛隊である場合の、この状況下での士気の違いは?」

「…………ああ、大きく士気に関わる。行動の選択にも」

「では、そうします。行動の選択も、自衛隊法ではなく国際法上の一国の軍隊として秩序ある行動をとってください。難民の追い返しは厳重に、威嚇射撃も許可します。著しく指示に従わず排他的経済水域を犯す船に対しては、なるべく殺傷を避けつつも船体へ命中させることもおこなってください。結果として沈没しても責任は問いません。私が決めたことです。これで死ぬ難民は私が殺したのです、ただし、日本人を救うためです。追い返しの論法は、難民を装ったテロリストがいるかもしれない、かつ難民が日本国内で犯罪を犯さないという証明が無い、という悪魔の証明です」

「……。わかった。……了解いたしました」

 畑母神がモニターの中で敬礼した。石永が言う。

「理屈はわかるが……とうとう君は昭和憲法全体までも解釈一つで無効とするのか……」

 鈴木も言う。

「あなたは独裁者になる気ですか? さきほども総理大臣と言われたけれど、内閣総理大臣ではないということは内閣さえ無視するという意味ですよね? 私たちのことも臨時代理人としている」

 鈴木はベテラン政治家らしく鮎美が設定した言葉に敏感だった。そういう問いを鮎美は予想していて答える。

「私が総理大臣となった後、先生方には国務大臣として就任していただき、総理大臣を輔弼(ほひつ)していただきます。そして私の死亡時にもそなえて後継者の順位を決めて」

「「「「「…………」」」」」

 この子は独裁を否定しなかった、と皆が思っているので鮎美は軽く首を傾げる。その可愛らしい仕草と独裁者という存在はかけ離れているけれど、たしかに、ここにいる。

「独裁といっても明治政府の初期くらいです。そして、もう先生方と、ここにおられる官僚方にも言っておきます。ただし、守秘義務は命をかけて守るように」

 鮎美の前置きで、畑母神も何を言うつもりなのか、悟ったし、もう止めない。事態がここまで進行した以上、閣僚と高級官僚は知っておくべきだった。

「在日米軍はハワイへ救援に出て行ったのではなく、日本から撤退したのです。暫くの間、という表現で私へ大統領が通告してきましたが、すぐに戻れるつもりなら通告しなかったでしょう。同じく在麗米軍も撤退しているようです」

「「「「「っ…………」」」」」

「日米同盟があるのに?!」

 静江がパニック気味に問うた。鮎美は唇だけで微笑して言う。

「どこの国でも、どこの誰でも、自分らが一番ですやん。自分の家が燃えてるのに、よその火消しに行きますか?」

「……けど…でも……今まで、思いやり予算だって、たっぷり…」

「あんなもん、ちょっと工夫した賠償金ですよ。第一次大戦でドイツに過大すぎる賠償金をかしたのが次の戦争の原因になったし、ほな、そこそこダラダラ取れる賠償金にしよ、えらい経済発展しよったし、このイエローモンキー変わった種やな、エコノミックアニマルやん、合衆国に住み着いてるブラックとレッドも、使いよう無いかなぁ、くらいの感覚ですよ、白人の本音は」

「……」

「もっと言えば、民主主義やってたら黒人が大統領になりよった、ムカつくわ、やっぱ白人に変えようぜ、しかも大地震で原発まで、もう世界の警察なんかやってられるか、オレらはアメリカ大陸だけでやる、お前らなんか知らん! きっと、そんな気分でいるんですよ。うちがアメリカ人でも、そう考えます。面倒やもん、世界中に軍隊派遣して頑張るとか。そして、うちら日本人も、そうでしょ? 福岡は助けにいくけど、朝鮮半島で何が起こっていようと、こっち来るな、それが国民の総意ですよ、どこの国も」

「「「「「……………」」」」」

 沈黙が重い。アメリカ軍撤退という事態に閣僚も官僚も黙り込む。鮎美は三島を見て問う。

「死刑囚への刑の執行は終わりましたか?」

「うむ、昨日すべて終了しておる」

 もともとアメリカ軍を追い出したくてクーデターまで計画した三島は、あまりショックを受けていないようで即座に答えてくれた。

「ありがとうございます。では次は、うちが総理大臣になったら、無期懲役と殺人もしくは傷害致死で懲役10年以上の刑にある者、および窃盗等の軽微な犯罪であっても懲役3年以上の刑に服すること3度以上である者への刑務所での食事の提供を止めてください。労役に服させるのも手間なんで牢に入れたままでよいです。麻薬等の薬物濫用犯は2度以上の収監で、そうしてください。くわえて丈夫な紐など、容易に自殺が可能となる物品もズボン紐として与えておいてください」

「………食料の節約か……国民へは、伝えていないが、きわどいことは確かだが……」

 三島以外の閣僚たちも反対しない。鮎美は当初の演説でパニックを避けるために食料は足りると言っていたけれど、かなり状況は悪化していて先行きは不透明になっている。

「あと、安楽死を認めます。病院に通達を出してください」

 鮎美は厚労大臣が金沢市にいるので副大臣に言っておく。

「入院中の65歳以上の高齢者、若年であっても難病である者、精神疾患にて90日以上の入院をしている者の安楽死を認めます。精神疾患で事理の弁識ができない者、自殺の念慮が当初からある者へも、選択肢として呈示するよう。強制はせず、あくまで選択肢として。それによって浮くはずの医師を福岡で被爆した人への救援に向けます。ですから、安楽死の説明、死に至る薬剤の付与は薬剤師と看護師でもできる、とします」

「「「「「…………」」」」」

 また反対は出なかった。核攻撃を受けた被災地では医師の手は、いくらあっても足りないし、鮎美が列挙した病人は統計上回復する見込みが少なく、一応は強制でなく選択であるなら虐殺でもなかった。石永が考えつつ挙手して言う。

「だが、その案だと浮く医師は老人の療養病棟専門だったり、難病専門、精神科医ってことになるぞ。福岡で必要なのは外科医や皮膚科医だろう」

「それでも医師は医師ですし、一部で浮けば、医師会の方で都合もつけてくれるでしょう。それに原爆症の治療経験がある医師は70年前ですから……もう現役ではないでしょう。たとえ専門でなくても、医師に診てもらえれば少しはマシだと思います」

「そうだな……」

 石永が納得し鮎美が続ける。

「また65歳以上の老人を介護する個人および事業者に刑法218条を免責します。加えて治る見込みのない障碍者を介護する個人および事業者へも」

「芹沢殿!! それは、あんまりである!!」

 三島が一喝したけれど、鮎美は予想していたので動じない。

「見捨てる自由を与えただけです。積極的に傷害する行為は傷害罪により罰しますが、食事を与えない等の不作為は認めます。また、当事者の安楽死も認めます。今現在、それだけ余裕が無いということです。三島はん、あなたは障碍者福祉に尽くしてこられた人であり、経済的な豊かさを形成しながら弱者に冷たい社会を糾したいと行動しておられましたが、今現在の状況悪化でも福祉の充実が可能であると考えますか? この春の田植えは農業機械で可能だったとしても、秋の刈り取りは燃料をつかう機械でなく私たちの手で刈り取ることになるかもしれませんよ」

「…………」

「どのみち私たち政府が認めなくても現実的に介護困難で、思い悩み介護者まで心中するケースも出てきます。保護責任遺棄や自殺幇助で、まだ労働力たりえた人を逮捕するのも私たち全員にとって損失です。私の友人にね、平時でも、このことで悩み続けて逆に性格がおかしくなった子もいるんですよ。もともと無理なものは、無理、治る見込みのない障碍者を優しく介護し続けるなんて、よほど精神が強靱な家族にしか無理なんです。人に無理を強いるのは、よくない。心の弱い人が、より思い悩むケースを無くすため、見捨てる自由を与えます。見捨てない自由もあります。それぞれが決めることです。この件に関して国家が刑法で国民を縛るのをやめ、各個人の判断と愛に一任するわけです」

「…………愛に……一任か……」

「はい、愛が尽きれば、そこで終わりです。愛は法律で強制するものではありません。この点、離婚訴訟でも同じ、愛が法律によって呪いになっては意味がないんですよ」

 新屋が問う。

「ですが、事業者まで含めるのは職務放棄では?」

「志をもってプロになった人は今の状況でも頑張れるだけ、頑張ってくれるでしょう。けれど、頑張りすぎて、その人が過労死するようでは意味がないんですよ。まして、介護者自身も食事や睡眠が確保できてないかもしれません。そこへ次々と傷病者が運び込まれてくる。頑張っていただきたいですけれど、頑張りすぎないでほしいのです。まして、わずかに目を離したり、疲れて居眠りしたり、行方不明だった自分の家族と連絡が取れたときだったり、そんなときに要介護者が喉を詰めて死んだりとか、そういうのまで罰する道理はおかしいでしょう。また、再びJアラートが鳴ってミサイルが来るかもしれん。もしくは、福岡の被爆地から2キロ地点の介護施設に居るけれど、このまま居続けて自分自身が大丈夫なのか不安だ、というとき、職務放棄しても仕方ないです。そして家族が家族を捨てるとき、後ろめたいなら警察か消防、市役所に一応は通報してくれればよいのです。当然、現地の行政機関も手一杯かもしれません。手一杯で誰も助けに行けなかった、けれど、それは仕方ないことで誰かを罰していくようなことではない。やむをえず見捨てた、どのくらいの状態で、やむをえないかは、本人次第、誰も見捨てたことで罰されることはない、と」

 鮎美が例として言ったことは、すでに現実として発生していて、事故原発付近の病院で医師が患者を見捨てて逃亡したり、それでも看護師が残って賞賛されたり、祖父を家に残して避難した人もいて、今後これらが立件されるのかは問題ではあった。聴き始めは憤っていた三島だったけれど、最後まで聴くと、静かに肩を落とした。

「…愛が法律で呪いになるか……たしかに、我が求めてきた出生前診断、着床前診断の禁止もまた、生まれてきてのちの大変さを父母が懸念してのこと……その懸念に刑法218条は大きく関わっているだろう……それを問わぬから、愛が尽きるまで頑張れ、と言えば、逆に挑戦する者もいるかもしれない……かっ…かっ…かっ…憲法9条の件といい、我が生涯を賭してやってきたことを、たった18歳の芹沢殿は、いとも簡単に突破してしまうのだな」

「状況の切迫が求めているからですよ。平和やったら9条は信仰できた、けど信仰は幻想にすぎんかったと証明された。それだけのことです」

 三島からの反論が無くなり、鮎美は立ち上がりつつ言う。

「この方向性で細部を詰めておいてください」

 鮎美が席を離れるので石永が問う。

「どこへ?」

「陛下にお会いしてきます」

「この夜中にか? いや、ことは一刻を争うか…」

「京都へ着く頃には朝になるでしょうし、うちも車内で仮眠します」

「芹沢殿、ただの自動車では危険だ。せめて装甲車で行かれよ。護衛も準備してある」

 三島が言ってくれて鮎美は装甲車に乗った。不眠で閣議していた鮎美のために車内には毛布が敷いてあったので鷹姫と横になる。背中に傷がある鷹姫は横向きに寝た。

「鷹姫、到着までの時間は?」

「装甲車は速度が出ないので高速道路でも4時間ほどになるそうです」

「仮眠には、ちょうどええね」

「陛下にお会いする前に礼儀の上でも、ご入浴されてからの方がよいです」

 鷹姫は血で汚れて穴が開いた制服を鮎美の予備を借りることであらためているけれど、二人とも夕食の直後にミサイル攻撃を受けてから、そのままだったし強い緊張感で汗もかいていた。しかも夕食が越前ガニだったので手がカニ臭い。

「この非常時に、そんな悠長な…」

「非常時であっても、お相手は陛下です。まして、ご好意を受けているのですから、女として恥ずかしくない姿で行くべきです」

「………クスっ……鷹姫が、そんなこと言うなんてね……ほな、手配しておいて」

「はい」

 鷹姫は旅館と京都御所に電話をかけ、京都の手前である阪本市にある以前に泊まったことのある旅館に入浴と朝食を頼み、京都御所には10時に重要な用件で訪問すると伝えた。鮎美は阪本市の旅館を鷹姫が手配したので、桧田川が勤務している病院に電話をかけ、起きて夜勤していた桧田川にも旅館に来るよう頼んだ。

「鷹姫の傷、診てもらお」

「……この程度の傷、もっと重傷者もおられるでしょうに……」

「うちが気になるんよ。ちゃんと診察、受けて」

「…はい」

 装甲車の乗り心地は悪かったけれど、二人とも眠っておかなければという義務感で睡眠をとった。明け方になって旅館に到着する。ほぼ同時に桧田川と知念を乗せたタクシーも着いた。桧田川は装甲車の列を見て驚く。鮎美一人を護衛するために7台の装甲車と、それに分乗した隊員、さらに2台の対空火器を装備した車両が配備されていて、以前のSPに警護された状況を見慣れていても、びっくりしている。

「どこかの将軍様みたい……」

「そうっすね」

 桧田川は普通に接していいものか、やや迷ったけれど降りてきた鮎美と鷹姫は高校生らしく挨拶してくれる。

「「おはようございます。無理を言って、すみません」」

「ううん、おかげで、やっと休憩がもらえたくらいだから。じゃあ、傷を診せて」

 鮎美たちは旅館に入る。旅館は震災後、開店休業状態だったのでありがたく受け入れてくれているし、貸し切りとして護衛の隊員も16名が同行した。知念が問う。

「長瀬警部補は?」

「長瀬はんらは長いこと、うちの警護を交替でしてくれてはったから今回は休みを出したんよ」

 三島が男性同性愛者の部隊を用意してくれたので、連続勤務していた長瀬や里華、麻衣子は同行しておらず、高木以外は新顔だった。

「みんな、うちと同じ同性愛者やし気楽なんよ」

 鮎美と鷹姫が装甲車で眠っているときも、そばで見守ってくれていたし、寝顔を晒しても安心だった。逆に知念は少し怖い。高木たちが三人だったときは、それほど感じなかったけれど、部隊全員がゲイとなると、一人の男として感じたことのない脅威を覚える。やはり隊員なので身体を鍛えている者が多いし、その方向性から発展して筋肉美を求める傾向になるようで屈強さが目立つ。男性らしさこそ至高、男の中の男という感じだった。

