第65話 3月19日 鷹姫の野望、御前会議、直接侵略と間接侵略

 復和元年3月19日土曜、午前1時、鷹姫はなかなか寝れずに布団の中にいた。

「…………」

 鮎美と麻衣子、里華は前田利家の細々としたエピソードを聴いているうちに寝付いているけれど、鷹姫は目が冴えていた。

「……………」

 昨日は、あまりに大きな事件があった。鮎美にとっては詩織の生死、その次に尖閣諸島のことが頭にあったようだけれど、鷹姫にとっては義仁が鮎美へ恋の歌を詠んだことが強く頭に残っている。おかげで眠れない。

「…………」

 鮎美………女と生まれて、これ以上ないお声掛かりなのに……同性愛の指向というのは……やはり変えられないものなのでしょうか……けれど、その相手だった芹沢詩織さんが生きている可能性は、もう無い………その淋しさを埋めるのにも………何より、この国にとって、新たな世継ぎの誕生は、この厄災の悲嘆を振り払う朗報に……鮎美は同性愛者といっても身体は健康な女性……子を宿すことも十分に可能……このさい、個人的な指向よりも優先すべきものがあるのでは……、と鷹姫は考えているうちに身体が熱くなって寝返りした。

「…………」

 鮎美にとっても……ご両親にとっても、また、芹沢の家名にとっても、これ以上ない栄誉……本来、今夜にでも同衾し………後朝の歌を詠み……このまま京都に……政務は石永先生に任せ……三日夜餅を……、と鷹姫は古典的な思考をしていく。

「………」

 陛下は午後には京都へお発ちになってしまう……午前中は閣議は無いものの、各閣僚の状況報告をお聴きになられ、お昼は閣僚全員と召し上がられます……そのような場では話せない………となれば朝……早朝くらいしか、何か申し上げることはできない……まだ鮎美は泣き尽くした顔で陛下の御前に出るのは遅い方がよいでしょう………となれば、私が、せめて芹沢詩織さんが亡くなっていて……同性愛者であっても、健康であること……可能性は大いにあることを伝えて……きっと陛下は明け方には日の出の儀式を執り行われる……その直後にお会いして……となれば、私は今すぐにでも眠った方がよい……眠る……眠る……すぐに眠る……、と鷹姫は念じながら眠り、日の出前に起きた。

「……」

 そっと静かに着替えて、誰も起こさないようにして部屋を出る。

「……」

「「………」」

 部屋の前には知念と今泉が立っていたけれど、鷹姫が静かに会釈しただけだったので何か用事があるのだろうと思い、声はかけない。鷹姫は女子トイレで洗顔し、端正に化粧もすると、まっすぐに貴賓室へ向かった。ここ数日、当然のように訪ねている部屋なので中にいる存在の高位さに気圧されることなくノックしようとしたけれど、皇宮警察に止められた。

「何用ですか?」

「陛下へ申し上げたきことがございます」

「「「………」」」

 警備していた三人の皇宮警察官が戸惑う。平時なら追い返して当然の場面だったけれど、今は非常事態が続いている上、ただの女子高生にしか見えない鷹姫は無位無冠ではなく総理代理首席秘書官であり、そして凛とした鷹姫の雰囲気には平安時代の女官か女房が火急の用件を御前にもってきたような気迫があった。

「どのような用件ですか?」

「皇后をお選びになられます前提として伝えたき事柄です」

「………」

 さらに皇宮警察官が戸惑った。真面目な顔で大胆すぎることを言う鷹姫も18歳で年齢的には十分に候補になりうるし、化粧も凛々しく整えた顔は美しくて世間話で鷹姫が高校剣道大会で優勝していることなども聴いており、また昨夜は義仁と夕食をともにしているので、その席上で何かあったのかもしれないと思うと、単に追い返すという対応は取れなかった。

「わかりました。係の者を呼びますのでお待ちください」

 少し待つと、北房が冷たい表情で歩いてきた。そして、あえて名乗る。

「北房です。再編された宮内庁より昨日付けで正式に女官長と任じられています。いわゆるお局にあたります」

 お局様という顔で鷹姫を冷たく見据えた。義仁が中学にあがる頃から、やはり一般の学生とも触れ合っていることから、たまに女子の中には勘違いしたり、あるいは野望として玉の輿を狙う者が出てくるのは常だった。とくに成り上がり者、成金の愚嬢(ぐじょう)にそういう者が多いのは今も昔も変わらなかった。皇后は憧れるような気楽な身分ではないのに、そこへ浅慮な者は絶えない。そういう輩へ対応するとき用の氷点下の態度で北房は鷹姫を圧倒しようとしたけれど、まったく通じなかった。

「宮本です。陛下にお取り次ぎを願います」

「………このような時刻に、何用ですか?」

「皇后をお選びになられます前提として伝えたき事柄です」

「………」

 鷹姫が気圧されることなく繰り返してくるので、思わず北房が黙り込む。そして気を取り直して叱る。

「ふざけたことを言うものではありません」

「何一つふざけてなどおりません。国の一大事です」

「………」

 また北房が押される。新たな女官長として40歳を過ぎた女性が持つ同性への冷厳さがあるのに、それが鷹姫には通じず、まったくおそれてくれない。鷹姫が言い募る。

「昨夜の席上には北房さんも給仕として立ち会われたはずです」

「………」

 北房も義仁の発言は聴いていた。そして、震災後に奮闘する鮎美の姿をテレビなどで義仁が見守っているのも知っている。さらに、見守る視線が熱を帯びてきているのにも中年女性として気づいていた。まだ15歳の少年が三つ上の女性へ恋をしてしまうのは、さほど奇異なことではない。とくに近いようで遠い関係であり、会う機会が少ないとなれば、勢い告白してしまうのも仕方ないことだった。けれど、見逃せない奇異なこともある。

「愚にもつかないことを……彼女は同性愛者だと自ら公言しています」

「それは陛下も承知のはずです」

「皇統がいかなるものか、よく考えなさい」

 差別発言にあたらないよう言葉を選んだけれど、血統の重要さを北房は言った。そういう指摘を鷹姫は予想していて反論する。

「同性愛者の子が必ず同性愛者になるわけではありません。げんに芹沢総理のご両親は異性愛者ですし、古くは徳川家にも同性愛者はおりましたが、その性質が受け継がれた様子はありません。むしろ、同性愛者と生まれることは希有であり少数です。でなければ、兄弟姉妹みな同性愛者というケースが散見されるはずですが、寡聞にして存じません」

「…………」

「そして芹沢総理は健康なお身体をされています。今、皇統の存続は喫緊の課題であるはずです」

「…………」

「お取り次ぎを願います」

「…………」

 鷹姫から強い真剣味を感じるし、取り次がなくても義仁とは昼食時などに話せるので北房は不用意なことをさけるため、ともかくも承知することにした。

「わかりました。今は儀式の最中ですから、お伝えしておきますので30分後に再びお越しください」

「はい、ありがとうございます」

 鷹姫は頭をさげて廊下を戻る。部屋に戻ろうとして、相談できそうな相手が脳裏に浮かんだ。

「三島大臣なら…」

 三島が宿泊している個室を訪ねてみると、すでに起床していて法務省と厚労省の職員と非公式な会議をもっていて、田守と新屋もいた。会議の内容は朝槍が遺した同性婚を実施することと、加えて同性婚の遡及適応を認めることであり、今回の震災以前に同性婚関係にあった二人のうち片方が亡くなっている場合に安否情報の確認の権利や、遺産相続についてだった。とくに遡及適応を認める場合、遺産目的の虚偽申請がなされるであろうし、また鮎美自身、公然と詩織との結婚を震災前に発表していたとはいえ、牧田家には相当の財産があり両親が亡くなった直後に震災が来たので、相続放棄も含めた慎重な取り扱いが必要だった。他には高齢の同性婚的な生活を送っていた二人で片方が生き残っている場合の年金の取り扱いなども問題であり、これを討議するために厚労省の職員も来ているし、そして呼んだ職員は内密に打診して同性愛者であることを確認した者ばかりだった。

「宮本殿のご相談とは?」

 三島は会議を続けさせながら、窓際に移動して鷹姫の話を聴いてくれた。

「なんと……陛下が……そのような懸想を…」

「この上なき、もったいないことです」

「その言い様、宮本殿は推し薦めたいとお考えか?」

「はい」

「だが、芹沢殿の指向はご存じであろう?」

「ゆえに、三島大臣に相談したのです。圧して性的指向を封印し、公のために結婚することは、このさい必要であるかと考えます」

「…………。公のためにか………たしかに個人の欲望を公のために圧すのは一つの善であるが………夫婦というのは……一年や二年のことではない。一生続く人と人の関係であるから……」

「同性愛者の中にも異性と結婚されている人は多いようです。そうして平均的な家庭を築く人も」

「言いたいことはわかるが………いくつも問題はある。一つ、当然に芹沢殿の気持ちだ。二つ、陛下がどうお考えであるかは別として芹沢殿は、いわば既婚者、皇家へ嫁ぐに相応しい身分といえるのか、同性婚が有効であるとすればするほど問題がでてくる。三つ、今や芹沢殿は最大の権力者、ここに国家の象徴、最高権威まで加われば、絶対的独裁者ともなりうる。四つ、これは我の私見であるが芹沢殿は有能であるがゆえ、男勝りな部分があり嫁ぐよりは、嫁をもらうような人間と感じる。はたして皇妃たるにおさまりきるか、ヘタをすれば陛下の前に出てしまうかもしれぬ。五つ、公のために個人の欲望を圧するにしても一生というのは長い。たしかに同性愛の衝動を圧して男女の家庭を築く者もいるが、衝動の強さも人それぞれなのだ。ことは慎重を要する」

