第64話 3月18日 総理代理令、尖閣諸島、レ・ズアン
復和元年3月18日金曜、朝6時に鷹姫と麻衣子は割り当てられている4人部屋で起床した。部屋には二段ベッドが二つあり、二人とも下の段を使って寝ている。
「おはよう、宮本さん」
「おはよう、大浦さん」
お互いに制服へ着替えると、鷹姫は口紅以外のメイクもしてから食堂へ行き、男性自衛官たちに混ざって朝食をとる。一部の行政官僚も小松基地内に宿泊しているので女性は鷹姫たちだけではないけれど、やはり比率としては9対1以下なので目立つし、若さでより目を引く。目立っていることを鷹姫は気にせず素早く食べ終えると、女子トイレで歯を磨いて口紅を塗った。
「よし」
「そんな気合い入れてメイクするあたり好きな男でもできた?」
そう問う麻衣子は日焼け止め程度のメイクしかしていない。
「いえ」
「あっさり否定するんだ」
「きちんとメイクするのが社会人の常識だと言われたのは、あなたですよ?」
「あ~……まあ、言ったけどね。そのルールは守る系の思考、すごいね」
「………。また、私は空気が読めていないのですか……どこが間違っていますか?」
「ううん! 間違ってないよ! 私のメイクが薄いのは、ただの個性だし陸自の雰囲気に合わせてるだけ。宮本さんは秘書官なんだから、しっかりメイクしてるのが正解だよ。ぜんぜん、OK」
「では、芹沢総理に朝食をもっていきます」
「あいさー」
二人は再び食堂に戻ると一人分の朝食をトレーにもらい、貴賓室へ向かう。部屋の前には長瀬と今泉が立っている。
「「おはようございます」」
「「おはようございます」」
挨拶した鷹姫が時刻を見て、ちょうど7時にドアをノックした。
「どーぞ」
今起きたという感じの鮎美の声がする。鷹姫と麻衣子は入室してテーブルへ朝食の準備をした。裸で寝ていた鮎美はバスローブを着てから食べる。半分を鷹姫に食べてもらいながら、鮎美はメイクされた鷹姫の顔に見惚れつつ、複雑な気持ちになった。
「………」
もともと鷹姫の顔はノーメイクであるのが鮎美の中のイメージだったし、しっかりとメイクされた顔は詩織のイメージと重なってしまう。髪も以前は伸びたものを、そのまま縛ってポニーテールにしているだけという、まるで茶筅髷のようなオシャレさの少ない髪型だったものを、カットしてからは麻衣子に言われたのかトリートメントまでしているようで毛先まで瑞々しくて美しい。変わってしまった姿が淋しいような、それとも女子として発達が少し遅れていた部分が成長してくれて、嬉しいと感じるべきなのか、そんな複雑な気持ちだった。見つめられて鷹姫が首を傾げる。
「私の顔に何かついていますか?」
「うん」
「どこに……」
鷹姫が頬に触れると、鮎美は悪戯っぽく微笑する。
「ファンデーションがついてるよ」
「「………」」
「今日は、外での行事もあるし、うちもメイクしとこ」
鮎美も制服を着て日焼け止めとカメラ映りを意識したメイクをする。麻衣子が食器を片付けながら言う。
「あっという間に地震から一週間ですね」
「……。そうやね」
鮎美がメイクを終えた頃、畑母神と幹部自衛官たちがドアをノックしてきた。
「どーぞ」
「「「「失礼します」」」」
畑母神の他、鶴田と陸自、海自の幹部自衛官が入ってきて、鮎美は米軍撤退についての報告だと察して鷹姫と麻衣子に出ていってもらう。
「鷹姫、大浦はん、ちょい外にいてて」
「「はい」」
二人は外に出て長瀬と今泉の隣に並ぶ。麻衣子が誰にともなく言う。
「宮本さんまで出すってことは、よっぽどの話なのかな?」
「「………………」」
長瀬と鷹姫が何も言わず、このままでは発言した麻衣子が無視されているようで可哀想だと感じた今泉が言う。
「さっき大臣の顔、けっこう険しかったから、やっぱ、よっぽどなんだろうなぁ」
今泉も階級は麻衣子の一つ上でしかなく年齢も近いので気さくだった。ゲイだということは麻衣子も覚えているけれど、別にゲイへ嫌悪感はない。むしろ、相槌を打ってくれたので嬉しくて話す。
「秘密の話ってことは原発かな?」
「あれって公開してる情報が真実なのか? 大浦陸士の前で、総理たち話す?」
「う~ん、普通に話してるから隠してる部分があるとは思えないんだけど」
「公表してる情報との差は?」
「多少あるよ、たとえば…」
麻衣子が話すのを鷹姫が途中でやめさせる。
「情報漏洩にあたります。黙っていなさい」
「「はっ!」」
厳しく言われたので思わず二人とも敬礼したけれど、鷹姫が女子高生にすぎないと思うと微妙な気分にもなる。とはいえ、首席秘書官だと考えると、幹部自衛官と同等かもしれない気もする。
「………」
宮本さんって普通の空気は読めないのに、こういう軍隊的な空気は馴染む感じ、と麻衣子が静かに思っていると、屋外から太鼓の音がかすかに聴こえてくる。
「……こんなときにお祭り? ……まあ、石川は被害が無いけど……」
貴賓室のドアが開き、鮎美たちが出てきた。幹部自衛官たちは解散し、鮎美と畑母神はこのまま閣議に向かうので鷹姫たちも付き従う。鮎美は考え込みながら歩く。
「………」
通告した通りに日本から撤退、さらに麗国からも、これで極東地域の軍事バランスは一気に変わってしまう、うちにできることは何やろ、と鮎美は悩んでいるので、引き続く太鼓の音は耳へ入らなかった。閣議を行う大会議室に入ると、すぐ後から金沢市に宿泊している夏子も出勤してきて言う。
「表の騒ぎは何あれ?」
「何かありましたん?」
「鮎美ちゃん総理は見てないの? 基地の前に百人くらい集まって太鼓を叩いたりクラクション鳴らしたりしてるよ」
「何のために、そんなこと……」
まったく知らずにいる鮎美へ、畑母神は鶴田基地司令から報告を受けていたので教える。
「デモ集会のようなものだ」
「デモ……こんなときに……」
「まったくだが、事情はわからなくもない。岐阜県で起きた強姦殺人の容疑者を殴り殺した少年の解放と赦免を求めてのことらしい」
「岐阜で強姦殺人あったんですか?」
忙しくてテレビを見る時間もない鮎美が問うと、畑母神が説明し、夏子も経済対策に忙しくて知らなかったので暗い顔で考え込む。
「こういうときに強姦殺人とかやめてよね。普通のときでも、ろくなものじゃないけど」
「そら、その少年Tが正解やわ。けど、現地の検察官が判断することであって、うちに釈放を求められてもなぁ」
「鮎美ちゃん総理が前から雄琴先生と提唱してた性犯罪者を厳罰に処すを実際に行ったような事件だから、期待もするよ。岐阜の飛騨高山あたりって山村で一致団結するから、あれだけ人が集まるあたり少年Tは、いい子なのかもね。殺された宮本さん姉妹も自宅神社を避難所に提供するような家の子だから人気あったでしょうし」
「………」
鮎美が振り返って鷹姫を見る。
「鷹姫って岐阜県に親戚いる?」
「いえ」
「この事件の宮本さんとは無関係なん?」
「はい」
「そっか、よかった。………よくは、ないけど、よかった…」
先に大会議室に来て資料を見ていた石永が言う。
「とはいえ、午後には陛下が小松基地にお越しくださる。それまでには解散させるか、静穏にさせないといけないな。陛下の動向は公表していないだけに難しい」
「私がさっき見た感じだと、要求が通るまで一週間でも二週間でも居座りそう。少年Tの母親っぽい人も来て叫んでたし」
「……感情的には、うちが検察官に連絡して、忖度するよう言うてあげたいけど、それすると尖閣諸島仲国漁船衝突事件といっしょで法秩序が……明らかな行政権から司法権への圧力やし……しかも、一回、そうやって要求を飲むと、次に似たようなことがあったら、また別の団体とかが基地前に押し寄せてくるし………例外を認めると、きりないし……」
「鮎美ちゃん総理って自眠党で、よく教育されたのね。感情のままに動く女子高生ってイメージを外の人たちは期待してるのに、きちんと分析して考える。けど、その教育係は最近、遅刻ギリギリね。二日酔いって顔だし」
夏子は定刻ギリギリに入室してきた静江を見る。昨夜も富山市で市議や県議たちと呑んでいた静江はメイクも少し荒い。閣議が始まると、午後から行う震災から一週間を迎える行事として小松基地において鮎美と義仁が国民へ語りかける内容の話と、それに先だって基地前に集まっている人々を、どうするかということになった。国家公安委員会委員長の臨時代理人である新屋が言う。
「法的には無許可のデモ、道路占拠ということで退去させる根拠はあります」
「………」
鮎美は黙って聴いている。石永が悩む。
「説得で解散してくれればいいが、強制的に解散させるのはイメージが良くないな。警視庁なら、この手の対応に慣れているだろうが、石川県警は、どうだろう?」
「それなりの訓練はしているはずですが、そもそも被災地に多数を派遣しているので人数の確保も難しい状況です。現状、わずか6人の警察官で百名を超える集団に対応しています。集まっている方々は今のところ良識ある行動をとっており、拡声器で叫ぶ、車のクラクションを鳴らす、軽トラに載せてもってきた神社の太鼓を叩く、という程度ですから、制止せずやらせています。基地の敷地へは入らないよう警告しており、それも守ってくれているようですが、芹沢総理に会えるまでは帰らないと主張し、いずれ興奮すれば触法行為の可能性もないともいえません。興奮してしまった場合、双方に死傷者なく解散させるとなると、最低でも50人の人員は必要です」
新屋が答え、石永が畑母神へ問う。
「陸自の人員に対応していただくのは?」
「警察の指揮下で動けなくもないが、丸腰というわけにもいかず、かといって小銃などを装備させてあたらせるわけにもいかない。なにより、そういった訓練をしていないし、軍服で民衆を押さえるという構図はマズイだろう」
