第69話 3月24日 信仰と法、難民、杉原千畝

 復和元年3月24日木曜、午前11時過ぎ、陽湖は強い頭痛を覚えて呻きながら貴賓室のベッドで起きた。

「ううっ……痛い……ズキズキする……」

 頭痛は二日酔いによるものだった。台湾でも呑みすぎて経験したことがある。

「……神よ……どうぞお救いください……ううっ…」

 祈っても無駄だったので起きて水を飲もうと周りを見る。

「………ここ、どこ? たしか、シスター鮎美に黄金聖水のイニシエーションをしたあと……ううっ……とにかく、水。……あと、オシッコしたい……飲ませるまで我慢しないと……」

 寝る前の記憶が曖昧なほど酔ったので頭痛も強いし、膀胱も張っている。よろよろと貴賓室から出てみると、ドアの前に里華と麻衣子が立っていた。

「「おはようございます」」

「え…ええ……おはようございます。たしか…石原さんと大浦さん?」

「「はっ」」

 里華と麻衣子は世話役として陽湖につくよう言われていて敬礼している。なるべく機嫌よく陽湖に過ごしてもらうようにとも指示されてもいる。里華が問う。

「朝食は、どうされますか? すぐに昼食の用意ができますが」

「お水を一杯いただけますか。あと、シスター鮎美は、どこに?」

 麻衣子が水を汲みに走り、里華が答える。

「地下室で閣議中です」

「そうですか。ありがとうございます」

 麻衣子から水をもらって飲むと、陽湖はそのまま地下室に向かう。廊下も多くの窓に鉄板が固定されてあって昼なのに照明を使っている。陽湖の後ろをついていく里華と麻衣子は昨夜入浴せずに紫ローブのまま眠った陽湖の体臭が気になったけれど、女性らしく顔には出さず黙って歩く。地下室に着くと陽湖は閣議中なのに鮎美へ声をかける。

「シスター鮎美、ちょっと女子トイレまで来てください」

「……今、ホンマに忙しいのよ。あとにして」

 閣議は三つの深刻な事態への対処に迫られていて、陽湖にかまっているヒマはなかった。けれど、陽湖が臨時政府に貸し付ける30億円の問題もあった。

「おしっこ漏れそうなんですよ。私が、ここでおもらししたら30億円の話は無しにしますからね。ハァ…」

「………」

 勝手に漏らしとけ! 変態! と言いたいのを我慢してモニターの中にいる畑母神に言う。

「畑母神先生の判断で、もっとも日本軍の生存戦略にかないそうな手段をとってください。あと、台湾の方々の船団も安全に帰らせてあげてください」

「了解した」

 夜間のうちに尖閣諸島には仲国軍が上陸しており、さらに早朝には仲国空軍の戦闘機が沖縄本島に飛来して何度も領空侵犯を繰り返してくるのに日本空軍が対応しているうちに、とうとう戦闘となり双方3機が撃墜され、新田原基地から全力出撃の応援が到着したことと、仲国軍機の航続距離の限界で退散してくれたという事態が発生していた。いまだ那覇空港は滑走路こそ復旧したものの、整備や武装の換装などはできず、せいぜい燃料補給くらいという状態で、朝鮮半島からの難民追い返し作業もあり、もう尖閣諸島へ軍艦や航空機をさく余裕は無くなっていた。畑母神が険しい顔で言う。

「仲華民国の船団には必ず無事に帰っていただこう。遠回りになるが津軽海峡を回って太平洋側から台湾本島南部へ向かってもらう。すでに台湾海峡でも仲国軍と台湾軍が衝突している。総理が私にすべてを任せてくれるなら、難民追い返し作業は海保のみに担当させ、沖縄は軍のみで守り、寄らば斬るの方針でいく。難民追い返し作業は船の数が減る分、より手荒になるが、そうさせていただいてよろしいですな? 芹沢総理大臣」

「はい」

 鮎美は一件の深刻な事態に決断を下して、次の事態にも対処する。

「死刑が望みやと言うなら死刑にしてやってください」

 神戸市の避難所で、まるで鮎美が発布施行した総理代理令に挑戦するかのような強姦殺人犯が現れ、女子小学生5人を強姦して殺害した上、逃げもせず逮捕されると、死刑でいい、と言い放った田熊衛士(たくまえいじ)という男に、鮎美も他の閣僚たちも死刑しかないと憤っている。

「うちが昨日のうちに施行発布しておいた総理大臣令による即決裁判でお願いします」

「あいわかった。どのみち冤罪の余地など皆無だ。このようなゲスには食事は当然、日本の空気を吸わせるのも、もったいないわ」

 三島が頷いた。現状、最高裁判所も壊滅しているので鮎美は昭和憲法を無効化した上、特別裁判所の設置も可能にしていた。明らかに冤罪の余地がない証拠のそろった事件で悪質なものについてのみ適応可能としている。

「うちが参議院議員になったのと似たような制度で廃案になったのが、役に立つやなんてね」

 国民の中から無作為に選んだ者を裁判員にあてて裁判するという制度を焼き直して適応したので一から造らずに済んでいる。審理に時間をかけるつもりもなかった。さらに新屋が問う。

「こちらの件は、どうしますか? まさか一人で三重に戸籍をとろうとするとは、二重でも死刑だとしたのに。まったく……どういうつもりなのか」

 在日外国人が津波で死亡した人間の保険証などを悪用し、別々の市役所の窓口で新たな戸籍を二つ取得し、さらに三つ目をえようとしたところで逮捕に至ったという事件だった。

「犯人の名前もホンマもんかわからんけど、それも死刑しかないですやん。ようやるわ。三重にとれたら四重五重と狙ったんやろかね。それも一審のみの即決裁判でやってください。秩序維持に見せしめは必要です。市役所も大忙しやのに、いらんことばっかりしおって」

「わかりました。適応可能だと思われます。自ら発行を依頼した身分証明そのものが動かぬ証拠になりますから」

 やっと三つの事態への結論が出たので、鮎美はそばで尿意を我慢して悶えている陽湖に問う。

「で、なんでしょうか? マザー陽湖さん」

「トイレに来てください。あなたの罪を問います」

「………はい…」

 仕方なく閣議を休憩にして鮎美は地上1階にある女子トイレについていく。心配なので鷹姫も同行したし、里華と麻衣子も女子トイレへ入ったので護衛のゲイツたちはトイレ前に立つのみとなる。

「ハァ…漏れそう…ハァ…」

 陽湖は恍惚としながら尿意に耐えつつモジモジと身体をくねらせ、鮎美に言う。

「あなたには個人としても議員としても国家としても、一つずつ罪があります」

「……どのような罪でしょうか? 教えてください」

 聴きたくもないけれど、とりあえず相手はする。

「まず個人として、台湾で機内から動けなかったとき、食事を手配して、それが届いたのに、怪しいと見て食べなかった罪です」

「………」

「あれを食べた生徒たち、あの後、誰もお腹を壊したりしなかったそうです」

「………」

「それどころか、あれはフォイハイフーという屋台の名物料理で、普段でも行列ができるようなお店です。台湾の信徒さんが教えてくださりましたが、日本の学生たちが空腹で苦しんでいるからと、店長さんが徹夜で作ってくれた真心のこもった料理でした。それを、あなたは怪しいなどと見て、食べなかった。これは大変な罪です」

「……そうやったんや……」

 たしかに義隆たちは体調を崩さなかったし、できたてなら美味しかったのかもしれない。震災直後の混乱もあり配送に手間取ったのは仕方ないし、一人で全員分を作ってくれたなら、頭のさがる恩だった。

「他の航空会社の飛行機でも食事が届かなかった機は多かったのに、日本の修学旅行生と聞いて頑張ってくださった店長さんの誠意を、あなたはドブに捨てたも同然です」

「………疑って…すみませんでした……」

 陽湖にではなく、名も知らない台湾人の屋台店主に鮎美は申し訳ないと本当に思った。いつか機会があるなら台湾を訪問して直接謝りたいと思うほど、せっかく作ってくれたのに怪しいと思って食べなかったことを悪いと感じた。さらに陽湖が罪状をあげる。

「議員としても、仲華民国政府は津波で着陸できずに彷徨ううちに予定外に飛来していた日本の議員がいると知って、歓迎しようと大変な中で使いを出したのに、身代わりに私を出して騙すということをしました」

「…………」

「他国の好意を疑い、あまつさえ騙して背中を向けるなど議員として最低です」

「…………」

 あれはウイグルの空港での扱いがあったからやん、と鮎美は反論したいのを我慢した。

「あなたは仲華民国政府の誠意をドブに捨てたも同然です」

「…………悪いとは……思ってます……」

「次に、国家として」

 陽湖は威厳をもって言うけれど、もう失禁寸前なので両手で股間を押さえながらプルプルと震えている。一見するとイジメられている子に見えるのは陽湖の方という構図だったけれど、わざわざ鮎美の罪をあげてくるあたり、どんな罰をくだすつもりなのか、だいたい想像がつく。

「この大変な時期に、台湾の方々は日本を援助してくださいました。途中で核ミサイルが頭上を飛んでいくような状況なのに、それでも支援を届けてくださいました。なのに! なのに、日本は台湾、仲華民国を一つの国として応対せず、ハンパな対応しかしません。援助を受けておきながら、正式な国交がないというのでは恩知らずにもほどがあります!」

「……それには……複雑な歴史が……」

 もともとは仲国大陸での覇権を巡って国民党軍と供産党軍が戦ううちに、劣勢となった国民党軍が台湾へ入り、根本博も援軍に駆けつけた上陸阻止作戦の成功によって二つの仲国として残ることになり、戦後は仲華民国の方が国連にも加盟しアメリカの援助もあって高い国際的地位を得ていたけれど、仲華人民共和国が国連の代表権を得たことから1972年に仲華民国は国連を脱退、以後は仲華人民共和国が仲華民国と国交のある他国に圧力をかけることもあって孤立化の道を進み、また人口でも10億人対2000万人という国力差もあり、現在では苦しい立場にあるし、日本も国としては承認せず、形式的には国交が無く、実質的には国交があるという状態だった。

「これら三つの罪により、あなたを罰します」

「……どうするんよ?」

 訊きたくないけれど、訊いた。

「身につけているものをすべて外し、完全な裸になってトイレの床へ便器のように寝なさい。上を向いて口をあけて。あなたは便器です。私が使ってあげます」

「……」

「月谷!!」

 鷹姫が怒り、里華と麻衣子は状況が理解できない。閣議には顔を出せないので昨夜から30億円のために鮎美が言いなりにならねばならないという状況となっていることを知らず、陽湖は鮎美の性的パートナーであり、これから特殊なプレイを始める気なのかと軽蔑した目で見ている。