「……衝動……」

「恋もまた衝動。この強き焦がれる心と、性欲という衝動もまたやっかいであるし至福である。宮本殿とて恋の一つや二つ覚えがあろう?」

「いえ」

「恋をしたことがないのか?」

「はい」

「男性だけでなく女性へも?」

「はい」

「では、男か、女、いずれかの身体に興味を覚え、抱きしめたい、抱き合いたいと感じる衝動は?」

「そういったことは感じません」

「まったくか?」

「はい、まったく」

「………。自分が女であるという意識はあるか?」

「そういう性別に産まれたのだと自分の身体を見ればわかります」

「女である自分をどう思う?」

「剣道を極めるにつき、筋力面で劣り悔しく感じることはあります」

「男でありたかったか?」

「いえ、別に」

「………より美しくなり、誰かに見て欲しいと想う気持ちはあるか?」

「いえ、ありません」

「だが、近頃は日に日に美しくなっているように見えるが?」

「化粧の技術が上達しただけです。社会人として恥ずかしくない姿であろうと努めた結果です」

「そうか………宮本殿は無性愛者、ノンセクシャルかもしれんな」

「ノンセクシャルとは?」

「うむ、いわゆるLGBTとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーのことをいうのは知っているな?」

「はい」

「この四つに隠れて、つい見過ごされがちな上、本人の葛藤も軽微なので目立たないのだが、N、ノンセクシャルというものがある。またの名をエイセクシャルともいう。これは異性にも同性にも興味を示さず、また自身の性自認も希薄であり、性欲や恋といった衝動から縁遠い人間をいう。昔風に言えば、朴念仁であったり、僧侶や神官となれば禁欲せずとも元が無欲であるから聖者となりやすい。高徳の僧のうちにもおったであろうし、当人もなぜ周囲が煩悩まみれなのか、肉欲を断てぬのか実感できなかったであろうな」

「……病気や障碍なのですか?」

 少し鷹姫が不安そうな顔になると、三島は優しく肩へ手をおいた。

「その判断も難しいところだ。単に個性と言えなくもない。自ら強く求めることが無いゆえ、他者からの求婚を素直に受ければ、誰にもわからず本人にさえわからぬまま過ごすこともある。単に恋をしたことのない人間、性欲の薄い人間と思われるだけだ。だが、やはり同性愛者と同様、全体の数%は存在していると調査により見込まれている」

「……そうですか……」

「そう不安な顔をせずともよい。得がたい才能という面もあって色恋に時間とエネルギーを投じぬ分、なにがしかの事業を成すに向いておるし、義なる戦いに明け暮れたかの謙信公も女人も衆道も遠ざけたと聞く。人間、すべてに欠けず望月たるは藤原道長とてかなうまいよ」

「…謙信公も………」

 やや鷹姫の顔から不安が消え、重ねて三島が問う。

「やはり恋や性欲というのが何なのか、わからぬと感じるか?」

「はい、わかりません」

「であるか……陛下と芹沢殿のことを考えるのも、それは国体を慮ってのことだろう?」

「はい」

「……うむ……この件で宮本殿が動くのは、かえってことをしくじるやもしれぬぞ。竹刀を振ったことのない者が真剣を振れば自分の脚を切るように。陛下へ奏上するため貴賓室を訪ねたというが、何を奏上する気であった?」

「芹沢総理は、たしかに同性愛者ですが、同性愛者とて異性と結婚する可能性はあること、今は伴侶にと想っていた女性が行方不明で、おそらく亡くなっているがゆえ、淋しく泣いておられること、ご健康な身体であり子を宿すに問題ないことです」

「なるほど……悪くはないな……」

 三島が男性らしい仕草で自分の顎を撫で、ずっと黙っていた田守が言う。

「貴殿が仕える主を想う気持ちは立派。だが、気ばかり焦っては、しくじることもある。自分もそうであり、ゆえに以前のクーデターは失敗し、悔やんでも悔やみきれぬことであるから、貴殿も注意されたし」

「はい、ご忠告ありがとうございます。ですが、以前の失敗があったればこそ、震災直後に兵を挙げ、芹沢総理が帰国するまでの24時間、もっとも大切な時間に空白なく、活躍してくださったのだと思います。どうぞ、悔やみは忘れ、今日を誇ってください」

「っ…」

 田守が目を丸くし、そして感動して男泣きした。

「くっ…有り難き、言葉……確かに…」

「そろそろ30分になりますので戻ります。ご意見、ありがとうございました」

 鷹姫は礼を言い、貴賓室前に戻った。北房が待っていて、相変わらず冷たい態度だったけれど、相変わらず鷹姫は気にしない。北房は貴賓室ではない隣接した応接室に鷹姫を案内する。

「由伊様と島津様がお会いになるそうです。こちらへ、どうぞ」

「はい」

 応接室に入ると由伊と島津がいる。鷹姫は深く頭をさげた。

「おはようございます。早朝に押しかけ、申し訳ありません」

「宮本さんのお話というのは?」

 由伊が問い、鷹姫は頭をさげたまま話す。

「昨夜、陛下がおっしゃいましたことにつきまして、芹沢は女でありながら女に恋するタチですが、そのような者とて男子と結ばれる例も多くございます。また、今は伴侶にと想っていた女性が行方不明にて、おそらくは亡くなっておりますゆえ、深く嘆き、昨夜も淋しく泣いておりました。さりとてご健康なお身体をされていますから、近いうちに立ち直られるかと愚考いたしております。このことを陛下に奏上いたしたく存じます」

「………島津先生、どう思われますか?」

「さて、色恋の話は、この爺めには、遠い昔のことにて忘れてしまいましたな。卒業して何十年になりますことやら」

「卒業されているなら、まだ入学していない私より見識をお持ちでしょう?」

「これは、したり。では、二つ。まずもって、ご当人方のお気持ちが第一であり、周りが騒ぎ立ててどうなるものでもありません。二つ、古来より皇統との婚姻を出世の道具にした例は多くあり、宮本さんが友人であり主人である者の栄光を望むは自然なことなれど、いささか先走りの感が匂いますな。如何?」

「っ……おっしゃる通りです」

 鷹姫が深く頭をさげた。由伊が言う。

「頭をあげて、こちらを見てください」

「はい」

 鷹姫は言われたとおりに由伊を見る。もう鷹姫の目におそれはなく尊崇の念だけがあった。

「お兄様も少々性急でした。いろいろな出来事があり、お心が騒いでいるのだと思います。そのような時期に、うかつなことを重ねるのは、より危ういと考えます。宮本さんの言われたことは伝えますが、お昼すぎには私たちは京都へ発ちます。伝えるのは、その後とします。よいですね?」

「御意のままに」

「「……」」

 この女子高生は一般家庭育ちのはずなのに、どうして、こんな言葉遣いが自然に出てくるのだろう、と島津と由伊は少し疑問に思いつつも頷いた。鷹姫は退室して四人部屋に戻る。ちょうど6時で自衛隊生活に慣れている麻衣子と里華は目を覚まし、鮎美はまだ寝ている。

「おはようございます」

「あ、宮本さん、早いね」

 麻衣子と里華はパジャマから制服に着替える。着替え終わっても少し時間があったし、まだ鮎美が寝ているので室内は静かになる。その静かさを里華が破った。

「大浦陸士、メアドか、SNS、交換しない?」

「あ、はい」

 素直に麻衣子はスマートフォンを出しつつ、問う。

「でも意外です。交友をさけてる感じがあったのに。急に、どうしてですか?」

「……。誰とも連絡のとれないケータイなんて意味ないから」

「誰とも………ご家族も友人も津波で、って………誰とも連絡がとれないんですか?」

「防衛大の同期や高校の同級生で運良く生きてる人もいるでしょうけど、私のケータイに登録されてる人とは、誰とも連絡が取れなくなったわ」

「「………」」

「この世に誰一人として友達がいないのは、淋しいし、死にたくなるから。とりあえずの友達になって」

「はい!」

「宮本さんも交換してくれる?」

「はい」

 三人が連絡先を交換していると鮎美も起きた。

「う~……おはようさん。鷹姫、珍しいことしてるやん?」

 鮎美は鷹姫が女子らしく連絡先交換をしていたので問うた。

「はい、石原さんの友達になりました。彼女は友人がすべて亡くなったそうです」

「…………すべて……」

 起きたばかりで重い話題だった。家族も友人も、すべて亡くすのは、どんな気持ちだろうかと、想像を絶する。鮎美も転校したので友人らしい友人は五指に満たない。もともと同性愛指向もあって女子との交遊は多かったけれど、性的な目覚め以前の小学校時代には剣道の強さもあってリーダー的に振る舞いつつも、やっぱりレズだと疑われたりしたので中学校は私立に入り、小学校の友人とは付き合いが途絶え、剣道に打ち込むことで性的なことを忘れようとした。けれど、中学大会で鷹姫を見て一目惚れして性的指向を強く自覚し、高校では後輩だった北砂夕子を裸にした後は他の女子との交遊も減り、そのタイミングで転校した後に当選し、鮎美が議員になると知った古い友人からは多くのメッセージをもらったけれど、明らかに鮎美の地位と知名度が目当てという感じだった。あまり嬉しくないけれど、無碍にもできず静江に対応を任せ、求められたサインなどは送っていたし、夏休みなどに何人か支部を訪ねてきたものの、もう友人というより著名人との関係を喜んでいるだけという気がした。そして、彼女たちは全員が大阪在住だったので、よほど運がいい子以外は生きていないと思うし、名前も覚えていない男子も同様で、それは中学、小学の同級生も変わらないと頭の片隅では考えていた。それでも家族までも含めて誰一人、知己がいなくなったという里華の胸中は察するにあまりある。これまでの態度の硬さも、その感情を押し隠していたのだと思えば理解できた。