「全員……みなさん、ゲイなんっすね……」

「はっ、芹沢総理にゲイツと部隊名を命名いただきました」

 高木が答え、知念は微妙な顔をする。

「ゲイツって……あの大富豪に怒られないっすかねぇ…」

「ゲイの騎士団ってことで、ゲイナイツの略やよ」

 旅館に入って、まずは客室で鷹姫の傷を桧田川に診てもらうので、知念は客室の前で遠慮したけれど、ゲイツは4名が入室して鮎美たちを見守る。鷹姫は男性の視線が気にならないので、すぐに脱いだ。桧田川も男性看護師がいるのと同じだと思い、鷹姫の背中を診る。

「………」

 まあ自衛隊の医官だと美容整形なんか考えないから、このくらいの縫い方かな、他にも負傷者がいたんなら急いで縫ったかもしれないし、と桧田川は荒い縫い方をされた鷹姫の傷を黙って縫い直した。

「うん、応急処置も正しかったし、今、縫い直してるから、完璧とはいかないまでも、そこそこキレイに治るはずだよ。お風呂にも入れるようにシート貼っておくね」

「ありがとうございます」

「おおきに、やっぱり桧田川先生に診てもらって、よかったわ」

 治療が終わったので知念もまじえて四人で朝食をとり、女三人で入浴する。貸し切りなので女湯にもゲイツを6名、護衛につけることを鷹姫が提案する。

「古来より入浴中を狙っての暗殺は多く、かの鎌倉幕府2代将軍源頼家も北条政子によって伊豆で入浴中に暗殺されていますし、頼朝の父、義朝(よしとも)も風呂に入っていたところを襲われ、最期には、我に木太刀の一本なりともあれば、と悔しがったそうです」

「祖父と孫が、どっちも風呂場でか……ちなみに頼朝って、死因は?」

「53歳で体調を崩したとも、落馬とも言われていますが、定かではありません」

「初代将軍様の死因が定かでないって、北条政子の陰謀を感じるなぁ」

「はい。6名、同行してください」

「「「「「「はっ!」」」」」」

 鮎美は平気だったけれど、桧田川が戸惑う。

「……いくら……ゲイでも……」

 小銃を装備した屈強な男性6名に囲まれて裸になるのは女として抵抗がある。もう鷹姫も鮎美も全裸になっているけれど、桧田川はショーツを脱ぐのに迷いがあった。鮎美が言ってくる。

「男性看護師と同じやと思えばええですやん」

「うっ……たしかに、そうだけど……」

 言われて初めて、これまで医師として女性患者に男性看護師の前で身体を晒す状況を当たり前に求めてきたけれど、いざ自分が男たちの前で裸になる状況になると、とても抵抗があることに気づいて、これまでの配慮の無さを数々の女性患者たちに詫びつつ、諦めて裸になった。髪と身体を洗い、お湯に浸かる。

「はぁ~……のんびりしてる時間がないのが残念やね」

「はい」

「せめて、少しでも長く浸かれるように、ついで仕事するわ。鷹姫、ワンコちゃんに電話かけてみて。で、うちに替わる前に、ちょっと権威主義的やけど、うちが総理なこと強調しておいて。その上で頼み事したいし」

「はい、わかりました」

 鷹姫は静江から聞いておいた番号にかける。

「…はい……もしもし? どなたですか?」

 ワンコは自分側に登録のない番号からの着信に、かなり警戒気味に受話した。犬山市のローカルアイドルとして白人市議のピアンキと復興に励む中、多くの市民は好意的ではあるけれど、一部の市民はワンコが在日麗国人であること、愛人の子であることで差別してくるので、たまにイタズラ電話もあった。まして、昨夜は朝鮮半島から核ミサイルが飛んできたので、いよいよ罵倒や嫌がらせ程度で済まず身の危険を感じてもいる。差別主義的な日本人から殺されるかもしれないし、再び朝鮮半島からミサイルが来て殺されるかもしれないという二重の恐れだった。

「私は内閣総理大臣臨時代理の首席秘書官を勤める宮本鷹姫です」

「っ…そ、総理の…ど、どうして私の番号に…」

「あなたの電話番号は石永静江から聞きました」

 そう言われるとワンコもセクハラ写真訴訟関係で教えたことを思い出し安心したけれど、鷹姫の声がきわめて権威主義的なので緊張したまま話す。

「わ、私に、なにか、ご用ですか?」

「はい、内容は芹沢総理が直々にお伝えされます。ただし、知り得たことを他言してはなりませんし、場合によっては強い罰則がかされます。また、公務に準じる使命であると心得、よく聞くように」

「は、はい!」

「では、替わります。芹沢総理、どうぞ、お話していただけます」

「うん、おおきに」

 ちょっと権威主義的に、って言うたのに、めちゃめちゃ権威主義的に強調してくれるなぁ、と鮎美は思いつつ鷹姫から携帯電話を受け取る。防水なので温泉に浸かったままでも話せる。

「もしもし、うちよ」

「は、はい! ワンコです!」

「ワンコちゃんは核ミサイルが飛んできたの知ってる?」

「は、はい!」

「どの程度の情報を知ってる?」

「え、えっと…福岡が悲惨で、あと京都と小松では迎撃したけど何人か怪我をされてて、栃木と北海道は街を外れたけど山の中で核爆発があって何人も亡くなってるって」

「麗国の状況も知ってる?」

「はい、ハングルで検索したので。五つの街が攻撃されて、ものすごく大変みたいです。核ミサイルだけじゃなくて砲撃や普通のミサイルも飛んでくるから」

「他には? 政府や軍のこと、知ってる?」

「えっと、大統領は行方不明か、亡くなったか、一部のウワサでは美容整形の手術を受けにアメリカに渡ってるとか、でも、そういうのは悪意あるデマっぽいです。軍も混乱してて、大丈夫だって話もあるけど、どっちかというと負けてる感じで危ないって話が多く、そっちが真実だと思います。北が個別に降伏すれば、今の階級のまま北朝鮮軍に受け入れるって宣伝したり、上官を裏切って殺してくれば、その上官の階級を与えるって宣伝したりするので、裏切りもあったとか、なかったとか、市民でも北につく人もいて爆破テロもあるし、とにかく大混乱みたいです」

「なるほど…」

 一般市民レベルでも、けっこう正確な情報を知ってるもんやね、ネットのおかげやな、と鮎美は感心しつつ頼む。

「実はワンコちゃんにお願いしたいことがあるんよ」

「は、はい、私にできることなら頑張ります!」

「うん、おおきに」

「…どんなことですか?」

「麗国語の能力を活かして、頑張ってる麗国軍を応援する歌をアイドルとして配信したり、日本にいる麗国人男子が応援に駆けつけるから、それまで頑張ってと励ましたりしてほしいんよ」

「……私たち在日が向こうへ応援に……」

「別に徴兵するわけやないよ。あくまで有志やし、どっちかというと、麗国にいる人を励ますのが目的やねん。ただ、日本政府は戦争協力になるから、表立っては応援できんのよ。そこでワンコちゃんにヨーツーベアイドルとして活躍してほしいのん」

「…はい……」

「頼める?」

「……はい…」

 明らかに乗り気でない声だった。鮎美はワンコと接した時間は少なく懇親会などで話した程度だったけれど、犬キャラのアイドルとして幼く単純で忠実そうな性格設定で振る舞っているものの、実は物事を深く考えるタイプだと気づいていた。とくに人生経験は生い立ちからして深い。可愛く振る舞うアイドルというのは思慮がなければ演じ続けられないというのは鮎美もさんざんにアイドル扱いされたので実体験している。だから謝っておく。

「ごめんな、利用する感じになって」

「いえ…」

「こうするのが、日本人のためでも、麗国人のためでもあると思うんよ。慌てて日本へ逃げて来はっても受け入れられんし」

「…ですよね…」

 ワンコも鮎美の本意に気づいた様子だった。ようするに難民になど来られては大迷惑だ、というのがわかる。そして、その判断がおそらく正しいこともわかる。日本語が完璧にできるワンコでさえ色々と差別を受けているのに、今の状況の日本に難民が来れば強烈な拒否反応が起こるのは、ごく自然なことだった。そしてそれは双方の死傷を招く。ならいっそ祖国を守るために現地で踏み止まって戦ってもらう方がいい、けれど、それをワンコ自身は安全なところから扇動するのか、という忸怩たる思いがある。ワンコも憲法9条下の日本教育で育ったので、戦争そのものが悪だと思っている。しかも、自分は安全な場所にいて他人に危険な仕事をさせるのか、という申し訳なさが強い。

「ほな、悪いけど六角市の鬼々島へ移動して、そこにいる秘書補佐がネットが得意やし、いっしょにやって。お願いします」

「…わかりました。頑張ります! 日本と麗国のために!」

 やるしかない、とワンコも覚悟を決めてくれたようだった。鮎美はワンコとの電話を終えると、自分のスマートフォンから鐘留にもかける。

「ハーイ♪ アユミンの新しいママ、カネママだよ」

「……元気そうやな。新婚さん」

「まあねン」

「時間が無いし本題にいくけど、ワンコちゃんのこと知ってる?」

「ああ、在日のロコドル?」

「あんま差別的な言い方、せんといてな。これから、その子が、そっちに行くし」

「え? 何しに?」

「麗国から難民が来んように、踏み止まって戦うよう励ます歌をネットから流すのよ。あと、日本にいる在日男子の有志が応援に駆けつけるから、それまで頑張って、と訴えるのよ。けど、これは日本政府としては認められんから、裏からやってほしいの。なるべく発信元を特定されんように」

「ふむふむ、陰謀の香りがするね」

「陰謀そのものやし、よろしく頼むわ」

「あいあいさー♪」

 鐘留は何の葛藤もなく楽しそうに引き受けてくれた。鮎美が電話をしている間に鷹姫は脱衣所の自動販売機からカミソリを買ってきていて渡してくれる。

「どうぞ、お使いください」

「あ、おおきに。……気がつかんうちに、伸びたなぁ」

 鮎美が自分の腋を見る。昨夜は入浴していないし、その前からも剃っていなかった。

「せっかく買ってくれたけど、もう時間ないし、ええよ」

「いけません。女子として、とても恥ずかしいことです」

「クスっ……鷹姫って可愛いね。わかったよ、おおきに」

 鮎美は腋を剃ってから低温のシャワーを浴び、脱衣所に揚がると鷹姫に髪を乾かしてもらった。鷹姫は美しく乾くよう丁寧に櫛を通しつつ言う。

「メイクもされた方がよいです」

「……別に紫外線があたるところに行くわけちゃうし…」

「ふさわしい姿で行くべきです」

「……うん…」

 鷹姫めっちゃ陛下と、うちの仲を進める気まんまんやね、うちは既婚者といえば既婚者なんよ、処女ちゃうといえば処女ちゃうし、と鮎美は異性との仲を推し薦めようとしてくる鷹姫に戸惑いを覚えつつも、かなり重要な会見になるのでメイクも整えた。桧田川は一息ついたら病院に戻るつもりだったけれど、鮎美が制服を着ながら言ってくる。

「桧田川先生、このまま参与になって」

「使う気なのね……やっぱり…」

「自衛隊にも医官がいてくれはるけど、そばにいて助言してくれる人がほしいんよ。福岡に核ミサイルが落ちたん知ってはる?」

「看護師が、そんなことウワサしてたけど、あれマジなの? 朝鮮半島で戦争が起こってるっていうの」

 桧田川は診察優先で、ほとんどニュースやネットを見ないので事態の緊迫感が無かった。

「超マジやよ。ってことで急いで原爆症の勉強しておいて。ネットでも、かなり情報のってるけど、専門家が見んと、わからん感じやったし。少しでもキレイに治る方法、考えたって」

「そんな魔法のようにキレイに治せるわけないけど……まあ、頑張るよ。……原爆……本当なんだ………しかも……日本に……」

 やっと緊迫感を覚えて桧田川が身震いした。自分がいる時代が平和でなくなったという実感は背筋が冷たくなるし、ヘタをすると小水を漏らしてしまいそうな怖さがあった。今、この瞬間も核ミサイルが飛んでくる可能性があるとリアルに感じる。

「ハァ…気合い入れなきゃ」

 いい年齢の大人が女子高生の前で漏らすのは恥ずかしすぎるので、お腹に力を入れて気を取り直す。

「わかったよ。頑張れるだけ、頑張る」

 桧田川は自衛隊員がするような敬礼を鮎美に向かってやった。全員で旅館を出て、装甲車に乗り京都御所に向かう。その間に桧田川は勤務先の病院へ総理代理に求められたので政府の参与になると伝えて退職し、もともと退職届は書いてあったので理事長も激励してくれた。さらに恩師へ電話して広島にいる医師を紹介してもらい、色々と学ぶ下地をつくっていく。鮎美と鷹姫は京都御所に着いたので北房に案内されて清涼殿へ歩いて向かった。もともと明治以後は皇居が東京に移ったため、京都御所は保存と期間が限定された一般公開がされていたくらいなので、あまり現代の天皇が国事行為を行うのには適した造りになっていないし、宮内庁側も鮎美を、どう接遇するか迷う部分が多く、事前に鷹姫と北房が相談して、迎賓館などで那須御用邸で面談したときのようなソファにかけて対面する形や、小松基地の貴賓室で会食したときのように喫茶をまじえての懇話にするか、それとも清涼殿などで儀式めいて玉座を前に平伏するか検討し、鷹姫の意見で一番古典的な形式が選ばれていた。北房も明らかに鷹姫が鮎美を皇妃にと狙っているのはわかっているので、いっそ立場の上下を実感させるためにも古典的な形式をよしとする。清涼殿の玉座に義仁が座り、そばに女官長として北房がはべる。その下段に鮎美と鷹姫が呼ばれ、二人は摺り足で板の間を進むと、畳に姿勢美しく平伏した。もともと鮎美も剣道の心得があるので、摺り足も和式の礼法も息をするようにできる。やや鮎美のスカートが短いこと以外は北房も成り上がり者と見なしていた二人を見直した。