「さ、裸になって寝てください」

「………あんた、結局、うちが子供の頃にディスニーランドへ行ったり、いろいろ遊んでたのが妬ましいだけやん」

 鮎美が反論した。言い当てるというほどでもない、わかりきった指摘だった。陽湖は考え込む。

「……………その感情は否定しません。けれど、あなたの罪は罪のままです」

「別に、それを、あんたが裁く必要性も権限もないやん。そんなにディスニーランドに行きたかったん? あんなもん、ただの遊園地やで」

「夢の国です」

「………」

 鮎美が反論に悩むと、麻衣子が言う。

「私も行きたかった……金沢から東京って、すごく遠いから……修学旅行も左翼的な教師と右翼的な教師が一致して沖縄にしちゃったから……」

 行きたかったのに行けなかったというところで、陽湖と麻衣子が共感した。陽湖は里華にも問うてみる。

「あなたは行かれたことがありますか?」

「………。横浜に住んでいたので……それなりに……」

 どうして、こんな、くだらない会話を、これほどの非常時にしているの、という疑問をもちつつも里華は答えた。

「そうですか。もてる者に、もたざる者の気持ちはわからないのです。とくにシスター鮎美は二泊三日で公式ホテルに泊まっていました。しかも、学校をサボって!」

「あれは、父さんが、その方が空いてるし、ホテル代も安いって言うからやよ。うちの家は、そんなに言うほど金持ちちゃうよ」

「二年に一回、一度に50万円を使うとして、16歳までに400万円です。他にも富士急ハイラントにも長島スパーラントにも行っています、一泊で。だいたい毎年2回は遊園地に行くし、年3回は温泉旅行にも行ってました」

「人んちのアルバムから妬みのネタを見つけんといてよ、うちが自慢して見せつけたわけちゃうやん。たいして金持ちちゃうから海外旅行に行けん分、国内で遊ぼうって父さんが言うてたから」

「しかも、いつも学校をサボって!」

「だから、それは安いし、長スパあたりやと平日は、ほとんど並ばずに乗れたりするし、UMJでも最近は外国人が多くなってたけど、ちょっと前やと一日で全部乗れるくらいやから。あと、学校はサボったけど、ちゃんと成績は維持したし」

「そんな考え方は間違っています。学校は、ちゃんと行くものです! そして日曜日は教会に!」

「……あんた、かわいそうな日々を……けど、あんたも長スパくらい行ったことあるやろ? 六角市から山を越えたらすぐやん」

「っ、びわ湖タワーしか行ったことない!!」

「………びわ湖タワーって何? そんなん地元にあった?」

「くっ……バカにして! 早く便器になりなさい! でないと30億円、貸しません! びわ湖タワーには世界一のイーゴス108もあったのに! 高くて乗れなかった!」

「……イーゴス108って何よ?」

「観覧車です! イーゴスは、すごい、を逆さ読みしたもので108mの高さがあったから!」

「それは……すごいね…」

 ネーミングセンスといい、あんたの煩悩といい、108つの妬みくらい持たれてそうやわ、と鮎美は妬みを隠さなくなった陽湖への対応を考える。いくら30億円のためとはいえ便器扱いされる気はないし、もう陽湖へは強い嫌悪感をもっているけれど同性愛者なので股間に口をつけるくらいならやってもいいものの、寝起きで貯まった尿を排泄されるのは、まっぴらごめんだった。

「30億円を貸してくれんにゃったら、国教をキリスト教にする話は無しやしね」

「っ………」

 今度は陽湖が考え込む。罰と言いつつ、個人的な変態的欲求と逆恨み的復讐心を満たすことと、歴史的一大事業の成就を天秤にかけて悩む。そのうちにも尿意は絶え間なく襲ってくるので股間を押さえて震えている。それを見ている里華と麻衣子には、陽湖のことは残念な子にしか見えなかった。鮎美が提案する。

「ほな、こうしよ。日本の運命をかけて、陽湖ちゃんが頑張ってみぃよ」

「私が何をするというのですか?」

「キリスト教を国教にするための条文を考えてみてよ」

「…ジョー分…」

「条文よ、条文。憲法の文言を、どうするか。とくに、うちは天皇陛下に任命されて総理大臣なんよ。天皇は神道の存在でもあるわけで、それとキリスト教の国教化との兼ね合いをどうするかは、すごい難しいのよ。あと、創世記と理科の知識の矛盾とか、いろいろあるやん。どうするか、教育施策も考えてみて。それを完成させるまで、陽湖ちゃんがオシッコ我慢できたらウインウイン、おもらししたら破談。そんなギリギリの我慢してみ。きっと、気持ちいいよ」

「…………」

 他人に自分の尿を飲ませる趣味を覚えた陽湖だったけれど、まだ我慢のあげくに失禁するのも飽きたわけではない。そんな気配を嗅ぎ取った鮎美は畳みかける。

「しかも閣議してる真ん中でやってみぃよ。おもらししたら、みんなに見られるし、我慢しきったら、すごい立派よ」

「……わかりました。いいでしょう。やります」

「「「………」」」

 鷹姫と里華、麻衣子には、まったく理解不能だったけれど、陽湖は条件を飲んだ。よろよろと地下室に戻り、椅子に座らせてもらい机に向かって鉛筆を握る。もらった紙は審議が終わった資料の裏だった。鮎美は閣僚たちに謝り、閣議を再開する。いろいろな問題が山積みで時間が惜しいので閣僚たちも陽湖のことは目障りだけれど、触れないことにした。陽湖は昭和憲法を模範にキリスト教の国教化を考えてみる。

「……第一条……いきなり、ここで天皇が出てくる……象徴……国民の総意……、ただの人の王にすぎないはず……王家にすると……ううん、第一条で、まずキリスト教を定めよう……第一条、日本国はキリスト教の国であり、この事実は全知全能の神の意志に基づく。うん、これで決まり! ぅっ…く、漏れそう…ハァ…ハァ…」

 陽湖は片手で股間を押さえながら机に向かう。その姿はテスト中にトイレへ行きたくなった女子高生のようで、思想信条と性的趣味はともかく顔立ちは鮎美に似て美しいので、男性閣僚の一部は劣情を催したし、変な趣味に目覚めそうだったけれど、今は4月からの学校開始や大学に合格したのに大学そのものが無くなった生徒や、大学はあるけれど、かなりの数の学生が亡くなった大学などの調整をどうするか、真剣に話し合う。陽湖は第二条に取りかかった。

「第二条、このあたりで天皇を入れて……天皇は日本国の象徴であり単なる王家である。……う~ん……でも、あとあと、出てくる身分制度の廃止や平等に反するんじゃ……思いっきり門地というか血筋だし……まあ、でも、イギリス王家もあるから、いいのかな。もっとシンプルに。第二条、日本国は天皇家を王家とし、皇位は世襲する。世襲制度は国会の議決した皇室典範で定める。………国の統治は王制じゃないけど、いいのかな……あ、だから次から権限を縛るんだ……国事行為……内閣の助言と承認……でも、今回みたいに内閣とか議会が一気に無くなったときは……今、シスター鮎美が総理大臣なのは天皇の任命だし、それを有効にしておかないと……平時は内閣と議会の助言で、非常時は天皇の聖断で…あ、でも聖なるものは神のみだから、王断……皇断とか……じゃあ、第三条、天皇の国事に関するすべての行為には内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負う。ただし、非常時は天皇の判断によって国事行為を行うことができる」

 焼き直しとはいえ、一から憲法を作るのは大変な作業だったし、尿意と戦っているので思考も幼稚だった。額と腋から汗を流しつつ身震いしながら8条まで焼き直した。

「第九条、戦争の放棄………う~ん……武力による威嚇、行使は、解決の手段には……ここにこそ、キリストの精神を入れて隣人愛と、剣をとるものは剣によって滅びる……けど、非キリスト教国が攻めてきたら……陸海空軍を保持しないのも……キリスト教国でも、軍隊はあるし……どう考えても現実的じゃない……ううん、ここで無抵抗不服従を……違う、これはガンジーだからダメ……もっとジャンヌダルク的な……でも彼女も英仏戦争に神の名を使っただけなんじゃ……神が片方の国に肩入れするなんて考え方、異端審問されて当然……天皇なら日本だけの神だから、当然、日本に肩入れする神だけど………全知全能の神が一国家になんてこと……ぅぅ、漏れそう……あんまり考えてると完成する前に、おもらししちゃう…ハァ…ハァ…ややボカした感じに、第九条、日本国民はキリスト教精神に基づき国際平和を誠実に希求し、隣人愛を信条として国際紛争を解決する。第二項、前項の精神に反しない範囲で自衛のための手段をもつ。……こんなもんかな……」

「………」

 ションベン垂れそうなくせに、一応は現実的な思考で9条は実質放棄なんやね、日本供産党よりはマシか、まあキリスト教国は戦争しまくるしなぁ、と鮎美は閣議の合間に陽湖が書いているものをみて思った。

「第十四条、これは簡単。すべて国民は、神のもとに平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的経済的社会的関係において差別されない。………受洗してる場合と、未受洗でも平等でいいのかな……あ、政治経済社会だからいいのか、宗教的には違っても。でも神のもとに……やっぱり法のもとの方がいいかも……」

 考え込み、変えないことにした。

「十九条まではいいとして、やっぱり二十条は変えないと……いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない、っていうか、天皇が象徴で国事行為をする時点で、国から神道が特権を受けてるとしか思えないんだけど……この憲法、もともと穴だらけかも。……あと、何人も、宗教上の行為、祝典、儀式または行事に参加することを強制されない、って………もし、親が信仰してる宗教の礼拝に行くのが嫌だったら……それって強制じゃないのかな……親権………親権でも親権濫用なんじゃ……。第三項の宗教教育、その他いかなる宗教的活動もしてはならない、って、じゃあ、君が代も賛美歌みたいなものだから、ダメすぎるかも……国歌を変えないと……もう、国歌なんて世界中の国がやめて主の祈りにすれば丸くおさまるかも……う~ん……難問……というか、天皇制そのものが邪魔すぎ」

「………」

 こいつ、やっぱ非国民やなぁ、GHQみたいな思考しおって、けど、親に強制されて礼拝いくのは嫌やったやろな、毎週日曜日を奪われるって鬼やん、と鮎美は親による専制と隷従、圧迫と偏狭を受けてきた陽湖を可哀想に感じると同時に逮捕して拘禁しておきたくなる。

「ハァ…ハァ…漏れちゃう……決めよう。第二十条、信教の自由は、何人にも保障される。ただし、国教はキリスト教とする。第二項、何人も宗教上の行為、祝典、儀式または行事もしくは礼拝に参加することを強制されず、親は子に宗教を押しつけてはならない。第三項、国はキリスト教を教育する」

「っ…」

 矛盾だらけやん!! と叫びそうになった鮎美に文部科学大臣が問うてくる。

「総理は受験生という年頃でもあったわけで、どう思われますか? この問題」

「あ、はい」

 閣議も聴いていたので答える。

「これだけの事態ですから、大学が無くなった生徒と、学生が亡くなってしまった大学のマッチングは、やっぱり偏差値を基準にランク分けして決めることにして、本人と学校の面接も行う感じにしていくのがよいと思います。その作業に2ヶ月は要するでしょうし、いっそ4月から新学期とせず、夏休みを返上というか、前借りして4月5月が夏休みの代休、6月から入学式くらいにスケジュールを組めば、そこそこマッチングの時間はあると思います。あとは定員に少し今回だけ余裕をもたせてあげるとか」