「ですね。……とはいえ、もう時間がない。どうしたものか」
「…………」
鮎美も黙って考え込む。鈴木が申し出る。
「私が彼らを説得してみましょうか?」
「鈴木先生なら、いいかも…」
石永がのりかけたけれど、鮎美が反対する。
「いえ、それでは結局、うちが対応するのといっしょで、無許可デモによって大臣との面会を引き出したことになりますし、要求が飲まれないなら、うちが出てくるまで続けるとも言うでしょう」
「「…………」」
「いっそ、うちが会いますわ。代表者数名と」
「う~ん………会うのも微妙だが、会って、どうする?」
「それは夕方までに考えます。彼らに伝えてください。これから慰霊行事を行うので静穏にしてほしいのと、夕方には代表者5名までと、うちが面談すると。山村地域から、それだけの人数が来てはるなら、町議なんかも来てはるでしょう。多少、法秩序の話がわかる人も向こう側にいてくれはると助かりますし」
「芹沢先生の期待を裏切って悪いが、山村地域の町議は法秩序なんて少しも勉強していなかったりする。そのへんの山村にいる爺さんをクジ引きで選んだのと変わらないと思ってくれ」
「うちもクジ引きですけど、なんとか話せますやん。立場のある人は立場なりに振る舞いはりますよ。うちかて、クジに当たらずただの女子高生のままやったら今頃は自分が進学する先が四月からちゃんと授業できるのかとか、可愛い女子に出会えたらええなとか、そういう市民的なこと考えてたやろし。人は立場立場で、それなりの反応しますやん」
「う~ん……そうだな、それで夕方までは静かにしてくれるかもな」
「冷却時間がある方が、話も進みやすいですやん。うちらは午後の準備せんならんし、そっちに専念しつつ、表の人らには芹沢鮎美にも騒ぎの音は聴こえてるから、会うか、会わんか、迷ってる、と伝えれば、さらに大きな声で騒ぐでしょう。それで、あと二時間たっぷり騒いで疲れてもらってから、夕方には会うので静かにしてほしいといえば、ぐったりするでしょう」
「策士だな……だが、そうしよう。けど、会うか、会わないか、迷っていると伝えるのは、どう伝える?」
「それは、うちの身近にいる大浦陸士に頼んでみますわ。先生方は、もう午後のことを進めてください。うちも10分で戻ります」
そう言った鮎美は大会議室を出る。廊下には長瀬と今泉、麻衣子が待機していた。
「ちょっとトイレに」
鮎美が女子トイレに向かうと、ついてきた長瀬と今泉はトイレ前で立ち、麻衣子だけがトイレ内まで入る。さらに鮎美は個室内へと麻衣子を誘う。
「ちょっと入ってきて」
「え~……私に変なことする気なの? セクハラで訴えるよ」
「ちゃうて。表の人らのことよ。大浦はん、岐阜県の避難所での強姦殺人の話、知ってる?」
「まあ、それなりに」
やや警戒しつつ麻衣子は個室に入った。事件の概要は麻衣子も知っていたので話が早い。
「うち、今、迷ってんのよ、あれだけ頑張って騒いではるし会うべきか、それとも強引なデモやし無視するべきか。大浦はん、ちょっと私服に着替えて、いかにも非番って感じに出ていって、あの人らが、どんな人らか会話してきてくれへん?」
「なるほど、偵察任務ってわけ。はっ、了解です!」
ずっと鷹姫の従卒役をしていることに飽きてきていた麻衣子は楽しそうに着替えると、私服で通用門から出た。門の周りには軽トラなどが路上駐車され、高校生から老人まで百人超えの男女が声を張り上げている。少年Tの釈放を求めて大騒ぎしているけれど、殺気立っているわけではないので、麻衣子が私服で通り過ぎようとすると、通してくれた。一度、麻衣子は通用門を離れ、最寄りのコンビニまで歩くと餡まんとコーヒーを買い、餡まんを食べながら通用門に戻る。ただの個人的な買い物という雰囲気を装いつつ、集まっている群衆の一人に声をかけた。
「こんにちは」
「あなた、自衛隊の人?」
話しかけた中年の女性が問うてくる。
「はい、一番下の階級ですけど」
「この基地の中に、今、芹沢総理はいるの?」
「はい、いますよ。私、身近でお世話をする係ですし」
諜報関係の任務をしているわけではないので麻衣子の守秘義務に対する意識は、それほど高くない。あっさりと言ったけれど、同世代で同性の鮎美の世話を麻衣子がしていることは、ありそうなことなので話しかけた中年女性以外の周りで聴いていた者も信じた。
「お願い! 芹沢総理に私たちのことを伝えて!」
「なんとか総理に会わせてくれ!」
そして麻衣子が鮎美のそばにいると知ると、取り囲んで口々に嘆願してくる。こういったことに、まったく慣れていない麻衣子は正直に話す。
「えっと、芹沢総理も、みなさんが一生懸命に言っておられるので、会うべきか迷っているそうです。そのうち、会ってくれるかもしれませんよ」
「おっしゃ! 聴こえてるんだ!」
「もっと太鼓叩け! 奥まで響かすぞ!」
「……。…じゃ、私は、これで…」
余計なことを言ってしまったかな、と思いつつ麻衣子は立ち去ろうとしたけれど、取り囲んでいた群衆は逃がしてくれない。少年Tの母親や殺された姉妹と直接に友達だった子たちが麻衣子へ涙ながらに事情を伝えてくるので、さきほどまで他人事にすぎなかった強姦殺人事件と、その復讐殺人について麻衣子も当事者に近い立場で聞き知ることになり、同情して涙を流した。
「わかりましたっ! ぐすっ、必ず、みなさんの想いを伝えてきます!」
涙を拭きながら基地に入り、制服に着替えて大会議室前に戻る。基地外からの太鼓や声は、ますます盛んになっていた。
「……」
麻衣子はいつも通り大会議室前で鮎美が出てくるまで待つつもりだったけれど、外からの懇願が聴こえてくると、いてもたってもいられず、今泉に問う。
「私が中に入って総理に話しかけちゃダメかな?」
「……普通にダメだろ。ただの大会議室だけど、一応、閣議だし。上官たちの会議でもオレらが入って発言したら、めちゃ処分されるだろ」
「でも……」
「お昼になれば、チャンスあるだろ。貴賓室で飯にするか、忙しかったとしても大浦陸士が飯もっていくから。ってか、そんなに急いで伝えたいことって?」
「さっきね…」
麻衣子は基地前にいる人々のことを今泉にも話した。
「なるほどなぁ……強姦殺人と、その復讐か……」
「ゲイの人って強姦を、どう思うの?」
「ゲイだから、どうこうってこと関係ないさ。強姦は悪いことだ。大半の男が強姦しないように、大半のゲイも強姦しない。ごく一部、ちょっと狂ったヤツはいるけど、そういうのは異性愛者にもいて、げんに今、事件になってるだろ」
「そっか………」
基地外からの切実な声はやまない。喉をからしてお願いしている。けれど、廊下にいる麻衣子たちには聞こえても、大会議室内までは響いていない。それが悔しい。爆音で離着陸する戦闘機が所属する基地なので会議室などの防音設備は高い。おそらく、まったく鮎美の耳には届いていないと思うと、彼らに同情している麻衣子は決意した。
「私っ、いってくる!」
「おいっ?!」
今泉が止める前に麻衣子は会議室のドアを開け放った。
「芹沢総理!! 外にいる人たちに会ってください!!」
「「「「「………」」」」」
居並ぶ閣僚たちの視線が集まり、麻衣子は一瞬怯んだけれど、それでも言う。
「あの人たちの話を聴いてあげてください!! 総理!!」
「……大浦はん、思いっきり感情的に同調して…」
鮎美が席を立って麻衣子へ向かう前に、畑母神が叱る。
「バカもん!! 立場を弁えよ!」
防衛大臣として当然の叱責だったし、麻衣子を取り押さえる警備要員さえいないことに気づいた。鮎美は麻衣子と畑母神を交互に見てから言う。
「大浦はん、あんたの報告はお昼に受けるから、静かに待っておいて」
「……はい」
「畑母神先生、すんません。うちが頼んだことで、ちょい暴走しはったみたいで、許してあげてください」
「総理が、そう言われるのであれば……、話を続けましょうか、今の件でも明らかなように会場を警備する要員も不足しがちです。最大限に被災地へ要員を派遣しているため、この閣議を行う部屋でさえ、今のような有様ですから、やはり陛下がお越しになることを考えると、マスコミは抜きということにいたしましょう」
畑母神の意見に久野が問う。
「せめてNHKのカメラくらい入れませんか?」
「その気になればカメラに爆発物を仕込むこともできます」
「NHKの職員は、そんなことしないでしょう」
「総理の主治医は両親を人質に取られて暗殺未遂に至っていますよ」
「それは……たしかに……」
「陛下の安全を最大限に、ということと、総理が何度も狙われていることを考えると、ここは取れる対策はすべて取っておくべき場面です。カメラは我々で用意したカメラで十分でしょう。映像をライブ配信すれば、済むことです」
震災後一週間の節目に行う国民への語りかけにマスコミは入れないことに決まり、その他の事項も決めると昼過ぎになり、やや遅くなったものの会議しながらではなく休憩として食事がとれるので鮎美は貴賓室で鷹姫と食べる。その間、麻衣子は門前の人々の訴えを熱く報告した。
「うん、わかったよ。大浦はんが、そこまで言うなら、会うことにするわ」
うちが策として単に群衆を疲れさせるために使ったって知ったら、めちゃ怒るやろな、と思いつつ鮎美は麻衣子の手柄として群衆へ通告できるような言い方で答えた。麻衣子が感激して頭をさげる。
「ありがとうございます!!」
「タメ口で、ええって」
「ありがとう!!」
「けど、会うのは夕方な。今から震災一週間の行事があるし、それが終わった夕方。で、それまでは慰霊行事でもあることやし、一度、解散して静かにしててほしいのと、代表者5人を決めてもらって。さすがに全員とは会えへんし。あと、代表者の中には町議とか、多少の法知識のある人も入れてもらって。感情だけで話しても前に進まんこともあるし」