「芹沢さん、宮本さん、顔をあげてください」

 義仁は玉座から畳に正座して平伏している二人に声をかけた。鮎美と鷹姫は静かに頭をあげ、鮎美が口を開く。

「急な訪問で、すみません」

「あなたが元気そうでよかった。宮本さんも」

「鷹姫は、うちを助けてくれて背中を負傷しましたが、良い医者にかかっておりますので大丈夫です。鷹姫が、うちの命を助けてくれるのは、これで二度目です。できれば、陛下から勲章を贈っていただけませんか?」

「っ…」

 鷹姫はいきなり自分のことで、ねだりごとをされたので畏れ多いのと恥ずかしすぎるので畳へ額を打ちつけるように平伏した。その耳が真っ赤になって肩が震えている。義仁は微笑んで答える。

「わかりました。ふさわしい叙勲を与えます」

「おおきに、ありがとうございます」

「っ…っ…」

 鷹姫は何も言えずに平伏したまま震えている。もう義仁も鷹姫と複数回会っているので性格を感じてきていて、極端に上下関係を重視するタイプの人間だとわかっていた。

「宮本さん、そんなに畏まらないでください。立派なことをされたのですから当然です」

「も…もったいなき…お言葉…ハァっ…ハァっ…」

「鷹姫、落ち着き。かえって失礼やよ」

「は…はい…ハァ…」

「……」

 北房もそばで見ていて、鷹姫の性格を感じてくる。成り上がり者の秘書が皇位を軽んじて友人を皇妃にと画策しているのではなく、皇統を重んじるゆえ喫緊の課題として皇妃を急ぎ、また真に鮎美を尊敬するがため相応しいと考えているのだと察した。そして今また義仁の様子を見ていても15歳の男子が恋をしたときの目だとわかってしまう。再び鮎美が言う。

「陛下、おそれながら、まだお願いがあります」

 あまりおそれていない感じに鮎美が頼む。義仁はそういう鮎美を好ましく感じて問う。

「なにかな?」

「この国難にさいし、明治憲法の本旨を是とし、私を総理大臣に任命してください」

「………それは、どういう?」

「ごく一部の者にしか伝えず、陛下にまで今まで隠しておりましたが、在日アメリカ軍は私へ通告の上で撤退しました」

「…………」

「「「「………」」」」

 義仁が驚きで沈黙し、北房と他の職員たちも聞こえていたので驚き、鮎美の顔を見ている。そんな様子に鷹姫は目に力を込めて、これは機密ですから漏らしてはなりません、と気迫を込めて伝えてきていて、本当に上下関係のはっきりした子だ、と感じられていた。鮎美は明晰に続ける。

「暫くの間、と保留しましたが、現状のアメリカを見る限り、戻ってこない可能性もあります。ゆえに、これからも国のために戦う者へ、曖昧模糊とした立場でなく、正真正銘の防人として働いてもらうため、陛下に総理大臣としていただいた私が、自衛隊を日本軍とします」

「………第11条の統帥権を、あなたが補弼すると?」

 義仁も15歳にして大日本帝国憲法の内容を知っているようだった。鮎美は迷わず答える。

「はい」

「………けれど、かの憲法は現状と、あまりにそぐわないことも多い。兵役、身分、それに今は議会の不在、かなり無理があるのではないですか?」

「第17条に摂政をおくことができるとあります。また、摂政は天皇の名において大権を行う、とも。総理大臣は摂政に相当するものとお考えください」

「…………。それでも無理があるよ。何より、あなたは独裁者になる気ですか?」

「無理はしません。明治憲法と現状が合わない部分も、アメリカ製憲法の良いところも、すべて道理によって私が判断し適応します。そして私は独裁者にはなりません。私が大きく道理に外れたことをしたとき、私は陛下によって罷免されます」

「……道理………」

「欧米が私たちに伝えた法学、もとは聖書とローマ法が源となった技術は、法の言葉、法の理、法理によって運用されますが、法理は抜け穴を探し、解釈を歪めることで、いくらでも本質を歪められてしまいます。けれど、道理は道理です。道の理に外れたことは明文の規定が無くても、見ればわかります。道理に外れていたからアメリカ製憲法9条は無視されましたし、無視しきれず不当な処遇を隊員たちにかしました。我が国は、道理によって治められるべきです」

「……………」

「私は独裁的に決定をくだしていく予定ですが、周囲の意見に耳を傾け、道理で判断します」

「……独裁を否定しないと?」

「はい。独裁という政治形態も、国というヒトの集団がとる一つの意志決定形態です。議会制民主主義は成熟した余裕のある社会でしかなしえません。げんに王制期はそうでしたし、現代でも経済的な余裕がない、治安が悪い、国民の知見が低い、そのような国々では独裁的に政治がなされていますし、それでうまくいっている国も多く、それが自然な選択なのです。現在、日本は人口の多くを失い、パニックを避けるため、余裕があるとみせていますが、食料も燃料も切迫してきています。その上、外敵から攻撃を受け、さらに難民という異集団の流入も懸念され、決定にまごついている時間はないのです。だから、私は独裁しますが、独裁者ではなく、道理と陛下のもとにあります。この国を二人で守らせてください」

「…………あなたは重い責任をかされ、どう判断しても批判を受ける立場になりますよ」

「それが政治家です。覚悟の上です」

「……………………私に、あなたを助けられることがあるだろうか?」

 まじめに同情して問う義仁に、鮎美は少し考えてから、女の子らしく首を傾げ、両手を合わせてお願いする。

「それは…………長い目で、見てやってください。ちょっと短気に判断することもあるので」

「………クスっ……本当に、面白い人だね」

「よく言われます」

「わかりました。芹沢鮎美さんを総理大臣とします」

 義仁の信任を受け、鮎美は総理大臣となる式典を清涼殿から紫宸殿に移って受け、鷹姫も叙勲された。叙勲にさいして鷹姫は遠慮したし、北房は最近ではおおむね70歳を過ぎてから社会に貢献のあった者としていることを説明したけれど、義仁も鮎美も知っていて国難の時期であるからと押し通した。そのため旧来の制度と併存する新たな勲章として、今回の国難につき功績があった者という定義で復和勲章が与えられることになった。式典の様子は連れてきていた斉藤が撮影し、リアルタイムで配信される。そして、鮎美は義仁に一礼してから、国会議事堂で登壇して平成天皇の前で弔辞を読んだように、紫宸殿で復和天皇を後方上位にして、全国民に告げる。

「巨大な地震と津波、さらなる核攻撃によって苦しむ私たちは、より秩序をもって行動しなければ破滅します。暴れてもケンカをしても、より状況は悪化します。守りながら前に進むため、今、私、芹沢鮎美は復和天皇より、総理大臣に任命されました。この権限をもって国政の安定をはかり、国民の衣食住を守り、平和と秩序を維持するために、道理に外れた武力による強迫で成立した1946年の憲法の、もっとも道理に外れた部分である9条を無効とし、自衛隊を日本軍とします」

 きわめて重大な発表だったけれど、この場にはわずかな宮内庁の職員と鷹姫たちがいるだけなので京都御所は咲き始めの桜が見える長閑な静かさに包まれていて、賛意の歓声も異議の野次も飛んでこない。とても静かだったけれど、そばにいる鷹姫も北房も歴史的な瞬間に立ち会っているのだと強く意識した。

「すでに私が内閣総理大臣臨時代理となってからも多くの殉職者が海上保安庁職員に出ています。彼らは戦死です。遡って国民を守るために亡くなった戦死者であるとします。そして、国民のみなさまにお願いがあります。食べる物とガソリン、あらゆる燃料は枯渇しないまでも余裕はありません。無駄をさけ、節約してください。被災地で財産を探す行為もやめてください。すべて警察などの公務員が探して保管し、所有者のもとに戻るように手配します。動ける余裕のある人は、燃料を使わず、近くの農家を手伝ってください。農家は高齢者ばかりです。これから春になり、収穫のときが来るまで食料はあります。けれど、収穫がなければ、より厳しい現実が待っています。輸入は難しいです。太平洋の多くの港が機能停止し、大きな穀倉地帯をもつ、アメリカ、オーストラリアもダメージを受けています。それでも、幸い、計算によれば、みなさんの努力で農業を頑張れば、国内消費はまかなえます。米、麦、芋などを醸造してアルコールにすることは禁止しないまでも、おおむね半減させてください。その分の経営を支えるための値上げは認めます。牛、豚、鶏は飼育数を減らし、飼料は食料とし、釣りとシカ、イノシシ、クマ、クジラを狩ることで乗り切れます。一年乗り切れば、もう大丈夫です。この一年、どうか頑張ってください。お願いします」

 鮎美は頭をさげて演説を締めくくった。義仁が玉座から立って、短いけれど心のこもった言葉を述べる。

「国民の皆さん、日本の歴史で今ほど大変なときは、そうはありませんでした。そんな中、皆さんが耐えていることを、とても心強く、また誇りに思います。今しばらく、つらいときは続きますが、芹沢鮎美さんと頑張っていきましょう」

 政治についての言葉は短くした義仁は次に、殉職から戦死とされた人々の名前を読み上げていく。直近の尖閣諸島で爆死した3名と、魚雷攻撃で轟沈した巡視船の乗組員たちを一人一人、英霊として讃えた。それらが終わると、昼過ぎだったので義仁から昼食を勧められ、鮎美は多忙なので急いで小松へ戻るつもりだったので装甲車の中で日本軍が携帯している缶詰でも食べるつもりだったけれど、鷹姫が誘いを断ること自体が失礼すぎると言って引き留めたので会食に応じた。

「陛下、今日は由伊様は?」

「由伊は下京の避難所へ島津と慰問に行っているんだ」

 会食は義仁と二人きりだった。給仕として女官長の北房がついているけれど、由伊もいないし、鷹姫もいない。迎賓館の一室で二人だけでの会食だった。明らかに鷹姫のセッティングだと感じる。義仁の好意を受けさせるため、仕組んでいるのだとわかった。とはいえ、こうなっては非礼のないように会話するしかないので義仁との時間を過ごす。てっきり鷹姫と三人での会食か、由伊もまじえてになるかと思っていた鮎美は内心で怒りを覚えたけれど、それは抑えて笑顔をつくる。

「慰問ですか、まだ7歳やのに大変ですね」

「そうだね。私も行きたいけれど、警備の都合もあるから」

 昼食のメニューは琵琶湖で獲れた鯉の煮付け、白米、京都の漬け物、味噌汁だった。かなり質素だけれど、味は良い。鮎美はなるべく無難な話題をふる。

「お互い、ちょっと外出するだけで大勢に動いてもらうことになりますもんね」

「芹沢さんは一年前まで、そうではなかったから、つらいでしょう?」

「う~ん………慣れたといえば、慣れたかな。というか、考えるべきことが多すぎて、そういうことを感じてる時間が少ないんですよ」

「立派なことだけれど、無理はしないでください」

「はい」

 義仁からは、やっぱり好意を感じるけれど、男子からの好意を受け入れるという選択肢は鮎美にない。それでも、素っ気なくしていい相手ではないので愛想良く、それでいて愛想良くしすぎない、という難しい舵取りをしながら15歳の男子と会食したので、終わった頃には、とても疲れていた。迎賓館から車乗り場までは北房が案内してくれる。

「こちらです、芹沢総理」

「はい、どうも」

「………」

 北房からは露骨でないけれど、明らかに皇妃に相応しい女性か探られている気配がして居心地が悪い。そんなつもりはサラサラ無いと言うわけにもいかず、お局という感じがする北房の背中に黙ってついていった。車乗り場まで、とくに会話はなかったけれど、また疲労感を覚えた。装甲車のそばには鷹姫とゲイツたちが待っていて、さっとゲイツたちが鮎美を囲み、鷹姫は期待した顔で問うてくる。

「陛下とのご会食は、いかがでしたか?」

「………」

 かなり怒っている鮎美は質問を完全に無視した。まるで、うっとおしい週刊紙の記者か、テレビのレポーターを無視するように鷹姫を避ける。なのに、鷹姫が再び問うてくる。

「陛下とのご歓談は、いかがでしたか?」

「………」

 鮎美は完全無視して装甲車に乗り込んだ。鷹姫も乗り込んでくる。

「ご会食は、どのような話題をもたれましたか?」

「………。次の予定は?」

「はい。小松に真っ直ぐ戻ってもよいのですが、台湾政府からの支援物資を載せた船団が敦賀湾に到着したそうです。月谷と介式師範らも戻ってこられたので、お会いになり、台湾政府の関係者に直接謝辞を述べる機会がもてるとよいでしょうし、敦賀湾は通り道です。お会いになりますか?」

「会うわ。そう手配して」

「はい」

 鷹姫は電話で手配し、それが終わると再び問う。

「陛下と昼食をもたれて、どうでした?」

「………」

 鮎美は女子高生らしい露骨さで、私はあなたを無視しています、という風に顔を背けた。それは見ていた桧田川や知念、高木にも乗り込んだときからわかっていたし、空気を読むのが苦手な鷹姫でも、さすがにわかるほど露骨だった。