「なるほど、6月から新学期と……大胆ですが、それがいい。時間的余裕が生まれる。どうせ、だいたいの大学にエアコンは設置されていますから夏休みが無くても問題ない」

「あ、けど、エネルギーは節約してほしいんで……いっそ、この機会に大学を減らしたら、あかんでしょうか?」

「大学削減ですか」

「中学生の頃から、思ってましたけど、勉強せん子は、ぜんぜん勉強せんし、そういう子が野球だけで大学まで行くのも無駄な気がするし。スポーツに打ち込むのは、まだマシな方で何もせん子も、とりあえず大学っての見かけるし、教育予算の効率を考えたら中学校までは全員、高校からは8割、大学は3割が行けば、ええ方ちゃいます?」

「まあ……そうなんですが、正直、大学の教授ポストが天下り先といえば、天下り先ですから」

「そこを今回、さりげなく切り込んでいったら、どうでしょう? 偏差値が高いか、もしくは専門教育で実績がある大学だけ、震災での補助金を出して。いまいちな大学は予算が無いと言って断る感じに。あと、スポーツだけの大学は、いっそプロスポーツ団体に施設ごと売却するとか」

「予算的には、よい案ですが、教育の機会を国民から奪うことになりませんか?」

「だいたいの講義は聴いたら理解できますやん。放送大学の講義をヨーツーベに流したら、無料で学びたい人は学べるし。それで伸びた人は本気で大学に入り直すのもいい、みたいな感じに」

 鮎美も在宅で学べる放送大学のことは少し調べていた。議員予定者として当選した当初、高卒で終わるのでなく議員活動と平行して学べないかと調べていたけれど、忙しすぎて諦めているし、人間の知能指数は100を中央としているので必ずしも多数の人間に高等教育をする必要はないのではないか、とくに分数の計算もできないような者は大学生にならなくていい、どうにも知識を得たければ放送大学や図書館、インターネットという手段がある、やる気のない人間、能力の低い人間が大学に入るのは社会的な資源の浪費だ、と考えていた。社会に余裕があるなら、それもいいかもしれないが、困難な時期は高等教育は狭き門であっていい気がする。それを差別にならない程度の表現で口にしていた。そして多くの一流大卒の自眠党議員も鮎美と同じ考えでありながら、実は官僚の天下り先確保だけでなく、自分たちが選挙で落選したとき大学教授のポストというのが数年間の就職先として都合がいいので大学の乱立にも目をつぶっていて結果、OECD加盟国中でも高い高等教育費を国民に強いていたし、国民の側も勉強しない我が子にも少しでも良い就職のチャンスがあれば、という儚い希望で浪費を重ねていて、社会全体として大きな損失だった。今回の国難で、その状態を一新しようという鮎美の遠回しな誘導に他の閣僚たちも乗ってきてくれた。鮎美たちが、そういう大切な議論をしているうちに、知能はそこそこに高いけれど、かなり残念な方向に成長した陽湖は作文を続けている。

「第二十三条、学問の自由は保障する。ただし、聖書を否定してはならない。ハァ…」

「……」

 おいおい天体観測もできんようになるで、イルカに残ってる骨盤の残滓とか、どう説明するねん、と鮎美は突っ込みたかったけれど面倒なので放っておく。

「第二十四条、結婚は神の名のもとに男女の誓いによって成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により維持されなければならない。第二項、配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、婚姻、家族に関するその他の事項は男女の平等と個人の尊厳に配慮して法律において定める。ただし、離婚は神への誓いを反故にする悪行である。ハァ…ハァ…ぅぅ…」

「………………」

 で、離婚はできるの? できんの? そんな憲法にしたら、またゴチャゴチャ最高裁まで争うケースが、いっぱいでてくるで、現状でも離婚でダラダラ裁判するし、もう裁判所で争ってる時点で終わってるカップルやん、離婚は片方の意思表示のみで十分に成立して養育費とかは双方の所得から換算する年金制度みたいなんを設計して、源泉徴収といっしょに取り上げて配分したらええやん、と鮎美は呆れつつ瞬時に新制度を思いつき、陽湖が条文で男女と限定していることは予想通りだったので気にもしない。陽湖は尿意に震える目で35条までを読み飛ばし、次条を考える。

「36条……ぅ~くぅ……漏れるぅぅ……公務員による拷問及び残虐な刑罰……ハァ…ハァ…自白を強いる拷問はダメだけど……刑罰は絞首刑だって残虐でないとはいえないし……カトリックも、よく火あぶりやってた……ハァ…ハァ…強姦殺人犯で反省しない人は、もう、どうしようもないし……隣人愛といっても刑罰無しってわけには……ハァ…ハァぅぅ…地獄だってあるし……死刑のとき、地獄の先取りってことで……雄琴先生が言ってた案もありかも……第三十六条、公務員による拷問は絶対に禁じる。第二項、法律の定める手続きにより刑罰はかされる」

「………」

 法律に丸投げしたけど、一応は雄琴先生の考えを受けてくれるんやね、と鮎美は共感を覚えつつ、閣議も進める。石永が核武装を主張していた。

「今のうち、というか、もはや手遅れの感もあるが、日本も核ミサイルをもつべきだろう。これ以上の核攻撃を受けないための報復手段として」

 もともと石永の持論だったので強い語調で言った。鈴木が問う。

「今すぐにですか?」

「ええ、日本のロケット技術は十分にありました。あとは核弾頭、これも健在な原発から核物質を取り出せば可能なはずです」

「お気持ちはわかりますが、物理的に可能性があったとしても原発から核物質を取り出すのはIAEAが黙っていないでしょう」

「IAEAも核攻撃を受けた直後の日本がすることであれば、文句も言えないでしょうし、文句を言うなら、どうにかしてくれ、と反論しようもあります」

 石永が執着するので久野も諫める。

「その意見も正しいですが、現状で太平洋側の原発は、みな放射能漏れなど事故を起こしています。国民は核アレルギーどころの騒ぎではない。そこにきて核武装というのは正気のようにも狂気のようにも見えるでしょう。おっしゃることはわかりますよ、核には核をと武装する、しかも撃たれた直後です。福岡での死者は広島長崎よりビル群が発達していたこともあって2万を超えないかもしれない。けれど、2万人の命が失われた。こうなったら、こっちも核を、というのは正気とも言えます。とはいえ現実問題、経済の立て直しや復興に、これからも国際社会からの理解と協力をえたい状態です。核兵器開発などすれば、それこそ北朝鮮と同じく経済制裁を受けますよ」

「………くっ……しかし、このまま……」

 石永が悔しそうに眉間を顰めるので久野がなだめる。

「核武装という選択肢よりも、まだ残っている全戦力をもって麗国を応援し、北朝鮮の発射基地を叩く方が現実的ですし、国際社会の理解もえられるでしょう。完全占領ではなく発射基地の破壊にとどめるならば、仲露の反発も強くはないかもしれない。けれど、我々が半島のことに手を出さないならば金正陽は、もう撃ってこないかもしれない」

「そんなものは今だけですよ。かりに朝鮮半島すべてを支配すれば、次に攻め込む、もしくは脅すのは日本しかない」

「………麗国軍の様子は、どうですか? 畑母神先生」

 久野の問いに畑母神は司令室からのモニター越しに答える。

「持ち直したのか、それとも単に北朝鮮軍が疲れたのか、やや進軍の速度は落ちている。くわえて麗国軍の一部は集結して反撃の機会をうかがっているように見えるところもある。これに期待したいが逆に、これが失敗に終われば、もう終わりかもしれないな」

「「「「「………」」」」」

 閣僚たちが静かになると、陽湖の声が響いてしまう。

「…ぅぅ……うきゅ~………第五十四条に第四項を加えて緊急集会どころか、国会議員が一人しか生き残ってない状況とか、全員が死んじゃった状況を想定しないと……また、今回みたいに一人が独裁しちゃう……」

 その独裁者を30億円で昨夜は言いなりにした少女が今はキリスト教の国教化というエサに釣られて作文しているけれど、どの閣僚もキリスト教が本気で国教になるなどと思っていないので黙っている。まだ鮎美との付き合いは短い者が多いけれど、金沢と富山、福井で霞ヶ関を再建するにあたって地価の高騰をさせないよう富山と福井の人間に競わせた性格の持ち主が素直に口約束を守るはずがなく、借りてしまえば手のひらを返すつもりでいることは感じている。むしろ問題は借りた後、陽湖がどんな目に遭うかだった。まさか本当に死刑にしたりはしないはずという期待と、昨夜の屈辱を考えると餓死くらいさせるかもしれないという不安が交錯している。

「…ハァ…全員が死んじゃった場合は………全国の知事に出てきてもらって議会をつくるとか、副知事に県のことは任せて……それで、だいたい50人……二院制を保つなら、県議の議長にも出てきてもらうシステムにすれば、そこそこ民主的に……少なくとも今回みたいな独裁にならない……もし、一人だけ生き残ってる場合は、その人の権限を制限できるように知事と同等って扱いにすれば…ハァ…ぅきゅ~…これ、第四項だけに、まとめるのは無理で、緊急臨時国会って章でもつくった方がいい…あぁぁ……漏れるぅぅ…」

「「「「「…………」」」」」

 おもらし寸前で呻いている少女でも思いつくようなことを、どうして今まで放置していたのだろうと、閣僚たちは少し悲しく思った。

「ハァ…とりあえず第四項で、災害等により両議院の議員が大きく欠け、その三分の一以下となったときで、ただちに選挙を行いえないときは衆議院については都道府県知事が議員の資格を得、参議院については県議会議長が議員の資格を得る。ただし、この資格は2年以内とし可能な限り早急に選挙を実施しなければならない。ハァっ…ハァっ…」

「「「「「……………」」」」」

 けっこう、まともなこと決めたな、と閣僚たちは思った。今の閣僚たちは完全に鮎美と石永が好きに選んだ者たちなので地域にも政治信条にも偏りがあり、国民の総意とは言いにくい部分もある。それに対して県知事と県議会議長であれば経験においても、また票をえて政治家となっている点からも、妥当性があった。鮎美が挙手して閣僚たちに言う。

「敦賀の原子力発電所も震災後、順次停止してはりますけど、うちは燃料節約の観点からは、できるだけ原発を動かした方がええと思うんですが、あかんでしょうか?」

「大胆だな」

「核武装するよりは、大胆ちゃいますよ」

「まあ、そうだが……どうだろう、みんなの見解は?」

 石永が問うと閣僚たちは賛否両論に別れた。危険性と国民感情、想定外の余震、二度目の核攻撃の目標になる可能性をあげて反対する者と、燃料節約という鮎美の観点に同調する者に別れて半々となり、慎重論で落ち着いた頃、陽湖は司法の章に辿り着いていた。