「はい! ……え? 私が、みんなに知らせるの?」
「その方がよさそうやし、他の隊員さんら忙しいし、頼むわ」
「はっ! 行ってきます!」
敬礼して駆け足になる。
「そんな慌てんでも…」
鮎美の言葉を最後まで聴かず、麻衣子は通用門まで走った。
「ハァハァ! みんな聴いて!!」
私服から陸自制服に変わっていても群衆は麻衣子の顔を覚えていた。太鼓が止まり、叫ぶのもやめて、シーンと静かになる。
「今すぐは無理だけど、夕方、芹沢総理が、みんなに会うって!! ハァハァ」
「「「「「おおおっ!!!」」」」」
「「「「「うわああ!!!」」」」」
男女の歓声に通用門前が沸く。
「ハァハァ、けど、今から震災犠牲者の慰霊行事をするから夕方まで一度解散して静かにしてほしいって!」
「「「「「……………」」」」」
岐阜県の震災被害は無きに等しかったけれど、名古屋や大阪、東京に親類がいた者もいるので、いよいよ一週間となり慰霊という言葉は重く痛かった。
「あと、さすがに全員とは会えないから5人の代表者を決めて。できれば、チョウギとか、法律のことも少しは知ってる人も入れてほしいそうです」
「ありがとうございます!! あなたのお名前は?」
少年Tの母親が問うてくる。麻衣子は反射的に敬礼して答える。
「大浦麻衣子2等陸士です!」
「大浦さん、ありがとう!!」
「「「ありがとう!!」」」
大勢から握手を求められ、麻衣子は困惑したけれど、嬉しかった。群衆たちも何か大きなことを達成した気になり、これによって殺された姉妹が生き返るわけではないけれど、泣き笑いで解散してくれた。麻衣子は貴賓室に戻り、鮎美へ結果報告し、鮎美と鷹姫の昼食トレーを片付けると、自分も食堂で急いで昼食をとり、再び鷹姫のそばに戻ろうとしたけれど、貴賓室前で里華に出会った。
「あ、石原空尉」
麻衣子は敬礼し、里華も敬礼して言ってくる。
「連絡します」
「はっ」
「ただ今より大浦麻衣子2等陸士は任務を解かれ、自室にて謹慎! 芹沢総理代理および宮本秘書官のお世話は私、石原里華3等空尉が引き継ぎます」
「え? なんで?」
「復唱はっ?!」
「はい! ただ今より大浦麻衣子は任を解かれ自室にて謹慎、総理と秘書官のお世話は石原空尉が引き継がれます!」
「よろしい。………あなた、何したの? それともされそうになって拒否したの? 畑母神防衛大臣からの直々のお達しらしいけど」
里華は鮎美からのセクハラを疑っていたけれど、麻衣子は心当たりを思い出した。
「えっと………閣議の最中に……勝手に入って総理へ発言を……」
「………。謹慎で済むといいわね。あれでも総理は総理なんだから、お友達じゃないのよ」
「はい……」
トボトボと麻衣子は鷹姫と相部屋の自室に戻った。
「……はぁぁ……謹慎かぁ………そりゃそうかな……クビにならないかな……今は人手が足りないし、クビにはしないかな」
ベッドに倒れ込んで一人言を漏らす。
「……石原空尉、嫌そうに言ってたなぁ……せっかく本来の空自任務へ戻ったのに、って顔してた……私も石原空尉も隊で余ってる人員とみなされてるのかなぁ……まあ、同性をお世話にあてるとなると、限られてくるし……そのうちゲイだけをあてるかもしれないけど、さすがにノーマルな宮本さんにまでゲイはあてないだろうし………寝よ」
いっそ昼寝してやろうと目を閉じたのに、すぐに呼び出されて小松基地外縁の歩哨に立つよう命じられた。
「しかもフル装備でか……」
小銃や背嚢を装備して、基地フェンスと道路の間に立つ。麻衣子の他にも50メートルおきに歩哨が立っている。無線で連絡が入り5分前後で義仁を乗せた皇宮車両が通るので警戒を最大限とするよう通達された。今は群衆も解散しているし、目につくのは田んぼしかない。
「陛下が来るんだ……そりゃデモ隊は解散してもらわないとね……ってか、直前まで私たちにも知らせないんだ……」
連絡のあった通り5分後に義仁と由伊を乗せた皇宮車両が目前を通る。一瞬だったので二人の顔は見えなかった。しばらくして滑走路の方で慰霊行事が始まっている気配がしたけれど、麻衣子の任務は警戒なので振り返らず、田んぼを眺め続ける。田んぼを眺めること2時間で解放され基地内に戻ったけれど、直接の上官から再び集まってきている群衆の相手をするよう命じられた。
「人使いが荒いなぁ……」
鮎美から離れてしまったので、この命令が鮎美の考えによるものなのか、中間あたりで決められたことなのかもわからない。
「総理のそばにいたから私、勘違いしてたよ。ただの一兵卒じゃん。当たり前だけど」
つぶやきながら小銃などの装備を片付け、丸腰で通用門に向かう。
「その一兵卒が閣議で発言したら、そりゃ怒られるよねぇ」
自嘲しつつ通用門を出ると、群衆に囲まれたけれど、感謝の笑顔に包囲されたので後悔は消えた。鮎美は約束した通り17時になって通用門そばに歩いてきた。群衆は沸き立ち歓声があがるけれど、警備は厳重だった。いつもは交替で警護にあたる知念と長瀬がそろっているし、いつも以上にぴったりと鮎美のそばを歩いている。高木と三井、今泉も小銃を装備して護衛している他、ゲイではない陸自の隊員が12名、石川県警の警察官6名が鮎美を取り囲むというものものしさだった。鷹姫と里華は警備の都合なのか、少し離れたところにいる。
「なんだか急に遠い存在になったような……」
麻衣子は近づきがたい雰囲気を感じたけれど、それは群衆も同じだった。
「オレら警戒されてるのか……」
「しょーがいないかもな、鮎ちゃん総理、何度も襲われてるし」
「だな、あの子が殺されたら日本の代表がややこしくなるもんな」
遠く感じたけれど群衆たちも今の状況は理解していて文句は出ない。警備要員たちは鋭い目で周囲を警戒しているけれど、鮎美は笑顔で麻衣子に手を振ってきた。
「大浦はん!」
呼ばれた感じだったので麻衣子が近づく。さすがに陸自の制服を着ている麻衣子は鮎美にノーチェックで歩み寄れたけれど、群衆たちが決めていた代表者5名は少年Tの母親まで含めて警察官による身体検査が実施された。その検査が終わって、ようやく鮎美と握手ができる距離になる。
「はじめまして。芹沢鮎美です」
「ああ、ありがとうございます。本当に会ってくださるなんて」
母親が握手しながら深く頭をさげた。
「大浦はんが、みなさんの苦しむ気持ちと熱意を伝えてくれはりましたから」
「私は……ちょっと言っただけですよ…」
恥ずかしくて麻衣子は謙遜したけれど、鮎美が言ってくる。
「閣議に割り込んで謹慎くらうのは、ちょっとちゃいますよ」
「あ、あれは……ちょっと勢いで…」
「大浦さん! ありがとうございます、ありがとうございます!」
また母親に涙で感謝され麻衣子は困惑気味に笑顔をつくった。鮎美は通用門外にいる群衆たちに一礼してから、代表者5名を基地内の広報室に案内した。そこで事件の概要を聴取するけれど、だいたいわかっている。自宅神社を避難所として提供し、名古屋からの被災者を受け入れていたのに、その被災者の一人に裏切られ、強姦されて撲殺された姉妹、その復讐に姉妹の姉と幼馴染みだった少年Tが強姦殺人犯を撲殺し、殺人容疑で警察に捕まっている。それを解放し無罪放免としてほしいという嘆願だった。
「お話はわかりました。うちとしても、できる限りのことをしてあげたいと思います。けれど、直接に現地の検察官に総理として何か圧力をかけることは法秩序の関係から難しいのです」
「……。それでも、どうか、お願いします!」
「「「「お願いします!」」」」
代表者5名には鮎美の期待に反して町議などの政治経験者はおらず、少年Tと姉妹の姉とも幼馴染みであった少女と、姉妹の妹の友達、70歳近い町内会長、同じく70歳近い神社の氏子代表という構成で、母親以外は子供と老人だった。鮎美は、その5人の感情をなだめるのに苦労しつつも簡単に司法権と行政権の話をし、それから自分の提案をする。
「実は、この悲惨な事件が起きる直前、うちは雄琴先生の法案を無理にでも通そうとしていました。自分の快楽のためだけに強姦して人を殺す、そんな人間には息子さんが実行しはったように、同じ苦しみを与えて殺すのが、人としての道理やないかと、うちも思いますから。雄琴先生の案を知ってくれてはりますか?」
「はいっ、知っています! 息子も言っていましたから!」
「うちも息子さんと同じ思いです。今は議会もなく法案を通すことはできませんが、こんな悲惨な事件は二度とあってほしくない。なのに、この混乱期に、また同じことをするヤツは、きっとでてくる。そんなことをさせないために、少しでも抑止できるように、そして息子さんの思い、雄琴先生の遺志を、うちは総理代理令という形で世間に出したいと思います。今すぐ」
「「「「「今すぐ…」」」」」
「三日前の15日、うちは今すぐ発表しようと閣僚たちに提案しましたが、拙速であるとの意見もあり、つい慎重論に傾きました。けれど、それを今は強く後悔しています。もし、あのとき、うちが発表していたら、姉妹は強姦されなかったかもしれない。殺されなかったかもしれない。たとえ、最初の事件が起きたとしても、雄琴先生の案が行われる可能性があれば、息子さんは自分の手で実行しようと思わなかったかもしれない」
「「「「「………」」」」」
「もう二度と後悔はごめんです。今すぐ全国に発表しましょう。お母さんも同席してください。みなさんも」
「……はいっ!」
「「「「はい!」」」」
母親たちの同意をとり、もともと準備させていた鮎美はカメラの前に5人と立った。生放送だと失敗するかもしれないので録画にして、すでに全国が知っている岐阜県での強姦殺人事件と復讐殺人について、はじめて聴く人にもわかるように語り、それから母親と少女の幼馴染みに発言してもらい、再び鮎美が語る。