「………何か悪いことでもありましたか?」

「………」

「…………お怒りになっておられるのですか?」

「………」

 どう鷹姫が声をかけても鮎美は業務連絡以外は完全無視するので、装甲車が京都から高速道路にあがり、阪本、三上、六角、井伊と走るうちに、鷹姫は悲しくなってきた。小中学校でも同じように無視されたことがある。鷹姫は剣道が強くて成績も良かった上、それを謙遜しなかったので、女子と衝突することが、たまにあった。男子は無視などせずにケンカを売ってきて返り討ちにして、それ以後は近づかなくなるという終わり方だったけれど、女子は完全無視という対応に変わられる。空気が読めない鷹姫は、どうして嫌われたのか、わからないうちに友人だと想っていた女子たちと会話が無くなったことが何度かある。そんなことがあったので尊敬している鮎美に無視されるのは、とてもつらかった。この世に友人と想っているのは鮎美しかいないし、生涯の仕事として仕えていきたいと想っている主でもある人に完全無視されるのは、暗闇の中に明かり無しで落とされるような、吹雪の中に裸で放り出されるような心地だった。

「……ぐすっ…ぅぅ…」

 鷹姫が涙をスカートに落としたので、桧田川が見かねて言う。

「何があったか知らないけど、そろそろ許してあげなよ。泣いてるじゃん。無視は中学生までで卒業しよ」

「………」

 鮎美は、まだかなり怒っているけれど、桧田川が追加する。

「命の恩人を無視するのは、どうなのかな? 宮本さんの背中の傷、ちょっとは残るかもよ。お腹を刺されたのも、あと数センチ深かったら、まだベッドの上、しっかり刺されてたら救急車が来る前に死亡だったよ? 感謝の気持ちは? 宮本さんの胸に輝く復和勲章も泣いてるよ?」

 鷹姫の胸には勲章がある。急遽設けた制度なので鮎美は金属製の勲章など無理で証書のみになるか、旧来の勲章や褒章で代用することになるかだと考えていたのに、用意のいい宮内庁は場合によっては急な叙勲がありえるかもしれないと以前から造っていたようで、それを京都御所にも置いていた。赤と白銀で意匠された勲章が鷹姫に下賜され、鷹姫の赤みがかった黒髪と白い肌によく似合っている。鮎美も義仁に願い出る前に叙勲制度について調べていたけれど、調べて驚いたことに根拠となる法律が無く、憲法で国事行為の一つとされている他は政令などで決められるだけで、まるで立法権のおよばない天皇の聖域のような状態だった。もともと三権分立の上に天皇がある日本の法制度は少し無理があり実は矛盾も少なくない。そもそも国事行為は三権のどれに入るのか、入らないのか、日本国の象徴、日本国民統合の象徴であるという定義と、君主としての性質、さらに身分制度は貴族もなくなり国民みな平等となったけれど天皇は世襲であり、かつ神聖にして侵すべからざる存在という宗教的な意味合いもある。なのに信仰の自由はある。実に建付の悪いガタガタの憲法で、作成過程でアメリカ人が入れたかった非武装化と信仰の自由を突っ込み、残さないと日本人が激怒しそうな天皇についてのことをとりあえず置いている。

「ねぇ、総理大臣さん、命の恩人が泣いてるのに、このまま無視するのかな?」

「うっ……それを言われると……」

 痛いところを突かれて鮎美が折れる。

「ああ、もう、わかったよ。陛下とは、普通に話して終わり! 今後も協力してやっていきましょって話だけ! あんな風に、いきなり二人きりにするの、もうやめてよ! うちは鷹姫を信頼してんねんから!」

「…ぐすっ……よかれと想ったのですが……芹沢総理は、やはり男性が嫌いですか?」

「別に嫌いちゃうけど、好きにもならんの! うちの性的指向を、もう鷹姫は理解してくれてると想ったのに! そんな風に考えられるの、うちかって、つらいわ!」

「……この世に、あの方との縁談ほどの、ご縁がありましょうか?」

「くっ……その古臭い考え方……無いことも無いやろ。平清盛とか、源頼朝とか、あのあたりから一番の男子は変わってるやろ。室町、江戸と、ずっと」

「現在はまた明治以後、ずっと輝いています。徳川家も皇室を大切にしていました。不朽の名家です」

「………本気で、うちと、あの人の結婚、考えてんの?」

「はい」

「…………」

 絶句だった。同性愛者だと明言している自分に、男との結婚を求めてくるなど、余計なお世話もいいところだった。鮎美の顔が再び険しくなっているのに、鷹姫は言い募ってくる。

「女と産まれて、これ以上の誉れはありません。それに、同性愛者でも異性と結婚して子をなすこともあるのです。どうか、亡くなられたお母様のためにも、ご結婚を考えてください。芹沢美恋さんが遺した子供は、あなた一人です」

「くっ………」

 また鮎美が痛いところを突かれて苦しそうに呻く。たしかに亡くなった母は鮎美が男と結婚すれば大喜びするだろう。鮎美は自身の選択として子をなすことは考えていないけれど、美恋の立場からは望ましいことだし、美恋が二人目を妊娠したとき鮎美も安堵していた上、険悪になりかけた母娘関係も修繕できていた。けれど、もう美恋は胎児とともに死んでしまった。そして、母が自分だけしか子を遺さず死んでしまったのは鷹姫も同じだった。無性愛者の鷹姫が結婚を望むのは、そういう動機が大きい。鮎美は怒鳴りたいような泣き叫びたいような衝動を覚え、顔をピクピクと蠢かせた。同じ同性愛者として、それを見かねた高木が言う。

「我々、同性愛者は、そういうことを言われると、とても苦しいんだよ。まして、まじかにいる同性の親友に」

「そうなのですか……」

 やはり感覚がわからない鷹姫へ桧田川も言う。

「私も前の恋人がトランスジェンダー、心が女なのに、身体は男だったから、つい私との結婚を迫ったよ。最期まで、わかってあげられなかった。つらさを」

 桧田川は想い悩むときの癖なのか、両手を向かい合わせると、指先だけくっつけている。

「結局、自分の都合を押しつけて、ずっと苦しめてしまったの。ときどき女装してもいいから、結婚して普通に子供をつくろうって。子供を三人つくったら性転換手術を受けたらいいよ、って。とっても残酷なこと口にしてた。じゃあ、自分が逆の立場で、身体が男に生まれて、心は今と同じ女のままだったとして、女の人が私を好きになってくれたら、受け入れられるのか、とにかく子供をつくってから性転換すればいいよ、なんてこと………そういう、つらさは人それぞれだよ」

「……すみません。私は、たぶん無性愛者なので……まったく、そういう感覚はわかりません。……生まれた身体に従って……結婚すれば、それで……よいかと……どうにも、ダメなのですか? 芹沢総理」

「………」

 鮎美は装甲車の小さな窓から外を見た。ちょうど賤ヶ岳サービスエリアを過ぎたところだった。思いついたことがあるので運転しているゲイツに頼む。

「次のパーキングエリアで停まってください」

「はっ、了解です」

 運転手が返答し、助手席のゲイツは他の車両に無線を入れている。15分ほど走行すると刀根(とね)という小さなパーキングエリアに全車両が停まった。ごくごく小さなパーキングエリアで周囲は山ばかり、売店もなくトイレと自販機だけがある。もともと交通量が少ない北陸自動車道な上、現況の厳しさからか他には一台の車もない。停めた理由は鮎美がトイレに行くのだろうとゲイツたちも思っていたけれど違った。鮎美はゲイツたちに同性愛指向を抑えて異性と結婚しろと言われると、どんな気分か答えてほしい、と言い。それぞれに短く返答してくれたが、どれも否定的な答えだった。

「そもそも勃たないっすよ」

 麻衣子と同じく、まだ19歳のゲイツがくだけた口調で本音を言ってくれた。鮎美は8名のゲイツに頼む。

「この山の中から、食べられるけど、不味い食料を集めてきてもらえますか? そういう訓練されてますよね。ちょっと鷹姫は性的なことに、うとすぎるんで、いっそ食欲でわかってもらいたいし」

「「「「「はっ!」」」」」

 鮎美の狙いが、なんとなくわかったゲイツたちは山に入っていく。三日三晩、食料現地調達で山に潜む訓練もしている陸軍兵士たちは、野草や冬眠から醒めた蛇、土中の幼虫をとりはじめた。それを待つ間に、鮎美のスマートフォンに不破島(ふわじま)から電話が入った。

「……めずらしい人から…」

 震災直後に茨城県知事臨時代行に指名した30代の男性で同性愛者ということを勢い鮎美には言ってくれた県議だった。他の知事と違い、自分が臨時に指名したので任命責任もあると思い、携帯番号くらいは交換していたけれど、今まで一度も連絡が無かったのに直接言いたいことがあるようだった。

「もしもし、芹沢です」

「総理大臣へのご就任、おめでとうございます」

「あ、どうも…」

 なんや、そんなことか、と鮎美は電話を切りたくなったけれど、その気配を察した不破島が言う。

「ま、この忙しいのに世辞など、どうでもいいですな。本題に入りましょう」

「……クスっ、あいかわらずな男やな。どうぞ」

「富山県で不審な動きがあるようです。議会を設置すると言って、全国の県議や知事、市議などの一部が連絡を取り合っています。まあ、ようするに、これ以上、小娘の独裁は許したくない、ということですな。主には眠主党、他に供産党、活力党、それに自眠党では反石永派というか、つまりは石永官房長官に選んでもらえなかったヤツらが拗ねている、と。そして場所が富山なのは副都心に選んでもらえなかったからでしょうな。ようするに不平分子が集まりつつあるわけです。で、私にも声がかかり、即答でOKしました」

「……」

「きっちりスパイしてきますよ。報告をお待ちください。というか、こんなことせず、復興活動でもしてろって時期ですが、まったく人間ってヤツはろくでもないですな。議会が開かれたら、祝電でも送ってやりますか?」

「ははっ、北の将軍様に通報しとくわ。次の狙いは、富山がええですよ、迎撃ミサイルもありませんよ、って」

「フっ、それは、さぞかし青ざめるでしょうな。では、また」

 電話を終わると、また鮎美は不破島の顔を見てみたくなった。単なる顔写真なら県議なので検索すれば見つかるけれど、政治家となってからわかったことに、ただ人の写真を見ただけでは伝わらない人柄は多い。実際に会って握手して話して初めて、人が人を知れる。不破島も同性愛者で、とりあえずは結婚したと言ったけれど、その妻も子も津波で亡くし、逆に吹っ切れて県の復興に尽くしている様子だけれど、まじめで気骨があるというよりは、やや斜めに構えて世間を見ている。きっとそれは性的指向も一因しているはずで、鮎美に対しても総理を相手に構えているところもなく、それでいて小娘とあなどっている感じもしない。だから会ってみたかった。けれど、その機会は遠そうだった。山に入っていたゲイツたちが野草や蛇、幼虫をもって戻ってきている。鮎美はシマヘビを見ながら言う。

「ヘビって実は、けっこう美味しいですやんね。ちゃんと料理したら」

「はい! よくご存じで!」

「大阪でも父さんに連れられて居酒屋で食べたことあるし、ヘビは、うちの夕飯に残しておいてください。国民に節約してほしい言うた手前、自分でも食べるとこ動画であげてみますし。カイワレ大根よりインパクトあるかもしれんし。で、美味しいのは残しておいて、どっちかというと不味いのを鷹姫に食べさせてください。お腹を壊さない状態にした上で」

「はっ」

 すぐにゲイツが水を携帯ガスコンロで加熱して、湯がいただけの山菜と幼虫を飯盒の蓋で鷹姫に提供した。

「どうぞ」

「……これを、食べれば、よいのですか?」

 鷹姫が問い、鮎美は頷き、見ていた知念は可哀想になった。

「それイジメっすよ。すげぇ、不味そう」

 美味しいのは残して不味いのを、と鮎美が指示したので山菜の中でも食べにくいアクの強い物が選ばれているし、この時期に美味しいフキノトウなどは入っていない。パッと見た感じでは、その辺の雑草と芋虫を加熱しただけのものだった。それでも鷹姫は平気そうに食べた。もともとが島育ちなので山菜は定番だったし、食べ物に好き嫌いはない。

「………うっ………う~っ…」

 けれどアクが強いので飲み込むのに苦労したし、調味料も無く幼虫も泥の匂いがして不味い。しかも昼食は鷹姫や斉藤も京都御所の別室で鮎美たちと同じ物を食べさせてもらった直後なので満腹で食欲も無い。かなり吐き出したくなったけれど、我慢して食べきった。見ていたゲイツたちは不味さを知っているので、てっきり鷹姫がギブアップすると思ったのに、根性があるなァ、と感心した。

「どう、鷹姫、不味かった?」

「…はい……美味しいとは、…言えませんでした……せっかくですが…」

 まだ口の中が泥臭くて気持ち悪い。なのに鮎美は美味しそうにトイレ前にあった自動販売機で買ったミルクティーを飲んでいる。口直しに鷹姫も何か飲みたかった。いつもなら、すぐ分けてくれるのに、今はペットボトルを渡してくれない。

「ほな、これから鷹姫のご飯は毎回、これな」

「……はい…」

「それは可哀想っすよ! ってか、そこまで日本の食糧事情ヤバいんすか?!」

 知念が騒いでいるけれど、鮎美は続ける。

「大丈夫やよ。ステーキ、トンカツは、むしろ早めに牛、豚が殺されるし、しばらくは食べられる。今年の秋くらいから卵を産まんようになった古い鶏とか、そんなんになるけどクジラが獲れたら上等やし、シカもイノシシも増えてて問題やったんが解決するし。お米、パンは最低でも毎食、みんなが食べられるはず。でも、鷹姫は、ずっと、ずっと、この不味いご飯だけよ。虫と草だけ」