「ハァ…ハァっ……第七十六条、司法権は最高裁判所および法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。ただし、信仰の問題については別に定める。第二項、前項但書の問題について審判を要するときは特別裁判所を設置し、裁判官は聖職者から選任する。第三項、すべて裁判官は、その良心と神に従い、この憲法と法律および聖書にのみ拘束され、人の定めた法が聖書に反するときは、これを無効とする」

「「「「「………」」」」」

 そんな国に住みたくないな、と石永たちは思った。食料価格は急上昇していないものの上昇傾向が続き、さらに出し惜しみから店頭で品薄状態が続いていることと、いずれ配給制を導入するかについて話し合いながら昼食をとる。陽湖にも食事トレーが配られたけれど、食べたり飲んだりすると漏らしそうだったし、周りが食事中に失禁するのは遠慮したいので、まだまだ作文を頑張る。

「ハァ、第八十九条、公金その他の公の財産は、キリスト教の組織もしくは団体の使用、便益もしくは維持のために支出される他は、宗教上の組織もしくは団体または公の支配に属しない慈善、教育もしくは博愛の事業に対し、これを支出し、または利用させてはならないぃぃ……ぃぃぅぅぅ…あと、ちょっと、あと…少しだけ……うゅぅぅ」

 鮎美たちが食べ終わった頃、とうとう陽湖が改正案を完成させる。

「ハァっ…ハァっ…第九十六条……二項……ぅぅ……うきゅぅぅ……憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は神の名で、この憲法と一体をなすものとして、直ちに公布するぅぅ…」

「………」

 どの神やねん、と思いつつ鮎美は食べ終えた食事トレーを静江に渡した。

「ハァっ…ハァっ…シスター鮎美……お…わり……終わりました…ぅぅ……た、立ったら漏れちゃう……取りに来てくださいぃぃ…」

 陽湖が両手でプルプルと改正案を記した資料の裏を見せている。

「どれどれ」

 食後の休憩をかねて、だいたい聴こえていたけれど、眺めようと鮎美が紙片を受け取ったとき、陽湖に限界が来た。

「うきゅぅんんっ…」

 甲高い鼻声のような切ない声と尿を漏らして陽湖は恍惚としている。

「間に合ったぁ……ハァぁんぅ…」

 まるでテスト用紙への回答は間に合ったけれど、結局は教室でおもらしした女子高生のような姿だった。

「ハァっ…漏らしたけど、間に合ってますよね。ハァ…どうですか、その改正案は?」

 達成感と変態的趣味による快感と自分の尿に浸っている陽湖に問われ、鮎美は条文に目を通していきながら思った。

「………」

 陽湖ちゃんって与えられた課題をこなすのは鷹姫といっしょで頑張るよね、生徒会長になったら教師の期待に応えて勤めを果たすし、信徒の家庭に生まれたら一生懸命に宗教勧誘もするし、けど自分がトップになったら急に迷走したり暴走するんよなぁ、自分だけがすべてを決められる立場って確かにヤバいわ、うちも気をつけよ、陽湖ちゃん何度でも反面教師になってくれるし、最低でも殺すのはやめとこ、と鮎美は陽湖に覚えていた殺意を抑えた。

「おおきに。ほな、次は教育基本法の改正案を考えてみて。その前にシャワー浴びて着替えてきて。臭いし」

「はい」

「お湯は、あんまりたくさん使わんといてな。燃料もったいないし」

 このまま銀行での手続きが終わるまで陽湖には日本法とキリスト教の兼ね合いを考えさせて時間を過ごさせ、平行して閣議も進めるつもりだったけれど、ずっと司令室からのモニター越しで閣議参加していた畑母神が地下室におりてきて困った顔で言ってくる。

「困ったことになった。申し訳ないが対応を決めてほしい」

「はい、どんなことですか?」

「麗国からの難民船を一隻、受け入れてしまった艦長がいる」

「……受け入れ………追い返す命令のはずですよね?」

「全艦に徹底して命令してあるにも関わらず、独断で受け入れたのだっ!」

 畑母神が吐き捨てるように言う。

「しかも、わざわざ小松に近い金沢港に入港している上、総理へ直接報告したいなどと言っておる。呼びつけたから、まもなく来るはずだ! ……軍艦には沖縄へ向かえと命じたものを……。ともかく、受け入れてしまった難民船への対応をお願いしたい。……申し訳ない…」

「わかりました」

 鮎美は頷き、陽湖はシャワーを浴び終えて、考え始める。

「……第一条、教育は人格と信仰の完成をめざし、平和的な国家および社会の形成者として、聖書の真理と正義を愛し、神を尊び、勤労と責任を重んじ、キリスト教精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」

「「……………」」

 こいつも排他的経済水域の外に追い出したいな、と鮎美も畑母神も思ったけれど、今は30億円のために我慢する。陽湖はシャワー浴びてから介式に貸して売春させた制服のクリーニングが終わっていたので制服姿となって机に向かっている。今は失禁した後なので息を荒げていないけれど、紅茶を飲みながら法案を書いているので、そのうち再び股間を濡らすつもりなのだと感じられた。こんな変態が閣議の場にいるのは残念だったけれど、あと少しの我慢だと思い、今は難民船を受け入れた艦長が現れるのを待った。すぐに一人の女性艦長が地下室に来て、鮎美へ向かい敬礼してくる。

「出頭しました、世々部迪子(よよべみちこ)2等海佐です!」

「……あの朝食会に来ておられましたよね?」

 在日米軍が撤退していることを広く幹部自衛官たちに伝えるための朝食会で鮎美は母の死を知ったばかりだったために泣いていたけれど、唯一の女性艦長のことは脳裏に残っていた。正直、他の男性自衛官の顔は覚えていないけれど、迪子のことだけは覚えているというくらいだった。

「はい、覚えていただき光栄です!」

「それで、どうして難民船を受け入れたんですか?」

「追い返せと厳命したはずだ」

 鮎美が問い、畑母神は怒っている。迪子は防衛大臣の怒りを恐れず鮎美へ言う。

「受け入れた船には赤ん坊と母親が7組、核ミサイルで被爆した負傷者が3名、合計219名の戦火から逃れてきた人々が乗っておりましたから、人道上の観点から受け入れました」

「………二百二十人も……」

 鮎美が額に右手をやって悩む。

「……」

 一日3食で660食やん、かりに半年の滞在でも12万食……ふざけんな……他にも宿泊場所……光熱費……エネルギー……、と必要となるものを考えて鮎美が肩を震わせると、迪子は勘違いした。

「やはり難民の追い返しは畑母神大臣の意向で、芹沢総理の真意ではないのですね?」

「……は?」

「赤ちゃん手当てや弱者救済を訴える芹沢総理の意志とは思えず、以前より朝鮮人への差別意識を著書にまであらわしていた畑母神大臣の独断と感じました。防衛に関しては事後報告と追認が多いとおっしゃられていたので懸念していましたが、難民については防衛にあたらないと考え、芹沢総理の判断をいただきたく願います」

「「………」」

 鮎美と畑母神が顔を見合わせて勘違いされていることに気づき、畑母神が迪子へ何か言おうとしたけれど、鮎美は手の仕草でそれを制して言っておく。

「勘違いせんといてください。難民追い返しは閣議での全会一致事項です」

「……総理まで?」

「はい! うちも追い返しに賛成です!!」

 怒鳴ってはいけないと思っていたのに怒鳴ってしまう。

「徹底して追い返せと言うたはずです!!」

「………ですが、海上の現場は風もでて波も高くなっており、明らかに定員オーバーどころか今にも転覆沈没しそうな状態でしたから」

「定員オーバーで沈没すんにゃったら、そいつらの自己責任やん!! 受け入れた瞬間に、こっちに保護責任が生じるんよ?! ふざけんな!!」

 鮎美は迪子の襟首をつかむと揺すった。女性同士なので体格に差はなく、激しく揺すられた迪子の制帽が落ちる。美しく結い上げている髪が顕わになった。

「命令されたことだけしとけや!! ボケが!!」

「………」

 抱いていた印象と、あまりに鮎美が違うので迪子は絶句している。

「どんだけ迷惑なこと自分がしたか、わかっとんのかっ?! アホんだら!!」

「「「「「………」」」」」

 大阪の女の子って怒ると可愛らしさの欠片もないな、まあ怒りは同感なんだが、と石永たちは思った。

「一隻が受け入れられたらなァ!! 二隻三隻と期待して寄ってきよるやんけ!! それ全部受け入れんのかっ?! 追い返し作業が余計に大変になるやんけ!!」

「………あなたまで人種で人を差別されるのですか……見損ないました……」

 迪子が悲しそうに言い、畑母神は苦々しくつぶやく。

「女を艦長になどするから、こうなる……甘さが出て……」

 よくある差別発言だった。そして、鮎美の怒りは倍加する。

「うるさいわ!! 小賢しいことぬかすな!!! このっ…」

 怒りは迪子に対してだった。鮎美は殴りつけようと拳を握ったけれど、それが違法行為であるという認識は残っているので拳を振り上げたまま、震わせた。不快だった。難民船を受け入れたと聴いたときから脇腹のあたりに不快感がある。今朝、仲国空軍との戦闘で戦闘機が撃墜されたと聴いたときは右手の人指し指から腕にかけてピリリとした痛みが走ったし、今は難民が入ってきたと思うと、脇腹に泥を塗られたような気持ち悪さがある。まるで日本という国家を自分の身体のように感じる。その身体が犯されたようで迪子に殺意さえ覚えた。その殺意は人が人に覚えるような対等の殺意でなく、人が自分のガン細胞を切り落とすと決めるような上から末端に覚える切除の意志だった。見せしめに死刑にでもしてやろうかと思うほどで、鷹姫が心配して鮎美が人を殴りつけたりしないよう手首を握ってくれている。おかげで冷静になろうと思い、襟首をつかんでいた手を離した。

「…ハァ……ハァ……くっ……畑母神はん! こいつにかせる一番重い処分はっ?!」

「それは………実は難民追い返しという命令自体が国際法上は問題があるので命令不服従を問うのは難しい面もあって……適法な懲戒処分というのが、なかなか……いや自衛隊法が無効で軍隊としての処分なら検討できるかもしれないが、軍法も定まっていないし、軍法会議の規定も、まだないわけで……背広組の専門家に相談してみないと……。むしろ、それだけに今回の命令違反は、痛いわけで……」

 詳しいことがわからない分野について問われたので畑母神は珍しく歯切れが悪くなる。対して鮎美は瞬時に女性らしい意地悪な処分を思いついた。

「ほな、こいつに竹島の奪還を命令しといて」

「この状況でか……」

 石永が言い、鮎美は畳みかける。

「尖閣諸島でもええし。いっそ、択捉でもええわ。ああ、そやね、択捉送りにしよ。クワもって屯田兵として行ってこい」

「択捉をシベリアみたいに使うなよ。独裁者っぽいぞ」

「ちっ……」

 言われた鮎美は舌打ちした。あえて石永が気安く指摘してくれたので、自分でも、どこまで本気だったのか、ほぼ死刑に近い命令をくだそうとしたことを反省する。迪子が制帽を拾って言う。