「うちとも交換してくれはる?」

「ええ。総理とつながってることを自慢する友達もいないけど、お願い」

 鮎美と里華も連絡先を交換した。鷹姫が問う。

「芹沢総理、朝食の時間ですが、ここで召し上がられますか? それとも食堂で?」

「もって来てもらうのも手間やし、うちも、いっしょに行くわ」

「わかりました」

「あ、待って」

 麻衣子が挙手して言う。

「総理が私たちの手間を考えてくれるのはありがたいけど、食堂の雰囲気と護衛の都合でいうと、ここで食べてくれる方がありがたいよ」

「そうなんや……ほな、ここで。……うち一人で、ここで食べるの淋しいし、四人で食べられる?」

「あ、それいいね。なんか、秘密の会食って感じで」

「「………」」

 鷹姫と里華は反論が思いつかなかったので四人で食べる準備を室内に整えた。

「「「「いただきます」」」」

 食べながら麻衣子が問う。

「ときどき防衛大臣とか幹部が来たとき、総理と話してることって、やっぱり私たちには言えない?」

「そうやねぇ……どんな拷問を受けても黙ってる自信があるなら言うてあげるよ」

「うっ…拷問って」

「そう言う、あなたは拷問に耐えられるの?」

 里華がパンを飲み込んでから問うた。態度は以前ほど冷たくないけれど、いくつも年上であるという口調だった。

「無理やね。拷問の序の口を受けたことあるけど、あれが本格的な拷問になったら嘘でも何でも喋りまくって泣くわ」

「「序の口って…」」

 麻衣子と里華が強く疑問に思っているので鮎美は飛行機の中で陽湖から受けた仕打ちを語った。里華が食べていた目玉焼きが不味くなったという顔で言う。

「それは、もう友達ではなくて訴えた方がよくない?」

「飛行機の中は治外法権でイスラエル登録やったからね。日本の法律は通用せんよ。あと、仕返しというか償いはしてもらったし」

「どんな?」

「台湾に置いてきた。うちの身代わりに」

「「………」」

「石原はんに訊いてみたかったんやけど、しっかりセクハラを警戒するよね。なんか嫌なことでもあったん?」

「ええ、父と兄から性的虐待を受けたし、神奈川あたりは電車でも痴漢も多いの。それで、うんざりよ」

「石原空尉……」

 麻衣子が心配そうに見てくるので里華は微笑をつくった。

「そんなにひどい性的虐待ではないわ。父も兄も、よく冗談で私の胸やお尻に触ってきたの。中学までは、それが普通だと思ってたけど、だんだん嫌になってきて、でも言い出すタイミングがなくて。防衛大に入ってホッとしたわ」

「うちのオヤジといっしょやん」

「総理のお父さんまで?」

 麻衣子が驚いて問うた。鮎美は美味しそうに目玉焼きを食べながら答える。

「うん、中学までは、よく触られたよ。あと、うちが欲しいもんとか、お小遣いネダると、ホッペにチューしてくれたらとか条件つけるプチセクハラ要求されたわ」

「総理がレズになったのって、それで?」

「そんなことでビアンにはならんし。もともと男は他種族というか、犬みたいなもんと感じてたから、チューしたら一万円くれる便利な犬って感じよ。けど、ある日、母さんがマジギレして、それ以来無くなったよ」

「何をされて、お母さんは怒ってくれたの?」

 里華が興味をもって問うた。

「中3の終わり、いよいよ高校の制服ができたとき、それを着て父さん母さんに見せてたんよ。そしたら、あのスチャラカオヤジがスカートめくりしよってん。うちは、またか、このアホと思っただけやったけど、母さんはマジギレして怒鳴るわ叫ぶわ物投げるわの大騒ぎで、最後は泣いてやめて言うから、父さんも反省したし、うちも、あかんことなんやと感じてん。うちはビアンやし、自分が男みたいな性欲を女の身体に覚える感覚はあっても、男が女に同じ感覚をもってるとは実感しにくかったから、高校に入るまでは、そういう男の視線とかタッチがエロいことやとは感じてなかったんよ。っていうか、うちもスカートめくり、よく友達にやったし」

「「………」」

 里華と麻衣子はヘリに乗り込むときに風を受けている鷹姫へ、両手をあげるように鮎美が命じたことを思い出した。麻衣子が言う。

「似たもの親子だね」

「ろくでもない父親だけれど、いいお母さんね。私の母は無関心だったわ。助けてくれなかった。あの三人、私は家族が大嫌いだったけれど、それでも死んだと想うと一晩泣くほどには悲しいのね。意外だったわ。けど、おかげで私は同性愛にはなってないけど、異性だろうと同性だろうと、触られるのも見られるのも嫌いよ。スカートをめくったりしたら必ず訴えて辞職に追い込むから覚悟しておいて」

「……はーい……。セクハラって、イジメといっしょで、やられる方は最初黙って我慢するし、やる方は軽い気持ちでやるからタチが悪いんよなぁ。うち、やった経験も、やられた経験もあるし、わかるわぁ」

 朝食時にするにしては重い話題だったけれど、仕事中には何千万人が死んで、死体の処理をどうするかや、放射性物質の処理方法と経済の立て直しなど、より重い話題を扱っている鮎美は美味しく食べ終えて両手を合わせた。

「ごちそうさまでした」

 今朝は閣議は無いけれど、義仁を前にして大会議室で状況報告する予定なので身支度を調え、定刻15分前に鷹姫と顔を出した。他の閣僚もそろっていて、閣議なら鮎美を上座にしてロの字型に顔を合わせていたが、今は義仁を一段高い壇の上に迎え、鮎美たちはコの字形に並ぶ。定刻を前にして壇の上に一つと、壇の横に一つ椅子が追加された。石永が開始を告げる。

「これより陛下をお迎えし、御前にて報告会を行います。全員、ご起立ください」

 一堂が起立すると、大会議室へ義仁と由伊、島津が入ってきた。当然、義仁は壇中央の椅子に腰かけ、その隣に追加された椅子へ由伊、壇横に追加された椅子へ島津が座した。石永が述べる。

「由伊妹宮様からの要望で、ご参加いただきます。また、学習院院長の島津先生にも陪席いただきます。よろしいですか?」

 とくに異議はあがらなかったので石永は続ける。

「では、現在までに判明している震災の状況ですが、あれほどの地震でありながら余震が軽微であるのは不幸中の幸いです。とはいえ、本震の巨大さはいうまでもなく、少なくとも3000万の人命が失われております。まったく機能停止し人口の大半が失われた自治体もあり、この再編に取り組み始めたところです」

 概要を石永が話し、次に畑母神が述べる。起立して義仁へ一礼してから資料を読む。

「すでに一週間を過ぎましたが、なお漂流し命をつないでいる方もおられますので、今しばらく海上自衛隊および海上保安庁による救助活動を続けます。また、陸においては陸上自衛隊、警察、消防、自治体の協力により救助活動ならびに生活支援を行っております。しかしながら、航空自衛隊と海上自衛隊、海上保安庁が尖閣諸島において仲国人とおぼしき集団を発見し、退去するよう警告しておりますが応じず、本来は不法入国として逮捕するのが正当な対応ですが、海上保安庁による上陸を阻むように仲国籍の船が島の周囲を旋回しております。この状況は昨夜から続き、現在も継続しております」

 報告する畑母神は短い仮眠を繰り返しただけのようで目が疲れていた。次に夏子の番が来た。

「財務省の形は再編しつつありますが、日本銀行および都市銀行が動いていないため、実際的なお金の動きができずにいます。霞ヶ関で保存していた証券、外貨準備等、地下金庫にて保存していたような貴重品は幸いにして残っていますが、この開封に手間取っています。また、いよいよ一般市民も自己の財産を探しに出るため、再び居住地に戻るなどの動きをする方もおられますが、個人がタンス預金に使っていたような金庫は同種同形のものが流通しており、あれだけの津波の後、たまたま発見した自分の物と同一の金庫が真実、自分の所有物であるかは開封してみないとわからず、この開封のための鍵も流失しているような状況ですから、今後、大きな混乱、場合によっては騒乱が予想されます。そして、通貨価値は一週間、固定されましたが次の一週間で1%動きます。おそらくは円、米ドル、豪ドル、ニュージーランドドルが下がり、欧州通貨が上昇すると見込まれます。物価は良く言えば、市民が相互に監視し合い、悪く言えばインターネットに晒されるなどの通報、密告を恐れる心理から目立った上昇はありませんが、じわじわと上昇し、また品薄状態が悪化しつつあります」

 新屋も述べる。

「さきほど、加賀田大臣が述べられたように、被災地から金庫を拾うなどの拾得物横領が、これから目立ち始めるかと思われ、いよいよとなれば夜間の外出禁止などを総理代理より指令いただく必要が出てくるかもしれません。また、避難所での事件も少数ながら発生しており、個々に対処しているところですが警察官の人手も足りておりません」

 それからも、すべての閣僚が所轄する行政の状況を報告したので、すべてが終わったのは昼前になった。最期に鮎美が立つ。

「これまで述べられた通りの状況に加え、来週の火曜22日には、副都心を福井とするか、富山とするかを決定します。この決定にさいしては、不公平のないよう言い出した本人である私は意見を述べるにとどめ、決定は私以外の閣僚による多数決によって行いたいと考えています。以上です」

 黙って聴いていた義仁は頷き、何か言いたそうな顔をしたけれど、天皇の立場で意見することに慎重さを要するのは自覚しているので労うのみにとどめる。

「ご苦労様でした。引き続き、復興のため尽力してください」

「はい」

「「「「「はい」」」」」

 鮎美の返事につづき閣僚たちも答えた。それから義仁と由伊、島津は一度、貴賓室に戻り、鮎美たちは残ったままで昼食準備待ちの雑談形式の話し合いになる。鮎美は新屋に声をかけた。

「夜間外出禁止って、必要なんですか?」

「現場からは求める声があがっています。もちろん、本当に自分の財産を探している人もいるのかもしれないけれど、わざわざ夜間では危険もあるし。どちらかといえば、不正なことは夜に行われる。これを見張るために、そのうち自警団などができると、また衝突も起こるから未然に防ぐため、いっそ夜間は公務員以外は外出を禁じる。公務員も正当な公用のある者に限ることにしたいと」

「ほな、そういう命令の文案、すぐに作ってもらえます? 今日、土曜日ですし、土日の夜が一番、危なそうですやん。げんに無事な県のアホな若者が事故った原発に近づく動画をあげてるらしいですし」

「わかりました。すぐに」

「あ、待ってください」

 制止して久野が言う。

「公用のある公務員のみに限定されると、物流面で非常に困る。寸断された高速道路が通れないので迂回しているトラックもあります。また、危険ながら夜間も含めて24時間体制で復旧工事してもらっている道路もあります」

「それは、たしかに問題ですね……だが、正当な理由のある行動をしている民間人と、不当な行動をしている民間人を見分けるのは、難しい。服装なども着の身着のままな人もいる……」

「ほな、命令としては公用のある公務員および復旧工事、輸送など正当な理由のある民間人のみ夜間行動可として、それ以外は禁止。違反には罰金をつけるのと、見分けるために職務質問する権利は平時よりも強固に、ただし、いよいよ罰金をかすのは軽犯罪での逮捕より慎重に、それでいて不正なことを職質で見つけたら、その罪名での処罰は厳格にするというので、どないでしょう?」