「……はい。国民に範を示します」

 鷹姫が背筋を伸ばして答えた。この子は本当にすごいな、とゲイツたちは思ったけれど、鮎美は冷たく言う。

「鷹姫は一生、これだけな。死ぬまで、ずっと。二度と美味しいもんは食べさせへん」

「………」

 さすがに鷹姫が戸惑う。もともと家が貧しかったので淡水魚や川エビなどがタンパク源だったけれど、鮎美と行動をともにするようになって宴会や会席への参加も多く体験したし、鮎美とグルメを楽しんだこともある。天ぷら、刺身、焼肉、寿司、一流料亭では前菜も驚くほど美味しいし、吸い物の味も絶妙、デザートも魅力的だった。そして鷹姫は人一倍、食べる量も多いし、食べるのが好きだった。なのに、これからの一生、たとえ日本の状況が好転しても死ぬまで一生、虫と草を食べろと言われると、かなり絶望する。その絶望した顔が可哀想で知念が叫ぶ。

「最低っすよ! それイジメ超えて虐待っすよ! あんた北の将軍よりタチ悪い!」

「知念はん、もし、これから一生、女の子とエッチすんな、男とだけエッチしろって決められたら、どんな気分?」

「っ………そ……そういう……たとえに………うっ……う~ん……」

 知念が悩む。正直、無理だった。

「無理やろ。桧田川先生とエッチする方が楽しいやろ。っていうか、男なんて願い下げやろ? ゲイツのみんなは逆やんね? 女なんか願い下げやろ」

「「「「「はっ! おっしゃる通りであります!」」」」」

「ということよ、鷹姫。うちに男と結婚しろっていうのは、一生、虫と草を食べてろって言われるのと、いっしょ。虫と草でも生きていけるんやから、それで我慢しろって。そんな気分なんよ。わかってくれた?」

「……はい……」

「ほな、出発しよか。みなさん、ありがとうございました」

 鮎美は協力してくれたゲイツたちに礼を言い、装甲車に乗る。口の中が気持ち悪いままの鷹姫にはミルクティーを分けた。

「鷹姫、大丈夫?」

「はい」

 紅茶の香りで鷹姫の口内にある泥臭さが漱がれた頃、装甲車の列は敦賀湾に到着した。敦賀湾は大きなコンテナを扱う港なので鬼々島の港とは規模が、まったく違う。超大型車両でも余裕をもって通れる広さの道路と、広大な駐車場、厚いコンクリートの岸壁、百トンの貨物でも上げられるクレーン、そして巨大な船が並んでいる。鮎美たちの車列は台湾政府の関係者たちと陽湖たちのそばに停車した。鈴木と外務省の職員も来ている。まず鮎美は台湾政府の関係者たちと握手を交わし、支援に礼を言った。

「本当に助かります」

 かなり有り難い支援であり、とくに燃料が嬉しい。さきほど実感したけれど、いよいよとなれば日本は豊かな山の幸もある。けれど、燃料は採れない。薪では車両も飛行機も動かせない。鮎美は支援物資の受け取り証書に署名をして、関係者らと記念撮影もしたし、斉藤に動画も撮影してもらい、リアルタイムで配信する。

「日本国民のみなさん、台湾、仲華民国から大きな支援をいただきました。これで、とても助かります」

 鮎美が再び台湾関係者と握手をして、コメントを求めると応じてくれる。日本に派遣されるだけあって日本語に堪能だった。

「日本のみなさんへ、雪中へ炭を送る援助をしたくて来ました。どうぞ、受け取ってください」

 セレモニーが終わり、あとは双方の実務者が物資の確認などを行い、鈴木は礼儀の上でも台湾関係者を敦賀市の温泉施設に案内して接待する。核ミサイル攻撃もある中、届けてくれたので歴史的な出来事にもなりそうだったし、帰りには日本海軍の護衛をつけると約束した。さすがに鮎美自身は忙しさもあり、小松基地に戻る。戻る途中、女形谷パーキングエリアに休憩で停車したとき、やっと陽湖と鮎美が話す時間があった。

「久しぶりやね」

「はい、お久しぶりです」

「その紫ローブ、ずっと着てたんや」

「シスター鮎美だって、ずっと制服じゃないですか」

「まあ、そやね」

 二人の再会は意外なほど、あっさりとしていた。あのA321の機内であったことや、台湾に身代わりで置き去りとしたことを考えると、不思議なほどだった。震災と戦災という巨大すぎる出来事が、個人の出来事を小さくしているように感じる。そして、高速道路のパーキングエリアで休憩中に会話するという状況は、女子高生の日常としては少し非日常なだけで、震災や戦災、そしてお互いが政治的代表であったり宗教的指導者であったりする立場の非日常さも忘れさせてくる。

「まだ、あれから2週間と経ってないのに、えらい昔のことに思えるわ」

「そうですね」

 陽湖の口臭は、やや酒臭かった。宴席慣れしている鮎美が問う。

「もしかして、お酒、呑んでるの?」

「あ、はい。領海、ギリギリまで呑んでいました。もう呑めなくなるので」

「あ~……まあ、ええか。台湾船籍やろし」

「日本も18歳から飲酒可にしませんか? 今のシスター鮎美なら、一言で可能ですよね? 紹興酒って、すごく美味しいですよ」

「やめとくわ。さっき演説で米や麦を醸造するのを控えてって言うたし」

「それは残念です。あ、もう出発ですね」

 単なるトイレ休憩だったので、すぐに別々の装甲車に乗り込む。鮎美は心配そうな顔で鷹姫が戻ってきたので問う。

「そんな顔して、どうかしたん?」

「介式師範が、とてもやつれておられて……この短期間で……あれほど変貌されるとは……」

 知念も上司や同僚と出会ってきたので心配そうに言う。

「あんな風に介式警部が落ち込むなんて想像してなかったっす。たしかに、民間人を警護対象の身代わりにしたのは、かなりマズイことっすけど、あの状況では仕方なかった面もあるし……結局、月谷さんは無事だったし……。なのに、依願退職するって……」

「そこまで責任を感じてはんにゃ……今は一人でも人材は欲しいし警察官は貴重な存在やのに………退職して、どないしはるの?」

「前田警部補と結婚するらしいっす」

「ほな、めでたいやん」

「……めでたいって顔じゃなかったっすけど……なんか、いろいろあったみたいっす」

 陽湖は台湾を船で出発すると、もう介式に売春させることができなくなり、逆に発覚したとき面倒なので自殺を勧めていた。船の舳先から飛び降りれば楽になれる、極楽浄土で姉に会えるかもしれない、と信じてもいない仏教概念を吹き込んだ。部下たちも吊し上げた介式を輪姦したことが発覚すると困るので、いっそ彼女が責任を感じて自殺したという形で治まるのが一番都合がいいと男の身勝手さで考え、陽湖に協力してしまっていた。それでも姉に自死された経験がある介式は自殺には踏み切らなかった。いつまで勧めても自殺しない介式に業を煮やした陽湖たちは船員らの目を盗み、甲板に介式をあげると手足に手錠をかけ、鉄の重りを結びつけた。いよいよ男たちに身体を持ち上げられ、あとは海に落とされるだけになると、ずっと無言で泣いていた介式は警察学校の講義余話で教官が話していた麗国大統領金大仲が、かつて洋上で同じく暗殺されかけたことを思い出した。金大仲には助けのヘリが来て、あやういところ救命されている。けれど、自分には何も来ない、ここで死んでしまう、と悟ると恐怖で震え、ジワジワと小水を漏らして衣服を濡らし、そして、助けて、と泣き叫んだ。泣き叫ぶ介式を見て、前田は良心を思い出した。もともと前田は上司として介式を尊敬もしていたし、女性として顔立ちは好みだったので、ほのかに思慕してもいた。どうにも男を寄せ付けない感じだったので黙っていたけれど、好きだった。なのに陽湖の口車にのって勢いで同僚たちと輪姦してしまい後悔する部分もあった。さらに殺してしまおうとされ、諦めているように見えた介式が、助けてと泣き叫ぶと眠っていた良心が目を覚まし、同僚を止めていた。そして介式も助けてくれそうな異性が現れると、藁にもすがるように身を寄せてきたので抱きしめた。こうなると同僚たちも前田まで殺害するか、前田と介式に口止めするかを選ぶことになり、後者となった。前田と介式が結婚し、介式は輪姦や売春を強いられたことは黙って依願退職する、ということで話がまとまり、そのことは知念や長瀬にも言わないことになっている。介式さえ性的被害を黙り、前田が結婚してやるなら、それでよし、という汚れた決着だった。それから介式はずっと前田のそばにいるし、啜り泣いてばかりいる。食欲もなく痩せ細っていた。

「うちの護衛はゲイツがしてくれるし、知念はんは桧田川先生の警護を長瀬はんと交替で。あとのSPさんらは、それぞれ男性の大臣を警護してもらおかな。警視庁がないし、新屋はんの直轄くらいの扱いで。介式はんの依願退職は、とりあえず休職ってことで待ってもらお」

「そうっすね」

「介式はんには夏子はんあたりの警護を頼みたかったけど、無理そうなんかな? 女性SPは貴重やのに」

「あの様子だと……とても要人警護は無理っす。むしろ、病院に行った方がいいくらいっすよ」

「そうなんや……」

「介式師範………」

 鷹姫も鮎美も心配で何かしてやりたい気持ちになったけれど、小松基地に戻ると仕事が山積みだったので忘れてしまった。まず、今まで臨時代理人としていた各大臣たちを国務大臣として任命する。これは義仁から任命される形式をとっているので詔書を預かってきている。鮎美が手渡し、非常時であるので式典はネット回線でモニター越しに義仁が読み上げる。鮎美は義仁の代理人として手渡すのでなく、単なる使者としてであり、これまで代理人であったので鮎美の意向一つで委任を解くことができたけれど、これからは罷免するには、総理大臣が天皇に奏上し、天皇が罷免する形とした。これで、引き続き鮎美は摂政に相当する総理大臣として大権を行うけれど、ある程度の縛りは生じてくる。自分で選んでおいて、あとで気に入らないからと次々罷免を奏上すれば天皇の心証も悪くなるし、その天皇には鮎美を罷免する統治権がある。そして、鮎美が死亡したとき、後継者となる者の順番も、すべての国務大臣について決めた。これには鮎美の意見が反映され、畑母神、石永、久野、鈴木、三島、夏子、新屋という順を決めて、あとは石永に決めてもらったので石永派の中では新屋が鮎美のお気に入りなのだと周囲にわかった。それらが終わった時点で夕食時を過ぎていたので、もう閣議は終了としたいほど疲れていたけれど、朝鮮半島情勢に加えて、国内でも問題が生じていたので閣議が引き続いている。夏子が頭痛がするような顔で言う。

「給料日の25日まで、あと二日、っていうか実質一日だけ。なのに、お金が足りない。どこの傾きかけた企業でも社長が悩むところね」

「そうだな、協力してくれる銀行は目一杯協力してくれたし……福井の銀行は頑張ってくれた。富山系は、見事に蹴ってきたけど」

 石永も悩む。国庫にお金が無かった。日本銀行は機能停止しており、都銀も動かない。なので地方銀行に協力を要請しているし、応じてくれた銀行もある。さらに石永など閣僚個人の資産も提供できる者は提供している。鮎美も、これまでの預貯金を全額提供したし、さらに玄次郎に頼んで500万円を借り、鐘留にお願いして2億円を借り、鷹姫も実家の食費を抜いた全額を提供している。閣僚の中には落選中なので、むしろ震災前から借金があってマイナス状態の者もいて、大臣としての歳費は無理でも、せめて妻子の食費は欲しいという状態だったりもする。掻き集めた官僚たちも余裕のある者は給与の保留を申し出てくれたけれど、余裕のない者もいる。急に借り上げた金沢市のビルや土地への支払いもあるし、諸経費も生じている。それらも待ってもらえるものは、待ってもらい、いろいろと工面したけれど、結局は30億円が足りず、明後日になると給与の不払いなど問題が生じそうだった。

「く~ぅ……明治政府も、当初、金がのうて困ったらしいんよなぁ……うちらも、いっしょか……」

 鮎美も頭を抱えている。静江も苦しそうに言う。

「確定申告時期だったのも、つらいところですね。税収もあるけど還付金もあるし、3月11日の震災で15日が申告期限。いっそ16日に震災が来れば、よかったのに……ややこしいタイミングで……」

「それ言うたら、まだ昼過ぎやっただけ、マシよ。阪神淡路大震災みたいに早朝とか、核ミサイルみたいに夜とか、現場はクチャクチャになるやん」

「核ミサイルは人為的だからな。夜襲という意味で狙って、あのタイミングだろう。それを思うと広島長崎は明るい時間だったなぁ……」

 石永のつぶやきに、今も司令室にいて地下室での閣議にはモニター越しで参加している畑母神が答える。

「広島長崎は、直後の襲撃など考えていなかったからだろう。むしろ、初めての原爆の威力を撮影するため、晴天の昼間を狙っている。北朝鮮軍は核ミサイル後の夜襲で、かなり麗国軍を押している。もう麗国の半分まで進軍してしまった。綿密に作戦計画を以前から練っていたのだろう」

「難民は生じてるの? 絶対、追い返してよ。国庫がパンクしちゃう。っていうか、今、パンク寸前だから」

 夏子が彼女らしくない余裕のなさで髪先を指でクルクルと回しながら言った。その様子が財務が立ちゆかないと、敗戦なみの破綻が来ると語っている。お金の確保には、もっと強引に銀行へ供出させたり接収する手段も超法規的に取りうるけれど、そういう強引なことをすると国内で金融不安が生まれるし、それは一気に海外へ波及する。せっかく為替相場を安定させていることが破綻しかねないので、できるだけ強引なことはしたくない。畑母神が目は朝鮮半島の戦況を見守りながら、口では夏子に答える。