「……総理の実体は、こんなもの………結局、子供の遊びみたいに……」

「ガキなんは、あんたや」

 再び鮎美は迪子の襟首をつかんで大阪のヤクザのように顔を近づけて言う。いっそキスして制服を引き裂き、下半身に指を挿入して閣僚たちの前で陵辱してやろうかとさえ思うほど怒っている。だから、わかっていない迪子にわからせることにした。

「220人へ一日三食を出したら660食や。単純計算一年で24万食。もし、あんたのせいで難民が増えて一万人になってみぃ、どんだけのことになると思う? 一日で3万食、一年で1095万食や。あんたは、どう責任とるん?!」

「…………」

「どうせ、そんなこと考えんと、見下ろした難民が可哀想やったから思わず助けただけやろ。うちが女子高生やから直接報告して、うまいこと言うたら命令違反も許されると思ったんやろ!」

「……食料に余裕はあると発表されたはず……」

「ギリギリな!! こんだけの大震災の後で凶作にならん保障はない!! さらなる気象変動があって食料が獲れんこともありえる!! そんとき、どうする?!」

「……………」

 迪子が視線を落とした。

「受け入れてしもたら保護せなしゃーないんよ!! くそっ! ボケが!」

「………ですが……人道的には……。私は、あの場面で助けを求める人々を追い返すことなどできなかった……自分のしたことは間違っていないと考えます」

「……ちっ……あんたは、杉原千畝って知ってる?」

「はい、尊敬しています」

「くっ………あのボケの悪影響が、こんなとこにも……」

 鮎美はイスラエルで聴いた日本のかつての外務官僚について翌日の歓迎会でも話題になると知らないでは恥ずかしいのでネットで調べて知識をえ、今では杉原に強い嫌悪感をもっていた。迪子は落としていた視線を鮎美に向けた。

「彼は本省からの命令に背いても、正しいことをしたのです」

「へぇ」

 鮎美はバカにしたような声で応じた。声が若々しい女子高生の声なので余計にバカにした感じがする。迪子は真っ直ぐな目で鮎美を見つめて語る。

「結果として彼は6000人のユダヤ人の命を救ったのです。あの狂気の戦争の中で」

「その6000人は1年2ヶ月ほど、日本に滞在したんよ。あの戦争中に! 杉原が書いたんは通過ビザや! 日本を通過してもよいってな!! けど、通過した後の行き先なんか決まってなかったから、敦賀や神戸に滞在することになる!! 滞在したら、飯も喰う! 一文無しかっておったんや! 神戸市の担当者が、どれだけ困ったと思う?!」

「そんなことは人命の前に問題ではないはずです!」

「ああ、そうか! ほな、そう言えばええ! 戦後、どれだけの日本人が餓死したと思う?! 運悪く凶作も重なって!! 栄養失調になった! 餓死数に含まれんでも栄養失調になると脳出血も増える!! 6000人が14ヶ月滞在したら765万食や!! そんだけあったら、どれだけの日本人が助かったか! あんたは妹が餓死した兄貴に言えるの?! 子供に食べさせるために自分は食べずにいた母親が脳出血で亡くなった人に言えるの?! それでも、杉原は立派な人よ、と!! 言うてこいや!! まだ爺ちゃん婆ちゃんの世代で生きてはるわ!! うちらの来年の食事がヤバくなるかもしれんけど、私は難民を受け入れましたって!! 今年と来年が二年続けて凶作で日本人の赤ちゃんがバタバタ死んでも、あんたは堂々としてるんかっ?!」

「………そこまで考えて……」

「それが政治や! 食料の安定供給は政治の根幹! 人権意識が無かった時代でも食料不足は打ち壊しやら、米騒動になってる! あんたも将校なら、そんくらい考えい! ただの兵でないんなら大局的にものを見ぃ! それができんのなら、せめて命令に従っとけ!! 現場がチョカって全体の方針とちゃうことすんな!! 軍艦の艦長いうたら、その予算規模から一つの市に匹敵するやろ?! 市長なみの責任感もてや! お気楽な市議町議とちゃうねん! 一つの集団のリーダーとしての責任くらい自覚せんかい?! そんなことやから女艦長は甘いとか畑母神はんに言われるねん!! 甘さが出るんなら女がリーダーになんかなるな!! 赤ちゃん可哀想で艦長が勤まるかボケ!! 保育士にでもなっとけ!!」

「……。うむ、総理のおっしゃる通りだ。自覚が足りん!」

 うっかり口にした女性蔑視発言を肯定されたのは、畑母神としてもかなり意外だったけれど、艦長としての自覚と責任の部分でも頷ける。まさか、たった18歳の少女にそこを突かれると思わなかった迪子は命令違反のよりどころとなった杉原の名にすがる。

「ですが、杉原千畝は…」

「杉原はユダヤ人には英雄でも! 日本人には虐殺者や! 目に見えん隠れた虐殺の加害者なんや! せやから外務省をクビになったし、ずっと冷遇したんや! 当然の対応や!! 誰かって助けを求める人がいたら、気前よう助けたいわ! けど、それは自分の財布と弁当でやることや! 国の財布と他人の弁当でやることちゃう! 審査もなしに通過ビザ書きまくりおって! あいつが日本に、どれだけ迷惑を……あいつの借り……そや、イスラエルに借り返してもらお。台湾も返してくれたし」

 怒鳴りながらも鮎美は別のことを思いついたので、閃いた内容を鷹姫に伝えてイスラエルに連絡をとってもらう。そして難民と迪子への処遇を考える。

「……どうしたもんか……畑母神先生、艦長がおらんでも軍艦は沖縄の防衛に向かえるの? 船は一隻でも抜けん方がええんよね?」

「うむ。副長がいるので、やや交代での24時間体制がつらくなるが、副長にも副たる自覚があるはずだ」

「ほな、船には海に戻ってもらうとして……けど、できたら受け入れた難民船も引っ張っていって欲しいわ」

「そうして欲しいが、この馬鹿者が難民たちを上陸させてしまった。銃口でも突きつけねば、もう船には戻るまい。戻すにしても定員オーバーで途中沈没すれば、その責任は日本国にくる」

「くっ……ホンマに余計なことしくさって……なんで上陸させたん?!」

「……赤ん坊を抱いて立ったまま乗っている人もいたのです。みな立っていて座るスペースもなかった……総理も、あの人たちを見れば、ご理解くださるはずです」

「見たら助けとうなるに決まってるやん。せやから見て見ぬフリするんよ。自覚してないだけで、ずっと、うちらはそうして先進国であり続けたんよ。アフリカや中東で何人死のうが気にせんかったようにな。見えるもんだけ見んと、来年の日本を考えてみぃ!」

「…………」

 迪子に反論が無くなった。鮎美は畑母神へ問う。

「畑母神先生、マスコミ対策は?」

「このこと自体を機密指定して報道規制している。ただ、金沢港は見晴らしもいい。突堤に難民を集め、とりあえずの水と食料を与えつつ海軍と県警が包囲して見張っているが、遠くから望遠レンズで撮影することは可能かもしれない」

「石永先生、マスコミ対策をお願いします。しばらくは存在自体を秘密に。報道した場合は罰則もありで」

「わかった」

「あと、難民といっても現代のことやしスマフォを持ってる人もいるやろ。うちも台湾で似たような境遇になったことあるけど。やっかいやな。情報端末を全部取り上げられる?」

「身体検査をすれば可能だが、反発も予想されたので今は艦から妨害電波を出している。カメラ機能で自分たちの状況を撮影できても、それを発信することはできないはずだ」

「妨害電波……そんなんもあるんや……ほな、引き続き情報を漏らさんようにして。端末と携帯電話会社の相性によるけど、日本のキャリアでも発信できるかもしれんし」

「了解した」

「あとは………どう追い返すか………」

「シスター鮎美」

 難しい考え事をしているのに陽湖が声をかけてきた。

「なによ?!」

「麗国からの難民を受け入れてください」

「……あんたは教育基本法でも焼き直しといて!」

「もう終わりました」

 憲法ほど分量はなく、もう条文にキリスト教精神を突っ込むことに慣れてきた陽湖は作業を終えていた。

「ほな、次! 学校教育法!」

「その前に麗国からの難民を受け入れるようにしてください」

「なんでよ?! 無理やし!」

「麗国にはキリスト教徒が多いのです。見過ごせません」

「くっ……またキリストか……」

「追い返すのもやめてください」

「お断りよ!」

「30億円の貸し付けをやめますよ」

「やめてみぃや! 国教化もパァやし! 日本の避難所でも食料の配給が止まって、難民みたい困るんよ!」

「…………では、こんな手段は本来避けたいのですが…」

 陽湖はスマートフォンを見せて言う。

「あなたの、この姿をネット上にバラまきますよ」

「っ…」

 陽湖のスマートフォンには昨夜、鮎美が土下座しながら小水を漏らして謝りながら泣く姿が記録されていた。撮るフリではなく、しっかり撮られている。

「……うちは撮るフリしか、せんかったのに……」

「私も、こんな脅し方はしたくありません。ですが、人の命がかかっているのです。難民を受け入れてください。麗国には私たちの教団に所属している人も多いのです」

「…………どうせ、死んだら楽園に行くんやん。沈没して死ぬ方が幸せなんちゃう?」

「まだ、信仰が深まっていない人や、受洗前の人もいます」

「海水で受洗されたらええやん」

「あなたは最低です。他人の苦しみを知るべきです。本当に、この写真をインターネットに流しますよ」

「くっ…」

「難民の受け入れを命じなさい」

「難民が何万人に膨れあがるか、わからんのよ?! 何百万かもしれん!」

「では、せめてキリスト教徒だけでも受け入れてください」

「どうやってキリスト教徒を見分けるんよ?!」

「……。主の祈りを暗唱していれば、キリスト教徒とみなしてください」

「んなもん、うちでも覚えてるわ!! あれだけの文章を覚えたら入国させてくれるんやったら、その情報をえて必死に覚えよるに決まってるやん!! だいたい、あんた麗国語での主の祈り、聴いてわかるの?!」

「………。では、聖書を踏めと言って踏まなかった者を助けるように…」

「逆踏み絵なんか、みんな踏まへんに決まってるやん! そもそも、そんな仕分け作業を海上でするん?! 一人一人、神を信じますか、と訊くだけでも大変やわ!!」

「…………」

「だいたいキリスト教徒だけ助かればいいって考え方、めちゃ間違ってるやん! 隣人愛は、どこに行ったん?!」

「っ……。おっしゃる通りです。私が間違っていました。やはり難民全員を受け入れてください」

「そんなん無理なんよ! 日本かってギリギリなんよ! わかって!」

「いいえ、あなたは余裕を見ています」

「政治家として当然やん!」

「さらに予定外に台湾からの支援もありました。受け入れられるはずです」

「くっ……難民を受け入れたら国内は食料が配給制になるかもしれんよ」

「分かち合って生きていけるなら、素晴らしいことです」

「………」

 鮎美は両手を握って震わせる。陽湖の言っていることは人道的には正しい気もするけれど、正直なところ気に入らない。それがキリスト教精神に根ざしているかもしれないことも気に入らない理由だったし、そもそも国民の総意として自分たちが配給制になってまで他国民を受け入れると考えるはずがないと直感している。