「なるほど、その案で夜まで、いえ夕方までにつめますので即時、公布施行してもらえますか?」

「はい」

 話が終わるのを待っていた静江が言ってくる。

「芹沢先生は富山と福井、どちらがいいという意見をお持ちなんですか?」

「うーん……うちは、どっちでもいいよ。ただ、一つ意見はあるけど」

「どんな?」

「今は秘密」

 もしも、福井市が原発の多い敦賀地域に近いということで問題になるようであれば、鮎美は反対意見を述べるつもりだった。現状でチェリノブイリを参考に、さほど近づかなければ事故原発は問題無いという見解を政府が出しているのに、まだ事故も起こしていない敦賀の原発を政府が避けるのは二枚舌になる。鮎美が言わなくても誰かが同じ意見を述べれば、それでいいし、もしも誰も言わないなら言うつもりだった。静江が囁いてくる。

「私は富山市がいいと思いますよ。あそこは地元議員たちも協力的ですし」

「福井は非協力的なん?」

「そ……そんなこと、ないと……思いますけど……。富山にはノーベル街道というノーベル賞をいっぱいもらった街道もあるんですよ」

「道がノーベル賞もらうの?」

「そ、そうではなくて、そこの道あたりから受賞者が、いっぱい出てるんです」

「ふーん……。まあ福井かって、なんかあるやろ。恐竜の化石とか、へしことか」

「へしこって?」

「鮒寿司みたいな名物料理らしいよ。父さんが買ってきたことあるわ」

「美味しいんですか?」

「鮒寿司よりは匂いもマシやったかな。サバで作るらしいし」

「富山の白エビは絶品ですよ。富山湾の宝石と言われるくらい」

「そうなんや。……まあ、喰い物グランプリちゃうし、うちが言い出してなんやけど、食べ物は無関係やろ。ようは、どっちが副都心に向いてるかって話で、久野先生あたりの意見が最重要かな、と思うわ」

「そ…そうですね……芹沢先生は多数決に加わらないのは、どうして?」

「あんまり独断専行でもあかんかなって」

「それは、いい心がけですけど……」

 静江はこれ以上、鮎美を口説いても票にならないので他の閣僚のところへ行った。鈴木が鮎美に声をかけてくる。

「いっそ北海道に副都心をおくのは、どうです? 札幌は無事ですよ」

「あはは…、さすが選挙で叩き上げられてはる先生は地元愛が強いですね」

 鮎美が空笑いし、鷹姫が首席秘書官として全体に言う。

「みなさま、昼食の用意がととのいました。食堂へご移動願います」

 全員が食堂に移ると、地魚のフライと加賀野菜の炒め物、味噌汁、白米、デザートは林檎というメニューだった。中央に義仁と由伊の席を空け、閣僚たちが囲んで座り、閣僚の秘書や行政官僚は外周に、さらに外側を囲んで階級の高い空自と陸自の隊員が座る。すぐに義仁と由伊、島津も現れて、北房と鷹姫が案内して中央に座った。今は壇の上ではなく全員が同じ高さとなる。鮎美はテーブルを挟んで義仁の正面という位置だった。義仁と由伊の左右には夏子と鈴木が選ばれている。石永は鮎美の隣で久野は反対の隣だった。

「皆様おそろいとなりましたので、どうぞ、お召し上がりください」

 鷹姫が全体を見て言った。鷹姫自身は鮎美の後方に座る。食事が始まり、石永が義仁に声をかける。

「長旅でお疲れは出ていませんか?」

「大丈夫です。由伊が少し心配ですけれど」

「私も平気ですよ、お兄様」

 今は政治の話などは出ずに歓談として穏やかに時間が過ぎるけれど、義仁は何か言いたそうに迷っていた。その迷いは正面にいる鮎美に伝わっているので、率直に訊いた。

「なにかおっしゃりたいことがあるのですか?」

「…はい。ですが、立場もありますから…」

「………」

 鮎美は黙って白米を食べる。義仁も黙って食べるので鷹姫が後方から言った。

「おそれながら、陛下がお想いのことが気にかかります。教えていただけませんか?」

「………宮本さんは、お米は好きですか?」

「は? ……はい。好きです」

 食べ物で嫌いな物が無い鷹姫は頷いた。鷹姫の肯定を受けて義仁は微笑む。

「私も好きです。そろそろ田植えの季節というのに、この震災では今年の田植えは、どうなるか、それが心配なのです」

「田植え…ですか…」

 てっきり鮎美へ何か言うのかと思ったのに、鷹姫は期待が外れて戸惑った。

「ケガをされた農家の方もいるでしょう。元気でいても田が海水に浸かった人も。田畑を耕す機械も軽油で動くのに、その供給も危うい。もともと農家は高齢の人々がになってくださっていたのに、この震災で、どうなるかと思うと心配なのです。だから、どうこうせよ、と私の立場で申すことはできませんが、芹沢さんは、どうお考えですか?」

「はい。……えっと……農林水産のことは、正直、あまり考えていませんでしたけれど、陛下がおっしゃるように、田はあっても人がいない、人がいても田がやられてる、というケースもあるでしょうし、軽油がなければ手作業が膨大となりますから。………これを埋めるために、農協を通じて人材派遣をやってもらう策があるかな、と思います」

「人材派遣ですか?」

「お年寄りは田を大切にしはるし、なかなか他人には売りはりません。その結果、耕作放棄地の問題が出てきていました。自分で耕せないのに他人には売らない、売らずにもっていても子供も継がない、そういう問題です。すでに田を作ってもらう貸し出しは多く行われていましたけれど、これを発展させ、農協から人材派遣する形で繁忙期だけでも人手が回るようにしたり、非農家の若者、就職に失敗したり、事情があってニート化した人などに働いてもらう場を作る形で両者を結びつけたいと」

「それは素晴らしいですね」

 義仁は頷いたけれど、石永が言う。

「それは難しいだろう。農家は儲からない。そんな人件費は払えないぞ」

「この震災が起こる前なら、連合インフレ税を財源にと言いたかったところですけれど。今は財務省が立ち直れば、なんとかなる可能性があると、うちは見てます。日本の人口は半減したのに、流通している通貨は銀行の金庫などに、かなり残ったままです。さらに、日本政府の借金であった国債は銀行に買ってもらっていましたが、その銀行は国民の預金で買っていました。ところが大本の債権者である国民は半減、その多くは法定相続人も亡くなっているでしょう。相続する者がいないとき、その財産は国庫のものとなります」

「………たしかに……死者の金をアテにするようで申し訳ないが……冥土には持っていけないからな……」

「それに、これから食料価格は上昇するでしょう。今まで日本社会は一次産業をおろそかにしすぎました。二次産業も肥大化後に効率化し、今では第三次産業、サービス業どころか、さほど必要性のない美容や広告、場合によっては悪徳商法など、人を騙してでもお金を集めようとする産業が盛んです。銀行でさえ、その傾向がありました。証券、不動産、オレオレ詐欺、化粧品、ブランド物、怪しげな投資話、みんながみんな儲けよう儲けようとするから、騙してでもお金を奪い合う始末です。本来、一次産業と二次産業が効率化された時点で、人は、もっと自由になれたはずやのに、実際はその逆で労働時間は延びるばかりでした。いっそ、ここらでガラガラポンと一次産業に人手をシフトさせたらええんです。その財源はあり、そして耕耘機などの燃料は乏しくなる、ほな、人の手でやるしかないんちゃいますか?」

「一次産業へか……」

 石永が考え込み、義仁が問う。

「芹沢さんは田植えをしたことがありますか?」

「いえ、ありません」

「ないのか? 小学校でやるだろう?」

 思わず石永が問うた。

「そうなんですか? うちは記憶にないですよ」

「大阪だと田んぼが無いのかもなぁ……」

「石永先生はあるんですか?」

「ああ、小学校で実習があるし、大人になってからも、ときどき春に地元の農家を手伝いに行ってる。まあ、オレの場合は人気取りだが。歴代の天皇陛下も慣習として田植えをされているぞ」

「陛下もされていたのですか?」

「はい、毎年、由伊と手伝いに出ていました。あれは正直、なかなか大変ですよ」

「そうですか……。うちは何一つ実務経験が無くて頭で考えるだけですね……」

 本当に鮎美は働いたことがなかった。アルバイトをしたこともない。鮎美が視線を落とすと、義仁は励まそうと言う。

「芹沢さんの考えは素晴らしいと思いますよ。私は、ただ今年の田植えが心配だったのです。それが少しでも行われるなら、芹沢さんが何万の苗を植えたも同然です。そんな顔をしないでください」

「………おおきに、ありがとうございます。あ、おおきに、という関西弁は失礼ですか?」

「そんなことはないですよ。東京で生まれ育ったので面白く感じますが、もともとは私たちも関西出身のはずですから、これから京都に戻れば私も由伊も変わるかもしれない」

「お兄様、そろそろ出発しないと」

「ああ、そうだね。つい話し込んでしまった。政治に口出しして、すまない。忘れてほしい」

「「いえ、重要なことを、ありがとうございます」」

 鮎美と石永は異口同音して礼を言った。昼食が終わり、義仁たちの出発を通用門で見送ると、緊張が解けた石永が言う。

「ふーっ……ある意味、御前会議だったな」

「いかにも」

 三島が頷く。鮎美は気になっていることがあるので一瞬だけ畑母神と目を合わせた。それで畑母神も察した。それとなく閣僚たちから離れ、畑母神と二人きりで話せるように彼が使っている個室に入る。当然、鷹姫と麻衣子、里華、知念、今泉はドアの前に立つ。

「この部屋って盗聴器のチェックしはりました?」

「……いや…」

「ほな、バスルームで水道を流しっぱなしで話しましょ。そんなとこに二人きり連れ込まれるのは困る言わはるなら遠慮しますけど」

「……君の感覚は逆だなぁ……困るのは普通、女性だ」

「そうなんですか。前に鶴田司令に注意されたんで。まあ、あのときは夜中で、うちはバスローブやったから余計かと思いますけど」

「彼もまだ若いんだ。考えてやりなさい」

「はい、うちが逆の立場やったら我慢するのに苦労したかもしれんし、配慮が足りませんでした」

「それは女性と女性でという状況で?」

「もちろん」

「そうか……やっぱり、根本的に感覚が違うなぁ……まあ、そんな話は、どうでもいい」

 畑母神は同性婚や同性愛については否定的な保守的思想をもっているけれど、政治的なパートナーとなってくれている鮎美は国家防衛面では保守的な思想に傾いてきてくれているので、もう個人的な性的指向の話は本気で、どうでもよかった。二人はバスルームに入って水道を出したままにする。