「すでに生じているし、漁船で向かってくるが、すべて海軍と海保が追い返している。現場も頑張っているし、欺瞞情報も効いているようだ」

「そう。……麗国って、お金を貸してくれないかな? これだけ迷惑かけてるし」

「貸してくれるわけないやん」

「だよねぇ。仲国かロシアでもいい」

「貸してくれても、すぐには無理やろ。とうとう通貨変動の固定も麗国ウォンが、数字の上では固定されてても、実質の両替で無理になってきてるし………」

「災害と違って戦災は、どこまで続くかわかんないから。どんな地震も、大雨も、とりあえず一日で終わるけど戦争は期間未定、ヘタしたら国家が消失するまでやるから」

「明後日、日本政府が不渡りみたいになったら、円もヤバイかも……う~……」

 再び鮎美も頭を抱え、石永が言う。

「足を引っ張ってるヤツらもいる。本来、地銀がみな協力してくれれば、なんとかなるものを富山を中心に、いくつかの地域で銀行が非協力的だ。オレたち臨時政府とは別に議会を設置するという動きがあって、そこに自眠系の落選議員や県議まで参加しているらしい。裏で何かしてるんだろう。とくに年配の議員は地銀とつながりが強い」

 夏子が言う。

「食品価格があがってるし、企業によっては給料日に給料が振り込めない事態も生じるから、預金者が定期預金なんかを解約する可能性もあって銀行も取り付け騒ぎを出したくないから私たちに全面協力は難しいのよ」

「やからって、うちらが紙幣を刷るにも3ヶ月はかかるし。東京の金庫とか、まだ開く気配ないんですか?」

「瓦礫の下に埋まってるから、あと1ヶ月は無理だって。現金と準備金、手元にないと厳しいわ。今月さえ乗り切れれば、なんとかなるけど、今月がヤバイと後は破綻の連鎖になるよ」

「……はぁぁぁ……」

「弱ったなぁ……」

 鮎美と石永はタメ息をつく。畑母神は防衛大臣の任へ専念しているので、ほとんど財務については考えていない。三島も鮎美から新憲法の草案を法務省のスタッフと練るよう頼まれているので、財務への関心はもっていない。議論が暗礁に乗り上げているので新屋が別の議題にふれておくため職員に資料を配らせる。それと同時に夕食が運び込まれてきた。メインはクジラの竜田揚げだったけれど、鮎美の分は半分がシマヘビの唐揚げだった。

「シスター鮎美のだけ特別だそうです」

 配膳してきた陽湖が言う。陽湖は秘書補佐として地元で活動してきたくらいの経験しかないので閣議の場ではお茶汲み程度の仕事をしていた。

「あ、おおきに」

「そのウナギみたいなの何ですか?」

「ヘビよ」

「っ……ヘビ……」

 陽湖が気持ち悪そうに身を引いた。

「…ヘビは………サタンの化身……」

「神道やと、神様のお使いってこともあるね。いただきます」

 忌まわしいものでも、尊いものでもなく、ただの爬虫類にすぎないと思っている鮎美は斉藤が向けてくれているカメラによく撮れるよう美味しそうに食べたし、きちんと調理されていたので本当に美味しかった。石永が感心しつつ言う。

「パフォーマンスのためとはいえ、女の子なのに平気そうだな」

「気持ち悪いって考えるんやったら、越前ガニの方が気持ち悪いと考える文化が多いかもしれませんよ」

「そうだなぁ……言われてみると、見た目、グロテスクだな。カニは。ヘビはウナギやハモと似たようなものだし」

 ヘビを食べた鮎美がクジラも食べる。

「クジラも美味し。もしかして、うちが演説で挙げたから獲ったとか?」

 陽湖が答える。

「いえ、調理していた隊員さんが言っていたのですが、ちょうど冷凍のものがあったので急遽変えてみたそうです。お口に合えばよいのですが、とのことです」

「そうなんや、わざわざ、おおきに、ってお伝えして。けど、クジラって高いんちゃうのかな。うちが父さんと居酒屋で食べたとき、めちゃ高かった記憶があるけど」

 石永が教える。

「それは刺身だろ?」

「あ、そうやったかも」

「自衛隊には、…いや、もう日本軍か、軍には水産庁から調査捕鯨のクジラが格安で入る仕組みがあるんだ。そもそも、カツオやタイじゃあるまいし、すぐ獲って夕食に出せるなんてものじゃないぞ」

「調査捕鯨か……あ、三島大臣」

「うむ」

「WBCやったかな、あれ、近いうちに脱退しよ。白人が決めたクジラ保護のアホな論理に付き合ってられる状況やないし。食べ物がないのでクジラ獲ります、って、なるべく波風が立たんように脱退する法手続を準備しておいて」

「了解した」

 長年の懸案を思いつきで決めた鮎美に対して、とくに反対の声はあがらなかったけれど、久野が言っておく。

「WBCではなくIWCですよ。国際捕鯨委員会。野球の方は脱退しないでください。とんでもない反対が来ます。まあ、IWCの方は、これを機会に脱退しましょう。あれは実質、日本人がクジラを食べると和牛にせよ輸入牛にせよ、肉の消費が減ってしまう。和牛でさえ飼料は輸入に頼っていますから、ようするに商売です。クジラを適度に獲れれば、その分、他の魚も多く獲れるようになります」

 久野の言葉に鮎美たちは深く頷き、配っていた資料が回ったので新屋が述べる。

「やはり再び、避難所や街で在日麗国人、朝鮮人、仲国人に対する嫌がらせや傷害事件が発生しています。また一部では同性愛者に対する嫌がらせ、傷害事件もあったようです。前者の原因はミサイル攻撃と尖閣諸島での殉職、いえ、戦死による対外感情の悪化、後者では…その……ありていにいえば、総理大臣が同性愛者であることへの反発のようです。国の代表が同性愛者というのは気に入らない、というわけです」

「………。どっちも、今までの法に従って対処したって」

「そうしていますが、目撃証言などの聞き取り捜査で違いが鮮明に出ており、前者では目撃者が犯人のことを喋らず捜査が難航し、後者では芹沢総理への支持もあって捜査への協力はえやすいとのことです」

「………………少数者という意味では……同じやけど………」

「ホモとレズは爆破テロはしないからな」

 石永が言い、鮎美が不快そうに睨む。

「ゲイとレズビアンやよ、何回言わせるの?」

「す、すまない。差別用語らしいね。気をつけるよ」

 独裁者に睨まれて、ちょっと怖かったので石永は謝っておいた。

「次、言うたら逮捕させるで」

「あ、ああ……国務大臣に不逮捕特権はないのか?」

「あ~、それも考えんとね。というか、無いとあかんやん。天皇陛下しか罷免できんのに、うちが気分で逮捕できるんやったら意味ないし。不逮捕特権ありで、まとめよ。けど、現行犯での侮辱は、気をつけてや」

「ああ、すまない」

 鮎美が気を取り直して問題への対処を考える。

「性的少数者への協力はありがたいけど、在日の人らは、かわいそうやね。いっそ、どこかに集めて保護するのは、どうやろ?」

「素直に集まってくれるのかという問題と、集めた場所を自分たちの土地だと認識されると困るからなぁ……あと、じゃあ、同性愛者を一カ所に集めて保護すると言われたとき、どんな気分がする?」

「うっ、う~ん。うちらは動物か?! ふざけんな! と思うわ。けど、異民族……しかも、戦争中……麗国人はともかく北朝鮮人は、保護というより逮捕したいねんけど……ああ! もう! うちは差別する側にも立つけど、差別される側の気持ちもわかるねん! ややこしいわ! どうせいちゅーねん!!」

「差別でなく区別だと考えれば、どうだ?」

「そんなもん国語的レトリックを駆使しただけで、ほな、区別される側の気持ちは、どうやねんって話やわ。これは差別でなく区別です、って言われて、はい、そうですか、と受け入れられるわけないやん。差別も区別も本質と作用は、いっしょや。むしろ、正当さを装う分、区別の方がタチ悪いわ。まるで隣人愛と言っておきながら、結局は受洗した者と未受洗の者を差別するキリスト教といっしょやん」

「博愛主義は幻想だからなぁ……」

「かといって戦地から命からがら逃げてくるもんにしたら、同じ人間やんけ! 入国させてくれや! ってなるもんなぁ。にしても半島問題、難しいなぁ。入国してくるのも、現状で在日なんも。……たしか、アメリカも戦時中に国内の日本人を収容したよね」

「その悪例に倣うのか?」

「っていうか、自然な反応やと思うわ。人権っていう発想が不自然なんであって、たとえばホモサピエンスとホモエレクトゥスが地球上に同時にいるとき、戦争してたら、とりあえず見かけたら殺すやん。たぶん、そういう方法で、うちらホモサピエンスだけになったんちゃう」

「ああ、そうだろうなぁ」

「いい感じに日本列島と朝鮮半島で住み分けしてたのに、ペリーに言われて開国してから、ろくなこと無いなぁ。長崎の出島は、ええ発想やったわ」

 食べ終わって、お茶を飲む。新屋からの議題にも解決策は見つからず、再び財務の課題に戻った。夏子がタメ息をつく。

「はぁぁ……あと、30億円……」

「戦車が一台、そんなもんの値段でしたやんね。パっと売れたらええのに」

「ヤホオクでね。………」

 冗談で言った夏子だったけれど、真剣に考え込む。

「なんか、装備品、売る? 即決価格で」

「バカもの」

 畑母神が怒ったけれど、夏子は気にしない。

「冗談よ。はぁぁ…」

「うち、ちょっとトイレ行ってきます。鷹姫、話、聴いておいて」

 鮎美は議事を止めないようにしてトイレへ立った。今泉らゲイツ6名が同行してくれる。鮎美はトイレへ行く前に食堂へ寄って、調理を担当している隊員たちが厨房にいるうちに礼を言うことにした。ヘビの調理をしてもらったこともある上、鮎美は食堂で食べることがほぼ無いので礼を言う機会がなく、また震災後、鮎美たち政治家や官僚の一部が住み着いているので食事の時間帯も通常の基地での幅より長くとってもらっているので負担がかかっている。

「お邪魔します。いつも、ありが…あ、陽湖ちゃん、お手伝いしてるんや」

 鮎美とゲイツたちが厨房に入ると、陽湖が洗い物を手伝いながらコップで紹興酒を呑んでいた。他の隊員たちも夕食が終わったので一日が終わったという気分で飲酒していた。そこへ前触れ無く最高司令官が6名の武装した護衛と現れたので規律違反の飲酒を咎められないか、やや緊張した空気が漂う。鮎美は詳しい規律など知らないので陽湖にだけ注意する。

「ここ、我が国の領土やと思うけど? あんた、いつから20歳になったん?」

 鮎美は床を指さし、かなり冷たい目で陽湖を見る。

「す、すいません。つい」

「うちの秘書補佐って立場で、こういうことされると困るんよ。わかる?」

「はい、もうしません。ごめんなさい」

 陽湖が謝るので、そばにいた厨房担当の隊員たちも頭をさげる。

「自分が誘いました。申し訳ありません!」

「自分も誘っております! 彼女は我々に流されただけであります!」

 陽湖を庇うように男性隊員が言ってくる。鮎美は相手の階級章を見た。あまり高い階級ではないように見えるけれど、詳しくはわからない。年齢も20代前半くらいで雰囲気からして、手伝ってくれた陽湖と仲良く会話していた様子だった。

「………そうですか。……いえ、まあ、お二人は20歳を超えてはるでしょうし、別にええんですけど、………」

 庇われると注意しにくい。

「陽湖ちゃんは、明らかにルール違反やんね?」

「はい……すみません…」

「自分たちも規則違反であります!」

「……そうなんですか? まだ10代?」

「いえ! ですが、基地内での飲酒は厳密には許可された営内居酒屋でのみ許されております!」

「そんな居酒屋あるんや……」

「はっ! ですが、急激な滞在者の増加のため、いつも満席であり近頃は暗黙の了解で許されておりました!」

「……微妙なとこやね……」

 暗黙の了解やグレーゾーンについては政治家としての経験ができつつあるので、なんとなく隊員の言わんとすることはわかる。とくに接待で多い。一回あたりの金額が決まっている会食などでも曖昧なときもあるし、とくに議員同士での会食などは高級料亭ではそうなる。そして、こういうとき男が女を庇ってくるのも知っている。なんだか自分が小言を言う姑のような立場で嫌になる。

「………どうしたもんか……今泉はん、こういうとき、自衛隊…軍では、どうするもんなん?」

「軍では、どうかは、これから決めるんでしょうけど、自衛隊だと……」

 今泉は陽湖を庇っている二名を見る。まだ1等陸士にすぎない今泉へ二名は露骨な目配せをして、お前は余計なこと言うなよ頼む! という念波を送ってきた。男性のこういう仕草は女子である鮎美には一目瞭然なのでタメ息をつきたくなる。今泉も空気を読んで言う。

「まあ、せいぜい腕立て伏せを命じるぐらいですけど、最近では命じた上官もいっしょにやります。監督不行届は上官の責任でもあるからって理屈ですけど、単純に一方的にやらせるとイジメみたいですし。もちろん、体罰とかダメなんで叱る場合でも、ちょっと頭をコツくとか、そんなくらいですかね」

「腕立て伏せ………」

 あまりやりたくはない。

「まあ、うちの立場で隊員さんへ直接の監督責任があるかは微妙なんで、秘書補佐の陽湖ちゃんにだけ」

 鮎美は隊員の飲酒を許すとも許さないとも言わずグレーゾーンのままにして、明らかに自分に監督責任がある秘書補佐にだけ言っておく。

「わかってるやんね? うちら、まだ高校生なんよ」

「はい……すみません…」

 謝る陽湖の頭をコツく代わりに頬をペシペシと軽く叩いておいた。

「はい、お説教終わり。うちも小言を言いに来たわけやないんです。お礼を言いに…」

 続けて鮎美は予定通りに調理担当へ礼を言う。気を利かせてクジラを出してくれたことや急にヘビを調理させたのに美味しく仕上げてくれたことへの感謝を述べ、握手を交わした。そして陽湖とも普通に会話する。