「……」

 二人のやり取りを見ていた迪子は同じ制服を着ていて顔立ちが似ているので、いっそ陽湖が総理大臣だったらよかったのに、と思ったけれど、石永たちは陽湖の悪趣味を知っているので聖人のように難民を受け入れると言い出されても冷めた目で見ている。しかも、本音ではキリスト教徒優先という精神も見え隠れしている。

「さあ、シスター鮎美、難民を受け入れると指示を出してください。神の意志にも人道にもかないます」

「……………。……っ…っ…」

 泣けてきた。涙が溢れてきて、鮎美は乱暴に手の甲で拭った。人間を助けたいとは人間として思う、けれど、一国の代表として現状で難民を受け入れるのは下策としか思えない。震災から今日まで大きな暴動も起こらず、国民は耐えてくれている。そこに異質で言語の違う集団が大量に入ってきたら、きっとお互いに争い、殺し合いにも発展する。げんにアメリカが分裂しているのは白人、黒人、インディアン、黄色人種、メキシコ人と人種の違いが大きな原因でもある。

「シスター鮎美、早くしてください。バラまきますよ。一度、ネットに拡がれば二度と取り返しはつかない」

 陽湖は自分が迫られた脅迫を鮎美へも迫る。一人の女性として死にたくなるほど嫌なのは知っている。まして鮎美は有名人すぎるので世界へ確実に拡がる。迪子は見ていて、誰が被害者なのか、わからなくなってくる。鮎美は立ったまま、より強く拳を握って震えている。陽湖には信仰を曲げるよう迫った自分が、今は国政を曲げるよう女子の自尊心を人質にして迫られている。

「…っ……っ…」

 また鮎美は涙を拭った。感情が爆発しそうだった。フラついたので、そばにいた畑母神が支えてくれる。

「芹沢総理、どうか、落ち着いて。ともかく座って考えよう」

 畑母神は時間稼ぎとして鮎美を椅子へ導き、静江に目線で命じて、お茶を淹れさせる。そうしておいて陽湖にも声をかける。

「君も、まあ、座りなさい。現状を説明しよう。昨日、ここへ来たばかりで、あまり知らないだろう」

「……はい…」

 ゆっくりと時間稼ぎとして、朝鮮半島の戦況や国内の食糧事情を語り、陽湖への説明も兼ねて閣僚たちにも再確認してもらい、そのうちに鮎美は気持ちが落ち着いたし、そして待ちに待ったメールが夏子から届いた。この場に夏子はおらず金沢市で財務大臣として動いている。その夏子からのメールを開いた。

 

 振込終了、30億円を全額確認したよ。

 あとは、お好きにどうぞ、でも、殺さないでね、マジで。

 

 さっきまで泣いていた鮎美は笑えてきた。

「……くっ…くく、……」

 まだ笑ったらあかん、もうちょいや、と鮎美は笑いを噛み殺しながら陽湖に語る。

「陽湖ちゃん、ほな、こうしよ」

「はい?」

 返事をした陽湖の手首を鮎美は中学剣道元大阪代表らしい鋭い手刀で打つ。陽湖の細い手首は折れるかと思うほど痛かったし、持っていたスマートフォンは落ちてしまう。

「痛いっ…」

「月谷陽湖を脅迫の現行犯で逮捕して」

「「はっ!」」

 そばにいたゲイツが陽湖を取り押さえる。装備品として手錠はもっていないので、参与として地下室の隅にいた桧田川の警護をしている知念に来てもらった。

「13時36分、月谷陽湖さん、逮捕っす」

「そんな、どうして?!」

「……普通に脅迫してたっすから……芹沢総理、マジで逮捕でいいんすか? 友達なのに」

「他にも罪状があるやろし、いろいろ調べておいて。でっちあげにならん程度に、でっちあげて」

「そんな忖度しろみたいな命令……オレ苦手っすよ」

「椅子の上にションベンしたのも器物破損、うちに土下座させたんも強要罪、あと飲酒もあるし」

「飲酒は許可されたはずです!」

 手錠をされた陽湖が叫んだけれど、鮎美は鼻で嗤った。

「フ♪」

「これを外してください! でなければ30億円を貸しません!」

「もう借りました」

「では、すぐに返しなさい!」

「あんたアホやなぁ……素直な性格というか……返すわけないやん」

「っ……では…」

 陽湖は叩き落とされたスマートフォンを目で探した。迪子が拾って持っている。

「それを返してください」

「迪子はん、命令、それを、こっちに持って来て」

「…………」

「脅迫の共犯にしよか?」

「………」

 女性を辱めた写真が入っているスマートフォンを迪子は触っていたくなさそうに机の上へ置いた。

「証拠として没収♪」

「シスター鮎美! 写真は、他にもあります! クラウド化して保存してあります。そのパスワードは私しか知らない!」

「なるほど、拷問を受けたいと? 現在、憲法が曖昧なんを、ご存じよね?」

「っ……」

 陽湖が息を飲み、わずかな期待として男性大臣たちの警護についているSPを見るけれど、みな陽湖と目を合わせないようにしている。彼らの弱みは握っているけれど、それは諸刃の剣で介式に性的虐待をしたことがバレて困るのは、お互い様だった。もうSPたちも台湾から日本へ戻り、一時の狂気から目を覚まし今は国家のために勤め直すつもりで陽湖の手下になる気はないし、なったところで武装の違いからゲイツたちに勝てるわけが無かった。鮎美がニンマリと口角を引き上げた笑顔で言う。

「あと、国庫への30億円もの寄付、まことにありがとうございます。日本国を代表してお礼申し上げます。総理大臣芹沢鮎美」

「っ?! 何を言っているのですか?! あれは貸し付け金です! 金利30%の!」

「え? そんな法外な金利、冗談やと思いまして。心裡留保の一種ですよね。クスっ」

「違います! 国の借金です! 私への!」

「寄付として受け取りました」

「っ…いいえ! あなたも借りていると言いました。もう借りました、と、さっきも!」

「え~♪」

 鮎美は巨額の金銭が関わる問題において、政治家として言ってみたかったセリフを微笑みを漏らしながら邪心を込めて言う。

「記憶に、ございません」

「っ……う、嘘つき!! あなたは地獄に堕ちます!! 悔い改めなさい!!」

「キリスト教って、ホンマにアジアから見たら侵略の道具やね。精神を侵略してくるわ。知ってる? あの杉原千畝もキリスト教に影響されてたんよ。難民が領事館に集まってきたのを見て、頭の中に聖書の一節が浮かんだらしいわ」

 鮎美は陽湖から迪子へ視線を移して語る。陽湖はもう手遅れでも、迪子には日本軍士官として目を覚まして欲しかった。

「えっと…たしか、エロミテ愛歌やったかな。町かどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ。これって旧約聖書なん?」

 聖書に関する記憶はテキトーなので鮎美は逮捕した生き字引に問うた。問われて陽湖は生来の素直さで答える。

「エロミテなんて書はありません。それはエレミア書の哀歌です。私が記憶している新世界訳では2章19節は、立ち上がれ! 夜の間、朝の見張りの始まりにめそめそと泣け。あなたの心をエホパのみ顔の前に水のように注ぎ出せ。あなたの子供たちの魂のゆえに、あなたのたなごころを神に向かって上げよ。彼らはすべての街頭で飢きんのために気を失っているからである。です」

「ふ~ん……うちがネットで見たのと似たような違うような、まあ、とにかくエルサレムが陥落して、めちゃ困ってる状況下の記録らしいね?」

「はい、そうです。そして私も杉原千畝は尊敬しています。彼は義の人です」

「ただの洗脳された愚かもんや、アホ」

「「………」」

 陽湖と迪子を鮎美は力を込めた目で見つめる。

「ええか、よう考えてみぃ。何か大きな判断をするとき、頭の中に声が響いて、それを決断したとする、その声の元ネタが何かっていうのは、めちゃめちゃ重要や。頭の中に麻原彰晃の声が響くヤツの判断が洗脳まみれなんは当然として、日本の外交官って立場で赴任してるのに、エルサレム陥落の嘆きが響くようなヤツは、やっぱり洗脳済みやねん。それで本国の命令を無視して大量のユダヤ教徒を日本に入れて大迷惑かけた。やのに、本人は自分が正義のつもり。イスラエルからは表彰されて、さぞかし気分よかったやろ。けど、日本の犠牲は知らず見えず。まさに洗脳状態やん。あのとき杉原の頭に響くべきはアブラハムの神の声やなく、天皇の声か日本の戦災孤児の声や! 主(しゅ)に向かって両手をあげてんと、陛下に向かって頭をさげいちゅーことや! 誰が主(あるじ)かハッキリせい! でなくて官僚として、どうする?! 青年海外協力隊の参加者ちゃうねん! たまたま手にしたビザ発行権を濫用しおって! まさに旧約聖書の神から見たら、洗脳成功の信徒や。けど、日本の都合でみたら腐れ南蛮やんけ。迪子はん! あんたは、どっちや?! 日本軍士官か?! 杉原教徒か?! 麻原教団かっ?! よう考えておけ! 百歩譲って杉原が偉人になれるとしたら日本に強いた犠牲を上回る日本への貢献があった場合や! それが無いのに人助けしたいなら根本中将みたいに身一つで海を渡って戦えっちゅーねん! 今の日本に難民を助ける余裕があるか?! いつまでも自衛隊気分でいるな! あと畑母神はん、忙しいて時間もないやろけど、なんとか軍全体に自衛隊気分が抜けるよう、畑母神先生の演説で気合い入れ直してやってください! 頼みます!」

「はっ、必ず!」

 鮎美は敬称の使い方に揺らぎがあったけれど、畑母神は軍の最高司令官として総理大臣に敬礼した。鮎美は頷き、今度は陽湖を指して知念に頼む。

「知念はん! こいつを閉じ込めておいて! ついでに屋城はんも共犯で!」

 鮎美は知念へ陽湖と屋城を共犯として拘留しておくよう命令して、次に再び迪子を睨む。

「難問は、こっちやね」

「…………処分は覚悟の上です」

「ちっ……あんたより、受け入れてしもた難民が問題やわ。まさか虐殺というわけにいかんし、帰れと言うても帰らんやろし……はぁぁ……飯やらんのも、不作為の虐殺やし……くそっ…」

 鮎美は椅子に座って考え込む。他の閣僚も考えるけれど、良案はない。しばらくして外務省と法務省の職員が金沢港にいる難民へ聴取して調べてきた情報を報告する。

「避難民は219名、うち男性が105名、女性が114名で年齢は0歳から82歳まで。一人だけ日本語が話せる女性がおりましたが、それほど流暢ではありません」

「その人の名前と年齢は?」

「ヨンソンミョ、21歳だそうです。ちなみに身分証明書を持っていたのは難民のうち3割に留まります。他の7割は氏名年齢など自己申告によります」

「まあ、着の身着のまま逃げたら、そうやわね……」

「あと219名には含んでおりませんが、途中の海上で2名が死亡したようです。死因は持病の薬をもっておらず心臓発作で死亡した者と、被爆による火傷で死亡したと思われる者です」