「夕べ、尖閣諸島は、どうなりました?」

「ああ、軍事的な衝突はしていないが、海上保安庁の巡視船が何度も衝突を受けた」

「映像はありますか?」

「ある」

「ほな、あとで司令室で見せてください。それで?」

「こちらの上陸を阻むように船をぶつけてくるので安全にボートをおろせずにいる」

「……ヘリから島へ降りるのは?」

「ヘリからの降下は、より危険なのだよ。そして、もし逮捕のさい抵抗されたら発砲し制圧するのか、という問題がある」

「向こうは武装してるんですか?」

「不明だ。明るくなっても、持ち込んだ物品すべての中までは見えない。銃をもっているかもしれないし、もっていないかもしれない。やはり状況は司令室で説明しよう。その前に、米軍撤退の件、今まで陸海空の幹部それぞれ一名ずつにしか知らせていなかったが、私たちの方で人選し、少なくとも5名ずつ合計15人。多ければ、基地司令クラスと主要艦艇の艦長クラスには全員に伝えておきたい。いずれわかることだが、心づもりと物理的な準備もある。どうだろうか?」

「畑母神先生が、そう判断されるのであれば、うちに異議はありません。ただ、うちの方でも考え事をするのに鷹姫まで排除しているのは、つらいです。鷹姫にだけは話させてください。あと、少しずつでも、うちと鷹姫、それに同級生でデマ対策の手伝いをしてもらっている込山義隆(こみやまよしたか)という者に、現代の戦争の基本的なことを教えてもらえませんか? 正直、うちの頭の中は長篠合戦くらいのレベルです」

「………。まあ、そうだろう。高校で教えないし、だいたいの国会議員も知らないから、気に病むことはない。わかった、ごく初歩的なことは、身近にいる石原空尉に講義するよう命令しておく。より広範なことは幹部に時間を作らせよう」

「お願いします」

「では、米軍の件、引き続き極秘とするが、認知範囲を広げるということで」

「はい」

 鮎美が水道を止め、畑母神と司令室へ向かう。司令室には二人だけでなく、鷹姫と麻衣子、里華、知念、今泉も入室する。その道中で畑母神は里華に基本知識を講義するよう命令し、また麻衣子には謹慎の解除と再び鷹姫の従卒役を続けるよう伝えた。

「では、昨夜からの状況を説明します」

 新たな海上幕僚長に畑母神から任命された海自の幹部自衛官が大型モニターを指しながら語る。

「高い可能性で仲国人と思われる集団が尖閣諸島の魚釣島に上陸し、何らかの機器を設置しています。これに対し、畑母神防衛大臣の命令により海上保安庁の巡視船2隻、海自の護衛艦2隻をさし向けています。明け方に到着し、巡視船2隻が接近しようとしましたが、周囲に5隻の仲国大型漁船がおり、衝突をじさない動きで妨害してきております。繰り返し、接近を試みていますが、双方の安全を考えると強引な操船はできず、小競り合いが続いている状態です。映像を流します」

 別のモニターに編集された動画が流れる。白色の巡視船に青と赤に塗装された仲国大型漁船が浅い角度で衝突してくる映像だった。

「めちゃ既視感あるわ……」

 鮎美は百色がヨーツーベに漏洩した映像を思い出したし、鷹姫たちも同様だった。思わず麻衣子が感情的になる。

「…よくも……こんな震災で大変なときに……同じ人間がやることなの…」

「同感やけど、同じ人間でなく違う人間やと思えばええよ」

「それ言葉遊びじゃ…」

 麻衣子を畑母神が一瞥して言っておく。

「大浦陸士、ここは君が発言してよい場ではないし、百色くんが海保の動画を漏洩したのは義挙ではあったが、今ここで見た映像のことを他言せぬよう。どのようなタイミングで公表するかは私や総理が決める。わずかでも余計なことを言わぬよう心得よ」

「はっ!」

 もう謹慎になりたくないし、まだまだ懲戒免職になりたくない麻衣子は敬礼して背筋を伸ばした。海上幕僚長の説明が続く。

「こちらは巡視船2隻と護衛艦2隻。対して、仲国大型漁船が5隻、10海里離れた海域に仲国の海上保安庁にあたる海監の執法船が4隻、さらに50海里の距離をおいて仲国海軍の駆逐艦が3隻、配置されています。こちらの護衛艦も同様に50海里をおいています。1海里は1852メートル、50海里は約93キロです」

 鮎美たちが海里という単位の感覚を知らないかもしれないので丁寧に言ってくれた。畑母神が補足する。

「もっと多くの艦で対処したいが、いまだ救助活動を続けている。この4隻の他、交替に4隻を向けているので合計8隻をさかれているが、それでも多勢に無勢だ」

 鮎美が問う。

「お互いの軍艦が遠いのは、軍事衝突を避けるためですか?」

「ああ。あと、現代の戦闘艦は大戦中の艦と違い、きわめて装甲が薄い。ぶつけて相手を停船させたり牽制するような設計にはなっていない。今では海保の船の方が衝突や機銃程度の攻撃に対する防御は高いので、このような布陣になっている。まるで自衛隊が海保の活動を高みの見物しているように感じるかもしれないが、これで両軍とも必殺の距離なのだ」

「………」

 鮎美が考え込み、畑母神は続ける。

「海保も頑張ってくれている。現場には百色くんを飛ばしたから、彼らの士気も高いだろう」

「たしかに、百色はんは海保の英雄といえば英雄ですから、精神的にも経験的にも最良なんでしょうね。………今後の選択肢は?」

「この状況を続けるか、発砲もじさずに拿捕と逮捕に踏み切るか、諦めて撤退するか、だよ」

「とりあえず撤退は無いわ」

「………。君が島の一つくらい諦めようと言い出す女の子でなくて、よかったよ。撤退と言い出されたら、どう説得しようかと思うから」

「現代戦には知識不足ですけど、これをセクハラやと思えば、ちょっとを許したら、次は、もっときよる。肩に触るんを許したら、次は腰、腰の次はお尻、常套手段ですし」

「………まあ、そのたとえも外れてはいないが……」

 女子の口から聞くのは違和感があるな、と畑母神は思ったけれど言わないことにした。鮎美は横髪を掻き上げて耳にかけた。

「鳩山総理が前に仲国漁船の船長を無罪放免で逃がすから、今回は、こうなる。津波の被害で手一杯なところを狙ってくるやなんて………あ、仲国も報道されてませんけど、それなりに津波の被害あったはずですやんね? 台湾も被害を受けてたし」

「仲国の東海岸には5メートル前後の津波が襲いかかったと予想されている。それなりの被害はあったろう」

「たった5メートルか……自然災害は不公平やなぁ……」

「まったくだな」

「仲国政府に抗議はしてますか?」

「鈴木外務大臣が正式に何度も抗議しているが、仲国漁船は仲国政府の管理下になく、独自に放射性物質を測定する機械を設置している自然保護団体だそうだ」

「やっぱりそのネタを口実に……」

「この状態から、どうしたものか………常套策であれば、より多数の艦を派遣してから拿捕、逮捕とするのだが…」

 我々には米軍の後ろ盾が無くなった、と畑母神は目だけで鮎美に語り、続ける。

「実は燃料が無い。このことは予想できることだが、今ここで聴いている者も、よそで言えば厳重な処分を覚悟しておいてほしい」

 チラリと畑母神が麻衣子たちを見たので自衛官らしく背筋を伸ばしている。

「抗争がエスカレートすれば、向こうもより多数の艦を出してくるだろう。航空機も。それに対応して、より多数を動かせば、しばらくはもつが、あっという間に無くなる。今も4隻しか派遣していないのは救助活動もあるが油を惜しんでのことでもある。むしろ、救助活動があるので少数しか向けられないという建前で油を惜しんでいることを隠せるような状況だが、津波の被害を分析すれば、日本の製油能力が3分の1になり、近いうちに民需用が枯渇することは推測できるはずだ」

「この4隻で上陸している者たちを逮捕することは不可能なんですか?」

 鮎美の問いに畑母神は、ゆっくりと頷いた。

「不可能ではない。警告射撃の上、体当たりしてくる漁船に発砲、機関を破壊し停船させる。上陸している者へも警告射撃の上、ボートをおろして逮捕に向かう。それで彼らは仲国政府に雇われた半民半官の便衣兵のようなものだから降参するだろう。問題は、その過程もしくは結果において、海監の船まで介入してくる可能性があること。海監の船の方が多数だ。体当たりよりは警告射撃をしてくるだろう。すると、こちらも警告射撃をする。さて、次は狙って当てるように撃つのか。どちらが先に。そして撃沈しないまでも少数の死傷者はでてくる。ここで平時なら終わったかもしれないが、今は在日米軍、在麗米軍がハワイへ救援に出ていて、アメリカ国内の事情もあり、おそらく尖閣諸島などには米軍としてはかまっていられない状況なのも、仲国側も折り込み済みだろう。それゆえ、駆逐艦まで出してきている。事態のエスカレートを望まない我々としては選択肢が限られてくるわけだ」

 鮎美から先制的な発砲まで含めて全権を受けていた畑母神ではあったけれど、自衛隊の戦力が半減した上、米軍まで撤退している状況下では屈辱的ではあっても慎重に指揮せざるをえなかった。

「………無駄かもしれませんが、うちが動画配信で仲国と国際社会に訴えてみます」

「なんと言うおつもりか?」

 問われて鮎美は畑母神の耳元に囁く。

「米軍が日本と麗国から本土へ移動してるのは仲国もそこそこにわかってるでしょ。あっちの立場で考えると、うちが総理大臣で畑母神先生が防衛大臣という体制で、いったいどういう反応を日本がしてくるか、試してるんちゃいます?」