「見たことないお酒やね」

「これは紹興酒です。李登騎さんがコンテナ一つ分、贈ってくださいました」

「ふ~ん……」

 もう鮎美も李登騎が、かつての陸軍中将だった根本博の救援へ恩義を返してくれたことは聴いている。鮎美は紹興酒のアルコール度数を確かめた。

「けっこう度数が高いやん……陽湖ちゃん、アル中にならんときや」

「はい、気をつけます。李登騎さんの好意ですし、シスター鮎美も一口くらいお呑みになりますか?」

「うちが平然と違法行為をやりだすと、世の中がグチャグチャになるし。紅茶、ちょうだい」

 食堂なので、すぐに陽湖は紅茶を淹れてくれた。それを飲んでも美味しかったけれど、タメ息が出る。

「はぁぁ……」

「どうかしたんですか? さっきの閣議も、みなさん困った顔でしたけれど」

「うん、お金がないねん」

「お金が……それは、困りますね。……あの、これ、もったいないので、呑みきってもいいですか?」

 陽湖がコップに残っている紹興酒へ未練を見せた。

「はぁぁぁ……まあ、贈り物を捨てるのは、あかんわなぁ」

「はい」

 陽湖がコップに半分ほど残っていた紹興酒をコクコクと呑んだ。

「それで、お金がないっていうのは政府に?」

「うん。あと30億円、明後日までに掻き集めんとあかんのよ。陽湖ちゃんは誰か金持ちの知り合いおらん? 返済は政府補償、金利は7%よ」

「7%……かなり高いですね」

「どうせ、東京の金庫が開いたら、すぐ完済できるし。いっそ10%でもええわ」

「…………………」

 少し考えた陽湖は自分のスマートフォンを鮎美に見せる。

「30億円なら、私の琵琶湖銀行口座にありますよ」

「っ?! マジで?!」

 鮎美がスマートフォンを凝視する。たしかに32億円の残高があった。

「こんなお金、どうしたん?!」

「日本中の信徒のみなさんが震災復興のために寄付してくれたお金です」

「ちょっと来て!!」

 鮎美は陽湖の手首を握って地下室へ走った。そして石永たちに琵琶湖銀行に32億円があることを伝えると、もう夜だったけれど石永は阪本市にいる銀行頭取に電話して確かめた。個人口座の残高にすぎなかったけれど、ほんの数日で32億円に膨れあがった口座のことを頭取も認識していて、たしかに月谷陽湖名義で存在していると教えてくれた。

「陽湖ちゃん、それ貸して、お願い!」

 鮎美が手を合わせて頼むと、戸惑っていた陽湖の目の色が変わった。秘書補佐として働く者の目から、強欲な教祖の目になっている。

「……どうしようかな……」

「お願い! それが無いと、めちゃ困るんよ!!」

「そうですか、困るのですか……どのくらい困るのですか?」

「いろいろ滞って、ホンマに大変になるんよ! やから、お願い! 金利15%でもええから!」

 鮎美が陽湖の両肩をつかんで頼む。ほろ酔いだった陽湖は調子に乗った。

「人にものを頼むときの態度ってありますよね」

「……お願いします!」

 鮎美は手を離して起立すると深く頭をさげた。

「「「「「……………」」」」」

 独裁者として振る舞ったり、素直にお願いしたり、臨機応変な子だな、と石永たちはしみじみと思った。陽湖は、さらに調子に乗る。

「そこに跪いて心から祈りなさい」

「……はい…」

 何に対して祈れっちゅーねん、福沢諭吉か、と鮎美は強く不満に思ったけれど、我慢して言われた通りにしてみる。跪いて両手を組んで祈った。

「お願いします、貸してください」

「んフフ♪」

 陽湖は心の底から楽しくなってきた。微笑みながらペシペシと鮎美の頬を叩いた。叩かれて鮎美は復讐されているとわかったけれど、とにかく素直に願う。陽湖は反対の頬もペシペシと叩きながら問う。

「シスター鮎美、あなたは今までにお金に困ったことがありますか?」

「…………いえ……あまり……」

「そうですよね、裕福な家庭で育ちましたから」

「…はい……おかげさまで……」

 陽湖ちゃん、台湾にいる間に性格また変わったかも、と鮎美はマザーの称号をえた陽湖が変化したように、さらに台湾で何かあったのかもしれないと感じたけれど、今は素直に従うことで国庫を保ちたかった。

「どうですか、お金に困った気分は?」

「……とても困っています……苦しいです…」

 国庫と家計では実感に差が大きいけれど、困っているのは確かだった。

「んフフ♪」

「…そろそろ貸してください。30億となると、事前に銀行へも通知しないと、そろわないので……」

「まだ貸すとは決めていません」

「………お願いします」

 また頭をさげる。そんな二人の様子を見ていて、静江や一部の国務大臣の秘書たちは陽湖の気持ちが少しは理解できた。同じ同級生なのに、議員というだけで上下関係が形成されて今日まで下にいたけれど、キッカケが掴めたなら逆転させてみたい、そういう気持ちはわかる。とくに、近い年齢で秘書になっていたり、昔は同級生だったけれど就職に困って相談したら秘書にしてもらえたというパターンだったりする者は深く共感できる。しかも、ちょっとしたミスや遅刻で、クドクドと怒られたり、禿げてもいないのにハゲと罵られたり、運転中に運転席のシート越しに背中を蹴られたことのある者は一度くらい議員に土下座でもさせてやりたいと思っていた。そして、陽湖が言った。

「土下座して頼みなさい。この30億円は、あなたが何度も侮辱したキリストを信仰する人たちの善意の集まりです」

 善意の集まりで憂さ晴らしする陽湖は、どんな顔をして土下座してくれるか、楽しみにしていたけれど、かなり普通に鮎美は土下座してくれた。地下室の床に正座して、両手をつき、額も床につける。

「お願いします」

「……」

 面白くない、もっと悔しそうな顔をしてほしかった陽湖が追加注文する。

「私の爪先にキスをしなさい」

「……。はい」

 やや迷って鮎美が実行しようとすると、鷹姫が怒る。

「いい加減になさい! 月谷! 誰に向かってものをいっているのです!」

 田守も怒鳴る。

「あるじを侮辱するは自身を唾棄するも同じこと!」

 二人とも鮎美や三島に心酔して仕えているので、陽湖の所業は我慢ならなかった。怒鳴られても陽湖はマザーとして動じない。

「キリストを侮辱した罪を、私の爪先にキスをして詫びなさい」

「……申し訳ありませんでした」

 鮎美は、それほど嫌ではなかったのでサンダルを履いている陽湖の親指にキスをした。陽湖はゾクゾクとした高揚感を覚えた。昼間、京都御所の紫宸殿で天皇の前から全国に総理大臣となったことを宣言した鮎美が今は足元にいて自分の爪先にキスをしている。やはり日本を裏から支配するのは自分だという気分になった。その高揚で、喉の渇きも覚える。ほろ酔いだった脳が追加のアルコールを求めている。

「18歳以上でも飲酒できるようにしなさい」

「……18歳以上で飲酒していただけます」

「シスター鷹姫、食堂から紹興酒というお酒をもってきてください」

「くっ……」

 とても嫌そうに鷹姫が拳を握って震えるので、さっさと30億円を国庫に入れてほしい夏子が動く。明らかに子供の遊びになっているので、付き合って終わらせるつもりだった。

「グラスでいいかな? 氷は?」

「グラスとお砂糖をお願いします。できれば、黒砂糖で」

「はいはい」

 夏子は食堂からグラスと紹興酒、黒砂糖をもってきた。陽湖は美味しそうに呑むと、次の要求をする。

「キリスト教を、この国の国教にしなさい」

「……し…信仰の自由というのも、ありまして…」

「信仰の自由があっても、国教が決まっている国もあります」

「………わかりました。そうします」

「フ……フフ、んフフ!」

 やった、できた、こんなにも、あっさり、かのフランシスコ・ザビエルの時代から宣教師たちが苦労に苦労を重ねてきたことが今、私の手で実った! と陽湖は心が踊り、また紹興酒をあおる。

「……そろそろ30億円をお願いします」

 鮎美が繰り返し頼む。陽湖は酔った目で考える。

「う~ん……」

「どうか、お願いします」

「……ディスニーランドと、UMJも作り直してください。あと長島スパーラントも」

「あれは公共施設やなくて民間企業やし………いえ、すぐに復興できるよう優先的に援助します」

「あとは……」

 また陽湖は紹興酒をあおりながら考える。すべて思い通りになっているのに、なぜか満足感が足りない。足元に正座している鮎美の反応が面白くない。そして、まだ悔しかった。

「子供の頃、よくディスニーランドに両親と行ってましたよね?」

「……まあ……ときどきは……」

「2年に一回は写真がありました」

「…………」

 そう言えば、うちが入院中にアルバムを見とったんや、こいつ、と鮎美は妬まれていることに気づいた。

「しかもランド前のホテルに泊まって。三つの公式ホテルすべて制覇して。公式ホテルに泊まると、優先的なファストパスがもらえて、みんなが並んでいるのにアトラクションに並ばずに乗れるし、入場も開園15分前に入れるんです。こんな不平等ってありますか? 信仰心がないのに楽園へ復活できるようなものですよ、お金で!」

「………はい……すみません…」

 とりあえず謝っておく。周りで見ている閣僚たちも、何が陽湖の心に引っかかっているのか、だいたいわかって可哀想になったので、しばらく好きにさせることにした。大半の閣僚は2世、3世の議員なので子供の頃から豊かだったし、お金に困ったのは前回の総選挙で落選してからくらいだったし、その苦労も親の財産という後ろ盾があるので、それほど深刻でなかったりする。モニター越しに様子を見ている畑母神は福島県の農家の生まれだったので、まだ18歳にすぎない陽湖が強く拘っている気持ちは理解してやれたけれど、今する話なのか、と疑問に思いつつも関わりたくないので司令室のモニター類を監視することにした。陽湖が鮎美の鼻先を指さす。

「ホテルのブティックで白雪姫やアリスのコスプレもしてましたね」

「……はい……そんな記憶もあります……」

 むしろ鮎美より美恋の趣味でディスニーランドに行っていたし、いろいろと遊んだ記憶はある。

「あれが、一回いくらするか知っていますか?」

「……いえ……」

 支払いは全部親なので気にしたことがない。

「衣装、撮影込みで3万円はします」

「………すみませんでした…」

「UMJには毎年のように行っていましたね」

「…近かったので……」

「年々、入場料があがっていたのに」

「……すみません…」

 それは、うちやなくてUMJに言うてや、と反論したいのを我慢して鮎美は頭をさげ続ける。陽湖は言えば言うほど悔しくなってきた。どんなに頭をさげさせても、過ぎ去った幼少期は取り戻せない。とてもとても着てみたかった白雪姫やアリスのコスプレも、小学校6年生までの年齢制限がついているし、今やっても痛いし、楽しめない。なのに、鮎美は当たり前に楽しんできている。同じ歳に産まれ、同じ一人娘なのに、まったく違う。悔しくて土下座している頭を踏みつけたくなる。しかも、鮎美は30億円のために感情を殺して大人の対応に徹しているので、陽湖は苛立ちを覚えた。

「いったい何回、UMJには遊びに行ったの?!」

「………すみません……覚えていません…」

「高2の頃、年間パスポートをもっていましたね!」

「……父さんに買ってもらいました……すみません…」

 年間パスポートがあれば、夕子と遊びに行ったとき、入場料の半分をもってあげられるという狙いがあって鮎美は玄次郎にねだっていた。夕子も喜んでくれて楽しく遊んだし、閉園間際の噴水前で薄暗い中、女の子同士でキスをした。いい想い出だった。けれど、その翌週、自室に連れ込んで裸にしたら青ざめて逃げられてしまい、苦い想い出になっている。陽湖が責め続けてくる。

「自分が、どれだけ恵まれた生活をしてきたか、わかっていますか?!」

「……すみません……勉強不足でした」

「一度も苦労したことがないから、連合インフレ税なんて、ふざけた税金を思いつくのです! 自分で稼いだこともないくせに!」

 それは一部の富裕層も鮎美に対して思っているところだったし、閣僚たちの一部も考えてはいる。格差が生じるのは努力の差もあった。とはいえ、陽湖が鮎美を妬むようにスタート地点から違うことも多い。親の世代の富が受け継がれ、少々の努力では埋まらないことや、そもそも努力するチャンスがないこともあり、格差の固定化は政治的課題でもある。鮎美は持論を否定されても、とにかく謝る。

「本当に、申し訳ありませんでした」

「………心がこもっていません。もっと心から謝罪しなさい」

「……。本当に! 申し訳ありませんでした!!」

「それは、ただ声を大きくしただけです」

「…くっ…」

 とうとう鮎美が悔しそうな顔をすると陽湖はゾクッと快感を覚えた。泣かせたい。ぼろぼろに泣かせたい、という衝動が走った。幼い頃の陽湖が心の中が言ってくる、ずるい、この子は、ずるい、私もいっぱい遊園地に行きたかった、白雪姫になりたかった、ずるいずるい! その幸せを少しは分けてほしかった! 独り占めしてずるい! と泣きながら今の陽湖へ訴えてくる。