「すでに何度か紹介しておりますが、ただ快楽のために二人以上を殺し、冤罪の余地がない犯罪者については、被害者を殺したのと同じ方法で殺すなど、現在の絞首刑による死刑よりも、過酷な方法とすることを、ここに法律と同等の拘束力をもつ、臨時の総理代理令として公布施行いたします。今、この瞬間から、施行されました。これよりのち、二人以上を快楽のために殺した者には過酷な刑罰をかします」
そう言った鮎美は長い放送になるけれど、直樹の法案をすべて読み上げた。
「…以上です。また、今後は自衛隊基地の周辺2キロ圏内にてデモ、集会等の行為による請願を禁止します。違反者には罰金30万円以下をかします。臨時政府へのご要望、請願などはメール、手紙など、負担のかからない方法にしてください。最後に、総理代理として、個々の検察官に影響を与えることは、尖閣諸島仲国漁船衝突事件を振り返るまでもなく厳に慎まねばならないことですし、そのつもりです。ただ、早まったことではありましたが、正義の鉄槌をくだした少年Tくんに明るい未来があってほしいと願います」
鮎美が頭をさげたので左右にいた5人も頭をさげた。収録は一回で見事に決まった。すぐに配信する。鮎美は母親たちと握手をしながら謝る。
「すいません。あなたたちを利用したような形になって…」
「いいえ! ありがとうございます! これ以上ないほど感謝しています!」
「そう言っていただけると、うちも嬉しいです」
鮎美は麻衣子に後のフォローを頼み、かなり急いで貴賓室に向かった。この国で一番待たせてはいけない人を待たせている。ノックして貴賓室に入ると、義仁と由伊がソファに座って待っていた。
「遅くなって、すみません!」
「申し訳ありません!」
鮎美と鷹姫が頭をさげる。義仁と由伊は微笑した。なぜ、待たされたのか二人とも事情は聴いている。
「かの少年のお母さんは、どんな様子でしたか?」
「もっと取り乱しておられるかと思いましたが、冷静に話し合ってくださいました」
「それはよかった。会うべきか、迷った上で、お会いされた芹沢さんは優しいですね」
「いえ……そう誉められると恥ずかしくなります…」
鮎美は事件を利用した自覚はあったので赤面して目を伏せた。しかも、閣議で諮ったことではなく独断での公布施行であり、今頃は久野や鈴木が渋い顔をしているだろうし、明朝は土曜日で閣議は予定されていない。そういうタイミングで行ったことだし、言い訳も用意してあって少年Tの母親たちの想いに突き動かされたと言い逃れる気だった。そして、その母親たちにしても午前中に基地前で騒がせておいたので会ったときには疲労していて、法知識のある人物はいなかったけれど面談と説得は短くて済み、現地検察官への圧力は最小限の表現で満足してもらえている。そういう裏事情があるのに、義仁に誉められると本当に恥ずかしい。
「遅くなりましたが、お食事の準備をいたします」
北房が言った。もともと義仁からの提案で鮎美と鷹姫、義仁、由伊の四人で会食する予定で、少し遅れてしまったけれど、北房たち宮内庁職員と里華が給仕をして準備してくれる。小さめのテーブルに義仁と鮎美が対面して座り、対角線上に対面して由伊と鷹姫が座る。メニューは他の隊員たちが食べているのと同じ物だったけれど、トレーではなく食器は上等のものが用意されている。食べ始めると、由伊が鷹姫へ言う。
「宮本さん、そんなに緊張しないでください」
「は…はい…」
鷹姫はかなり緊張しているけれど、鮎美は義仁たちに会うのに、もう慣れて落ち着いている。鷹姫も初回のように卒倒しそうになることはないものの、食事が喉を通りにくい。鮎美は穏やかに話す。
「陛下と由伊様は明日には京都ですね」
義仁と由伊は、石永と三島の発案で那須御用邸から京都御所に移ることになっており、かなり長距離移動の上、新幹線が動いていないので日本海側の高速道路を使い移動しているけれど、一泊しないと無理があり、ちょうど一週間という節目の日だったので小松基地で鮎美といっしょに慰霊と生き残った国民への言葉を述べていた。
「私と由伊が京都で暮らし始めることで人々を勇気づけられるという意見もあって、その通りになれば嬉しいけれど、どうなるか……」
「石永先生が言っておられましたが、京都御所は、まったく無事で、津波は手前で止まったそうです」
「そのようだね。先人の知恵なのだろうか……」
「大阪や東京は埋め立て地を開発しすぎたのかもしれません。ある程度の標高がないと、地球上での地震の8割が太平洋で起こると考えれば、海沿いは危険でした……」
「そうだね。災害は起こってから教訓を学ぶ。これを忘れたくないものだ」
「はい」
「食事しながらの話題としては不粋だけれど、原子力発電所の方は、どうかな?」
「まだ未定のことが多いのですが、先人の知恵に学ぶという意味では、ロシアが先輩になりますし、鈴木先生がチェリノブイリ事故後の対応、原子炉の封印方法について問い合わせてくれています。それに習うことになるかと存じます」
様々に日本の状況を義仁へ報告しているうちに、鮎美は米軍撤退のことを言うべきかと迷ったけれど、結局は黙っておくことにした。それは義仁が他者に話すという危険を考えたわけではなく、まだ15歳という義仁の年齢を考えた結果だった。つい鮎美が考えるべきことが多くて、会話への集中力を切らしてしまうと、義仁は同じ問いを二度してくれていた。
「芹沢さん、落ち着いたら今度は京都で、このように会食できますか?」
「あ、はい。ぜひ。……とはいっても、落ち着くのは、いつのことになるか……今後10年は落ち着かないかもしれません」
「それは……淋しいな」
「私が総理でいられるのも、わずかのうちかもしれませんし……」
「………。瀬をはやみ、岩にせかるる、滝川の…」
「?」
「「っ………」」
急に言われて鮎美はわからずにいるけれど、聴いていた鷹姫と由伊はハッとして義仁と鮎美の顔を交互に見るので、鮎美は記憶をたぐった。
「われても末に……、あわむとぞ思ふ? ですか?」
百人一首の一つだった。
「ええ、これを詠んだ崇徳院も幼くして即位されたよ」
「……」
えっと、だから、どういう意味なんやろ、わかってて当然な場面なんかな、と鮎美が相槌に困っていると、鷹姫が言う。
「ぉ、おそれながら陛下、不吉にございます。若くして即位された例は過去に多く、昭和天皇も20代半ば、明治以前には10代での即位も珍しくありません。なにも、崇徳院を例になさらなくても」
「宮本さんの言う通りです。お兄様、今おっしゃらなくても」
二人とも崇徳天皇が保元の乱で讃岐へ流され40代で果てたことを念頭に言っているけれど、義仁は穏やかに反論する。
「そうかな。歴史の流れの中で埋没することは常だけれど、一首の歌を残したことで崇徳院は千年を生きておられる。あながち、さらに千年後、人々が記憶しているのは、やっぱり百人一首に名を連ねる方々で、私などは誰も覚えていないかもしれないよ」
「「「………」」」
「芹沢さんの名は大きく残るだろうね。かつて無いほどの大災害を恐竜が滅びた隕石の話で相対化してみせた度量は惚れ惚れしましたよ。もしかしたら一億年ののちも、百人一首や芹沢さんのことは残るかもしれない」
「……そう言っていただいても……」
鮎美が困っているので由伊が話題を変え、会食が終わって鮎美と鷹姫、里華は貴賓室を出る。ドアを閉めた途端に鷹姫は腰が抜けたように座り込み、鮎美がタメ息をつく。
「はぁぁ…、そこまで緊張せんでええよ」
「……芹沢総理、今の状況がわかっているのですか?」
座り込んだまま小声で鷹姫が問うた。立てない様子なので鮎美が肩をかして立たせる。
「状況って?」
「さきほどの歌の意味です。そのままの」
「意味なんか知らんよ。小学校6年で丸暗記しただけやし」
「……………と……とにかく、ここを離れます」
鮎美と鷹姫、里華が廊下を進む。貴賓室前で待機していた知念と三井がついてきて、義仁と由伊の警護は皇宮警察が担当している。鷹姫は麻衣子と相部屋になっている4人部屋に鮎美と里華を連れて入り、知念は長瀬と交代し、三井はそのまま部屋前で長瀬と待機する。ベッドに寝転がっていた麻衣子が驚いて起きた。
「うわっ、総理?! ここに何しに?!」
「今夜は、うちも、ここで寝るんよ」
「石原里華3等空尉です。今晩のみ、こちらにてお世話になります」
里華が敬礼して業務的に言い、部屋の先住者である麻衣子も敬礼を返して答える。
「はっ、よろしくお願いします。どうぞ、おくつろぎください。……。で、石原空尉はともかく、総理まで、ここに? どうして? もしかして罷免されたんですか?」
「あははは、罷免な、ありそうやけど、うちを罷免したら次を誰にすんねん、そもそも誰がうちを罷免できるねん、って話やね。ちゃうよ、陛下に貴賓室を譲ったから、うちが寝るとこ無いねん。序列から言うと、畑母神先生が使ってる個室とか空けてもらってズレるらしいけど、それをすると全体にズレるし一晩くらい、うちが4人部屋で寝たら済む話やし、そうしよ、いうたんよ。石原はんの部屋も宮内庁の職員さんらに譲ったし、今夜は小松基地、満杯らしいわ」
もともと空自の基地であった小松に震災後、三島が防備のために陸自を呼び寄せ、さらに鮎美や石永たちが官僚も呼び寄せ、一部の官僚や静江などはホテル暮らししているけれど、今夜は義仁についている宮内庁職員と皇宮警察まで滞在するので、さすがに部屋が足りなくなり、総理代理の鮎美も4人部屋となったし、陸自の一部はテントを張って野営になっていた。麻衣子が納得する。
「なるほど、それで」
「なんか合宿みたいやね」