「うむ、そういう要素もあるだろう。それに対して、どうされる?」

 鮎美は男の耳元へ囁くのをやめて、周囲に聞こえてもいい内容なので普通の声で言う。

「こっちが強行に拿捕と逮捕に出るなら、向こうも当然に強行に来るでしょう。今の状況で、それができんのは日本としては自然な反応です。ほな、うちは自然な反応として、この救助で手一杯なときに、こんなことをされては困ります、まだ生存者が漂流していて、今日までに在日仲国人や、日本を観光中やった外国人のうちの仲国人も救助してるし、今日も明日も助けるかもしれんのに、いらんことに船をつかったら、その分だけ仲国人も洋上で救助を待ちきれず脱水や衰弱で死ぬんや、と」

「なるほど、人道に訴えるわけか、尖閣諸島の帰属がどうであれ、今は救助に全力を尽くすべきだ、と言いつつ、漂流しているだろう仲国人の命を人道的に人質とする論法か……これは向こうも態度を変えざるをえまい……。そもそも、国家のリーダーが18歳の少女という危うい状況なのは国際社会も注目しているわけだから。その録画にさいして私も後ろに立とうか?」

「それやと、いかにも畑母神先生に言わされたみたいですやん。途中で嘘泣きするかもしれんし、いっそ一人で頑張って訴える方がええんちゃいます?」

「……嘘泣きかぁ…」

「というか、この場合、嘘泣きやなくて本気入るかもしれませんけど」

「うむ……一応、一国のリーダーなのだから、子供のようにワンワンとは泣かないでほしい。せいぜい、一粒二粒、涙を零すくらいで」

「畑母神先生と鈴木先生が収録を監修してくれはります? それでOKやったら配信ということで」

「ああ、そうしよう」

 畑母神は指揮を一時的に海上幕僚長と新たな航空幕僚長に小松基地司令と兼務で任じた鶴田に頼み、広報室に移動して鈴木を呼ぶと事情を説明し、打ち合わせをして収録が始まる。鮎美はカメラの前に一人で立った。背景には鈴木の提案で、日章旗が弔意を表す半旗で掲げられている。

「昨夜から尖閣諸島に十数人の不法上陸者があり、この逮捕に海上保安庁の巡視船を向けておりますが、仲国籍の漁船が体当たりによって妨害してきます。そばには仲国政府の海監の執法船、90キロ離れて仲国海軍の駆逐艦まで。彼らは放射性物質の測定と言っていますが原発事故とは、まったく関係のない地域です。放射線の状況は福岡と鹿児島の測定値を発表しております通りです」

 鮎美の横には官僚たちが用意したフリップや映像が表示され、島の周りで起こっている出来事がわかりやすく見せられる。漁船が巡視船へ衝突する映像も流した。

「何より、まだまだ海上に漂流し、救助を待つ人たちがいるのに、このようなことへの対応に船をさかねばならないことは、悲痛を通りこして、断腸の思いです。このようなことを仕掛けている人に知って欲しい数字があります! 242人と、621人です! 242人とは、不運にも巨大地震の日、日本を観光旅行やビジネスなどで訪れていた滞在仲国人のうち津波に襲われても不幸中の幸い、溺れること無く漂流されており、そこを日本の船が救助した数です。同じく621人とは仕事や留学で日本に住んでいた在日仲国人のうち、津波で流されながらも幸運にして日本の船が救助した数です。本日もまだ救助は続けています。もう72時間が、とっくに過ぎ、それでも壊れた船や浮く物に必死にしがみついて、雨水を啜って生きている人がいます。大半は日本人ですが、数%は仲国人、麗国人、ベトナム人、そして欧米の人もいます。尖閣諸島の出来事に現在8隻をさいていますが、救助を続けていたなら、まだまだ10人20人と救えたでしょうに! ぅ、くっ…」

 話ながら鮎美は涙を零した。嘘泣きではなく、やっぱり詩織のことを想い出しての本気での嗚咽だった。

「必死にしがみついて救助を待っていたのに、見えていた船が別の目的地へ方向転換する絶望がわかりますか?! 国際的な仕事をするほど優秀やった仲国人ビジネスマンもいれば、親御さんの期待を受けて日本で学ぶ仲国人留学生もいるでしょう?! 日本の工場や漁村で働いて仲国にいる両親に仕送りする人も! そんな人たちも津波に巻き込まれて、流されて、それでも! それでも、まだ生きてるかもしれんのですよ?! 8隻の船があれば、次々生存者を見つけられます! なのに、このまま事態が悪化すれば16隻、20隻と多数を尖閣諸島に派遣しなければならなくなります! それで人が死ぬんです! 現場で発砲がなくても! 息のあった人が、誰にも見つけられず死んでいくんですよ! 大事な家族が! 242人と、621人! まだ増やせるかもしれんのに! 余力があるんなら、この800人を迎えに来てあげてください! そういうことに船を使ってください! …ぐすっ…」

 両目から涙を流していて、やや感情過多になってしまったので、見直してから撮り直しになった。顔を洗ってから気持ちを入れ替え、さきほどよりはトーンと感情を落として演説し配信することになった。外務省の職員が英語と仲国語もつけてくれる。鮎美は二度目の涙は一筋だけだったので鷹姫がくれたティッシュで拭いていると、麻衣子が言ってくる。

「なんか、総理っていうより女優って感じかも」

「ぐすっ、誉められたと思っておくわ。さて、女の武器が通用するか、どうか」

 涙を拭いた鮎美は畑母神に頼む。

「尖閣諸島で頑張ってくれてはる艦長さんたちには、現状を維持、引かず、攻めすぎずで対応してもらえますか?」

「わかった。そうしよう」

 しばらくの方針が決まり、畑母神は司令室へ、鮎美は貴賓室へ移動した。鮎美は貴賓室に入ると麻衣子と里華に言う。

「ちょっと二人は出て。鷹姫に話があるし」

「はーい」

「変なことされそうになったら悲鳴をあげなさい。助けてあげる」

 二人が退室すると、鷹姫は期待した目で問うてくる。

「陛下へ、お返事されるのですね?」

「は? ……いや、その話とは、ちゃうよ」

 男性と結婚することについて、まったく考えていない鮎美は貴賓室でも声をひそめて話す。

「ときどき畑母神先生らが、ここに来てくれてはるときの話なんよ」

「その話ですか……」

 二人は最大関心事に齟齬が生じていたけれど、鮎美の顔がいつにも増して真剣なので鷹姫も上擦っていた気持ちを抑えた。

「聴いて、びっくりしても大きな声は出さんといてな」

「はい」

 鷹姫が頷いたので鮎美は少し間をおいてから言う。

「実は在日米軍が本国へ撤退するって、うちに通告してきたんよ」

「………」

 覚悟して聴いたので鷹姫は声をあげず表情も変えなかった。

「今、ハワイの救援に行くって名目で日本を出て行ったけど、津波で戦力の大半がやられたらしいし、アメリカは原発事故に加えて、白人黒人インディアンで内戦になりそうな気配まであって撤退を決めたらしいわ」

「……逃げ足の速い……」

 鷹姫にはショックを受けた様子は無くて、鼻で笑うような風だった。

「これ今現在、機密中の機密で、うちと畑母神先生と一部の幹部自衛官しか知らんことなんよ。石永先生にさえ、言うてへんの」

「そうですか。それで、ここで会議をされていたのですか?」

「そうよ」

「わかりました」

「………。鷹姫、あんまり驚かんね。うちも、どれくらいのことなんか、軍事関係の知識がないからわからんけど、明らかに東アジア地域のパワーバランスは変わったやろ」

「はい……そうは思います……」

 鷹姫は状況を歴史の中から似た事例で考えようとしているけれど、桶狭間で今川義元が討たれた後に今川家が同盟していたはずの武田家から攻められたのとも違うし、信長が浅井軍に裏切られたのとも違う、そもそも戦国時代は内戦といえば内戦なので、あっさり降伏すれば武士としては名折れではあるし総大将は切腹したりするものの、民衆に危害がおよぶことは少なく単に領主が入れ替わるだけだったりする。対外戦争では元寇も朝鮮出兵も日本単独で戦っていて同盟軍が撤退という事例はない、逆の立場で朝鮮軍側だったならアメリカ軍の撤退は明軍の撤退に相当するかもしれないので、かなり状況は厳しい気がする。他には663年の白村江の戦で百済に援軍を送った日本が史実において撤退したのと同じとすれば、百済は滅び多くの渡来人が日本へ流れて来ている。鷹姫が歴史について考えていることを察して鮎美は言う。

「ともかく、そういうことなんよ。頭に入れておいて。その上で、うちらも現代の軍事的な知識を教えてもらう予定なんよ。とりあえず石原はんが講義してくれるし、義隆はんもまじえて学ぼ」

「はい」

 鮎美は麻衣子に義隆を呼びに行ってもらい、里華には講義を頼んだ。命令を受けていた里華は何から教えるべきか悩みながら考え、資料室から冊子を選んできた。

「では、はじめます」

「「「お願いします」」」

 鮎美と鷹姫、義隆が貴賓室で並んで座り、麻衣子は近くに立つ。里華は冊子を開いて鮎美たちに見せながら語る。

「まずは、この遺体の写真から見てください」

「「「…………」」」

「うっ…」

 麻衣子が呻いた。見せられたのは戦車に轢かれた陸自隊員の写真だった。自分と同じ制服を着ている人間が戦車に轢かれて潰れている写真は背中が寒くなる。鮎美と鷹姫、義隆は学校の授業を聴くように黙っているので里華が続ける。

「この事故は模擬戦中に生じたものです。戦車側の運転手は茂みに隊員が伏せていることに気づかず、隊員の方は亡くなっているので事故原因は推測になりますが、味方戦車なので回避してくれるものと思い込み、伏せたまま回避せず轢かれてしまったものです」

「「「…………」」」

「次、この写真を見てください」

 里華は別の冊子を開いた。護衛艦の甲板で頭部が潰れた隊員が倒れている写真を見せられる。

「この事故は魚雷装填中に生じたものです。クレーンでつり下げていた魚雷がバランスを崩し、この隊員の頭部を直撃し、甲板構造物との間に挟まれ、頭蓋骨は粉々に砕け、脳が飛び散っています」