「「「「「…………」」」」」

 どの閣僚も、気の毒に、とは思ったけれど日本では数千万人が津波で亡くなっているので、もう感覚が麻痺してきている。わずか2名の死者に、とくに言葉は無かった。

「石永先生、どないしよ? 基本、追い返し? しゃーないで受け入れる?」

「う~ん……」

「はぁぁ……あんた」

 鮎美が、また迪子を睨む。ずっと迪子は起立している。

「あんた、責任もって自発的に帰るよう説得してみぃや」

「…………」

「安っぽい人道主義を振りかざしおって。さぞかし気分がよかったやろね」

「…………」

「他の艦は追い返してるのに、あんただけが受け入れてくれたんや。神様仏様みたいに拝んでもらったやろ?」

「…………」

「はぁぁ……そんで、また、この混乱期が終わったら、あんたも歴史の教科書に載るかもね。凶作にならず日本で餓死者が出んかったら、優しい女性艦長さんの美談として、日本と麗国の教科書に載って、麗国政府からは良心的日本人として表彰されて……まあ、麗国が残ってたらの話やけど。で、うちは冷酷非道な難民追い返しの女性総理として悪名が残ると…………あかん、ムカついてきた」

 鮎美が両手で顔をおおった。ムカついたと言ったけれど、むしろ悲しかった。

「……あ~あ……もお! ………次から次へと、うちの仕事を増やしおって……総理大臣として進めたいこと、いっぱいあるのに………ぐすっ…」

 また泣けてきて一筋涙を零した。石永たち閣僚は心配になった。ここまで投げ出したりせず、むしろ自分たちにも思いつかないような方法で日本を牽引してくれているけれど、あるとき急に限界が来て倒れるかもしれない。鮎美の涙を見ると、なりたくもないのに悪役になった東条英機を石永は思い出した。迪子も心が痛んだ。やっぱり目の前にいるのは18歳の子供にすぎない。なのに責任を自覚して背伸びしすぎていて可哀想だった。感情のままに難民を助けた自分が情けなくなってくる。

「はぁぁ、泣いても解決せん。今、思いついたわ」

 皆が心配していたけれど、すぐに鮎美は立ち直った。

「「「「「……………」」」」」

 回復早っ、この回復の早さこそ、この人の才能として天才的かもしれない、と石永たちは想った。鮎美は語る。

「迪子はん、あんたには難民の神様になってもらお」

「………私が神様? それは、どういう…」

「石永先生、こういう案は、どうやろ。まず、迪子はんに避難民一人一人と握手して回ってもらうねん。で、あなたたちを難民として受け入れてもらうよう日本政府を説得する、と約束してもらうねん」

「そんな期待をさせて、どうするんだ? まさに神様仏様だろうが」

「そんで、その直後に避難民の目前で防毒マスクをかぶったゲイツの人らに迪子はんを逮捕してもらうわ。乱暴に5、6発、蹴りでも入れて。ゲイやし、男性異性愛者みたいな遠慮は無いし、女性に嫌悪感あるタイプのゲイを選ぶわ」

「「「「「…………」」」」」

 それは、けっこうキツイ蹴り方になりそうだ、と石永たちは思った。

「迪子はん、そのくらいの演技は同意してな」

「……はい。ですが、それで、どうするのですか?」

「当然、避難民は嘆かはるやろ。自分らを助けてくれた恩人が、そのせいで逮捕されたと。まあ命令違反が原因なことくらい説明せんでも察しがつくやろし」

「暴動が起こらないか?」

「そこまでアホなら、その場で射殺でええんちゃう。暴動やし。そもそも外国籍の集団が入国審査もないまま警察や軍の指示に逆らったら、どこの国でも射殺やろ」

「そうだな。警察だけでなく陸自、いや、陸軍にも立ち会ってもらえば、普通は暴動は起こさないだろう。それで?」

「それで、石永先生に悪役をさせて悪いんやけど、モニター越しに避難民へ同時通訳で、日本政府としては難民認定は難しい、帰国してもらう方向で進める、また日本へ上陸できたことを漏洩したら女性艦長は厳罰に処する可能性がある、と言ってもらう。ついでに日本は核ミサイルだけやなくて原発事故もあって、受け入れる余裕なんてホンマに無いから、と説明してもらう」

「まあ、嘘ではないな、それは。そして神様仏様を人質にするのか、人質は日本人艦長だから問題が少ない。で?」

「で、次に、うちが可哀想やし赤ちゃん連れだけは、しばらく助けるけど、他の人は帰国して、とお願いしてみますわ。それで、帰国してくれたら、母子7組くらいは受け入れてあげましょ」

「う~ん……まあ7組14名くらいなら……いずれ帰国するという条件で……だが、中には赤ちゃんの父親や兄姉もいるだろう。それも受け入れるのか? それに老人も追い出すのも国際的に外聞が悪い」

「もう一段階として、やっぱり、多くの人が入国したいと主張しはるようなら、15歳から60歳までの男性は、本国へ戻って国のために戦うべきや、それが兵役もある麗国国民男子の義務やろ、と言いつつ、もし立派に戦う気なら、女子供老人は受け入れる。しかも、父親が戦いに出て子供や妻が残る場合は妻子に一時金として日本円30万円を支給する。勇敢に戦いに出るなら逮捕した女性艦長さんの処遇も甘くする。この条件を飲むか、飲まないか、避難民219名の多数決で民主的に決定してくれ、ただし14歳以下の子供の意見は母親が代弁すること、という感じに」

「……それは民主的という名を借りた専制だな。15歳から60歳までの男性は約3割、多数決をしたら結果は見えてる。しかも30万円……公選法は関係ないが、ただの買収だな。やっぱり君は男を…………まあ、国を守るために戦うのは男の本分だが、その気骨がある麗国男子は今も残って戦っているだろう。逃げてきたのは、意気地がないからで、そんな彼らが素直に行くだろうか?」

「……そう言われると男性の心理は詳しくは、わからんし……」

 鮎美が困ると、イスラエルとの連絡を終えていた鷹姫が挙手した。立場が首席秘書官なので閣僚たちの手前遠慮して、すぐに発言はしないので鮎美が促す。

「鷹姫、なにかある?」

「はい、四面楚歌という故事がありますが真似て、その多数決に至るまでの話し合いの間、ある程度の音量で麗国の国歌と軍歌を流しておけば、どうでしょうか?」

「ええね、それ」

「なるほど愛国心を刺激するわけか」

「ほな、あと乗ってきはった難民船に金沢市内の麗国料理店へ発注して美味しそうな料理と麗国産のお酒も載せておこ。もちろん帰国できるだけの燃料も。で、排他的経済水域までは引っ張って行こ」

「策謀の鬼だな……エサで釣るのか……まさに、男を犬だと思ってるなぁ……乗せられた男には過酷な運命が待ってるなぁ……まあ、国民の義務といえば義務だが……そこに追い込む方法が鬼だ……」

「うちらが債権者代位権みたいに行使する感じに誘導するだけよ」

「兵役の義務への債権者代位権行使か……どう言おうが男は不遇だなぁ」

「残ってもらう女の子にも、ちゃんと役目を与えるよ」

「どうする気だ?」

「若くて可愛い子に、従軍慰安婦になってもらお。ヨンソンミョちゃんの写真も、けっこう可愛かったし」

「「「「「…………」」」」」

 そう言えば、この人は同性愛者だった、しかも売春肯定の、と閣僚たちは思った。静江が一堂を代表して問う。

「それが、とんでもない国際問題になることは、わかりますよね?」

「冗談やって冗談。ただ、そんな扱いを受けるのかも、って感じに徴集だけはしよ。その映像はこっちでも盗撮するけど、どうせ情報端末の一つや二つは持ってるから自分らでも自衛のために色々撮りはるやろ。で、それらの映像を意図的に漏洩する。すると、これから日本へ逃げてこようとする難民は、やっぱり日本は危ない、ろくな目に遭わん、となって追い返し作業も減るかもしれん。というわけよ。で、それが終わったら、しゃーないし、7割の女子供老人は受け入れよ。指紋頭髪顔写真を登録して、どこか一カ所で過ごしてもらお、安全に」

「およそ150人か………まあ、一人も難民を受け入れなかったと評されるよりはいいかもな。……あとあと、犯罪など、されないといいが……」

「だいたいの犯罪は男がやりますやん。その男は追い返すから、それほど問題にならんと思いますよ」

「………男に厳しいなぁ……」

 石永がぼやきつつも鮎美の案で動くと決めた。迪子が鮎美へ謝る。

「ご迷惑をおかけしました。すみません」

「うん……まあ………うちも目の前で難民を見たら、迪子はんと同じやったかもしれんしね……けど、うちは日本の利益を代表するもんやから、冷たいけど、これが限界なんよ」

「……すみません…」

 頭をさげた迪子は鮎美たちと装甲車に乗り、金沢港へ向かった。到着すると予定通りに避難民と握手をして、受け入れてもらえるよう日本政府を説得すると言い、外務省のスタッフが同伴して麗国語に通訳して伝えた。大いに感謝されたし、その直後に迪子が逮捕されると大いに嘆かれた。迪子に蹴りを入れる役は大柄で女性に嫌悪感をもっている三井が担当した。次に石永がモニター越しに受け入れは難しいと語り、さらに鮎美が赤ちゃん連れだけは受け入れると提案したけれど、やはり全員を入国させてくれと懇願され、鮎美が考えた狡猾な多数決で15歳から60歳までの男子は難民船に戻して副長が指揮する軍艦に曳航させた。そうして女子供老人だけになった状態で三井たちゲイツが鮎美の好みで選んだヨンソンミョを含めた5人を小松基地に連れてきた。

「奥へ進め」

「「「「「………」」」」」

 三井が命じたのを外務省のスタッフが丁寧に翻訳する。ヨンソンミョたちは不安そうに基地の奥へ進んだ。子供の頃から反日教育を受けてきたし、たっぷりと従軍慰安婦についても学んだので、だんだん自分の運命が悲観的に思え、どうして日本になど逃げてきたのだろう、むしろ同一民族の北朝鮮に迎合した方がよかったのではないかと後悔する。ヨンソンミョたちは若い女性が命の次に大切にするスマートフォンなどを持っていたし、ポケットなどに隠して映像を記録していた。それに三井たちも気づいていたけれど、放置しておくよう鮎美に言われているので撮らせておく。鮎美に会わせる前には厳重な身体検査を要するので女医である桧田川が全身を調べた。

「……はぁぁ…」

 こんな役は嫌だなぁ、と思いながら桧田川はヨンソンミョたちよりも先に診察した被爆者の容態を心配していた。

「はい、終了、異常なし」

 身体検査の後もスマートフォンなどは取り上げず鮎美と面談してもらう予定だったけれど、寸前でイスラエルのエフラヒムから連絡が入り、ネット回線で顔を見て通訳で話すことになった。