「でしょ。なんか嬉しいよ、遠い存在だと思った総理が、いっしょに寝てくれるなんて」
「ほな、同じベッドで寝よか」
「それは遠慮しときます。総理と隊員の距離感は大切なんで♪ シビリアンコントロール的に、あはは」
「あははは! ナイス返しやね、あははは」
なごやかな二人へ鷹姫が言う。
「芹沢総理! そんなことより陛下からのお言葉をどうされるのですか?」
「どうって?」
「明らかにご好意を向けてくださいました。どう、お返事されるのですか?」
「……好意?」
「どうして、わからないのです?!」
鷹姫が興奮気味に言ってくる。
「男女のことに鈍い私でもわかります! はっきりと好きだと、また会いたいとおっしゃったではないですかっ?!」
「そうなん?」
「ええーっ?! マジで?!」
麻衣子が驚く。鮎美は腑に落ちない様子で問う。
「鷹姫、あの歌の意味は?」
「歌って何? 何があったの?」
麻衣子は興味をもって問い、里華は興味なさそうに自分へ割り当てられるベッドとロッカーを確認している。鷹姫が興奮を抑えた声で説明する。彼女をして抑えなければならないほどの興奮を覚えていることは珍しかった。
「瀬をはやみ、岩にせかるる、滝川の、われても末に、あわむとぞ思ふ。とは、川の瀬の流れが速いので岩にせき止められた急流が一度は分かれても、のちには一つになる滝川、それと同じように、たとえ今は恋しい人と別れても将来は必ず結ばれると信じています。という意味です。しかも、芹沢鮎美という名に合う歌を選ばれるあたり、ご執心の深きを感じます」
「………う~ん………」
鮎美が呻り、麻衣子が問う。
「陛下って今いくつだっけ?」
「15歳よ」
「総理は?」
「18。って、被選挙権は18からやで。あんた、ええ加減やな」
「三つ年下かぁ、ありなんじゃない?」
「いやいや、うちはビアンやし。陛下、知らんのかな? さすがに知ってるやろに…」
鮎美のスマートフォンが鳴った。メールの着信音で鐘留からだった。見ると件名に、極秘、とある。
「もう陛下からメール?」
「メアド交換してないし。陛下はスマフォなんか持たんやろ。見んといて」
麻衣子が覗いてくるので鮎美は画面を隠して見る。
アタシね、夕べ、オネショしなかったよ。怖い夢も見なかった。このまま治るといいなぁ。アユミンにだけ教えたから宮ちゃんにも言わないでね。あと、すぐにメール削除して、お願い。
鮎美はメールを削除しつつ微笑んだ。短文の返信も送っておいた。
「フ、よかったやん」
「朗報ですか?」
鷹姫が問うてくる。
「うん、まあ、いい知らせではあるよ。ささいなことよ、気にせんといて」
「はい。それよりも陛下へのお返事は、どうされますか?」
「………あれに、返事って必要? ただの自意識過剰かもしれんよ。っていうか、鷹姫だけが考えてるんちゃうの?」
「由伊様も察しておられましたから、今おっしゃらなくても、と遠回しに注意されたではないですか」
「う~ん………鷹姫は、あの空気は読めるんや……」
「空気を読める読めないのレベルではなく、はっきりとお言葉になっております」
「…う~ん……」
「総理、とりあえずお風呂いかない? この部屋、お風呂はないよ」
「行く行く。大浴場、行ってみたかってん」
「そんないい物じゃないよ。超殺風景」
麻衣子と鮎美、鷹姫は入浴の準備をする。里華は荷物をロッカーに置いたままだった。
「石原空尉は、お風呂は?」
「あとで入るから。……大浦陸士、その人が同性愛者だって覚えてる? ある意味、男と入るのと同じよ」
「あ……そういえば……」
「あんたホンマ大雑把やな。あと、うちかって見境無しってわけやないから。いっしょにお風呂入ったくらいで何かするわけちゃうし、そこ、よろしく」
一瞬だけ鮎美と里華の視線がぶつかり、すぐに鮎美は背中を向けた。部屋を出て鮎美と鷹姫、麻衣子は入浴するために、里華と長瀬、三井は警備要員として共同浴場の女湯に向かった。脱衣所には女性だけが入り、長瀬と三井は出入口に立った。麻衣子が裸になりながら問う。
「総理って好みのタイプとかあるの?」
「そらあるよ」
鮎美と鷹姫も裸になった。里華は着衣のまま黙って立っている。
「どんな女子が好きなの?」
「可愛い系と強そう系」
「両極端じゃない?」
「可愛い子は抱きしめたいし、強そうな人には抱きしめてほしいのよ」
自分の好みを正直に教えたことと、久しぶりに鷹姫の裸体を見たことで鮎美の頬は少し赤くなっている。
「あ~、後者は理解できるかな。私も強そうな男が好き」
「あんたの好みは?」
女子らしい会話をしながら浴室へ入る。里華は浴室内の安全確認を目視で行ってから脱衣所に残った。
「私は、がっしり筋肉のある男性が好き」
「三井はんみたいな?」
「そうそう! ってか総理と、こういう話をしてるとやっぱり、ただの女子だね。通用門のところで見たときは、なんかすごい遠い存在に感じたけど」
「そうなんや。そういえば、あんたの謹慎は?」
「謹慎は5分もしないうちに次の命令で歩哨に立ったし、上の方も忙しいからテキトー感あるよ。またすぐ総理たちのお世話任務に戻るかも」
「うちは、あんたの方が気楽でええわ」
鮎美は声を小さくして言う。
「石原はんは、ちょっと苦手やわ」
「あれだけ露骨にされれば、しょーがないよ。総理、下の毛まで処理してるんだ?」
「うん、まあね」
いつ詩織が帰ってきても喜んでくれるようにと、鮎美は肌を整えていた。
「なんか、そこって剃るとエロいね」
「やっぱり、そう思う?」
「エロいエロい」
麻衣子は、ずっと黙っている鷹姫の方を見た。鷹姫は腋を剃っていて刃物を使っているので慎重な動きをしている。鮎美も鷹姫の方を見た。
「鷹姫、毎日、剃ってんの?」
「はい」
「うちは二日に一回かな。さすがに毎日やと荒れるわ。美容整形してる場合やないと布告したけど、人間の営みって自然に任せる方がええんかな」
鮎美は昨夜剃った腋を撫で、身体をシャワーで流すと、大きな湯船に入った。麻衣子と鷹姫も入ってくる。そして鷹姫が麻衣子と鮎美の股間を見比べて、問うてくる。
「陰毛も剃る方がよいのですか?」
「「……う~ん……」」
「できれば、はっきりと言葉で教えてください。そうやって答えにくそうな空気感だけで伝えられても、私は理解できず、また大きな恥をかいてしまいます。腋の毛が伸びていることは女子にとって、とても恥ずかしいことだと理解できるようになると過去の自分が恥ずかしくて消え去りたくなります」
鷹姫が不安を覚えて湯の中で股間を両手で隠した。
「鷹姫………ほな、はっきり言うとな、今の日本の文化やと、剃る女は少数派よ。腋と違って、ここを他人に見られることって女湯以外は少ないし。となると、恋人とかパートナーが剃ってほしいと求めてくるか、たんに自分の選択として剃るか、どっちでもありよ。別に、伸びたままでも恥ずかしくないよ。最近、ドイツ、ブラジルあたりは剃ってる人が増えてるらしいけどね」
「そうですか」
麻衣子が付け加える。
「むしろ、剃ってる方が、ちょい恥ずかしくない? すごいビッチ感あるんですけど」
「え~……そうなん?」
「ぶっちゃけヤリマンみたいだよ」
「うちは男とはヤってませんしぃ」
「そういう意味では、ずっと処女でいるんだ……そっか……ってことはゲイも、ずっと童貞……」
麻衣子が三井のことを考える。あれだけ逞しい男性が童貞だと想うと、妙な感じがする。そして鷹姫のために言っておく。
「宮本さん、ここの毛は自由でいいんだけど、もし水着を着ることがあって、そのときハミ出してると、それは腋の毛を見られる何十倍も恥ずかしいことだから気をつけて」
「はい」
三人とも身体が温まってきたので上半身を湯から揚げる。鮎美が二人の乳首を見ないように天井を見上げつつ言う。
「まだ震災後、一回もお風呂に入れてへん避難所あるんよなぁ」
「入浴設備提供より救助を優先してるらしいね」
「うん、まだ生きて救助を待ってる人いはるもん」
「「………」」
心地よく湯船で身体を温めていることに罪悪感を覚えた。その罪悪感を責めるように険しい顔で里華が着衣のまま浴室に入ってきた。ストッキングを穿いている足が濡れるのもかまっていない。
「芹沢総理代理へ、緊急でお伝えします」
「はい、どうぞ」
鮎美は礼儀の上で乳首を隠した。
「尖閣諸島へ仲国人と思われる集団が上陸し、これに対応するため海自の護衛艦2隻、海上保安庁の巡視船2隻を向ける、と畑母神防衛大臣が命令され、このことを総理代理に伝えておくよう緊急伝達が来ました。以上、お伝えしました」
「「っ…」」
思わず鮎美と鷹姫が湯から立ち上がった。鮎美が問う。
「上陸って何人くらい? どんな人らが? 何をしに?」
「私は伝達事項しか知りません」
「司令室に行くわっ」
急いで鮎美は風呂を揚がり、着る予定だったパジャマではなく制服を着る。鷹姫と麻衣子も急いで続いた。その間に里華は濡らしてしまったストッキングが気持ち悪いので脱ぐ。髪を拭くのもそこそこに鮎美たちが司令室に入ると、畑母神は難しい顔で複数のモニターを睨んでいた。
「畑母神先生、状況はどうなんですか?」
「わざわざ来てくれたのか。もう夜も遅いのに。しかも、入浴中だったようで、すまない」
「いえ、それで状況は? 上陸って、何人くらいが何をしに?」
「30人程度の集団が、何らかの機械を設置しているようで、当然、警告しているが退去しない」
「どんな機械を?」
「わからない。対空火器などではないようだが不明だ」
「……。これから、どう対応することになるのですか?」
「航空機からの警告を無視しているので海上保安庁の巡視船に対応させる。だが、もはや領土侵犯だ。海上保安庁の手にあまる場合にそなえ、海自にも同伴させた」
「仲国政府は?」