「「「………」」」

「……ぅ~…」

 また麻衣子が呻く。里華は続ける。次は輸送ヘリの墜落事故で死亡した空自隊員の写真だった。五体が千切れ、人の形に見えない。

「この事故は整備ミスから生じたものです。離陸後、20分で機体の異常を連絡し、帰還を試みるも墜落、住宅地をさけ、山中へ落ちています」

「「「………」」」

「…ハァっ……」

 麻衣子は気分が悪くなり胸を押さえてタメ息をついた。里華が言う。

「現役隊員のあなたがショックを受けて、どうするの?」

「だって、きつい写真ばっかり……戦車の事故は先輩から聞いたことあるやつだったし」

「続けます」

 それからも里華は10枚以上、殉職した写真や生存していても、ひどい負傷をした写真を鮎美たちに見せた。けれど、三人とも顔色を変えないので里華が鮎美へ問う。

「よく平気な顔で見ていられるわね?」

「いえ、平気ではないですけど、どういう関連と教育効果を狙ったものなんですか?」

「………。今見せたのは、すべて戦争が起こっていない平時の訓練などで生じたものです。もしも、戦争となれば、この千倍、万倍の被害が出ます」

「「「………」」」

 里華は今度は義隆と鷹姫に問う。

「あなたと宮本さんも顔色を変えないわね。平気なの?」

「まあ」

「はい」

「………。ちゃんと写真を見ていた?」

 里華が心外そうに言うので義隆が言い訳する。

「オレと宮本は軽い発達障害があるかもしれないから、他人への共感が欠けてる。そういう写真を見せられても、あんまり同情しないんだ。自分がケガしたわけじゃないし」

「……発達障害………」

「込山、私に発達障害の疑いがあることは、あまり他人に言わないでください。石原さん、大浦さん、黙っていてもらえますか?」

「え、ええ…」

「はい」

 里華と麻衣子が頷き、里華は疑問に思ったので鮎美へ問う。

「あなたも発達障害か何か?」

「うちは、ただ同情せんように心を閉ざして見ただけよ。同情したら気分悪くなるか、泣けてくるかするやん。今は講義やし早く知識をえなあかんから、そういう感情は抑えて見てるんよ」

「……その歳で、そんなにうまく感情をコントロールできるものなの?」

「今まで、さんざん同性愛を隠してきて、いろいろあったし。そもそも、うちら人間は、けっこう冷酷なもんよ。毎年5000人が交通事故で亡くなっても平気やし、毎年3万人が自殺しても、みんな美味しく夕ご飯を食べるやん。いちいち毎日、報道されんかっただけで単純計算、一日に13人が交通事故で死んで82人が自殺してるんよ。人って他人の苦痛に、かなり無関心で無神経やよ。石原はんかて同性愛者の苦痛なんて欠片も想像できんやろ?」

「……それは……たしかに……でも、こういう死傷の痛みは共通なはず」

「そやから、心を閉ざして見たし。鷹姫と義隆はんは、ちょい普通とは違うかもね。それも個性やと思うし、こういう人の方が医者や消防士には向いてるかもしれんね。血ぃ見てパニックになるようでは勤まらんやん。その点、大浦はんは共感性たっぷりやね」

「えっと……誉めてくれた?」

「ある意味な」

 鮎美は肩をすくめてから里華に促す。

「石原はん、講義を進めてください。ただ、注文をつけさせてもらえるなら、悲惨な事故を見せることで何が狙いか教えてもらえますか?」

「……、私たち自衛隊が扱う機材や武器は一つ間違えば、取り返しのつかない事故につながります。人の死をリアルに感じてみなさい」

「すんません。そういう情緒的な話も大切ですけれど、今はもっと理論というか、論理というか、概論とか無いですか? 軍事概論みたいな。とくに、うちの立場、総理大臣の立場で知ってる方がええことを教えてください。一人一人の死は重いですけれど、10人の命と1万人の命やったら、どっちを優先するか、迷うまでも無く後者という考え方で」

「……ずいぶんマキャベリックなのね」

「今、津波で何千万という人が亡くなったのに、それをリアルに感じたら心が壊れますやん。あえて数字として考えるようにしてます。それが政治家の立場やと思います。うちらが予算配分で生活保護を手厚くすれば、その分野で自殺などが減るでしょうし、道路安全の工事に予算を配分すれば事故死が減ります。戦争をしていなくても、実は予算で人の生き死に決まってますから。そういう視点から学びたいんです。お願いします」

「オレはF15DJに装備予定のエスコートジャマーの性能確認試験の結果を教えてほしいな。去年から、やってるだろ?」

「そんな機密中の機密、教えられるわけが…」

「あんた戦闘機、ホンマに好きやな。けど、今はそういうことより、もっと全体のことを学ばせてもらわなあかんねん。静江はんは効率良う経済や政治について大学で学んだら4年かかることを半年以内で叩き込んでくれはったし、石原はんにも現代軍事のイロハ、なんとか数日で教えてください。要点から、ざっくりと」

「………。では、防衛学について話します」

 里華は防衛大学校で習ったことを話し始める。

「防衛学とは国家の安全と存続を内外の勢力から守ることを体系化したものです。外部の勢力とは、多くの場合は他の国家、ときに国家ではない集団、組織などになります。内部の勢力とは反乱や暴力的手段によって国家統治の体制を変えようとする者たちのことで、これは自国民のみによってなされる場合もありますが、外部の勢力に扇動、援助を受けて行われる場合もあります」

「「「「………」」」」

「逆に侵略側の視点から見ると、侵略には直接侵略と間接侵略があります。直接侵略とは、いわゆるイメージするような侵略であり、他国に軍隊を派遣し、そこを占領し植民地化もしくは自国の領土とすることです。間接侵略とは相手国の内部に働きかけ、反乱を起こさせたり、道路や鉄道などを爆破して混乱させるなど、正面切った戦闘ではない方法で攻撃することです。宮本さん、今言ったことを理解しているなら、間接侵略の例をあげてみてください」

「はい。………島原の乱でしょうか?」

「……まあ……それも、そうだったかもしれませんが……もう少し現代の例はありませんか?」

「では、三島大臣が起こしたクーデターは?」

「……。ありましたね、そんなことも……あの人が今、大臣なのが微妙ですが、あれは未然に発覚して懲戒免職で済ませましたし、調査によって外国勢力との関わりは否定されています。込山くん、何か無い? 1945年以後で」

「ロッキード事件……は? ダメっすか?」

「ダメではないですし、とても、いい例です。間接侵略というのは、見えにくい特徴があります。たとえ実行された後でも、それが間接侵略であったのか、単なる事件であったのか、わからなくなります。あれが力を持ちすぎた田中総理に対するアメリカの陰謀だったのか、それとも単なる汚職だったのか。今でもわからないことになっているのでアメリカの一部が、そう画策したのであれば、実に成功した間接侵略の例と言えます。逆に間接侵略を防ぐ場合、いわゆる国策逮捕などがあります。たしか、鈴木大臣は自身の逮捕を今でも国策逮捕であったと主張されています………なんだか、火種を抱えた政権ね……話を戻します。このように間接侵略とは見えにくい上、あまり自衛隊が関わることは遺憾ながらありません。いわゆるスパイ活動は強国間では非公式ながら常識的に存在していますが、この分野でも日本は遅れていますし自衛隊は関わりません。道路や鉄道の爆破にしても、まずは警察が動きますし、たとえ犯人を逮捕しても自供が無ければ外国との関わりは証明しにくいですし、そもそも犯人自身が扇動された自覚がなく実行している場合もあります。対してアメリカにはCIA、麗国にもCIAを真似した機関があり、当然、仲国やロシア、北朝鮮にもあります。これらの工作員が起こした有名な事件としては1987年の北朝鮮の工作員金賢姫(キムヒョンヒ)偽名は蜂谷真由美による大麗航空機の爆破事件でオリンピック・ソウル大会への妨害、また麗国版CIAの工作員も自国の大統領と対立した大統領候補だった金大仲が日本に居たところを拉致し海上で暗殺するつもりでしたが、駆けつけたヘリの威嚇により断念しています。このとき駆けつけたヘリは海上保安庁のヘリだったという説もあれば、自衛隊のものだった、いや、米軍のものだ、という諸説があり、はっきりとしていません。また、この事件が生じることを田中角栄は事前に承知していたとも言われますし、事後に渋々承諾したとも言われています。いずれにせよ外交上の秘密という部分が大きいのですが、日本の主権が大きく侵された事件です。……そのブルーリボンを着けている二人に拉致問題のことは説明しなくていいですね。込山くんは知ってる?」

「横畑さんとかのだろ?」

「そうよ。では次に、平穏なスパイ活動というものもあります。これは主に偵察任務のようなもので敵国に限らず、いろいろな国へ要員を派遣し情報収集を行うものです。情報収集といっても映画のように基地や研究所に潜り込むことは、めったとなく平凡なビジネスマンやジャーナリストを装い、現地の新聞を読んだり政治ビラを集めたりして情報をまとめ本国に送ります。日本にスパイ機関は無いと言いましたが、外国からは存在しているだろうと疑われていますし、げんにジェトロなどは第三国からは実質的なスパイ機関とみなされています」

「え…ジェロトが? あれ、単に貿易を振興させるための民間機関が発祥の独立行政法人やで?」

「日本側は、そう説明していますが、それを信じていない外国は多いのです。そしてジェトロの業務の中には、政治調査もあります。現地の選挙結果などは、その日のうちにレポートして送るよう指示していますし、そういう活動は経済にも有効ですが、他国からは違法でない範囲の調査活動とみなされています」

「そういえば……詩織はんも留津はんも盗聴は普通にされるって言うてた……」

「では、いよいよ武力行使の段階と程度について、現在、海上保安庁が尖閣諸島で活動していますが、なぜ、武装では劣る海上保安庁が前に出て、一撃で艦船を撃沈できるミサイルなどを持った護衛艦が後方にさがっているのか、これは警察権で対処できる範囲の紛争に留めおこうと…」

 里華の講義は休憩を入れつつ3時間ほど続いた。夕方になり新屋と三島が夜間外出禁止令の案をもってきたので中断となり、鮎美は3回読み直して10分ほど考慮すると公布施行する決断をし、広報室で収録に入る。

「こんばんは。芹沢鮎美です。あの津波から一週間が過ぎ、ようやく被災地の地面も乾いてきましたが、これから、みなさんの財産を守るため、被災地での夜間外出を禁止します。この総理代理令でいう被災地とは、津波痕に限定せず、現在も停電している地区を含みます。この状況下での夜間外出は危険ですし、不要です。もちろん、正当な業務での活動は認めます。具体的な例と地区を…」