「本当に悪いと思っているなら、土下座しながら、おしっこを漏らして、泣いて謝りなさい。それで許してあげます」

「……………」

 そこまで、うちに屈辱を与えんと満足せんの………うちが、あんたに何したっていうんよ……、と鮎美は思い出してみると、かなり、ひどいことをした記憶がある。キリストの教えを語る陽湖を邪険にしたし、鬼々島の山に登ったときは野外排尿の途中でスマートフォンのカメラを向けて撮影したフリをして慌てて衣服をあげさせ失禁状態にして笑ったし、下山の途中で殴って押し倒し、処女を奪うと脅したこともある、その復讐は機内で受けたつもりだったけれど、やられた方は復讐と償いが足りない、と感じているのかもしれないし、家庭環境の違いを妬まれているのもわかる。逆に鮎美が信徒の家庭に生まれ、つましい生活なのに教会へ寄付して、日曜日も縛られるなど絶対に嫌だったし、鮎美の性格だと中学生くらいで大反抗して信徒2世にはならないと感じる。もし、性格が遺伝するなら、たぶん鮎美のような性格の子を産む親もまた素直に信徒などになってはいない気もした。

「さあ! おもらししながら土下座しなさい!! 泣いて! 罪を悔いるのです!」

「………やれば……ええんやろ……ぅぅ…」

 もう淡々と土下座するのではダメだとも感じたので、陽湖の望み通り泣くことにした。こんな大勢の前で土下座をさせられるだけでも嫌だったのに、人間としても女子としても嫌すぎる姿を晒せと言われたし、いっそゲイツに命じて陽湖を逮捕して財産を供出させるという選択肢もあるけれど、それでは公権力による強奪になってしまう。銀行口座も陽湖名義なので銀行側も預金を動かすには本人の意志確認を重視してくる可能性が大きい。今は国庫のために陽湖の言いなりになるしかなかった。

「……本当に……申し訳ありませんでした……」

 再び土下座して、謝りながら下腹部の力を抜いた。もともとトイレに行く途中で陽湖が30億円をもっていることを知って地下室に戻ってきたので、力を抜くと勢いよく小水が出てきて下着を濡らし、すぐに下着から漏れ出てきてスカートも濡れるし、土下座姿勢なので内腿は濡れず足首や靴下、靴が濡れる。水たまりが床に拡がり、その中で土下座をしていると、情けなくて、みじめすぎて泣こうと思わなくても、ぼろぼろと涙が零れた。

「っ…うっ…うぐっ…ごめんなさい…もう許してください……お金を貸してください…ひーぅぅ…」

 美しく保っている髪も汚れ、自尊心をズタズタにされた。

「「「くっ……」」」

 鷹姫と三島、田守が歯を食いしばって悔しさに耐える。尊敬している対象が侮辱されているのに助ける手段が無いのは胸を抉られるような心地だった。

「んフフ♪ んフフ! んヒヒヒヒ! あらあら、本当に、おしっこしちゃったんですか? 冗談だったのに。んヒヒ」

 陽湖は最高に美味しそうに紹興酒をあおった。

「…ぐすっ…ううっ……おっしゃる通りにしました……お金を貸してください…」

「その姿、撮ってあげます」

 やっぱり撮られた恨みは深かった。陽湖は鮎美へスマートフォンを向けると、しっかりと鮎美の姿を撮影した。

「あーっ、スっとした♪」

「…ううっ…ううっ…ひううっ…」

 鮎美は土下座したまま泣いている。昨夜から睡眠時間も足りていないし、とても疲れている。もう頭がクラクラとして泣くことしかできなくなった。そんな鮎美を見下ろして陽湖は頭を踏みつけてやろうとする。

「踏みますね」

「貴様ァァ!!」

 田守が怒鳴って持っていた日本刀を抜こうとする。

「田守!」

 三島が抜刀を制して苦しげに言う。

「耐えろ! 芹沢殿が耐えておられるのだ!」

「くっ……」

 田守が抜こうとしていた刀を怒りに震える手で戻した。鷹姫もその刀を奪ってでも、陽湖を切り捨てたいと感じているけれど、耐える。そんな様子を夏子と静江が見かねて、なんとか陽湖の機嫌を損ねないように誘導する。

「今まで、いろいろあったかもしれないけどさ。そろそろ許してあげようよ。本気泣きしてるしさ」

「まあまあ、月谷さん、もう一杯、どうぞ」

 静江は紹興酒をグラスに注いで黒砂糖を混ぜる。ここのところ、ホストクラブでも接待を受けていたので女性の機嫌の取り方もわかっている。そして、実は静江も快感を覚えていた。今まで何度か、鮎美へ土下座したことがある。立場の上下と状況がなければ、なぜ自分が、ずっと年下の女子高生などに土下座して許しを乞わねばならないのか、そんな思いは心に澱として貯まっていた。

「私も見ていて、スーっとしましたよ。フフ、いいきみ」

 静江は小声で陽湖へ囁いたけれど、足元にいる鮎美にも聞こえている。夏子は30億円の確保に専念する。

「銀行も頭取に今から言っておかないと用意できないから。もう同意が取れたってことでいいかな? 判子は、どこに?」

「えっと、家のタンスに。母が管理しているはずです」

「お母さんに連絡してもらえる?」

「………」

「ね、お願い。あなたは日本の救世主になるよ」

「はい。もともと、お貸しするつもりでしたから。でも、あと少し」

 そう言った陽湖は紹興酒を呑んでいたグラスを紫ローブをまくって股間に入れる。そうしてグラスに放尿し、小便を満たすと、鮎美へ差し出した。

「黄金聖水です。飲みなさい」

「……ぅぅ……ぅっ…」

 鮎美が嫌そうにグラスを見ると、夏子が言う。

「土下座して漏らして謝れば許してあげるんじゃなかったの?」

「はい、許しました。でも、お金を貸すとは言っていません。これを飲みきれば、貸します。30億円を金利30%で」

「………」

 この子、出資法とか、利息制限法は知らないのね、と夏子は思ったけれど、余計なことは言わず鮎美を見る。

「…ぅうっ…」

「私が代わりに飲みます!」

 鷹姫が叫んだ。

「では、シスター鷹姫の分も出しますね。でも、シスター鮎美も飲んでください」

「くっ……」

「鷹姫……うちが飲むから……ええよ……。ヒトのおしっこは出て、すぐは無菌やし…」

 同性愛者ではあっても、同性の排泄物を飲みたいという気持ちはなかった。けれど、我慢すれば不可能ではなかった。もともと女子の腋の汗や股間の分泌物なら舐めとりたいと想うので、おしっこもそれらに近いといえば近い。鮎美はグラスを持つと一息に飲んだ。

「……ぅう………」

「では、次はシスター鷹姫も。あなたも何度もキリストを侮辱しました。同罪です」

「辱めるのは、うちだけで十分やろ!! おかわりでも飲むわ! 土下座も何度でもするわ!」

「そうですか……では、……」

 陽湖はグラスを鮎美から取り上げると、静江に紹興酒を注がせた。それを鮎美へ呑ませるのかと全員が思ったけれど、陽湖は自分で呑んだ。単にアルコールを補給したいだけだった。

「では……何をさせるか……あ」

 陽湖は考えながら地下室の壁に掲げられている義仁の写真を見て閃いた。その写真は義仁が小松基地に訪れたとき撮影したもので、今上天皇の御姿として石永が大会議室に飾らせたけれど、閣議の場が地下室に移ったので二つ目を用意して掲げている。陽湖は15歳の天皇を指して言う。

「あれは、ただの人です。神ではありません」

「………」

「「「「「………」」」」」

「シスター鮎美、あなたも宣言なさい。天皇の人間宣言をするのです」

「……」

 アホかお前は、と思いつつ鮎美は疲れた声で言う。

「あの人は人間です」

「………。……う~ん……」

 陽湖は物足りない。鮎美にとって天皇は当たり前に人間だったし、戦後にGHQがさせた人間宣言も日本人の感覚からはズレていた。欧米人のイエスを神であり人間であったと想う信仰心とは、日本人の天皇を半神半人と想う心は違っていて、天皇は処女から生まれたりしないし、普通に人間として一般女性と結婚したり、病気で早世したりもする。大正天皇の在位も短かったので、当時の人々も人間だと想っている。

「あ、ちょっと、その写真を取ってください」

 ろくでもないことを思いついたに決まっているので誰も動かなかったけれど、陽湖は台湾で操っていた男性SPの一人に目線で命じた。弱みがあるSPは仕方なく義仁の写真を壁から外して陽湖へ渡した。陽湖は写真を床に置く。

「シスター鮎美、これを踏みなさい」

「………」

 踏み絵か、あんたの発想はひどいなぁ、と鮎美は頭痛を覚えて額に手をやった。踏もうと思えば、踏める。簡単なことだった。鮎美の義仁に対する感情は、たった15歳で国の象徴として気を張っている立派な少年というだけで、初対面では強く緊張したし尊崇の念もあるけれど、写真は写真にすぎない。義仁本人を踏めと言われると、それは人と人として、できないけれど、写真は紙とインクでしかない。

「………」

 だいたい江戸時代の日本人キリスト教徒もマリアの絵を踏めないとか、おかしいんよな、偶像崇拝禁止なんやから、ただの銅板やったやろに、けど、うちは今、総理大臣っていう立場やし、はい、そうですか、と踏むわけにはいかんかなぁ、と鮎美は悩む。どちらかといえば、鮎美も信長や秀吉と同じく天皇を利用している自覚があった。神として崇めているというより、その権威を利用して昭和憲法を吹き飛ばしているし、ある意味で国難を乗り切るためのパートナーだと想っている。

「踏めないのですか? ただの人間の写真なのに」

「………」

 鮎美が迷っていると三島が言う。

「月谷といったか。貴様はそれでも日本人か?」

「はい。ですが、日本人であるとか、そういうことではなく、ただの人間です。神への信仰をもつ、一人の人間であり、そのことにおいてアメリカ人であるとか、日本人であるとか、関係ないのです。だから、私は踏めます」

 そう言って陽湖は写真を踏んだ。

「「「「「………」」」」」

 地下室が静まりかえる。

「ほら、何も起きない。神罰もありまません。火の雨も降らず、雷も落ちないのです。なぜなら、ただの人にすぎないからです。みなさんも気づくべきです。天皇は神ではありません。ただの人です」

「「……」」

 田守が三島と目を合わせてから日本刀を抜いた。もう三島も止めない。むしろ目で、斬れ、と語っている。そして、他の閣僚たちの陽湖を見る目も、さきほどとは色が違う。さきほどまでは議員と秘書という関係で鬱憤が溜まったり、家庭の事情で妬みがあったりしたのだろうと、少しは理解もあったのに今は外敵を見るような目になっている。未曾有の大災害と戦災で再び天皇を中心として、閣僚も国民もまとまりつつあり、とくに閣僚たちはネット回線を介したモニター越しとはいえ、義仁から親任を受けたばかりで、その忠誠心は厚い。鮎美から臨時代理人に指名されるのとは格別の感があり、三島など身の震える想いであったし、石永や新屋も同様だった。ほとんど今日まで天皇を想ったことがなかった夏子でさえ、気持ちが引き締まったし、感じたことのない念を覚えていた。田守が斬り捨てるために陽湖へ近づく。けれど、鮎美が腕をあげて制した。

「ですが……陛下を……この女、不敬の極み…」

「今は耐えて!」

「んフフ♪ 30億円、貸してほしいですよね? 福沢諭吉さんも言っていますよ、天は人の上に人をつくらず。諭吉さん30万枚と、一枚の写真、どっちが大切ですか?」

「うち一人を辱めたらええやん。この写真の人は人なんよ。この人が、あんたに悪いことしたわけちゃうやん。関係ない人やん」

「………まあ……そうですね…」

 これ以上、天皇を辱めると、本当に殺される気配がしたので陽湖も引く。鮎美は再び土下座した。

「お願いします。30億円を貸してください。必要なんです。それが無いと、避難所への食料配送や医薬品の供給、いろいろ何もかも止まってしまうんです。どうか、お願いします」

「……………。……」

 もともと信徒から震災義援金として集めたものなので、鮎美の用途は実に正しい。神の導きとさえ想うほど、金額も合う。そろそろ陽湖も貸すことにしたけれど、最後の辱めを与える。

「おもらしで濡れたパンツを脱いで、頭にかぶって土下座しなさい」

「……はい…」

 鮎美が粛々と実行するのを閣僚たちは、立派な人だな、と想いつつ、陽湖のことは、残念な子だな、と思った。これ以上ないほど屈辱的な土下座を鮎美がしたので夏子が話をまとめる。

「はい、じゃあ、私が琵琶湖銀行の頭取に電話するから。月谷さんはお母さんに頼んで判子を用意してもらって。あと、頭取と途中で替わるから、同意を証言してね」

「わかりました」

 やっと陽湖が同意し、銀行に準備してもらう。その間も陽湖に気が変わったと言われると困るので鮎美たちはおとなしくしていたし、静江は呑ませて寝てもらう作戦に出て、どんどんと紹興酒をつぎ、泥酔した陽湖はフラフラになって貴賓室で眠った。貴賓室は窓という窓を厚さ2センチの鉄板で塞いでいるけれど、やはり核ミサイルが極めて正確に小松基地へ着弾した場合は耐えないので、鮎美や閣僚たちは地下室で雑魚寝状態で眠る。寝る前に鮎美が天井に向かって言った。

「罪と罰、って小説を書いたドストエフスキーは死刑宣告されて処刑台へ連れていかれたらしいけど、あいつは処刑台の上で何を思うんやろね」

「「「「「………」」」」」

 怒りはわかるけど本気で殺すのだろうか、と聞こえていた閣僚たちは不安に思った。独裁者が感情的な死刑を始めると、それがキッカケで止まらなくなるかもしれない。陽湖のことは腹立たしいけれど、法の安定は心配だった。

「田守はん」

「はっ」

「一瞬で斬り殺すとか、あかんよ。殺すときは苦しめて苦しめて、さんざん後悔させて泣き叫ぶとこを眺めてから殺すし」

 殺意の滲んだ声だった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る