「夜間なので担当者がいない、という、ふざけた回答だ」
「ふざけとんなぁ……」
「せっかく来てくれて悪いが、あなたがここにいても、できることはない。明日のために休んでおくのも仕事だと思ってほしい」
「はい…………」
返事をした鮎美は周囲を見回してから、畑母神の耳元に囁く。
「対応に向かっている船の船長さんだけにでも、米軍撤退のことを伝えた方がよくないですか?」
「うむ………」
まだ髪が湿っている鮎美には風呂上がりの女性独特の色香があって、闘争本能で静かな興奮状態にあった畑母神はより顔を険しくした。司令室全体も若い女性たちが、明らかに風呂上がりという雰囲気で入室してきたので空気感に戸惑いがあった。若い隊員などは衝動的に鮎美らを押し倒すイメージさえ脳内に抱いてしまう。湯上がりの火照った肌も、里華のストッキングを脱いだ生足も刺激的すぎて困る。闘争本能が燃えつつあるときに、火に火がついて炎になりそうだった。とくに若い男性隊員は戦場で強姦が起こることの自然さを実感し、頭を振って鮎美たちから目をそらしている。そして鮎美と鷹姫は男性からのそういう視線に気づきにくい。麻衣子と里華は気づいて、麻衣子は男性たちをみだりに刺激したことを申し訳なく思い、里華はストッキングを脱いでいる脚に嫌悪感が走った。畑母神が鮎美へ囁き返す。
「私もそれは考えたが。むしろ、その事実を知れば各艦長たちの対応が過剰になったり消極的になったりするかもしれない。それによって相手にも、その事実を悟られるくらいなら、いっそ知らぬ方がよいし、そもそも暗号通信するにしても100%漏れないとは限らない。ここは知らせぬ方針でいく」
「わかりました」
「繰り返すが、ここに君がいてくれても、できることはない。もう休んでほしい。よほどのことなら伝達するが、あとは私に任せてくれ」
「………」
ほぼ……というか120%うちは邪魔ってわけやね……確かにそうかもしれんけど、うちにも総理としての責任があるはず、と鮎美は退室することを躊躇う。そして司令室のモニター類を見てみる。まったく、わからない。せめて問う。
「派遣した4隻が警告しても相手が退去しないときは、どうされますか?」
「…………流動的だ。どうするか、そのとき、そのとき、臨機応変に考えることになる」
「………………」
穏便に済ませてほしいけど、こんな大災害のタイミングで、こんなことしてくるヤツらに言うても、終戦後に千島列島へ攻め込まんといてください、ってソ連に言うようなもんやろし……かといって、実力行使ってわけにも……くっ、鳩山総理あんたが前回ヘチョい対応するから………けど、ほな、うちは強行な対応にすんの……それで戦争になったら、取り返しがつかん……こっちは国内もガタガタで、アメリカもおらんのに……、と鮎美が迷い、問う。
「上陸した人らは武装してるんですか?」
「不明だ。小銃程度は持っているという前提で動く」
「………………」
鮎美は色々と考えたけれど、知識が乏しいので答えが出ない。そんな様子に畑母神が言ってくる。
「私にすべてを任せてほしい。隊員の安全も、国の安全も。とっさの判断で時間の無いときは、あなたに問い合わせず、大きな決断をする許可も欲しい」
「それは……」
「君に問うても、わからないはずだ」
「……それは……そうですが……それでは私が無責任すぎますし……結果責任は私にありますから。……」
鮎美が今日まで自衛隊の指揮をほぼすべて畑母神に任せてきたのは彼への信頼もあったし、救助が主たる任務であり、鮎美を含めて他の閣僚が口を差し挟む余地がなかったからでもあった。わずかに閣内で多数決をとったのは沖縄への派遣くらいで、あとは畑母神が一人で決めて、事後報告ということが多かった。けれど、今回の件ですべてお任せということには抵抗がある。鮎美はシビリアンコントロールという言葉を忘れていないし、そして畑母神は政治家であっても、元海上幕僚長なので、どちらかといえば軍側だと感じているし、統合幕僚本部が消失しているので、まさに防衛大臣の畑母神が総大将という体制になっているのは知識がない鮎美にもわかっている。このまま任せきりでいいのか、まして畑母神は尖閣諸島を都の所有とすることで仲国との関係を難しくしている張本人であり、石永が唱える核武装にも平時から同調していた。今夜、すべてを任せきりにすることは明朝、戦争という事態を生むのではないか、強く懸念していた。かといって鮎美に何か言えるだけの知識も経験もない。そういう葛藤を鮎美がしていることに畑母神も気づいたので問う。
「ベトナムの政治家レ・ズアンを知っているかね?」
「レズ・アン? レズビアンなんですか?」
「…いや、レズ・アンではなくレ・ズアンだよ。あなたらしい間違い方ではあるが、レ・ズアンは男性だし、おそらく妻もいたろうとは思うが、そういう話ではなく、彼はホー・チ・ミンのあとを引き継ぎ、アメリカを追い出し南北に分かれていたベトナムを統一し、さらに仲国が裏で糸を引くカンボジアのポル・ポトと戦い、これに勝ちつつあったところを背後から仲国に攻め込まれている。軍の主力がカンボジアへ出払っている隙をつかれたわけだ」
「それは、また、きつい状況で……」
「だが、彼は諦めず巧みな戦術で仲国軍に打撃を与え、またカンボジアへの侵攻も完遂してみせた。対米のベトナム戦争終結が1973年、ベトナムと仲国の戦争は1979年、まだ30年ばかりしか経っていない。この二つの勝利によってレ・ズアンはベトナムの独立を確かなものとした。歴史上の偉人だよ」
「そうですか……知りませんでした。それで?」
「私は君をレ・ズアンとは正反対の人物だと思っている」
「……」
「レ・ズアンは祖国の英雄であるはずだが、ベトナム国民の中での評価は高くない。それは、戦いの後に行った経済政策がまずく激しいインフレを引き起こし国民を苦しめたからだ。たいして、この一週間、これほどの大災害でありアメリカまで大きな被害を受けているのに、日本円、米ドルは価値を維持している。経済にうとい私でも、これが偉業だということはわかるつもりだ。もしも、あなたが1980年代にベトナムで経済政策の実権を握っていたら、国は大きく栄えただろう。だが、あなたが1970年代にベトナムの軍権を握っていたら、どうだっただろう?」
「………人には、得手不得手があるちゅーことですか………たしかに、畑母神先生の指揮に、うちが口出しするんは、鷹姫の剣道試合に、うちが助言するようなもんかもしれません。横からゴチャゴチャ言わんと、黙って任せいというわけですね」
「わかってくれて、ありがたい」
「………戦争になる可能性は、ありますか?」
「仲国とベトナムが陸上の国境線を画定したのは小競り合いが続いた後の2000年代に入ってからだし、経済がうまくいかずベトナムは海軍力の強化に遅れ、1988年には仲国海軍との間に南シナ海で南沙諸島海戦が発生している」
「たった23年前に……勝敗は?」
「仲国側はフリゲート艦3隻で臨み、負傷わずか1名、対してベトナム側は戦車揚陸艦1隻と輸送船2隻、輸送船は2隻とも轟沈し、揚陸艦は大破、犠牲者は74名におよぶ」
「………」
「だが、両国は1979年以後、あなたがイメージするような正面きっての大戦争はやっていない。今回の尖閣諸島の件も、明日の朝には第二次日仲戦争という事態にはならないはずだし、そう努める」
「…そうですか…」
幾分か鮎美が安心した顔をした。それに対して畑母神が言っておく。
「だが、一人の犠牲も出さないようにするつもりだが、明日の朝、死傷者の報告をせねばならないかもしれない」
「………」
「そうならないためにも、私に全権を与えてほしい。撃つべきときに、まごつかず、撃てるように。そして、あなたは我々を軍だと考えているだろうか?」
「………はい、実質的に軍です」
「うむ、だが、自衛隊は軍隊ではないという建前のもと、戦死は無く、殉職と呼んでいる。災害派遣を下に見るわけではないが、すでに救助活動中でも18名が亡くなっているのは君も知るとおりだが、彼らが殉職であるのは道理が通るとしても、戦って死んでなお、戦死でなく殉職と言われるのには、忸怩たる想いがある。あなたはさきほど強引な総理代理令で刑法を議会なしに実質改正した。憲法の壁があるのはわかっているが、戦って死ぬかもしれぬ者にも、あなたの知恵で配慮があると有り難い。どうか、考えておいて欲しい」
畑母神は、まだ18歳でしかない総理大臣へ、あなたと君という二人称を無意識に使い分けて話した。もう鮎美に異存はない。
「わかりました。畑母神防衛大臣に、すべてお任せします。隊員と国の安全を守るためなら、先制的な発砲も含めて」
鮎美自身、すでにA321で帰国するとき威嚇射撃は受けている。そのときの恐怖は覚えている。撃つ気のない銃口を向けられるのとは比較にならない緊張だった。それゆえ、これから矢面へ立ちに行く人間へ、先に撃つな、撃たれてから撃て、とは言えなかった。そして、もはや領土侵犯だとみなしたので、先に侵略行為をおこなったのは向こうだと判断している。鮎美と鷹姫は一礼し、麻衣子と里華は敬礼して退室した。歩いて4人部屋まで戻る。その道中、鮎美は考え込む。
「………」
上陸して機械を設置って………何の機械を設置してるんやろ……携帯電話の基地局です、とか、ふざけた回答してくるかも………うちが仲国の指導者やったら、どう言うかな………あ、放射能を見張る機械とか言うかも……、と鮎美は深く思考しつつ歩いていたので廊下の壁に衝突しそうになり鷹姫が止めてくれた。
「危ないですっ!」
「っ…おおきに…」
部屋に戻っても、やはり考え込む。
「…………」