「お久しぶりです、エフラヒムさん」

「ああ、元気そうでよかった。日本は大変だな。なにか、願いがあるそうだな。アユミ首相。ははっ、18歳で首相とは大変だな、疲れているだろう。力になるぞ」

 エフラヒムは鮎美が言い出しやすいように促してくれた。

「ありがとうございます。では、お願いします。できるだけ多く、できるだけ早く、自動小銃と、個人が携帯できるタイプの小型対空ミサイル、同じく個人が携帯できるタイプの小型対戦車ミサイルを贈ってください」

「ほぉ………医薬品や食料でなく、武器を欲しがるのか……」

「はい。医薬品や食料は足りる予定です。今の日本に決定的に足りないのは武器です。大戦後、これが欠如しています」

「うむ、三度目の核攻撃を受けて………アユミ首相の目の色も変わったな」

「………そうですか?」

 鮎美は左手で自分の頬を撫でた。

「もう戦士の目だ。武士だったかな」

「……。お願いは、かなえてもらえますか?」

「届けよう」

「ありがとうございます!」

「借りは返しておきたいからな。その方が杉原の評判も日本であがるだろう」

「あげときます」

「ははは! まだ、話している時間はあるか?」

「はい」

「スティンガーやRPGを欲しがるほど、日本の戦況は悪いのか? 直接、戦闘しているのは南部朝鮮と供産主義北部朝鮮だろう?」

「一番大きな国の不在が、別の大国に野心をもたせるかもしれませんので、最悪中の最悪の事態を想定した予防です」

「そうか……女性は防衛本能が強いな。それに最悪の事態を想定するのは首相の責任だ。これほど優れた指導者が危難のときに首相とは、日本はクジ運がいい」

「御恩は、いずれ返します」

「気にするな。まだ欲しいものがあれば言ってくれ」

「……一つ質問があります」

「うむ」

「今、南部朝鮮から難民が来ています。ですが、日本と麗国の国民は、過去の戦争での経緯や島の領有権などを巡って、仲が悪い部分も大きくあります。そんな状態で難民を受け入れると、かつてユダヤ人の方々に滞在してもらったときのような悪感情ゼロというわけにはいかないと思っていますが、もし、イスラエルの人たちがパレスチナ人とうまくやる方法などを知っていれば、教えてほしいのですが、どうでしょうか?」

「ふっ、ははは! それは知っていれば惜しみなく教えたいな! だが、知らない。千年先には知っていたいものだ」

「クスっ……詮無いことを訊きました。これからも、よろしくお願いします」

「ああ、また、連絡してくれ」

 鮎美はエフラヒムとの通信を終えると、ヨンソンミョたちに会う予定を中止すべきではないかと自問自答する。

「………」

 対応策として会うつもりって言うたけど………実は会ってみたいんよな……麗国女子と……けど、それは純粋に政治的な動機やろか……自分の胸に訊いてみて、ホンマに純粋やろか…、と鮎美は自分の胸に手をあてて問い、自分の邪心に気づいた。やはり興味があって会いたかった、そもそもメンバーを好みで選んだ、5人も呼べば一人くらい気の合いそうな子もいるかもしれないという期待もある。そして気の合う子を保護するという名目で手元に置いておけたら、という邪心があった。実は身体検査の後に桧田川から面談前に入浴させてあげた方がいいと言われたけれど、急ぐからと言ってそのまま待たせている。彼女たちは何日も入浴できていないはずで、どんな体臭がするのか、鮎美の趣味嗜好として強い興味があった。

「あかん……マジで従軍慰安婦にしてまう」

 鮎美が求めれば、断らない子もいるかもしれないけれど、それは同意のある性行為ではなく圧倒的な立場の優位によるパワハラとセクハラになりそうだと、これまでの経験で気づいたし、エフラヒムの言葉で民族的不和の根深さを知ったので面談の中止を決めた。代わりに鬼々島にいる鐘留のそばに移動してもらったワンコと協力してもらい、アイドルグループ的に麗国国民の戦意を高める歌などを考えてもらうことにした。民族的不和を考慮すると、従軍慰安婦にされるかもしれない、という印象を与えるのも中止して、別の閃きを畑母神に内線電話で伝える。ちょうど畑母神は全軍に対して、もはや自衛隊ではなく日本軍であるという自覚と覚悟を深めるための通信演説を終えたところだった。

「総理の新しい策とは?」

「追い返しても入ってくる難民船に麗国語で、こう言ってみてください。竹島に難民受け入れ施設をつくるので、そこへ上陸しておいてくれ、嫌なら帰れ、と」

「……避難民に領有権が日本にあると認めさせる踏み絵をさせるのか……しかも、認めたところで孤島……君は……なんというか……意地悪だな……」

「ほな、受け入れますか?」

「言うとおり海保へ命令してみるよ。芹沢総理」

 内線電話を終えると、鮎美は地下室で金沢市から来た夏子と夕食をとった。夏子は30億円の件も含めた財務状況を報告しながら食べるけれど、二人とも同席している鷹姫の夕食が虫と草だったので問う。

「宮本さんは、なに食べてるの?」

「鷹姫、なんで、また虫と草にしたんよ?」

「しばらく、これを続けてみようと思います」

「「…………」」

「月谷にも、これを出しています」

「まあ、あいつは虫と草でもええやろけど、鷹姫は体調を崩したりせんといてな?」

「はい」

 気になって夏子が問う。

「まさか、難民にも虫と草を食べさせたりしてないよね? 虐待だって国際問題になるよ。戦時中に捕虜へゴボウを食べさせただけで、木の根を食べさせられたって戦後に訴えられて戦犯にされた人もいるから気をつけて」

「それ再審請求したいなぁ……まあ、それ言い出すとキリないけど。鷹姫、難民への食料は、どうしてる?」

 鷹姫が噛み切りにくい草を、よく噛んで飲んでから答える。

「麗国からの避難民には米と塩、味噌、卵、大根を与えたそうです」

「寝る場所は?」

「軍がテントを提供したそうです。金沢港から能登半島の目立たない場所へバスで移動させています」

 夏子が安心した。

「それならいいかな。虫……よく食べられるね……美味しいの?」

「いえ、あまり……、けれど、タンパク質は豊富とのことです」

「ふーん……私まで、それを食べなきゃいけない事態にならないように財務省の立て直しを頑張るよ」

 夏子との夕食が終わる頃、鈴木が急ぎの報告をしてくる。

「ロシアのフーチン大統領が芹沢総理と電話で話したいそうです」

「フーチン……わかりました。すぐに?」

「はい」

 鮎美は用意してもらった電話の受話器を握る。

「もしもし、芹沢です」

 そばにいる外務省の職員も別の受話器を持っていてロシア語へ通訳してくれる。フーチンがロシア語で何か喋り、すぐに通訳が訳してくれる。

「そちらは、こんばんはの時間だろうかな。親愛なるアユミ」

「……」

 ネット通信での対面と違い、相手の顔の見えない電話会談で、しかも通訳を介するので真意が探りにくい。鮎美は慎重に言葉を選ぶ。

「お話しできて光栄です。フーチン大統領」

「核ミサイルで被爆した福岡は、どうだろうか?」

「……。死者数は2万超と聞いています」

「小松も狙われたそうだな。アユミの友人も負傷したと」

「…はい…」

 よう知ってくれてるなぁ、鷹姫のことは叙勲があるから公表したけど、それをロシア大統領の立場で耳に入れてるとか、すごいわ、と鮎美は思い知った。

「タカキの傷は、どうだ?」

「幸い軽傷です。お気遣いありがとうございます」

 そろそろ本題がくるかな、と鮎美が身構えていると、フーチンが言ってくる。

「カウボーイは本国に逃げ帰って、もどってこないようだな?」

「アメリカが落ち着くには少し時間がかかるのかもしれません」

 カマかけされることは想定内だったので鮎美は冷静かつ玉虫色に答えた。

「そうだな。かなり時間がかかるだろう。そこで提案なのだが、アユミたちを私が守ってあげたい。どうだろうか?」

「…………具体的には、どのようにですか?」

「アメリカと同じことをしよう。同じ条件で」

「……ロシアの核の傘に入れてくれはるということですか?」

「そうだ。沖縄も守ろう」

「………」

 それ、ほぼ占領やん、まあ、アメリカも占領してたけど、と鮎美が黙る。さらにフーチンは畳みかけてくる。

「もちろん、貴国の経済は自由だ。防衛面でだけ協力しよう」

「……アメリカが引っ込んだ今、ロシアにとって仲国の拡大が好ましくないから、協力して抑えようということですか?」

「察しがいいな。どうして、そう思った?」

「単純な話で、結局は世界は一番と二番が争い続ける。日米戦争が終わったら米ソ、その次が米仲やったのに米が引っ込んだら仲露。…………」

 仲露で争うんやったら、日本が味方した方が勝つんちゃうの、と鮎美は考えたけれど口には出さなかった。代わりに別のことを言っておく。

「地理的にも日本列島は、ぐるりと仲国大陸を囲いますから。太平洋に出るのに仲国としては目障りですし、ロシアとしては太平洋南下は2世紀前からの野望ですやん」

 鮎美の関西弁を通訳は標準語として伝えた。

「野望です、ときたか。アユミは言葉が率直すぎるな」

「よく言われます。フーチン大統領、ご提案を考える時間はいただけますか?」

「レディーを急かせるのは控えよう。今夜のところは、これで失礼する」

「お電話、ありがとうございます」

「おやすみ。よい眠りを」

 電話を終えると、鮎美は自分が背筋と腋に大量の汗をかいていることに気づいて、胸のボタンを外すと、手の甲で腋をぬぐった。嗅ぎ慣れた自分の匂いがする。

「なんちゅー難題を………こういう問題が、土下座してショウベン漏らしてみせたら解決するんやったら百回やってもええわ……」

 重圧を感じる。世界の動向が一言一言にかかってきていると、はっきり感じる。鮎美は反対の腋もぬぐった。まるで風呂上がりのように濡れている。電話会談を傍聴していた鈴木が問うてくる。

「フーチン大統領の提案、どうお考えですか?」

「……ロシアか……」

「芹沢総理の世代なら、そう悪い印象はもっていないでしょう? 実は、けっこう、いいところも多い国なのですよ」

「………印象以前に、アメリカと同じ条件でということは、戦争なしに敗戦したのと同じやん。頭から蹴るつもりはないけど、対等な同盟ならともかく、今夜の提案は最大限にロシア側が出ばってみたちゅーことやろ。ここから交渉するか、状況の変化を見るか、いずれにしても、はい、そうですか、と尻尾ふるのは国民の総意にも合わんでしょ」

「たしかに」

「はぁぁ……お風呂に入って、言われた通り、寝よ。よい眠りで。核ミサイルにビクビクしてもしゃーない。今すぐ2発目は無いやろ。貴賓室のベッドで寝たるわ」

 鮎美は地下室より貴賓室で身体を休めることを選んだ。

 

 

 

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