 やや説明を要する総理代理令で、細かいセリフや条文を何度か噛んだので撮り直しが続き、5回目で成功して配信し、鷹姫が淹れてくれたミルクティーを一口飲んだところで広報室に鈴木が入室してきた。鈴木の顔に緊張があったので鮎美が問う。

「鈴木先生、どうされました?」

「仲国の胡錦燈(こきんとう)主席から芹沢総理にネットで顔を合わせて面談したいと申し入れがきました」

「仲国の……最高指導者……。いつ?」

「すぐに、と」

「時間をくれんにゃね。けど、あるかとは思ってたわ」

 鮎美は熱かったけれどミルクティーを飲み干して自分の顔を叩いた。

「すぐに受けます。準備してください」

 広報室なので機材はそろっていて、すぐに準備が終わった。準備までの数分間、目を閉じていた鮎美はモニターとカメラを見つめる。通信がつながった。

「はじめまして。芹沢鮎美です」

 椅子に座っていた鮎美は浅く頭をさげて名乗った。それを通訳が仲国語にしてくれる。そして、モニターに映る胡錦燈が何か言い、通訳されて日本語が返ってくる。

「はじめまして。私は胡錦燈。まず、今回の巨大地震に遭われた日本の人々へ弔意を送ります」

「……。ありがとうございます」

「私たち仲国からも手助けをする用意があります。日本は、これを受け入れますか?」

「ありがとうございます。お気持ちだけで十分に感謝いたします。今回の巨大地震は日本だけではないので、他の国々へ支援の手を伸ばしてあげてください」

 すでにドイツやイスラエルなどからの支援は受け入れているけれど、仲国からの支援は感謝しつつ断るという方針が閣議でも出ていて、逆に日本からも2008年にあった仲国の四川大地震のさい、自衛隊の救援派遣を打診して、感謝の言葉はありつつも断られているので、今回も双方前例に従い、儀礼的な言葉を交わしている。胡錦燈が少し柔和な表情で何か言った。

「芹沢総理代理が震災前に唱えていた連合インフレ税に、私も興味をもっていました」

「そ……そうですか、ありがとうございます」

「今となっては、この混乱の収拾が第一になってしまいますが、資本主義の悪い部分によって貧しい人々から奪われた豊かさが、一部の資産家に集まっている、これを打破し改革しようとされた若き英雄に拍手を送りたい」

「……ど…どうも…ありがとうございます」

 いつ対決路線になるのか、いつ尖閣諸島の話をされるのか、身構えていた鮎美は調子を崩された。

「さらには日本の首相代理までされていて驚きますし、さきほどの厳戒令は意外でした」

「厳戒令? ……あ、夜間外出禁止の話ですか……まあ、あれは必要かと思いましたので出しました」

 配信したばかりの情報まで、すでに知られていて内心で驚いたけれど、さらに驚くことを胡錦燈が言ってくる。

「私も7歳で母を亡くしましたが、あなたは母を亡くされたばかりなのに仕事をしておられる。心からお悔やみ申し上げます」

「え? ……うちの母さんは……」

 何の冗談やの、感じ悪いわ、けど、うちは母さんと連絡、まだ…、と急に鮎美は不安になってきた。玄次郎へは、そっちは大丈夫? とだけメッセージを送り、だいたい大丈夫だ、という返信をもらったけれど、美恋へ送ったメッセージには今日まで返信がない。また、つわりが悪化して連絡する気力がないのか、それとも鮎美が多忙を極めることを察して遠慮してくれているのか、と考えるようにしていたけれど、胡錦燈が断言的に言ってきたので不安は急激に膨らむ。

「……父さん、何も言わんし…………母さんが……嘘やろ…」

「…………」

 胡錦燈は鮎美の動揺を見て余計なことを言ったことに気づいた。芹沢美恋の死は地元の琵琶湖新聞では、おくやみ欄に掲載されたけれど、それを実の娘である鮎美が知らずに働いているとは思わなかった。日本で情報収集にあたっている者も、さすがに総理代理となったばかりの鮎美自身や島暮らしである芹沢家のそばには、いまだ近づけていないので、せいぜい地方新聞や市役所の広報誌、町内だより等を入手して報告してくるにすぎない。胡錦燈は対談前に政治家の常識として鮎美の情報を仕入れたし、それで母親の死を知り、社交辞令と自身の幼児体験による共感から言っただけだった。

「…母さんが…死んでる…」

 鮎美の動揺は激しくなり、ありえないことに外国首脳と対談中なのに制服のポケットからスマートフォンを出すと美恋に電話をかけている。

「おかけになった電話は電波の届かないところにあるか、電源が入っていない…」

 美恋のスマートフォンは琵琶湖の底にあって生活防水仕様だったけれど、もう機能していない。鮎美は玄次郎にもかけた。

「もしもし、父さん! 母さんも生きてるよね?!」

「鮎美…………」

 電話に出た玄次郎が答えてくれないので重ねて問う。

「母さん生きてるよね?! 死んだって嘘やんね?!」

「……伝えるタイミングをみていたが……美恋は琵琶湖の津波にさらわれて亡くなった。明日、火葬される予定だ」

「っ…」

「言うのが遅くなって、すまない」

「………」

 鮎美が涙を流し始めたので、カメラの横で見守っていた鈴木が泣き出した背中を押して被写界の外に出し、胡錦燈に謝る。

「胡主席、お見苦しいところを申し訳ありません」

「こちらこそ、余計なことを言ってしまったようです。彼女は母親の死を知らずに働いていたのですか……」

「ご家族の配慮のようです」

 鈴木も知らなかったけれど、あえてそれは言わない。総理の身辺情報さえ共有していない寄せ集めの内閣であると思わせないため、どちらとも取れる言い方をした。鈴木は目の端で鮎美を見る。もう泣き崩れていて麻衣子が気づかって背中を撫で、遅れて鷹姫も慰めている。すぐに立ち直ることはできそうにないと鈴木は判断して、胡錦燈とは自分が決着をつけることにした。

「胡主席、私たちは事態の悪化を強く憂慮しています」

「……。それは私もです」

 主語を明らかにしない表現だったけれど、胡錦燈もすぐに察している。鈴木はベテラン政治家らしく冷静に続ける。

「ご存じだと思いますが、今、自衛隊全体の指揮を執っているのは畑母神です。海上保安庁の船もまた彼の指揮下にあります。現状、なんとか穏便に終わらないものかと、強く心配しています」

「……」

 胡錦燈も都知事選で尖閣諸島を民間人所有者から買い取り都有とすることを畑母神が公約にしていたことは把握している。くわえて畑母神が戦後の日本としては珍しい自衛隊出身での臨時とはいえ防衛大臣になっていることも念頭にある。

「芹沢総理が彼を押さえている様子もあるのですが、今の様子では、しばらく立ち直るのは難しいでしょう。私から畑母神に話します」

「……どう決着をつけると?」

「休息のために一時撤退した海上保安庁は隙をつかれ、かの自然保護団体を取り逃がしてしまう。今回は逮捕者は出ず、体当たりで傷ついた巡視船の修理代請求先もわからず、やむをえず設置された機器のみ回収して終わる、ことになるかもしれません。前回に比べて、より遺憾な結果ですが、震災対応で手一杯の時期に私たちには、これが限界です」

「…………そういうことも、起こるかもしれません」

 前回は海上保安庁が仲国人船長を逮捕し、それに対抗して在仲日本人の逮捕やレアアースの輸出差し止めなどがあり、鳩山総理が折れる形で仲国人船長は解放されている。今回は領海侵犯の上、上陸して機器を設置し、複数回の体当たりが継続しているのに、逮捕できずに終わるのであれば、外形的には撤退であっても、実質的には積み重ねによる既成事実の構築という勝利を仲国側がえることになる。鈴木がそういう意味を込めて言ったので胡錦燈も遠回しに承知した。これ以上の衝突によって、どちらかに死者が出ると双方が引けなくなるし、このタイミングで仲国が永続的に尖閣諸島を占領し続けるのは、現在の国際社会に対しても外聞が悪い上、未来の歴史においても卑怯さが目立ってしまう。風刺画が描かれるなら、震災の被害に泣く鮎美という子供から仲国が尖閣諸島の形をした菓子を取り上げるような絵になりそうだった。そして、その風刺画は百年先も教科書に載るかもしれない。このあたりが潮時だと胡錦燈も判断した。

「芹沢総理代理へ、ご愁傷様です、とお伝えください。弔電を送らせてもらいます」

「ありがとうございます」

 ネット通信が終わり、鈴木は駆け足で司令室へ入った。胡錦燈との話を畑母神に伝えると、悔しそうに、それでも安心したように頷く。

「うむ……現状では、それが、せいぜいか」

「それから、胡主席には、芹沢総理が畑母神大臣に慎重な対応をお願いしているという風に話しておきました。覚えておいてください」

「なるほど、その方が構図としては、わかりやすい」

 すぐに畑母神は巡視船に尖閣諸島から離れて休息を取るように命令をくだした。護衛艦にも3海里だけ後退させる。鈴木も気になるので見守っていると、仲国漁船にも動きがあり上陸していた者を乗せて撤退の準備に入っている。鈴木も安心し、次に気になる鮎美の様子を見に行った。貴賓室の前には三井と長瀬が立っていて、鈴木がドアをノックすると里華が開けてくれた。

「芹沢総理のご様子は?」

「ご覧の通りです」

 里華は冷静に言ったけれど、彼女自身も目が赤い。里華が指した鮎美はソファの上で泣いていて鷹姫と麻衣子が慰めていた。慰めている方も泣いているので見るに忍びない。しばらく見守った鈴木は里華へ胡錦燈と畑母神の対応結果を告げ、鮎美が落ち着いたら伝えるように頼んで退室した。里華はメモを取りたいような長い内容だったけれど、かなり機密性が高いと判断して何度も頭の中で諳んじて覚えた。気がつけば夕食の時間が終わりかけている。空腹を覚えた里華は麻衣子に言ってから食堂に行き、一人で2往復して4人分の夕食を貴賓室に運び込んだ。

「………いただきます」

 勧めても鮎美は食べなかったので里華から食べ始め、麻衣子と鷹姫も交替で食べたけれど、結局、鮎美は泣き続けて食べなかった。

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