合計4隻で対応………向こうは、どういう風に来てるんやろ……訊いておけば、よかった……うちが訊いたところで何もできんけど………船で対応に向かわせるってことは、まだ到着には時間あるんやろな……明け方になるか……あかんわ、考えるにも材料がないし、知らんことだらけで結論なんかでんわ、諦めて寝よ、と鮎美は気持ちを静めた。
「寝よか」
「「はい」」
「自分は入浴してきます」
里華が出ていった。麻衣子が問う。
「消灯しますか?」
「それは石原はんが戻ってきたとき、感じ悪いやろ」
「あえて訊いてみたの♪」
「あっはは!」
「芹沢総理、陛下へのお返事はどうされますか?」
「あ、そっちを忘れてた……う~ん……」
鮎美は考えようとしたけれど、尖閣諸島のことが頭にあって邪魔をするし、もともと異性に好かれても、どうしようもない、としか思っていないのに、鷹姫は重大事として捉えている。今も、やや空気を読まずに問うていた。
「……う~ん……どう断るか……なんか、そういう感じのええ和歌か、短歌でもないの? 遠回しに、たとえ、うちらの勘違いやったとしても、失礼でないような」
「お断りされるのですか……陛下、直々の……お声がかりを……」
ありえないという顔になる鷹姫へ、鮎美もありえないという仕草で肩をすくめる。
「だって、うちビアンやもん。レズ・アンどころかレズ・アユミやもん。あははは!」
アユミは小学校で言われていたアダ名を思い出した。レズ・アユミ&カマ・純一というコンビになった覚えはないのに、なよなよした男子とコンビにされて冷やかされた。やはり鮎美は小学校でもクラスメートの女子に抱きついたり、もたれたり、耳を甘噛みしたり、胸元や腋の匂いを嗅いだりしたし、プール授業の着替えでも、つい他の女子の着替えを邪魔して裸のままでいさせたり、男子が戻ってくるギリギリまで誰が一番長く裸のままでいられるか競争という大人だったらセクハラでしかない意味不明な競争をするよう求めたり、水着を交換しようと言ったり、プールの後ノーパンで誰が一番長く過ごせるか競争を仕掛けたり、裸かくれんぼという男子に見つかったら大惨事になる危険な遊びを提案したりしたので、アダ名は正鵠を射ていた。まだ性欲に目覚める以前だったけれど、どうにも同性が好きだった。そして純一という男児は髪を肩まで伸ばしていたり、すぐ泣いたり、編み物が好きだったり、修学旅行でお風呂に入らなかったりしていたので、今から思うと、ゲイではなく性同一性障碍だったのかもしれない。
「ってことで、無理無理、もって生まれたサガは変えられんよ」
「……このさい、その性的指向もおして封印され、お受けになることを考えてください」
一蹴したのに鷹姫が真剣に言ってくる。そのしつこさに鮎美が戸惑う。もう自分の性的指向を理解してくれていると想っていたのに、裏切られた気がする。
「なっ…………鷹姫………そこまでのことなん?」
「陛下からのご好意を袖にするのは通常ありえません。ありえないがゆえ、かぐや姫などが有名なのです」
「竹取物語か………あれ、今から考えると、実はヒロインがビアンってことありそうやね。いろんな貴公子さんが迫ってくるから、無茶ぶりの要求して、とうとう、みかどから声がかかったし、月に帰るという喩えで、本当は入水でもしたんかも。マリアの処女受胎とは、また別の意味で処女のまま、…悲しい、美しい最期やね…………って、うちは断ったら、めちゃヤバい立場になるの?」
「あの場にいたのは、わずかな者ですから、そう問題にはならないかと思いますが7歳の由伊様でさえ気づいておられるのです。忖度されるべきかと思います」
「………そんたく……今頃、岐阜の検察官は忖度してるやろけど、それを迫ったうちが今度は忖度すんのか……。男性そのものが……うちには……無理っていうか……シマウマに牛肉を食べさせたり、ライオンにキャベツを喰わせるようなもんよ。男性へ嫌悪感はないけど、食性が違うみたいな意味で生理的に無理なんよ」
「ですが、お身体は健康ですし…」
「二人とも、そんな難しく考えないでさ。ぶっちゃけ15歳の少年の初恋って考えれば、まあ、なるように、なるんじゃない? 遠回しでも、いきなり告白って、すごいけど、それも若さゆえ。こんな大災害の直後だし、心がざわついて当然な時期だよ。あと、総理と陛下の関係って、昔の殺生とタンパクみたいなあれに近くない?」
「摂政と関白な。まあ、たしかに現代の天皇と総理は、昔の天皇と摂関に近いかもね」
「そうそう。なんか昔あったらしいよ。女性天皇が好きになった僧侶か何かを高い地位にしたとか。そういうロマンス」
「えっと、何の天皇さんの話やった? 鷹姫」
「孝謙天皇です。僧侶は道鏡で太政大臣となって権勢をふるい、法王ともなり、ついには皇位を狙いましたが失敗しています。ですが、孝謙天皇と道鏡が睦まじい仲にあったというのは平安時代以降の邪推であって真偽は不確かです。似通ったイメージで語られる人物としては仲国のロウアイ、ロシアのラスプーチンがおり、道鏡はロウアイの故事にこじつけられています」
「ラスプーチンは聞いたことあるけど、ロウアイは知らんわ」
「仲国を初めて統一した秦の始皇帝、その母であった趙姫と不倫関係にあった男です。本来、宦官しか入れない後宮に偽宦官として入り、趙姫との間に子をなし、御璽を盗み出して皇位簒奪をもくろみましたが失敗して刑死、享年21歳だったそうです」
「うちと三つしか変わらんのに皇位簒奪か、頑張る人やなぁ」
「ロウアイには巨根伝説があり、非常に男性器が大きく、宴会の余興として自らの男根で馬車の車輪を回してみせたということです」
「………アホや。おチンチンで、そんなことできるもんなんかなぁ?」
鮎美は陽湖と同居するまでは風呂上がりに、よく裸でウロウロしていた玄次郎の男根と、飛行機の中で強引に性交するよう向き合わされた泰治の男根を思い出したけれど、せいぜいプールで使う浮き輪くらいしか回せない気がする。
「うちのスチャラカオヤジやったら酔ったら、やってそうやわ。浮き輪とかで」
「いずれにせよ、その巨根伝説のイメージが道鏡にも押しつけられたようです」
「カンガンって何?」
麻衣子の問いに鮎美が答える。
「おチンチンを切り落とされた高級官僚よ。そうすると仲国では皇族に近づけたから出世が早かってん」
「うわぁ……痛そう…」
「ゲイの一部に受けそうやね。とはいえ、偽宦官とかまでおるんやな」
「ロウアイは髭を抜いて顔貌を変え、偽の記録を作って宦官となっているとしたそうです」
「宦官制度そのものが、どうかと思うけど、それを出し抜いて不倫する根性もすごいな。ラスプーチンはキリスト教の人やったっけ?」
「はい。宗教家という意味では道鏡と同じですけれど、ラスプーチンは19世紀の人物ですから、道鏡とは1200年ばかり時代が違います。ですが、権勢をふるった点でも類似しています。彼は本当に女性好きだったようですが、淫乱ぶりは敵対者や後世に捏造、誇張されたようです。また、貧しい家庭に生まれたため、読み書きが不得手で聖書を独自に解釈していたようです」
「聖書の独自解釈かぁ………」
「…………」
鮎美と鷹姫は陽湖のことを思い出した。
「けど、女にはモテたんや」
「不潔で怪奇な容貌であったそうですが、当時は神秘主義に傾倒していたロシア帝政末期で、巨根という噂もあり、かなり人気を博したそうです」
「また巨根か……男のおチンチンが大きいのに魅力って感じる?」
「いえ」
鷹姫は即答したけれど、麻衣子は恥ずかしそうに手をあげた。
「感じるよ」
「そうなんや。大浦はん、ムキムキな筋肉で巨根が好きなんや。ザ男って感じやね」
「総理こそ、おっぱい大きいけど、相手の女の子も、おっぱい大きい方がいいの?」
「どっちかというと形がキレイな方がいいかな。にしても歴史って、あとで色々とイメージが脚色されてるなぁ。淫乱やなかったかもしれんのに、敵側から色々と残されるとか……うちを特集した週刊紙の記事も、そのまま歴史に残りそうで嫌やわ。ヘタしたら、うちが周りの女子みんなに手ぇ出してたとか残ったら腹立つわァ」
「ありそう。ってか、それ私も含まれない? 今夜、相部屋だし」
まるで修学旅行気分で話し込んでいると鮎美のスマートフォンが鳴り、メールの着信音を響かせた。
「っ?! 詩織はん?!」
その着信音は詩織だけの設定にしていたので寛いでいた鮎美はスマートフォンに飛びついた。急いでメールを開く。
愛する鮎美へ
私は無実です。冤罪です。これは罠です。
きっとタックスヘブンの仕掛けた罠です。
私は誰一人殺してなんていません。
鮎美を愛しています。
私だけの鮎美、鮎美だけの私です。
いつか必ず会いに行きます。
その日まで、どうか待っていてください。
永遠に愛しますから。
読んでいるうちに涙が溢れてきて何度も拭った。ずっと詩織の生死について意図的に考えないようにしてきた。生きているかもしれない、救助されるかもしれない、けれど、おそらくは死んでいる、そう感じていても、それを考えないようにして精神力を保ってきた。今、メールを受けて、その感情が涙になって流れて、なかなか字が読めないほど視界が歪む。
「…ぅうっ…ぐすっ…ぅっ…」
「「………」」
鷹姫と麻衣子が心配して覗いてくれるので三人で読んだ。けれど、読み終わっても意味がわからない。
「……詩織はん……生きて………。でも、どういうことなん………無実? 冤罪? 殺し……」
頭が混乱する。それでも条件反射のように詩織へ電話をかけた。
「おかけになった番号は電源を切っておられるか、電波の届かない…」
「出てよ……生きてるなら、出てよ……メール送ってくれたのに……どうなってんの…」
「「…………」」
「こっちもメールを送れば……」
鮎美はメールを打ってみる。
鮎美です。
そちらは無事ですか?
それだけを送信してみた。
「ぐすっ……ぅっ……ぅうっ…」
「シオリさんっていうのは、あの同性結婚を発表した人?」
「…ううっ…」
泣いている鮎美に代わって鷹姫が答える。
「そうです。地震のさい東京におられ、行方不明だったのですが……」
「そっか……メールが送れたんだから生きていてくれるのかな……けど、それなら、それで津波とか地震のこと少しでも書きそうなのに………無実とか、どういう意味……」
「ぐすっ……帰ってきて……お願いよ…」
鮎美が泣きながら祈っていると、里華がパジャマ姿で帰ってきた。
「………」
里華には泣いている鮎美を鷹姫と麻衣子が見守っているという構図になった理由はわからないけれど、問う気もなくて二段ベッドにあがった。ベッドで鮎美たちに背中を向けて横になる。
「…ぐすっ……ううっ…あっ?!」
メールの着信音がして、すぐに開いたけれど、送信先が無くエラーというメッセージが機械的に返ってきた。
「エラーメッセージ……なんでよ?! なんで、こっちから送れへんのよ?! どうなってるの?! なあ?!」
パニック気味に鮎美が叫び、鷹姫の両肩を揺すった。
「私に訊かれても……、緑野なら、わかるかもしれません」
「カネちゃん、ネットに詳しいから!」
鮎美は鐘留へ電話をかけた。
「もしもし!」
「ハーイ♪」
軽い鐘留の声とテレビの音がする。
「カネちゃんに訊きたいことがあんねん!」
鮎美が泣き声で事情を話すと、鐘留も真面目に聞いてくれて、とりあえず詩織からのメールとエラーメールを鐘留へ転送するように言われた。それをして、しばらく待つと鐘留から電話がある。
「結論から言うと、今までと状況はかわんないよ」
「どういうことなん?!」
「シオちゃんがメールを送信したのは3月11日の12時39分なの。これは地震が起こる前に送信したメールだよ」
「なんで、それが今くるのよ?!」
「そのときアタシたちは飛行機に乗って仲国上空にいたよね。ってことはメールは到着せずネット上のどこかで待機状態になるの。そしてアタシたちのケータイやスマフォは圏外状態か、機内モードのまま、着陸する予定だったけど、そこで地震がくる。すると、地上では、いろいろなところが断線したり停電したりする。けど、運良くメールは、どこかのサーバーに残ってた。そのサーバーが、ついさっき停電から回復したか、光ファイバーの断線をつないでもらったかしたんだと思うよ。それで今になって来たの。けど、こっちから送っても、もうメアドごと認識しない状態……つまり行方不明ってこと……、だから、昨日までと状況は同じ、生きてるかもしれないけど、死んでるかもしれない。……でも、たぶん……津波には遭ったんだと思うよ……ごめんね、悪いニュースで」
「ううん………おおきに………ぐすっ……」
「けど、ネット的には、そういう状況だけど、このメールの内容は、意味わかんないね。タックスヘブンの罠とか、誰も殺してないとか、何かに追われてる状況なのかな?」
「わからへんねん………ぜんぜん、意味、わからへん」
「そっか、アタシも調べておいてあげるよ」
「うん、おおきにな」
鐘留との電話を終えると、また涙が出てきた。この一週間、考えないようにしてきた詩織の生死、生と死で、死の可能性が高いとわかっていたのに考えないようにして目をそらして耐えてきた。それが、ごく一時的に生の可能性が出てきて、また死に傾いてしまったショックは大きくて泣けてくる。
「ううっ……ぐすっ……ううっ…」
「「…………」」
鷹姫も麻衣子も言葉がない。里華が鬱陶しそうに言う。
「もう消灯していい?」
誰も否定しなかったので里華は二段ベッドからおりて電灯を消した。そろそろ眠るべき時間なので当然だったけれど、鷹姫も麻衣子も鮎美のそばを離れない。
「……ぐすっ……うちも……寝るわ」
泣きながら鮎美が二段ベッドにあがる。その下に鷹姫、麻衣子は里華の下に入った。
「…う~っ……ひぅ~っ…」
鮎美は布団をかぶって泣いている。その声が室内に響くので15分ほど我慢した里華が言う。
「静かにしてよ」
「…ぐすっ……はい、……すいません…」
謝ったけれど、泣きやめず鮎美が嗚咽を漏らし続ける。声をあげて泣きそうなのを両手と枕で押さえていた。
「…ぅっ……くっ………ぐすっ……う~っ…」
「「…………」」
鷹姫も麻衣子も眠れないし、里華が怒鳴った。
「うるさいって言ってるでしょ!! 情けなくメソメソしないで鬱陶しい!」
「ぐすっ、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「謝ることないよ。もう私も限界だわ! 階級とか関係ない。コイツ、人として終わってる!」
そう言い放った麻衣子が両足をそろえて一気にあげ、里華が寝ている上段のベッドを蹴りあげた。
「うっ?!」
里華はベッドマットごと浮き上がり、麻衣子が斜めに蹴っておいたので二段ベッドから落ちて床に叩きつけられた。
「くっ…」
里華も訓練は怠っていないので受け身をとってケガしなかったけれど、麻衣子は飛びついてマウントポジションを取ると殴りかかる。それを里華が防御するけれど、体勢が不利で追い込まれる。鷹姫が止めるべきか迷っていると、物音で異常とみなした長瀬と三井が入室してきた。
「「どうしました?」」
問いながら長瀬は電灯をつけて鮎美の身体が無事か確認し、三井は有利な体勢で殴りかかっている麻衣子の手首を握った。
「やめろ!」
「離してください! コイツは許せない!」
「もう、お前の勝ちだ。これ以上は問題になる」
発覚すれば十分に問題だったけれど、できれば内密に終わらせたい三井は男同士のケンカを制止するときにも使う口上で言った。麻衣子とは同じ陸自で、殴られている里華は空自なので組織的な問題になってほしくないし、防御していた里華は涙を流しているので、勝敗は決まっているようにも見える。長瀬が状況を説明してくれそうな鷹姫に問う。
「どうされました? 何が原因ですか?」
「はい」
鷹姫が時系列にそって簡潔に説明していくうちにも、麻衣子は口で里華を攻めた。
「バーカっ! バーカ! 超弱い! 情けなく泣いてやんの!」
「くっ…」
里華が殴りかかろうとするのを三井が手のひらで受けた。子猫が猟犬を叩いた程度にしか効かない。
「ダサっ! 弱っ!」
「お前は黙ってろ」
三井が大きな拳を麻衣子の頭に落とした。
「あうっ?! う~…痛いぃ……」
麻衣子が頭を押さえて蹲る。銃床で殴られたのかと思うほど痛かった。
「ぅぅ…三井陸曹の筋肉で殴られたら死にますよぉ」
「加減はした。で、先に手を出したのは大浦だな。さっさと謝れ。女のくせにケンカまでしやがって」
「あ、差別発言」
「もう一発くらわすぞ」
「すいません、ごめんなさい!」
「オレじゃなくて石原空尉に謝れ」
「………それは嫌です。私は間違ってないもん!」
「くっ……女って、どうしてこう……」
「2、3発、殴ったくらいで泣いてるヤツになんかに謝るもんか」
もっと殴ったけれど、麻衣子は少なめに言った。里華がパジャマの袖で涙を拭いて怒鳴る。
「うるさい! 悲しいのは、あなただけじゃない!! みんな耐えてるのに!! 総理が、そんななら辞めなさいよ!」
里華は麻衣子にではなく、まだ泣いている鮎美に怒鳴っていた。
「レズの結婚相手が死んだくらい何よ?! 私なんて家族も! 友達も! 先生も! みんな、みんな! うっ、くっ!」
そこまで言った里華が背中を向けて泣いたので麻衣子たちは、あまりコミュニケーションを取っていなかった里華が横浜出身で、鈴木と久野を迎えに行った帰りのヘリでも悲しんでいたことを思い出した。あの日から、まだ誰とも連絡が取れないのであれば、もう一週間になるので絶望は絶対的になってきている。静かになった室内に鮎美と里華の嗚咽が響く。ぽっつりと長瀬が言った。
「自分も妻と連絡が取れません。練馬区にいたはずです」
「「「「「…………」」」」」
「もう眠ってください。ケンカしても泣いても無駄です。できることは神に祈るくらいですから」
「…………。石原空尉」
麻衣子が頭をさげる。
「殴って申し訳ありませんでした! 私を殴ってください!」
「……ぐすっ……もういい。……寝て」
里華が二段ベッドにあがるので、長瀬と三井は退室し、鷹姫と麻衣子もベッドに戻った。もう泣き声を我慢しなくなった鮎美と里華は声をあげて号泣し、その声を聴いているだけで麻衣子も泣けてきた。鷹姫は静かに三人の泣き声を聴きながら思った。
「………」
こういうとき、私もいっしょに泣くべきなのでしょうか………大浦さんまで泣いているのだから……たしか、大浦さんは家族も知人もみんな無事だったはずなのに……私は冷たい人間なのでしょうか……牧田さん…芹沢詩織さんが亡くなっているだろうこと……多少は残念に思う気持ちもありますが……私と彼女は、それほど親しかったわけでもなく……他に東京事務所の方々も、きっと亡くなっていて………雄琴先生が一番よくお会いしたくらい……やっぱり私は冷たい人間で………空気も読めない………今するべきことは早く眠ること……朝になれば尖閣諸島の問題も……なにより陛下への鮎美の返事………今は寝不足になるべきでない………何か別の話をして鮎美の気をそらしておくべき、と鷹姫は決めた。
「先日、ヘリが到着したので途中になった前田利家の話をします」
「ぐすっ……鷹姫?」
「前田利家が信長の同性愛の相手をしたという逸話は有名ですが、両者とも嫁をとり子をなしていますから、当時の文化である衆道、今風にいえばバイセクシャルであったといえます」
「「「…………」」」
泣いていた三人の耳に鷹姫の声が入る。
「とはいえ、前田利家は勇猛果敢な人物で短気かつ喧嘩っ早いといわれ、初陣から武功をあげるだけでなく晩年、秀吉の死後に豊臣家との対立をみせつつある家康が病床にある利家を見舞いに来たときも布団の下に抜き身の刀を隠していたという話もあります。とくに信長の寵愛を受けていた拾阿弥が利家へ無礼をはたらいたおり切り捨てて、一時期は浪人となっています。ところが、浪人中にもかかわらず桶狭間の戦いが起こると勝手に参戦して三つの首級をあげるなどの武功をあげます」
「命令無視どころか、ただの私戦ってみなされそう。っていうか、味方に味方と思ってもらえないんじゃ……」
麻衣子が泣き止み、鷹姫は続ける。
「手柄をあげたものの、信長に許されず翌年、斉藤家との戦いで頸取足立なる異名をもつ怪力の豪傑を再び無断参戦で討ち取り、とうとう許され加増の上、家臣にもどっています」
「ぐすっ……諦めん男やな。そもそも、拾阿弥は、どんな無礼で切られたん?」
「利家が正室まつから送られた品を盗んだのです。それは、まつの父の形見でもありましたし、それ以前から拾阿弥は横柄な態度が目立っていたということです」
「そら切るわ」
「このように武断的性格が強い一方で、経済感覚にも優れ、当時日本につたわったばかりのソロバンを操り、前田家の決裁はすべて自ら行っていたそうです。曰く、金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は恐ろしいものだ、と。それでいてケチではなく困窮した他の大名に貸し付けた金銭を遺言にて、返せぬ者には催促してやるな、返せぬ借金は無かったことにしてやれ、と残すなど懐深い人物であったとのことです」
「「「…………」」」
里華も泣くのをやめた。
「若い頃には目の下を矢で射抜かれてもひるまず、その射手を討ち取り、最期は病死でしたが、その苦痛に腹を立て割腹自殺したとも言われています。それを聴いた家康は、あっぱれ、と賞賛したそうです」
それからも鷹姫が語り続けるので、そのうちに三人とも泣き疲れていたこともあって穏やかに眠った。
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